第10話 「それでも君が欲しかった」
書斎の窓を細く開けると、夜風が静かに流れ込んできた。
レースのカーテンがゆるやかに揺れ、どこか懐かしい夏の匂いを運んでくる。
ろうそくの灯がわずかに揺れて、机の影を柔らかく歪ませた。光と闇がまざりあうその空間に、沈黙が満ちている。
向かいのソファに座るノワールは、静かにカローラを見つめていた。
仮面は外されており、淡い蝋燭の明かりに照らされた横顔は、まるで氷で彫られた彫像のように冷ややかで、どこか現実離れしている。
――それでも、それが今では日常になっていた。
背後にある気配。振り向けば必ずいる視線。
そんな彼の『在り方』が、カローラの日常に溶け込んで久しい。
けれど、今夜だけは違った。
これまで心の奥底に沈め、決して触れないようにしていた想いが、どうしても言葉として溢れてきそうで――逃げられなかった。
ずっと、言わなければならないと思っていた。
胸の内に、ひたひたと沈殿していたあの後悔の一言を。
声にすれば、何かが壊れてしまうかもしれないと分かっていても、それでも、今しかないと感じていた。
「……ノワール。あのときのこと……その……婚約破棄の件、私……」
息を吸うたび、喉の奥が痛んだ。
言葉は指先からすり抜けるように心許なく、それでも震える声をなんとか紡ぐ。
「本当に……謝りたくて。あなたに、ひどいことをしてしまったと……ずっと、思ってたの」
語尾がかすれ、沈黙が落ちた瞬間――言い終わるより早く、彼の右手が静かに上がった。
音もなく、風すら生まれぬ仕草。
けれど、そのたった一つの動きが、空間に張りつめた『線』を引く。
制止の意を含んだ指先は、どこまでも穏やかで、どこまでも冷たかった。
その手は拒絶ではなく、静かな断絶を示している。
まるで、そこから先には踏み込んではいけない、とでも言うように。
彼の口元に、かすかに微笑が浮かんだ。
けれど――その笑みには、まるで温度がない。
喜びでもなければ、悲しみでもなく、感情という色彩が完全に剥がれ落ちた、表情の形だけが、そこにある。
「……謝らなくていい」
低く抑えられた声だった。
まるで読み上げるような、平坦で、ひどく理性的な響き。
それは、語られることを望まれなかった答えのように、静かに落ちた。
「君が、僕を選ばなかった。ただ、それだけのことだ」
その言葉は、あまりに淡々としていて――だからこそ、なおさら残酷だった。
声に怒りはなかった。恨みもなかった。
責めるような色も、一切なかった。
ただ淡々と、すべてを切り離すように。
まるで、それがあたりまえの過去であるかのように。
その冷ややかな『無関心』が、カローラの胸を締めつける。
赦しを求めたわけではなかった。けれど、そうであっても――彼にとって過去がすでに『どうでもいいモノ』になってしまっていたことが、たまらなく、苦しかった。
沈黙が流れ、ろうそくの炎がわずかに揺れ、テーブルの上に映る影が震えた。
あの夜の雨よりも、あの別れの背中よりも、今のノワールのその一言が、どこまでも遠く、冷たく感じられた。
ノワールは視線を窓の外へ向けた。
その瞳の奥に映るのは、闇と静寂に沈んだ庭の風景。
「……あのあと、何も考えたくなくて。全てを忘れたくて」
ぽつりと、ノワールが口を開いた。
その声は、まるで遠い昔の出来事を語るように、乾いていた。
「気づけば、北の果ての山岳地帯にいた。地図にも名前が載っていない、獣しかいない領域で――ただ、生きていた」
彼は目を伏せたまま、続ける。
感情の起伏はない。
けれど、その静けさが、かえって言葉の重みを際立たせていた。
「雪と風だけの世界で、誰にも名前を呼ばれないまま、朝も夜も剣を振っていた。息をして、戦って……ただ、それだけ」
静かな語り。
けれど、耳に届くその一言一言が、カローラの心にじわりと染み込んでくる。
