9 思わぬところで出会うのも恋愛小説の鉄板です
モリーの開く読書会は、多くの子供たちが参加する催し物である。
子供の好きな大道芸人が昼間の昼食会を盛り上げ、子供たちは各々好きな本を持ち寄り、たくさんの大人たちと本を読み合ったり、少し歳が上のお兄さんやお姉さんの貴族子女が幼い子供たちに読み聞かせをし、字の読めない子供は目を輝かせて覗き込んでいる。
エリックとマリアナもこの催しに協力し、マリアナは侍女たちから不要になった本を集めて寄贈をし、エリックは作家仲間たちと共に軽食を持ち込んだ。
文官の家族や、平民の学院生なども多く、モリーの広い邸宅は結構な人数で賑わっていた。
「盛況なのですね」
「今回が三回目らしいよ。私も参加は初めてなんだ」
エリックはにこやかに挨拶しながらマリアナに囁いた。マリアナは夜会の後の会話が気になってしまって、なんとなく笑顔はぎこちない。
エリックを知れば知るほど(やっぱりこの人は難しい)と感じてしまうのだ。
人の多さに少々気圧されつつ、周囲を見渡していると一人の子供が蹲っている。マリアナは親と逸れている様子の子供に声をかけた。
「あらら、あなたのお母様たちはどちらにいらっしゃるのかしら?」
マリアナが声をかけると黒髪の六歳くらいの少年は緊張した顔で顔を上げた。
「ピエロを見ていたら母様と手を離しちゃったの……」
先ほどモリーが大道芸人の集団を呼んでいると話していた。子供らしくつい夢中になってしまった結果の迷子だったのだ。
上等そうなシャツにブローチをつけていることから上流階級の子供であることが窺える。不安であるだろうに、涙で滲んだ顔を見られたく無いのか、袖で乱暴に頬を拭う姿がなんとも可愛らしい。
「お母様とご一緒に来られたのね。一緒に探してあげるわ」
マリアナは緊張が少しでも解れるようにとニッコリ笑って見せた。そうすると子供も僅かに頬を緩ませる。
「……ありがとう。母様は黒の髪で緑のドレスです」
しっかりした受け応えを誉めると少年は嬉しそうに微笑んだ。
「私はマリアナよ。あなたのお名前は?」
「リチャードです」
マリアナはエリックにも緑のドレスの女性を探して欲しいと頼むと二手に分かれる。
小さな少年の手を引いて、マリアナはモリーの姿を探し始めた。
彼女ならばゲストのことをほとんど把握しているに違いない。
近くの婦人に声をかければ『裏庭の方で見かけたわ』と教えてくれ、二人はそちらの方に足を進めた。
噴水のある庭を横切り、しばらく進むと黒髪の女性が一人の騎士に必死な形相で何かを話しかけている慌てた声が聞こえる。
「母様!」
少年の表情がパッと明るくなったと思った瞬間繋いでいた手は解かれ、マリアナより少し年上の女性の元に駆け寄る。
リチャードが母親の姿を捉えた瞬間マリアナは自然と笑顔になったが、女性の隣の男の姿に思わず目を見張った。
「ヴァル……」
少年リチャードの声と母親のお礼の言葉が聞こえたがマリアナはヴァレンタインから目が離せなかった。
ヴァレンタインは母親に「よかったですね」と微笑み、軽く肩を叩くとケーキのテーブルを指差した。二人は奥まったところのケーキの山を見て嬉しそうに顔を見合わせる。特にリチャードは目を輝かせ母親の手を引いた。
「母様早く行こう!お姉さんありがとう!」
無邪気に笑った顔を見ると先ほどの心細そうな姿はどこへやら。
勢いよくヴァレンタイン、マリアナに手を振ると向こうへと足を進めてしまった。
しばしの沈黙が落ちる。
マリアナはずっとヴァレンタインと騎士団内ですれ違ったりはしていたものの、故意に目を合わせたり、話したりはしていなかったことから非常に気不味い。
いつもならマリアナが話題を探して喋りかけていたが、今のマリアナはそういう気持ちにはなれない。寧ろ婚約の行方を有耶無耶にされているような状況でもある。
しかし先に沈黙を破ったのはヴァレンタインだった。
「そのワンピースよく似合っているな」
