【BL】親友の、その先
うだるような、とまではいかないが、それでも蒸し暑い。学校の方針でいまだクーラーが稼働していない教室は、朝であっても汗が止まらなかった。
「チャノ、おはよー」
「はよー」
声をかけられて、左手とやる気のない声で答える。中学生になって一年と二か月。新しいクラスが馴染みだしたこともあって、基本的には誰かれ問わず挨拶してくる。良い奴が多いこのクラスを俺は割と気に入っていた。
あいさつが飛び交う教室は、しかし、いつもより少し早く到着した教師の声で、簡単に打ち消される。
「はーい静かにしろ―。今日は転校生紹介するぞー」
ざわり、とまた教室が騒ぎ出す。まぁそりゃそうだろう。こんな中途半端な時期の転入生なわけだし、理由なりなんなりはやっぱり気になる。でもやっぱ俺が一番気になるのは、転校してきた理由とかよりそいつ本人だな。理由がどうであろうと転入生がイヤな奴なら関わりはお断りだ。面倒くさい。
どんな奴が入ってきたのだろうかと、いつもの日常に起きた変化に少しわくわくしながら重たい体をゆっくりと起こし、前方の扉に目を向ける。
「入ってこーい」
教師のそれを合図にしてガタつく扉。そうそう、その扉、スッと開かないんだよと心の中で意味もなく先輩風を吹かせる。
そうして、ゆっくりと露になっていく未だ名も知らぬ非日常君。少し色素の薄い髪は歩くたびに揺れて軽そうだ。クラス中の注目を集めているとわかっているだろうに気負いも委縮もなく、しっかりとした足取りで教壇へ向かう。
姿勢よくまっすぐに伸びた背中に根拠もなく、あ、いいやつだとぼんやり思った。
くるりと方向転換し教壇横で生徒達と対峙する本日の主役。目じりが優しく下がり、口角は控えめに上がる。人の良さが滲み出たような表情。少し傾けられた首。それらはなぜか、スローモーションみたいだった。まるで網膜に焼き付けるかのような。
淡く色づいた形の良い唇が、動く。
「初めまして、桐山麦彦です。よろしくお願いします」
あ、意外に声は高くないな、と思った。落ち着いた、良く通る声だ。
言い切った後に柔らかくにこりと笑った顔に、ああ、やっぱりいいやつだなと思った。
◆◆◆
「もういい! あんたとは別れる!!!」
キンッと甲高い声が大学の裏校舎に響き、涙と共に彼女が、いや、元彼女が去っていく。その後ろ姿を呆気にとられながらしばらく見ていたが、しばらくして、はぁ、と肩を落としながら茶納和輝は、別方向に歩き出す。
「あー」
またか、と思いつつ左手でガリガリと頭を掻く。いつものこととはいえ、やはり別れは悲しいものがある。しかし約束を破るわけにもいかず、少し重くなった心を抱えて友人の元へ向かう。
「あ、チャノ。こっち」
すでに学食に到着していたムギに呼び止められ、取ってもらっていた席に腰掛ける。
「どうしたの? なんか暗くない? あ、また別れた?」
「……」
「え、うそ。ごめん」
沈黙で理解した友人は、慌てて詫びる。が。
「でも、今回はいつもより早かったね。今度は何したの?」
中学からの友人は容赦がなかった。少し呆れながら攻めるように問いかける。
「いや、わからん。態度とかも変えてないし、女友達とも出かけてないし」
「……ねぇ、もしかして、また洗濯とか掃除とか、彼女がやってたんじゃないの?」
「おー、よく分かってんじゃん!」
「よく分かってんじゃん、じゃなくてさ。そんなに何でもかんでもやってたら、彼女の方はたまったもんじゃないって」
「えー。でも俺、やってくれなんて一言も言ってないぜ?」
俺は自分でできることは自分でやる主義だ。自分でできることを、わざわざ他人にやってくれなんて言ったことはないし、そもそもやってほしいとか思ってない。ただ面倒なものは面倒、やりたくないものはやりたくないと、愚痴は零してしまう。そうするとなぜか周りの連中、特に女友達が世話を焼きたがる。このからくりは未だによくわからん。
「でも、やってくれるなら止めないでしょ?」
「もちろん」
「即答かよ」
「俺が極度の面倒くさがりなの、ムギも知ってるだろ」
「まぁ、な」
「だから放っておいてくれたらいいのにさー、勝手にやって勝手に怒って、で、結局向こうの都合で別れるんだぜ? 向こうから告ってきたくせに。たまには俺の味方してくれても良くない?」
「いや、話聞いてたらそれは無理」
ムギは話を聞きながらノートパソコンを淡々と叩く。どうやらレポートを作っているようだ。俺もレポートに取り掛からなければならないが、このテンションでは流石に無理だ。俺だって傷つく心はある。
「あ、ムギ! いたいた。お、チャノもいんじゃん。この度はおめでとう!」
ムギと共通の友達である端山が爽やかな笑顔を俺に向ける。どうやらすでに噂が立っているようだ。
「心からのお祝いどうもありがとう」
「あっはっはっは! 愉快! これでお前何人目よ?」
「知らん」
「いやー。お前を見てると、見てくれだけじゃダメなんだなって希望が湧いてくるよ」
カラカラと悪びれもなく端山は笑う。
「あー、そうかよ。お前の人生に希望を見せてやれて嬉しいよ。で、お前何しに来たんだよ」
「あ、そうそう。ムギ、悪いんだけど今日時間あるか? あと、彼女作らない?」
「えーっと、時間は一応あるけど。え、何?」
「実はさー、お前のこと気になっているって子がいて、一緒に遊びたいんだって」
それはムギ本人に言ってもいいのか? とも思わないでもないが、こいつは裏表がなく気配りもできるやつなので、つまり今回は、参加するならその意図を汲んで来てほしい、ということだろう。
「あ、言っとくけど二人きりではない。俺も行くし、多分5、6人参加。そんでモテ男君のチャノは絶対不参加。お前が来たら話にならん」
「はいはい、行かねーよ」
「え、えぇー? 俺?」
えーっとと悩む素振りを見せたムギは、ちらりとレポートを見やった。が、それも一瞬のことだった。
「うーん、やめとく」
レポートを見た、ということはそれの兼ね合いだろう。時間はあるとさっき答えていたから、遊ぶ時間を捻出できないというほどではないのだろうが、それをするくらいならレポートを仕上げたい、ということだろうか。
しかし珍しい。ムギは友人付き合いは良い方だ。そして課題をぎりぎりまで残すような性格でもない。いつもなら誘いに乗って、それとなくお断り、とかしそうなものだが。
「おっけ。にしても決断早かったな。お前もモテんのに、彼女作らないよなー」
「そう、だね。嬉しくないわけじゃないけど、今は友達と遊んでいるのが楽しいんだよ」
「ああ、それは分かる。彼女いると、友達と遊ぶ時間取りにくいしな」
俺の言葉に二人が脱力したように俺を見ると、ムギの深い海のような目が眇められる。
「……お前、ほんっと、そういうところ」
「おーおー、モテる奴の言うことは違うね。あ、それはそうと今度、課題手伝ってくんない?」
端山が呆れたような声を出したかと思えば、今度はそのままムギに向かって両手で拝みだした。
「あー、いいけど、教えるだけね」
「やっぱり? やっぱそうだよなー」
「なんだよ」
「いや、ムギって教えてはくれるけど、写したりとか代筆とかはやってくれねーじゃん?」
「そりゃそうだろ。報酬あっても俺はやらないよ」
「だよな。まぁそこが良いところだけど。でもチャノだと違うだろ?」
「は? 俺?」
昼食を口に放り込んでいた手が止まる。今の話題に、俺関係あったか?
