第15話 異世界人も焦ってる
夜の闇が広がる街。
その一角、炎城寺氷華、いや、フレア・サンクチュアリ・クリスタリンは静かに上空に漂っていた。
赤い髪が月光に輝き、青白い瞳が闇夜の空を睨む。
彼女の右耳のワイヤレスイヤホンから、苛立った若い男の声が聞こえていた。
『フレア、聞いているのか! 指輪の回収はどうなっているんだ! あの相模原勇という女の始末もまだか!』
声の主は異世界の指導者、クロノス。
傲慢で自己中心的なその口調にフレアは淡々と答える。
「クロノス様、相模原勇はまだ生きております。指輪も彼女の手元にあります。アンドロイドを魔法で強化しても彼女の抵抗は予想以上でした」
『ふざけるな! 指輪がなければ我々は時空を超える熱量で焼かれてしまうんだ! もっとアンドロイドを送る! 数を増やすぞ!』
「数を増やしても結果は同じです。彼女の右手のマシンガンは魔法と科学の融合兵器。テイアが開発した最高傑作で、私の魔法を上回るものではありませんが侮れない力を持っています。それに……」
フレアは言葉を切り、街を見下ろす。
聖愛の家の庭が月光に照らされて静かに輝いている。
その平和な光景が彼女の心に微かな疼きをもたらす。
「焦って侵略を進めても相模原勇のいた世界の二の舞になるだけです。核兵器で滅んだ惨状を、お忘れですか?」
『黙れ、フレア! あの失敗は我々の計算ミスだ! この世界では同じ過ちを繰り返さない! 約束する!』
「約束、ですか。ふふ、クロノス様の約束ほど信用できないものはないですね。資源も尽き、魔法も枯渇し、戦争で疲弊した我々の世界に未来はありません。……これが運命というもの」
『運命? 馬鹿なことを申すな! 我々は生存のためにあらゆる手段を尽くす! その世界の資源と土地を奪えば再び栄華を取り戻せる! フレア、お前もその一員だ。忘れるな!』
フレアは口元を歪ませるが、恭しく口上を述べる。
「私はただの駒ですか? よろしいでしょう。指輪を奪うことも、アンドロイドを送るのも、ご随意に。ただし……1つだけ条件があります」
『条件だと? ふざけるな、フレア! お前は我々に従う義務が……』
「黙って聞いてくださいクロノス様。この世界を私に好きにさせてください。私がこの世界を支配し、実験場として利用する。それが私の条件です。どうです?」
一瞬の沈黙が流れる。
クロノスの声が少しだけトーンを落として返ってくる。
『……いいだろう。ただし、指輪を奪い、相模原勇を始末することが条件だ。それができればフレア、お前の実験を許可しよう』
フレアの唇が歪んだ笑みを浮かべる。
彼女は知っている。クロノスの言葉が嘘であることを。
異世界の指導者たちは決して約束を守るような連中ではない。
彼らはフレアを利用し、目的を達成したら切り捨てるつもりなのだ。
だがフレアもまた、彼らを利用するつもりだった。
「承知しました、クロノス様。では引き続き指輪の奪取にアンドロイドの派兵を進めてください。……ただし私のペースでやらせていただきますね。焦りは禁物でございます。相模原勇のいた世界の二の舞にならないよう、慎重に進めましょう」
『……ふん、好きにしろ。ただし時間があまりないことを忘れるな。我々の世界はもうすぐ滅亡する。急げ、フレア』
通信が途絶え、イヤホンの光が消える。
フレアはイヤホンを外し、空中に浮かんだまま夜空を見上げた。
星々が輝く空は彼女の故郷、異世界の空とはまるで違う。
異世界の空は戦争の煙と魔法の残滓で濁り、星など見えなかった。
「……愚か者どもめ。自分たちの世界を滅ぼしておいて、なおも他を欲しがるなんて」
彼女の心に過去の記憶が蘇る。
生まれ育った異世界での平和な日々。かつて、あの世界は調和の中にあった。
首都では水晶でできた街路樹が淡い魔力光を放ち、空には優雅な飛行船が浮かんでいた。
人々は携帯端末で簡単な魔法式を送り合い、生活を豊かにしていた。
魔法と科学は人を幸せにするための道具だったのだ。
魔女として生まれ、幼い頃から才能を認められた彼女は森の奥深くに隠れ住み、魔法の研究に没頭していた。
そんな森は世界の喧騒から離れた聖域だった。
地面を覆う苔は夜になると星のように明滅し、木々は風に吹かれるたびに歌うようにざわめいた。
フレアはそこで、ただ純粋に魔法の真理を探求し、自然と対話する日々に満たされていた。
だが、その平和は脆くも崩れ去った。
魔法科学の発展は異世界に戦争をもたらした。
魔法と科学を融合させた兵器が次々と開発され、国々は資源と領土を巡って争い始めた。
水晶の街路樹は砕け散って魔力光は消え、がれきの山となった。
人々が笑いながら行き交った広場は、今やアンドロイドの残骸が転がる墓場だ。
フレアは隠遁生活を続けていたが、戦争の波は彼女の森にも押し寄せた。
燃え盛る森、崩れ落ちる神殿、そして彼女が愛した静かな場所は灰と化してしまう。
歌っていた木々は黒焦げの骸となり、光る苔はすすに覆われて死んだ。
彼女の研究室も、そこに記された魔法の真理も、全てが炎に飲まれた。
あの煙と鉄の匂いは今も鼻の奥にこびりついている。
「……あの戦争がなければ、私は今もあの森で研究を続けていたのに」
フレアの声は憎悪と悲しみに満ちていた。
彼女は異世界の指導者たちを憎んでいた。
彼らの欲望と愚かさが彼女の故郷を滅ぼしたのだ。
魔法科学の発展は、たしかに力をもたらしたが、同時に破壊と絶望ももたらした。
異世界は戦争続きで疲弊し、資源は枯渇し、魔法の力も失われ、滅びの道を歩んでいる。
「この世界は……違う。この世界にはまだ平和がある。科学が発展し、魔法が存在しないこの世界は私にとって新たな実験場だ。……いや、それだけじゃない。この世界には私が失ったものがある」
フレアは視線を下に移す。
そこには平和な街並みが広がり、街灯の光が夜の闇を優しく照らしている。
どこかの家では子供たちが笑いながら走り回ったり、家族が食卓を囲む光景が彼女の目に映る。
「クロノスも他の指導者どもも、この世界に手を出すつもりなら私が先にこの世界を支配する。私の実験場として私の願いを叶える。ねえ? テイア」
彼女の青白い瞳が冷たく輝いた。
「……相模原勇。あなたが持つ指輪は私にとって重要な鍵。だが、あなた自身もまた興味深い存在。あなたがこの世界をどう守るのか、見せてもらいましょう」
闇の中でフレアの赤い髪が一瞬だけ月光に輝き、そして消えた。
彼女の心は使命と欲望、そして過去の憂鬱の間で揺れ続けながら。
「……この世界を私の手中に収めよう。たとえそれがクロノスたちも相模原勇も、この地の人間全てが不幸になろうとも」
静かな夜の中、フレアの決意が闇夜の空に溶け込んでいった。