「そのうち、死なない男がいるって噂が立ち始めて。気づけば、北の村、国境、戦線、魔物の巣窟へ……次々と呼ばれるようになっていたよ」
彼の口元に、わずかに笑みが浮かんだ。
それは乾いた、ひび割れた笑みだった。
「……いつの間にか、『勇者』って呼ばれていた。誰よりも強くなって、誰よりも多くを斬って……でも、本当は」
ノワールの言葉が、ふと切れる。
そして、仮面のないその目が、ゆっくりとカローラへ向けられた。
その視線は深く、静かで、冷たい月光よりも澄んでいて――けれど、奥底にひどく脆いものを宿していた。
「本当は……ただ、君から逃げたかっただけなんだ」
その一言が、喉の奥を焼く。
カローラは、胸の内側を何かに掻きむしられたように感じた。
彼は、全てから背を向けたのではない。
彼が背を向けていたのは、自分だった――その事実が、突き刺さる。
「君に、もう一度会いたかった……それだけが、僕を生かしてきた。十年……ずっと、それだけだった」
その声に、波のような静けさがあった。
でもその波は、確かに胸に押し寄せ、あらゆる理性をさらっていく。
部屋の中の音が、すべて遠のいていく。
時が止まったかのように、ろうそくの炎さえも、揺れなくなった気がした。
「……君が、あのとき微笑んでくれていたら……雨の日に、僕を引き止めてくれていたら――」
言葉は穏やかだった。
けれど、穏やかだからこそ、心を切り裂く。
「僕は……きっと、世界なんて救わなかった。ただ、君の隣で、生きていたかった」
それは願いではなかった。
選ばれなかった者の、選ばれなかった人生の告白だった。
十年かけて積み上げられた後悔が、たった数行の言葉に凝縮されてカローラの心に打ち込まれる。
彼は、世界の英雄になった。
その過程に、名誉も、栄光も、神すらもいた。
けれど彼が手にしたものは――すべて、君を忘れるための代償だった。
その真実が、何よりも深く、重く、胸に刺さった。
彼の英雄譚は――カローラの『拒絶』から始まった。
その事実が、胸の奥を裂くように重くのしかかる。
カローラは、もう黙っていられなかった。
込み上げてくる感情に押し出されるように、静かに口を開いた。
「ノワール……今のあなたを、私は……怖いの」
言葉に、確かな震えが滲んでいた。
「あなたは強すぎる。遠すぎて……もう、どこにいるのか分からない……あなたは……もう、私の知っていた『ノワール』じゃないみたい」
戸惑い、怯え、そしてどこか寂しげな痛みを含んだ声。
けれど、ノワールは目を伏せることも、顔を歪めることもなかった。
ただ、淡く目を細めただけ。
まるで、それすらも――最初から知っていたかのように。
「それでも、君が欲しい」
静かなその声は、凪のようだった。
荒れることも、波立つこともなく、ただ真っ直ぐに届く。
「君以外の何も、必要じゃない。今も……これからも、ずっと」
その一言が、重く、静かに、カローラの心に降り積もる。
それは、深く静かな雪のようだった。
柔らかく、優しく、それでいて――やがて、すべてを覆い隠してしまうほどに深い。
彼の『優しさ』は、甘く、静かで、柔らかく、どこまでも優しい。
だが、その優しさには――拒絶という選択肢が、存在しない。
『選べる』ように見せかけて、もう何も選ばせてくれない。
それは優しさを纏った、ただ一つの結論。
受け入れるか、抗うか。
どちらかしか、許されていない。
(……私は、『守られている』んじゃない。囲われている)
その思いに気づいた瞬間、カローラの背筋を、ぞくりと冷たい何かが這い上がった。
ノワールの『愛』が、やがて檻となる。
その未来が、すぐそこまで迫ってきていることを――彼女の直感が告げていた。
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