「そうだよ。チャノだと色々世話焼いてんじゃん? やっぱ長年友人やってるからか、お前らって特別感あっていいよな」
「え、俺そんなに世話焼いてる? たしかにチャノは彼女に世話焼かしてるけど、基本、自分でするだろ?」
「まあ。一部聞き捨てならねえとこあったけど。一応はな」
「え、そうなの?」
「お前は俺にどんなイメージ持ってんだよ」
「めんどくさがりのくそ野郎。だから勉強もできない」
「即答で嫌な回答してくるなお前」
「こいつの名誉のために言っとくけど、チャノは一通りの家事できるよ。テストの点も上から順に数えたほうが圧倒的に早い」
「……うそ」
「んな絶望顔で言うなよ。俺が悪いことしてるみてーじゃん」
「まじかよ。顔も良くて頭も良いとかチートじゃん。なんで彼女と長続きしねえの?」
「喧嘩売ってんのか?」
「こっわ。悪かったって。まぁそれぐらいのハンデはあってもいいよなー」
冗談っぽくニヤリと笑いながらそう言うと、端山は再びカラカラと笑った。そのままムギと約束の日時が決まると、端山はじゃあなと言って学食内の人ごみに紛れていった。
「んじゃ、俺たちは帰る?」
パタンとノートパソコンを閉めながら俺に問いかける。どうやら俺が食べ終わるまで待ってくれていたらしい。
今日は互いに午前で終わりで、このまま実家でだらりと過ごす予定だ。
「ああ、さっさと帰ろうぜ」
ぐっと両手を上げ体を伸ばす。あー、その前に返却口に行かないとな、と食器を見る。
「はぁ、面倒だな」
思わずふっと食器から目線がずれ、ぽつりと愚痴がこぼれた。しかし食器をそのままにしておく、という選択肢は俺にはない。ここの学食は自分の食器は自分で返却口に持っていく、というのがルールである。さて、持っていくかと一瞬だけ閉じていた目を開けると、食器が乗ったトレーに、なぜかムギが手をかけていた。
「あ?」
「俺の荷物持って、先に出といて」
それだけ言うと二人分のトレーを持ったムギはさっさと返却口へと向かう。先にと言うが返却口はすぐそこだ。わざわざ二手に別れてまでするようなことではないのだが。
少し呆気に取られる。
「へいへい」
まぁ面倒なことをしなくていいのならそれに越したことはない。それにいつものことだしなと思い直して、二人分の荷物を持った俺は出入口へと向かった。
◆◆◆
大学に進学する際に、一人暮らしを希望した。親からの評価は悪くなかった俺は、色々注意事項だの約束事だのを言われたが、わりとあっさり承諾された。だから普段の帰宅先は駅から少し遠い一人暮らし用のマンションなわけだが、最近の帰宅先は実家だった。
「おじさん達、3日後に帰ってくるんだっけ? 相変わらず仲良いよね」
「結婚記念日とシルバーウイークが重なってるからな。旅行好き同士だし、丁度いいんだろうけど。旅行の度に実家に帰ってきてるから、実家があんま久し振りな気がしない」
長期旅行の際は誰か実家にいてくれた方が安心だということで、去年も今年も、ゴールデンウイークとシルバーウイークは実家暮らしに逆戻りしている。その他にもやれ年末年始だお盆だと、思っていたより帰省回数が多い。
なんだかいまいち一人暮らしに徹しきれていない気がする……と、釈然としない俺を後目にあははと楽しそうに笑いながら、ムギは許可なく俺の部屋へと向かった。
じゃあその間に、今日のお礼もかねてコーヒー淹れますかね。
「あと大きいものはバスタオルだけなんだけど、風呂場の手前の棚でいいよね?」
両親は面倒見が良い方だと思う。俺に対しては何でも一人でできるようにとしっかりしつけられた自覚はあるが、基本的には困っている人をそのままにできないタイプの人間だった。
だからムギたちが近所に引っ越ししてきた時、ある意味交流は必然で、家ぐるみで仲良くなるのも、まぁ予想できたことで。今では互いの家に気軽に遊ぶどころか泊まることさえもハードルが低い。それゆえ、ムギも大半の物の位置を知っている。まぁ、それは俺にも当てはまるわけだが。
「おおー、サンキュー。あとコーヒー淹れたぞ」
「お、やった。ありがとう」
「いや、こっちこそ助かった。昼食も、それも」
俺はムギが持っている残り物の洗濯物を指差した。
「いいよ、別に。いつも茶納家にはお世話になってるわけだし。昼食だってお金は預かってたし、メニューは俺の独断で選んだしね」
そう言いながら残り物の洗濯物を片付けたムギは、ダイニングの椅子に座る。奥側の端から一つ目。もう定位置と化している。
「の割には、俺の好きなやつだったな」
「そりゃこんだけ一緒にいれば好みもわかるよ。安パイを選んだとも言う」
ムギはそう言って穏やかに笑いながらコーヒーに口を付けた。そうしていつも、少し苦そうにしながら味わうと、何故か必ず美味しいと言って笑うのだ。苦く感じているくせに。そしてその後の行動も決まっていた。
「でもやっぱり砂糖も牛乳もほしい」
「はいはい。今日もだめだったな」
「くそー、いつか絶対克服する」
なぜかは知らないがコーヒーをブラックで飲めるようになりたいらしく、一口目は絶対にブラックだ。が、今のところ、その願いは叶っていない。
やはり用意しておいて正解だったなと、予め用意しておいた砂糖と、少し温めていた牛乳、そしてティースプーンをキッチンから持ってこようと席を立つ。
「どうぞ」
「あはは。ごめんね、ありがとう」
少し照れたようにそれらを受け取る。砂糖は一杯と半分。牛乳は用意した量の半分。そして何が楽しいのかニコニコとコーヒーをかき混ぜると、ムギはほんのり色づいた薄い唇にそっとカップを寄せた。
「うん、おいしい」
そうして、ふわりとムギがいつものように笑った。
「そりゃよかった」
知ってるよ。その笑顔を見れば十分だ。この後は、今日も残った牛乳を後から入れて、好みにより近づいたカフェオレを堪能するんだろう。
俺もいつものようにムギの言葉に満足してコーヒーカップを手に取った。程よい苦味が口に広がり、ほっと息を吐く。
「で。はいこれ」
ある程度コーヒーを堪能したムギが差し出した、握っているそれ。どうやらUSBメモリーのようだった。
「何これ?」
「お前の課題」
「は?」
まじまじと小さい電子機器を見る。真っ黒いその機器は、少し骨ばったムギの白くて長い指に包まれていた。何か引っかかるような。
「あれ、要らない?」
「要る」
即答した。いや、要るし。必要か不必要かで言えば圧倒的前者。
「まじかよ、サンキュー!」
「どういたしまして」
すこし困ったように笑うと顔を隠すようにカップを傾けた。あ、照れた。
照れたムギには触れず何もなかったかのように他愛のない話で盛り上がる。互いのバイトがどうとか、今朝上がった動画が面白かったとか。ゆっくりとムギと過ごすのは少し久しぶりで、だからだろうか。いつもは何とも思わないこの時間が、ひどく穏やかで温かい時間に思えた。