モリーの店で購入した萌葱色のドレスには首周りに大きめのリボンがあしらわれており、日中のドレスとしては華やかだ。今までのマリアナだったら袖を通すことがなかった形。それを素直に褒められたことは嬉しかった。
その反面付き合っていた時代にはしなかったオシャレをしていることを指摘されたようで僅かに胸が軋んだ。
「ありがとう」マリアナの声は複雑な感情が混じり声はゆったりと低かった。
以前なら『本当!?実は勇気を出してこういうドレスもいいかな?って思って挑戦してみたの!褒めてもらえて嬉しい』と言葉数も乱発し、はしゃいで見せたに違いない。
なのに今はそこまでの活力が生まれない。
(やっぱり前みたいに彼に愛されたいと頑張っていたときのような気持ちにはならないものね)
実際に会えば気持ちが昂るかと思い、冷静な判断が下せないと思っての三ヶ月の猶予であったが、マリアナの感情は揺さぶられることはなかった。
(もう話し合いをしても私はヴァレンタインの態度や言葉に惑わされることはなさそうだわ)
ヴァレンタインの表情を見ることなくマリアナは自分の心の声に耳を傾けていた。
ヴァレンタインの一挙手一投足に振り回されていた以前とはまるで違うと自分自身に驚く。
(もう話し合いの場を設けても問題なさそうね)
そう思い顔を上げるとヴァレンタインが真っ直ぐにマリアナを見据えていた。
「いつ会っても渡せるように持ち歩いてたんだ。読んでもらいたい。じゃあ……」
何か言われるのではと思っていたのにヴァレンタインはあっさりと引き下がった。
青い便箋をマリアナに握らせて。
付き合ってから今まで一度ももらった事のない『手紙』をマリアナは思わぬ形で手渡しされたのであった。
庭園での邂逅の後、エリックがマリアナに声をかけたときにはすでにヴァレンタインは屋敷から姿を消していた。
エリックにその場でヴァレンタインに会ったのだと話そうとも思ったのに言いそびれた。あまりに一瞬の出来事であった為握らされた手紙が幻のような感覚にも陥ってしまった。
その手紙はなんとも切ない内容で『どうして三ヶ月前にそう言ってくれなかったの?』と思いたくなる言葉が連ねてあった。時は戻せないがマリアナは自分たちが付き合い始めた頃を思い出し、なんとも言えない苦しさが胸を覆う。
ヴァレンタインのことを一度は愛した男性であると思い出すと同時に、マリアナがどん底にいて、打ちひしがれているときに自信をくれた人なのだと改めて思った。
*************
愛しいマリアナへ
このような形になって君への想いに気づくことになってしまった。
本当にすまない。
俺は愚かだった。
本当は君に直接会って謝りたい。
俺は君を失って改めて君の大切さや存在の尊さに気がついた。(陳腐な言葉だが本心だ)
君を初めて見た時、俺は蕾を見つけたと思ったんだ。
可憐な花を咲かせる、まだ誰も知らない素敵な蕾があると思った。
王女がマリアナをこの国に置いて行ってくれたことに感謝もした。
付き合ってみれば君は傷つきやすく、臆病で、でも一生懸命で。
俺の心は本当に日々満たされていた。
なのに幼馴染と近づきすぎてしまって、俺は間違えたんだ。
でも信じて欲しい。
俺は君が好きだ。
君がレジロンティ子爵と一緒に過ごしている姿を見て初めて自分も君の苦しさを理解した。どんな形であっても好きな相手が、違う異性に微笑みかけていると独占欲や嫉妬で、苦しくなるんだな。
焦燥に駆られて愚かなこともしてしまったね。すまなかった。
でも俺の気持ちは決まっているんだ。
君と結婚できないなら、もう一生誰とも結婚しないだろう。
それほどに君を愛している。
君は自分をいつも『選んでもらえない人間』だと話していたね。
俺はそれを聞くたびに笑い飛ばしていたけれど本当はこう言いたかった。
『ありがとう神様。俺のために女神を寄越してくれて。きっと貰えるものの少ない次男坊の俺に神様が与えてくれたギフトがマリアナなんだ』
結婚式の夜に君に伝えるつもりだった言葉だ。
君は俺を許さないだろうけれど、それでも君のそばに居たいと俺は願ってしまう。