そうして話していると、今日の昼に端山と交わした内容と、USBメモリーを渡されたときに感じた引っかかりを思い出して。
「あ」
「え、何」
「もしかしてさ、これ作るために端山の話断ったの?」
帰宅してからもムギがノートパソコンを開いて何かを作成していたのは分かっていた。学食でも家でも、使っていたUSBメモリーはこの黒いものだった気がする。
先ほど感じた違和感はこれだと確信した。
「あー、違うよ。あの時も言ったけど、俺、今は彼女作る気ないし」
「でも、今までは想われ続けてくれても応えられないからとかって言って、結構早い段階から女の子のこと断ってなかった?」
「そう、かな?」
「え、なんか悪いな? 今からでももう一回端山に連絡すれば?」
自分から頼んでいないとは言え、自分のためにやってくれていたことが原因で断ったのだとしたら申し訳なさすぎる。それにレポートも俺に渡してきたのだから、思ったより早く終わったのだろう。そうなると、遊ぶ時間はあるはずだ。
「いやいや、ほんと気にしないでくれ。俺が勝手にやっただけだし。それに、あのかんじだと、俺が行かないってだけで意図は伝わると思うよ」
だからどっち道行く気はないのだと、言外に伝えてくる。それでも本当に良かったのかと思わずじっと見つめる俺だったが、ムギはさっさとこの話を切り上げたいのか、これでこの話はおしまいだとムギが立ち上がる。
「ほら、お前のカップも貸して」
「え、あ、ああ。じゃあよろしく」
「あーい。任されました」
差し出された手に俺は自分のカップを手渡した。同時にムギも自分の分のカップやら牛乳を入れていた容器やらを手に持つとさっさと流しの方へ行ってしまう。
と言っても、カウンターキッチンになっている構造上、俺が後ろを振り返ればムギの様子が見てとれるわけで。ムギが洗い場に向かうのに合わせて、俺もそれを目で追いかけながら自分の体を後に向ける。ザーっと水音が聞こえたかと思うと、それが止まり、時々聞こえるキュッという食器が洗われている音。慎重に食器を流しに置く音。丁寧に動く腕まくりをされた細すぎない白い腕。深海を思わせる色をした瞳は、少し伏せられて見ることはできないが、その代わり上を向いている長いまつげが影を落としているのが印象的だった。
流しから聞こえてくる音をBGMに、ぼんやりと手の内にある黒い機器を見る。わざわざ作ってくれたんだよなぁ。先ほどまでムギの手の中にあったそれは、自分が持つとなんだか違うように見える。いや、別にどうでもいいが。
手の中にある電子機器を見つめている内に洗い物が終わったのだろう、いつの間にかムギが椅子に座る俺の側まで来ていた。
「どうしたの?」
さらり、髪が揺れる。ああ、やっと瞳が見えた。
「ん-、いや。なんか、音が心地よくて?」
聞いていたのは、ありふれた家事をこなす音だ。今まではそんなこと感じることもなかったのに。なぜ、心地よかったのか。
「ふーん? まぁ作業音が心地いい時ってあるよね」
「そうだな」
同意はしたものの、何かが違うなと思った。でも何がどう違うのかは分からなかった。
「ね、ゲーム、こっち持ってきていい?」
「ああ、いいぞ」
んじゃ上がるねーと俺の部屋に行こうとムギが後ろを向いた。それと同時に白い服がひらりと舞う。
「わ」
ムギの体が傾く。見ると自分の腕がムギの服の裾を掴んでいた。え、なぜ掴んだ?
「なに、なんか不味い?」
ムギの服を思わず掴んだのは、黒いUSBメモリーを持っている方の手だった。手の中の黒色と白色が同時に目に留まる。対極の色だ。
あ、わかった。納得。
「ああ」
「え、怖いんだけど。今なんか納得した? 何に?」
「いや、お前の手、白いんだなーって」
「は?」
「はい、これ持ってー」
手の中にある小さい機器をムギに手渡す。
「ほらな」
「いや、全然わからん。長年の経験を駆使しても意味が汲めん」
「えー、まじかよ。んじゃあ、手貸してみ」
ムギに渡した小さい機器を再び受け取ると、座ったままの俺は少し強引に手を合わせる。身長は俺の方が少し大きい。それに比例して、手も少しだけムギの方が小さかった。
「あ、俺の方が手ぇでかいんだな」
「え、突然の自慢?」
「いやほら。お前の手、俺より白いだろ」
「してやったり、みたいな顔しているけど、俺としてはそれがどうしたっていう話なんだが」
「それだけ」
「あ、そう」
合わせていた手を、ゆっくりとどちらからともなく離す。俺はまた手の中のUSBメモリーを見つめると、そっとムギの方を見た。ムギの不思議そうな顔がなんだかおかしくて、自然と口角が上がる。
「お前、今俺のこと何考えてんだって思っているだろ」
「まぁな。突然手が大きいだの白いだの。そのUSBメモリーそんなに欲しい? 最初からあげるつもりだったけど?」
「なあ」
なんだろう、今、物凄く楽しい。呆れるようなムギの声がなんだか心地いいからだろうか。こんなやり取りなんて、ただの日常なのに。自分でも何が楽しいのか分からないが、テンションが上がっていることだけは自覚した。
「なんだよ」
ムギは溜息を零しそうな表情で少し億劫そうに返事をする。ああ、そんな表情一つ、返事一つとっても、今はなぜだかとても楽しい。
「どうして、これやってくれたんだ」
小さな電子機器を少し振りながら問う。その答えが分かれば、自分のこの感情も、高ぶりの正体も、分かる気がした。
「え、面倒って言ってたから」
「ふーん?」
「いやまぁ、お前なら別に俺がやらんでもいいことぐらいは知ってるけどな」
俺のことなら分かっている、という高慢ともとれるムギの、少し弁明染みた発言。
それに反発など抱くことなく、素直にそうだようなぁとのんびりと心の中で同意して、それどころか高揚している自分がいる。
さらに口角が上がるのが、自分でもわかった。
「なんか作っちゃったし、せっかくだし」
ムギと俺の目線が合致した。なんとなく視線を逸らすことができなくて、長いまつげに縁どられた綺麗な虹彩がキラキラと光るさまを見つめる。ああ、綺麗だ。
「はは、そっか」
なんだろう。今までの彼女達もそう言っていた。俺が面倒だと言ったから。だからやってあげたのだと。彼女達に対しても感謝を感じないことはなかった。今日だってレポートを作ってもらったことに感謝しているし、そもそも、ムギだってこれまでも何度も手伝ってくれていたわけで、その都度有難いと思っている。でも何かに気付きそうな今は、今までと違う感じがする。
「?」
ムギが俺の顔を不思議そうな、それでいて意外そうに見ているのがおかしかった。
そして俺は。俺は、えーっと、なんだっけ。何か確認したい。何かを問いたい。何か。とても大事なこと。
「お前さー」
俺はその答えを知っているはず。でも、今聞きたい。ムギの言葉でほしい。俺は今、ムギに何を言いたい?
「うん」
俺とムギは、視線を外さなかった。
「お前、ほんと俺のこと好きだよね」
そう、それだ! パチンと心の中で指を鳴らし、やっと導き出した答えに俺は満足した。そうだよ、これが聞きたかったんだよ。
既にわかりきっている答え。今更、確認するまでもないことだ。でもなぜだか分からないけれど、今、唐突にムギの口から聞きたかった。
ムギはきっと肯定してくれるだろう。だって俺たちは中学時代からの親友だ。楽しいことも悲しいことも一緒に経験して、何なら大喧嘩も結構した。でも今もこうやって親友として一緒にいる。だから、すぐにそりゃな、とあっさり返してくれる。
俺は疑うことなく、そう思った。
「え」
俺は思わず言葉を漏らした。
目の前にあるムギの顔がみるみる赤に染まり、気づけば、真っ赤になっていた。期待したそりゃな、という言葉は紡がれることはなく、唇はもとより、完全にムギ自体が固まっていた。
予想外の展開に俺も身動きが取れなかった。どうしてそんな顔になるんだ。あれ、何かいつもと違った?
おかしい。俺なんか不味いこと聞いたか? あれ、俺、こういう時どうすればいいんだ? だめだ。俺動揺してる。さっきまでの幸せだった雰囲気からの落差で完全に参ってる。
「ムギ」
どうにかしたくて。どうにかしてほしくて、親友に思わず助けを求めたのだが。
呼ばれたことに対してか、それとも言葉と同時に伸ばした手に対してか、あるいはその両方か。
とにかくムギはびくりと体を跳ねさせるとすごい速さで自分のカバンを掴んだ。
「お、お邪魔しました!」
脱兎のごとく、というのがぴったりな、それはもう潔い撤退だった。いや、逃げる必要とか全くないんだけど。
え、なんで逃げた? 逃げる必要あった? っていうかあれは逃げたの? え?
友人の突然の行動は意味不明だった。それこそ、長年の経験を駆使しても意味が汲めないほどに。
いや、それよりも。
「かわいい」
今度は自分の発言に吃驚する番だった。でもそれは妙に腑に落ちる言葉で、まったくおかしな言葉ではなかった。
認識すればするほど納得できるものだった。うん、ムギは可愛かった。知らなかった。いや、違う。とうに知っていた気がする。
同時に湧き上がったこの感覚も知らないものだった。もう自分で自分が分からなかった。今、自分に何が起きているのか。熱い。とにかく熱い。心臓が破裂する。耳元でどくどくと鳴っている。多分このままいくと耳から心臓が出る。こんなの、体育のシャトルランで校内更新記録を出した以来じゃないか?
わずかな身動きも取れず、あれからどのくらいの時間が経っただろう。動けなくて、とりあえずそっと頭を動かしてみた。目の前には掃除が行き届いた窓。自分の足が映り込んでいて、そのままゆっくりと頭を上げていく。ああ、今日、ムギが掃除してくれてたな。そう思った瞬間、また体温が上がった気がした。無地のロングTシャツを通りすぎ、自分の顔を見る。
「うそだろ」
そこには先ほどのムギと同様、真っ赤に染まった顔があった。なんだかいたたまれなくて直ぐに下を向いた。
かわいいなんて感想は、一切出てこなかった。
◆◆◆
ばたん! と勢いよく自室の扉を閉めた。母親がそれについて注意をするが、そんなことを気にしてる場合ではない。
「ちょっと、どうしたのよ。今日は和樹君の所でお世話になるって言ってなかった?」
「あ、うん。そうなんだけど。ちょっと、色々あって」
今、誰かと顔を合わせたら死ねる。無理。ドア越しに会話をするのが今の俺の精いっぱいです、母さん……。
「和樹君と喧嘩でもしたの?」
「いや、してない。チャノとは別に……」
急に先ほどのことを思い出してしまい、また自分の顔が赤くなったのが分かった。
「な、なんでもない! なにもない!」
「そう? じゃあ今日は夜ご飯、家で食べるのね?」
「うん、食べます」
「はーい。あ、あとちゃんと手洗いなさいよ」
「わ、わかった」
とんとんとんと階段を下りる音が遠ざかるのを確認して、やっと自分の体から力が抜けるのがわかった。そのまま逆らうことなく、扉を背にずるずると床に座りこむ。
何も考えられなかった。いや、一つのことはずっと頭の中でぐるぐると渦巻いている。でも、だからと言って、そのことさえも明確な答えのようなものは出てこなかった。答え、とは。
「いやいやいやいや」
何をしているんだと自分でも思う。別に、何もおかしな話ではない。親友なのだから、あの時……、とそこまで思い出してまた顔に熱が集中する。
「ああー、もう。なんだよ。今更だろうが」
これまでずっと親友だった。悪友とかでもなければ、もう幼い年齢でもない。親友から好きだろと問われれば、そりゃな、と真実を答えればいいだけだ。世の中にはそれに応と答えられない間柄もあるだろうが、俺たちの場合は言える仲だ。だから本当に、普通に、言えばよかったのに。
「なんで、あんなに恥ずかしかったんだろう」
怖々と先ほどの出来事を思い出してみる。チャノの自宅について、レポートの続きして、家事手伝って、いつものコーヒーを淹れてもらって。後片づけして、今日は楽しみにしてたRPGをやるって約束してたから。
「それ、の、じゅん、び」
くそ。いい加減、俺も慣れろよ!
すぐに顔が熱くなる自分に毒づくのもやめられず、思わず手の甲を口元に当てる。
えーっと。えと。あの時。あの時は。
「あいつが、手がどうのこうの言い出して」
そうだ、なんか、あのあたりからおかしかった。
自分の手の方が大きいだの、俺の手が白いだの。それが何だっていうんだ。
なんであの流れで。
「あんなに笑顔になるとこなんて、なかったろ」
自分の頬がさらに熱くなる。この数分で何度、同じようなことをすれば俺は気が済むのか。
でも同時に仕方ない気もしている。
だって、あんな笑顔、俺は知らない。
「あいつ、自分の顔の良さわかってねーな?」
少し取っ付きにくい印象を与えるくせに、笑うと少し幼くなるのだ。でもそうじゃない。さっきのあれは、いつもの笑顔とはまた違った何かだった。
とろけるようなという表現がぴったりな。見てるこっちが恥ずかしくなるような。
そんな、見たことない顔で。す、好きだろ、とか。
「あー」
今度は片手で自分の目元を覆った。なんともやるせない、ため息が出た。
とりあえず、どういう理屈であれ、俺はあの笑顔が恥ずかしかったのかとそこまで考えて、ふとある考えが過る。
「いや、じゃあそもそもあいつが悪くないか」
あいつは顔がいい。それはもう否定のしようがないわけで。
そうだ、だからつまり、美形からあんな極上のほほえみを向けられて、顔が赤くならないわけがないか?
あ、つまりだ。
「男前の滅多に見られない笑顔が目の前にあって恥ずかしかった?」
それだわ。そうだわ。顔が良い奴が言うと何もなくてもドキドキするしな。顔が整っているやつは得だな。
くそ。俺気づくの遅すぎ。あいつ、顔も良いんだよ。
ちょっと答えの片鱗に近づけたような気がしてほっとする。のろのろと立ち上がってカバンから中身を出しながら、そうだ、何も変なことはなかったのだと妙にホッとする。
早く確信がほしいのか納得がほしいのか。自分でも分からないまま、必要もないのに俺はわざと声に出した。
「そうそう。別におかしくないよな。別に俺があいつのこと好きとかない――」
あれ?
いや、好きは好き。うん、それはもう真実だわ。覆らないわ。一生親友でいる自信あるし。だから好きはいいんだよ。大事に思ってるしな? 向こうも同じように思ってくれている自信もある。
それは今までの変わらない感情だ。そこを否定したいわけじゃない。でもなんかしっくりこない。
すっきりしなくてもう一度考えようとカバンの中身を漁っていた手を止める。
でも。なんだろう。なんか、ダメな気がする。このまま突き詰めるとまずい気がする。でも何でダメなんだ? だって、俺は。
「俺は、チャノが好き」
二呼吸後、俺は一気にしゃがみこんで、頭を抱えた。
それは自分の声が酷く甘ったるく聞こえたせいでもあるし、さらに自分の言葉がきっかけで自覚した大きすぎる感情に戸惑ったせいでもあった。
「え? え? え? いや、ないないないない」
落ち着け、落ち着け。大丈夫、俺は冷静になれる。
ほんと、考えてもみろ。あいつは彼女に家事やってもらって、なんなら課題もやってもらっている男だ。女心とか理解してないから、いつもいつも振られているわけで、言うなら顔だけの男なわけ。しかも何なら、いつも一緒にいなくてもいいだろとか、一緒にいるっていう大切さがわかってない男でもある。
「……」
ダメだ。咄嗟に悪いところを必死に頭に思い浮かべてみたものの、意味はなかった。
効果は全くと言っていいほど無い。むしろ心はその反証を叫んでいた。
うそだろと心の中で呟く。でもそんな言葉こそが嘘だった。
「はぁ」
観念したように、ため息が溢れた。
そうだよ、本当は知ってる。
ちらりとみたカッターシャツを見る。自分でやったそれには少し皺ができていた。けれどチャノがやればきっと皺一つなく仕上がるだろう。課題だってそうだ。わざわざ俺がやらなくたって、チャノはちゃんと計画性をもって処理ができる。
彼女とうまくいってない時だって、彼女が好きだと言った場所をピックアップして真剣に悩んだり、そのデート代や彼女へのプレゼント、実家に必要以上に迷惑は掛けまいと生活費を稼ぐためにバイトに精を出しているわけで。
普段はベタベタと過度に一緒にいることはないけれど、そのかわり、側にいて欲しい時には、ちゃんと側にいてくれる。
知ってるよ。ずっと隣にいたんだから。悪い部分を列挙したところで、胸に宿った暖かい熱が冷めてくれそうになかった。
それ相応の期間、心のなかで育っていたことは、今初めて知ったけど。
「はぁ。最悪だ」
思わず、またもやため息を吐く。
面倒くさい。その一言だ。チャノはそれしか言ってない。助けてくれ手伝ってくれとは言ってないわけで。本当に、自分から進んでやっているわけで。
でもそれは、恩を売りたいとかでもなかった。ただ純粋に、親友の力になりたかった。はずなのに。
「下心、あった……んだろうな」
意識しているかしていないかの違いなだけで。
こっちが勝手にしたことなのに、ちゃんとお礼をしてくれる。今ならわかる。その時に見せてくれる笑顔が見たかったのだ。普段は少し無愛想なところがあるくせに、優しく笑うから。彼女達にも見せていたあの笑顔を、独り占めしたくて。
前髪をくしゃりと潰す。俺は見返りを求めていたのだ。頼まれてもいないくせに。
先ほど見せてくれた笑顔が頭の中を支配する。あんな笑顔を彼女達には見せていたのだろうか。そう思うと今まで感じたことのない嫉妬心がどこからともなく溢れてきて、自分でも呆れた。自覚するや否やこの有様とは。
そのままどれくらいの時間が過ぎたのか。母親のご飯ができたという声にのろのろと立ち上がり階下に向かう。ご飯を食べると言ったのだから、夕食を食べないわけにはいかない。時間もある程度過ぎている。いくなんでも顔の熱も治っただろう。
脱力したまま立ち上がり、手を洗うべく洗面台へ向かう。
「なんて顔してるんだよ……」
重い足取りでやっと辿りついた洗面台の鏡の中。そこには、恋をしていますと大きな文字で書かれている自分の顔を見て、ムギは重たい気持ちを吐き出すように、もう一度、長いため息を吐いた。
◆◆◆
二人が喧嘩をしたらしい。という噂で大学内は持ちきりだった。
ただの二人ならここまで話題にならなかっただろうが、件の二人は大学内でも有名な人物である。
二人と友達である端山は楽観視していたが、予想が外れ、どうも長期戦になっているようだ。
「ねぇねぇ、あの二人何とかならないの?」
「チャノとムギが別々とか寂しいじゃん」
「あー」
同級生でもある二人の友人はそれはもう見目が整っていた。だからそれぞれがモテるのだがそれとはまた別に、二人を揃って見ていたい、というグループも存在する。目の保養ということらしい。
「お前らの都合過ぎる」
「だって、二人揃ったところまた見たいじゃーん!」
「というわけで端山君、頑張ってね。私たちのために!」
「このミーハーどもめ」
好き勝手にそれだけ言うと、彼女たちはきゃいきゃいと次の講義のために別の教室に向かった。
まぁ彼女たちの言い分も分からないでもない。
今話題となっている内の一人は女遊びが激しい色男。彫りが深く切れ長で、濡れ羽色の瞳が印象的な美丈夫である。目と同色のストレートな髪は短く、素っ気ない雰囲気はあるものの、それが逆に男ぶりを上げているまである。少しチャラく見えるからか、勘違いされることもあるが、実際に話してみると気さくでさっぱりした良いやつだ。
もう一人はこれまた違うタイプのイケメンでまさに王子様だった。祖父からの遺伝らしい色素の薄い髪と少し青味がかった目のせいか、本人の柔らかい雰囲気のせいか。こっちも見た目だけで女子を落とせる力を持っている。神様は不公平なのである。
「ムギ、おはよう」
「ああ、端山。おはよ」
教室に入ってきたムギを見て声をかける。自然と隣に座ったムギは心なしか表情に影が落ちていた。
ああほら。後ろの方から遠慮がちに目線を送ってくる奴がちらほら。アンニュイな感じもいい! とかなんとかで、ムギもチャノも結局は人目を集めているが、本人たちは気づいてねーよな。
「で、仲直りしたか?」
「え。あー」
「まだかー。まぁ頑張れ?」
「ああ、ありがと」
微笑んだ顔が少し明るくなったのを見て少し安堵した。
いつも女子たちが騒いでいる、少し鋭い目元が優し気になるところがいいだの、時たま女子が被弾している笑った時の甘いマスクだの、はたまた俺たちと遊んだ時のカラっとした笑顔だの。そう言った類のものではなかったから、空元気なんだろうけど。まぁ元気は元気だ。
「そういえば、課題終わったの?」
「まだ! でも終わりそう。この前教えてくれたお陰です。お礼に、なんかあったら力になりますぜ」
少しでも元気を出してほしくてふざけてみる。いや、全部が全部、冗談でもないけど。
「そりゃいいな。金欠になったら昼ごはんはよろしく頼む」
「お……っと、それは時期による」
「頼りねー」
二人して笑っていると時間が来たらしく、教授が教室の中に入ってくる。話を切り上げた俺たちは授業に集中するべく正面を向いた。
本人たちからはSOSどころか、何があったかすら二人は話してくれない。それがイヤだなんて思わないし、放っておいてほしいのだろうと思ってそのままにしている。無理に仲良しこよしをして欲しいわけではないが、ただやはり仲のいい友達同士がギクシャクしていたら面白くない。先ほどの彼女らも、結局はそこだろう。あの時は冗談交じりに言っていたが、二人の顔にはいやらしさなどなく、ただ心配そうにしているのが分かった。
ちらりとムギを見ると、視線に気づいたムギが、なに、と口パクで問われたので、首を振り、今度こそ俺も前を向く。
早く仲直りしねーかなと、難しい文字が綴られた黒板に目を向けた。
◆◆◆
シルバーウイーク中のあの時から、どうもムギが冷たい。逃げられている、と言ってもいい。理由は分からなかった。
そのせいで、ようやく気付いた想いもきちんと自分の口で伝えられていない。
こんなことなら喧嘩の方がよほどましだった。喧嘩をしている間も、こんなに不安になったことはなくて、それは多分、どこかで仲直りができると確信があったからだ。でも今はこの先が不安で仕方ない。ムギの家に行ってもおばさんが出てくるだけで、会ってはくれなかった。もう、ムギと以前のような関係に戻ることさえ出来なくなったのだろうかと考えると、背筋が凍る思いだった。
人気のなくなった校舎を一人で歩く。教授に呼び出されてしまいやっとのことで解放されたから、もうあたりは真っ暗だ。
時間を確かめるために取り出したスマートフォンを見つめる。このところ、ムギは連絡しても出てはくれなかった。今からムギの自宅に行ってみようか。
「ストーカーかよ」
自分で言って落ち込んだ。ムギが取っている講義の前で待ち伏せしたり、共通の友人に会えるよう頼んでみたり、頻繁にムギの実家に行ったり。思い返してみても、やっぱりやってることはストーカーに近かった。
「はぁ」
重い息を吐いて、思わず足を止める。
もう、迷惑なんだろうか。俺が、あんな余計なことを言わなければ、今頃一緒に馬鹿やって楽しんでいたんだろうか。そうやって考えて、でも現実を見れば、話しかけても逃げられる。連絡をとっても逃げられる。ばったり会えば逃げられる。
何度目だろうか。もしもあの時こうしていればと考えては、非情な現実に怯えている。
本気で追いかければ追いつくのかもしれない。が、俺を見た時の傷ついたような顔をみたら、追いかける気力は消え失せた。でも諦めきれずに、どうにかこうにか会おうと悪戦苦闘している。今度こそ、笑顔であってくれるんじゃないかと淡い期待をして。
頭の中にムギの笑顔が浮かぶ。優しそうに下げられた目元。それにつられて綺麗な湾曲を描く柳眉。形の良い唇が両端だけ上がって。あの笑顔が見たい。あの幸せそうな笑顔が見れないのがたまらなく寂しかった。
「ムギ」
ぽつりと呟いた名前は暗闇にとける。はずだった。
チャノの言葉に呼応するかのように、すぐ横の室内からガタッと音がした。この辺りは使われていない教室で、誰かがいること自体が珍しい。
「誰かいるのか?」
なんだろうと少し警戒しながら戸を開ける。夕闇から本格的な夜へ変わる時刻。扉を開けると同時に、校舎の要所要所で電灯が光り始めたのが窓越しに見えた。
「ムギ」
観念したように、人が立っていた。
明るいとは言えない暗さだったが、それでも俺が間違えるはずがなかった。
奥の窓際にぽつんと立っているムギは下を向いていて表情はよく分からなかったが、何故か申し訳なさそうで。
「ごめん、こっちに用事があったんだけど」
チャノが、と弱弱しく零すと口を閉ざしてしまった。
おそらく、この通路を通りすぎた館に用があったのだろう。ここまで来たは良いものの、前から俺が来て咄嗟に空き教室に入った、というところか。
久々に自分の名を呼ばれた。待ち望んでいたはずなのに、それ以上によそよそしい声や態度に心は浮上するどころかますます沈んでいった。
そこまで会いたくないか。すれ違いすら拒まれるのか。
ムギの視線は未だに俺を見ない。
「ごめん、すぐ行くから」
足早に、俺がいる出口とは反対方向の出口にムギが向かう。
ああ、行ってしまう。ムギが。ごめんと言って。悲しい顔をして。傷ついた顔をして。俺のそばじゃない、どこかに。
「待ってくれ!」
焦燥感に駆られるまま、今度こそ追いかけてムギの腕をつかむ。もう限界だった。どうしても行ってほしくなかった。話がしたかった。
「チャノ、離して」
「いやだ」
「チャノ」
弱った声で、まるで懇願するように名を呼ばれる。そんな悲しそうに、俺を呼ばないでくれ。
「なんで逃げるんだよ」
「逃げてない」
「逃げてるだろ、俺の話聞いてくれよ」
「話なんてない、離せ」
離せと言われたが、ムギは腕を振りほどこうとはしなかった。それが救いだった。
「俺の方はある。なぁ、こっち向けよ」
「なにもない!」
ようやっと上げられた顔は、しかし、ほしかった笑顔ではなく、怒りに満ちた顔だった。それでもその瞳は悲しみでいっぱいだった。違う、それじゃない。俺が見たかったのは、もっと。もっと。
「なぁ、ムギ。なんでそんな顔してんだよ」
「それはこっちのセリフだろ」
やっぱり、俺は今、きっと情けない顔をしているのだろう。そんな顔をさせてしまったことも、単純に冷たい態度を取られていることも、どっちも俺には堪えるものだった。
「なんで、ムギまで悲しそうなんだよ」
俺の言葉にムギは意外そうな顔をした。確かにムギは泣いてはいなかった。でも俺には泣いているように見えたから。俺はお前を泣かしたかったわけじゃない。
「なぁ、俺が悪かったんなら謝る。めちゃくちゃ考えたけど何が悪かったのか分からなかったから、教えてくれ。ちゃんと理解して謝る。もう二度としない」
ずっと考えていた。何がいけなかったのか。何がムギを傷つけたのか。でも考えても考えても分からなくて、分からないことに罪悪感が募った。これだけ一緒にいたのに。大切だと思っていたのに。今までも知らずに傷つけていたのか、我慢を強いていたのかと考えると、余計に身動きが取れなかった。
「お前は、何も悪くねーよ」
「じゃあ、なんで」
「これは俺の問題だから。ごめん、迷惑かけて」
「違う。迷惑とかじゃない。ただ、ただ、俺は」
「チャノ」
一緒にいたい。という言葉は遮られた。言わないでくれと切実に訴えていた。暗闇の中でも綺麗に光る瞳が切なそうに揺れていた。
たまらなかった。そこに、切望したものがあったから。胸が締め付けられるような目をしているくせに、それでも宝物を見るような眩い光があった。ずっと、そうやって俺を見てほしい。
その光に奮い起こされて、ぐっと腹に力を籠める。
「なあ、ムギ。お前、俺のこと好きだろ」
「お前……」
「なあ、ムギ」
「……」
沈黙が落ちる。また視線が合わなくなった。でもムギももう逃げる意思はないのか、観念したように力なくたたずんでいる。腕はずっと、掴んだままだ。
「俺は、お前が好きだ」
どうか伝わるように。なぜかムギが壊れるような気がして、怖かった。ゆっくりと、間違えないように。ムギに伝わるように想いを込める。
「俺は、お前が好きなんだ」
だから、どうか逃げないでくれ。
「迷惑か?」
どうか、そうでありませんように。祈るような気持ちで、ムギの苦しそうな顔を見つめる。
少しの間、沈黙が落ちた。それを破ったのは、いつもと違う滲むような、ムギの声。
「でも、俺は。……俺は」
そこまで言って、でもこれ以上は苦しいというようにムギが言い淀む。
だから俺は、一瞬逡巡して、そして覚悟を決めた。
「わかった。じゃあそれでいい」
「え」
「俺の勘違いだった。お前の気持ちをさも分かったかのように言って悪かった。もう言わない」
「チャノ」
「でも、想うだけならいいか?」
「……何言ってんの」
俺の言葉に理解ができないと言うようにムギが揺らめく。
「絶対に態度に出さない。これまで通りにする。迷惑はかけないし、嫌なこともしない。約束する」
「そうじゃないだろ。なんで、そんなことになんの」
「お前が好きだからだよ」
間髪入れずにそう言うと、ムギが泣きそうに顔を歪めた。
ああ、やはり迷惑だったのか。あの時気付いた俺の恋は、ムギにとっては煩わしいものだったのだろうか。
「悪い、やっぱり気持ち悪かったか。じゃあ、もう想わないようにするから。ただ、時間をくれ。それで、想いが無くなったら、また親友としていてくれるか」
無茶苦茶なことを言っているなと自分でも思う。思いが無くならないように、なんて。言いながらそんなの無理だとどこかで叫び声がした。でもそうしないと、ムギの側にいられない。それこそ耐えられない。それはこの数日間でいやというほど自覚した。俺はきっと、側にいられるのなら、何でも耐えられる。
「違う、違うだろ! だって、お前は!」
思わず、といった風に怒りさえ孕んだ声で叫んだムギは、はっとした顔で押し黙る。まるで余計なことを言ったかのように。
「俺がなに? やっぱり、俺のせいか?」
「違う」
「じゃあ何?」
どうすれば。
「どうすれば、俺はお前の側にいられる?」
そう問いかけると、今度こそ絶望したようにムギの顔が青ざめた。やめてくれと、訴えるように。
その顔を見て、俺は全身の力が抜けていくのが分かった。
今、俺の何かが崩れ落ちた。
ああ、そうか。もう駄目だったのだ。何もかもが手遅れだったのだ。覚悟を決めても無駄った。どれだけ言い募っても。それだけ伝えても。何をしてもきっと元には戻れない。それほどまでにこの想いはムギにとっては辛いものだったのだ。
俺はまた甘えたのだ。ムギは許してくれるとどこかで思っていた。仕方ないなと溜息を吐いて、そうして最後には笑ってくれるとどこかで期待していたのだ。
でもそれは絵空事だった。ただの俺の希望に過ぎなかった。長年の親友というポジションに胡坐をかいて、友人を思い遣るということを怠ったのだ。
そろり、と今まで掴んでいた腕を離す。縋りつく先が無くなったことで望みが絶たれたのだと実感した。この気持ちが迷惑なら、俺が触ることも嫌だったに違いない。
もう覚悟を決めなければならないのだろう。さっきとは比べ物にならないほどの覚悟。今までの悪あがきも、これで終わりだ。もう隣にいられないこと、一緒に過ごせないこと、あの笑顔が俺に向けられないことを、覚悟しなければ。
「チャノ」
ああ、情けない。きっと最後なのに。これがまともに話せる最後かもしれないのに。突きつけられた事実に涙が込み上げて、勝手にあふれた。止まらない。最後ぐらい、恰好を付けたかったのに。
胸が痛い。咄嗟に胸元を掴んでシャツに皺を作る。声は出なかった。かわりに整わない息を、ゆっくりと静かに何度も吐き出した。ムギに拒否されることが、こんなにも苦しいなんて。俺は何にも知らなかった。恋が実らないことが、好きな人の側にいられないことが、こんなにも悲しいなんて。
「チャノ」
心配そうな声がかかる。ああ、ごめんな。お前は優しいから、こんな姿を見たら、放ってはおけないよな。
「わ、悪い。でも大丈夫だから。放っておいてくれていいから」
今は取り繕う余裕も力もなくて、顔を上げられないまま、それでも何とか言葉を紡ぐ。
「ごめん、大丈夫。もうお前に近づかないし、迷惑はかけない。これは絶対に約束するから」
それだけは守るから。こうなった以上、俺にできる事なんて何もない。
「ち、違う! 違う! 何でお前が泣くんだよ! お前が、だって……」
ムギの必死な言葉に顔を上げる。俺が、何だっていうんだろう。
「だから、そんな顔するなよ」
「どんな」
「悲壮っていうか、悲痛そうな顔」
「今は無理だ。まさにそんな感じなんだ」
「……」
なんだと言うのだろう。さっきからムギは何かを言いかけては止めている。それは俺にとって、良いことなのだろうか、悪いことなのだろうか。それともムギにとって?
じっとムギの目を見つめる。揺らぎ続けている深海の奥に、本当の何かがある気がして。
どれくらいそうしていたかは分からない。けれど今度こそ諦めたように、ムギが重たい口を開く。
「だって、お前、家族が欲しいって」
「え」
ムギの目がまた俺じゃない方に向けられた。
予想外の言葉に、それでも俺はムギの横顔を見続けた。
「お前、だって。家族が欲しいって。子供が欲しいって言ってただろ」
「……」
「なんだよ、違うのかよ」
探るような目で顔を覗き込まれる。
「いや、違わない」
言った。言ったことはある。だから即答した。でもそれは大事な何かの時とかじゃなくて。確か、高校の時の。そう、卒業式の時。たしか将来の話になって、それで。
「よく、覚えてたな」
「そっちこそ。これで思い出すってことはやっぱりそれだけ真剣だったってことじゃないのか」
あの時も別に嘘を言ったつもりはない。それは確かになんとなくあった将来の展望だ。
「そう、だな。あの時は、どっかいいところに就職するか、やりたいことで生計立てて。結婚して、子供もいればいいなって思ってたよ」
言いながら、袖で涙をふく。もう涙は止まっていた。
「ほらみろ。俺じゃそれは叶えられねーよ」
「でも、お前と一緒じゃない」
俺の言葉に、ムギは虚を突かれたようだった。
ムギだけには勘違いされたくなかった。間違いを許さないように、ムギがこれ以上、傷つかないように。正面からムギを見据える。
「あの時は、親友としてムギが側にいればいいなって思ってたけど、もう無理だ。いや、さっきまでのなかったことにするって言葉も嘘じゃねーけど。でも許されるなら、恋人として側にいて欲しい」
「お前は、いいのかよ」
「子供が欲しいって言ったのは、単に子供が欲しいってことじゃない。好きな人と一緒にいるっていうのが前提だ。好きな人と一緒になってその結果、子供ができないなら、俺はそれでいい」
「後悔は?」
「しない」
「……そっか」
ムギの声は力が抜けたような声だった。久しぶりに聞いた、穏やかな声だった。どこかほっとしたような声に、俺はここ数日の地獄の終わりを感じた。
ふと俺はあることを聞いてみたくて、そっとムギに問いかける。
「なあ」
「ん?」
「もう一度、聞いていいか?」
「何を?」
この状態で何を問われるのか予想がつかないのだろう。少し首が傾けられ、それに倣ってさらりと髪も揺れる。その顔は憑き物が取れたような顔だった。きっとそれは俺もだろう。
ずっと予想が外れていた問いかけ。でも今度こそ、俺の予想通りに答えがもらえると期待して。思わず口元が緩むのが分かった。
「お前、ほんと俺のこと好きだよね」
一度大きく目を見開いたムギは、その次の瞬間にはふっと笑って。
「そりゃな」
なんでもないように、さも当たり前というように、返答が返ってくる。
それでもこれまでとは違う響きがあった。けれど、優しく下がった目じりも、控えめに上がった口角も、人の良さが滲み出たような表情も。あの時見た笑顔と変わらず、俺の目には眩しく映った。
■■ 延長戦!■■
大学からの帰り道。実家同士は近所であるが俺の一人暮らしは少し離れているところにある。その分岐路までを二人で歩いていた。
一定間隔で立っている街灯で作られる、手をつないでいる二つの影。それを見るたびに胸に暖かいものが広がっていく。
誰もいないから、大学からも実家からも離れているから、という理由で俺から手を差し出してみた。ん、と一言とも言えない言葉と同時に出した手を、そんな顔して差し出されると断れるものも断れねーよと言いながら、ムギは俺の手を握った。
どんな顔? と聞くと穏やかで、愛おしそうな顔、と言われた。自分だって嬉しそうな顔してるけど、と言って二人して密やかに笑う。
けど大変だったのはその後だった。好きな人と手をつないでいる、と実感した途端、恥ずかしさが込み上げてきて、さっきまで揃って赤くなって黙り込んでしまっていた。まさか目も合わせられなくなるとは思わなかった。ようやっと気持ち的にも、顔の赤みも落ち着いてきたころ、ムギがゆっくりと話し出した。心地いい声が夜闇に紛れる。
「振り返ってみるとさー」
「ん?」
「やっぱ、あの時に互いに分かったってたかんじだよな」
あの時というのは、シルバーウイーク中の、俺の実家での出来事だろう。
「そうだな。あの時ムギが赤面して、で、俺も赤面して。互いに顔は真っ赤だったし、ていうかあの時の俺たちの態度が、もうな。だから俺は両想いだと思ったし、それはムギもそう考えていると思ったよ」
違った? と問えば、いや、とムギは首を横に振った。
「俺もそう思った。だからまあ焦ったよ。あの時、咄嗟に逃げたけど嬉しかった。でもあの後自分の部屋で考えてさ。そうしたら高校の卒業式のこと思い出しちゃって」
照れたような苦虫を噛んだような顔をしてムギは目線をずらす。
「悪かったな」
「いや、今はこうして一緒にいられるし、あんななんてことない事を覚えてくれてて嬉しかった」
素直にそういうとムギは嬉しそうに笑う。その笑顔を見て、本当に、あのままにならなくてよかったと改めて思う。
「な。でも、あんなに子供のこと考えてくれてたってことは、ずっと一緒にいるつもりって思っていいんだよな?」
「当たり前だろ。俺多分、別れるってなっても素直に聞けねーわ。別れ話とか耐えられなさそう」
どこか諦めたようにムギが言うが、俺は不謹慎にも浮き立つような心地だった。
「嬉しい?」
「もちろん。俺もきっと耐えられないだろうな。これまでとはえらい違いだけど」
情けないのか申し訳ないのか。そんな気持ちの表れを感じ取ったのか、ムギの表情が動く。
「でも、それは俺も嬉しいかもな。彼女さんたちには申し訳ないかもしれないけど。それってさ、さっきお前がもちろん、って言ったのと同じで、俺のことそれだけ好きってことだろ?」
付き合ってきた彼女一人一人を大事にしなかったわけじゃない。俺なりに大事に接してきたつもりだ。でもムギに心を奪われてみて、多分、彼女たちの求める形で接せられなかっただろうと、今ならわかる。
「俺だけ初恋って悔しいじゃん」
「え、ムギは俺が初恋なのか?」
「うん。いつから好きだった? って聞かれた答えられないけど。気付けば好きだったわけだし。でも、初恋なのは間違いないな」
「そうか」
「お前は?」
聞かれて考える。今まで付き合ってきた彼女たちはきっと違うだろう。
ムギとつないだ手を見つめる。今までだって手をつないだことがないわけじゃない。でもこんなふわふわした感覚は、初めてだ。
「そう、だな。俺も初恋だと思うよ」
あの日、俺の家で心臓が爆発しそうになったのが、良い証拠だ。
「そうか」
ムギの顔が優しく崩れる。この笑顔が好きだ。ずっと見ていたい。それに釣られた俺の顔は、きっと締まりのない顔をしているだろう。でも仕方ない。だってあんなに待ち望んだ愛しい人の笑顔が、目の前にあるんだから。
おわり