離れてなお焦がれてしまうが、マリアナの幸せを俺は誰よりも願っているし、本当はこの手で幸せにしたいと思っている。
ヴァレンタイン・ブラックホルムより
愛を込めて
*************
ずるいものを渡してきた、と思う。
手紙であればどうとだって言えるのだ。
ヴァレンタインはマリアナより恋愛経験がたくさんあるからこそ、それを分かった上でしているのではないかと勘繰ってしまう。
モリーの屋敷で会ったとき、自分の知っているヴァレンタインではなかった。
それがマリアナを動揺させた。
以前のヴァレンタインは、歳の割にヤンチャな雰囲気と少々強引な態度をとる小さな暴君のようなところがあった。顔が良くて、騎士の割に小柄なところから笑顔でついつい誤魔化されてしまう。
マリアナが弱気な発言をすると笑い飛ばし『気にすることないぞ』と抱きしめてくれる。あの瞳に見つめられて自信を取り戻していったのだ。
フラフラと女性関係がだらしなかったのにマリアナと付き合い始めてからは一途に思ってくれていたことも分かっている。
だから婚約を受け入れたのだ。
周囲からのヴァレンタインに対する不評を吹き込まれてもあの当時は気にならなかった。
ヴァレンタインが激しい戦闘に身を置く人間であることと、女性に対してのいい加減さは認めていいことではない。自分がというよりも、過去の女性達の気持ちを考えるとマリアナは複雑であった。
本当に割り切っていたなら、誰もマリアナに文句を言いに来ないだろう。
自分の過去をマリアナに対しては謝罪することも今まではなく、経歴そのものを男の勲章だとヴァレンタインは恥じてはいなかった。騎士の友人達から苦笑いされていてもそのことについては鋼のメンタルで考えを変えることもない人だった。
それなのに……
今回は真っ直ぐにマリアナに謝ってきた。
(本当に変わっちゃったのかしら)
そもそもあのタイミングでモリーの屋敷で会うことになるとは驚きだ。まさか忍び込んだということは無いと思うが……と気になり確認してみる。
モリー曰く、騎士団の家族も声をかけていたので、ヴァレンタインもボランティアで参加していたのかもしれないと告げられた。ただ、部隊の全く違う人たちであったし騎士団は大人数でこんな風に居合わせること自体奇跡のようなものよ、と大層驚かれた。
自宅に大勢の警備兵を常駐させているモリーの昼餐会は知り合いが知り合いを呼ぶ。紹介制であることから身元が不確かな輩が入り込むことはないのだが、このようなこともあるのだと謝られた。
「いえ!そういうつもりではないんです。ただ驚いてしまっただけで」
マリアナがモリーの顔を潰さないようにと慌てているとナッティが現れた。
「あーーあいつが君の婚約者だった男か。確かに顔は悪くなかったな〜」そういうとニヤリと笑う。
「タチの悪いことに騎士のくせに柔らかめな容姿でしかも最前線に飛び込む勇気がある男なんだろ。ギャップがたまらないものな。あれはモテていただろう」
ナッティの言葉にマリアナはしかめ面をした。
「そうなんですよね……だから私は苦労したんです」
モリーはフムと腕組みをするとマリアナにお茶を勧めてきた。
少しでも長い話になりそうだとモリーは必ずお茶を飲もうと言う。
お茶の時間をゆっくりとる習慣のなかったマリアナはこの家に来るたびにこのティータイムで自分を見つめる時間を何度も貰ってきた。要は相談の機会と自分を曝け出す時間を作ろうと提案されるのだ。
(私って気忙しくていつも深く考えないままにたくさんの決断をしてきたのかもしれないわね)
マリアナは人生を振り返る。
問題が起きた時や、辛い局面にぶつかった時、いつもマリアナはそこから目を背けるように、勉強時間を増やし、わざと仕事を多くこなした。人を避けて孤独に身を置いたのだ。忙しさに身を任せていれば疲れ果て、無駄に負の感情に流されることもないと思っていた。姉の婚約が整ったときだって両親は特にマリアナを気遣っている風には見えなかった。婚約が整った姉が気を遣って『ごめんなさいね』と言ってくれたときは、かえって腹立たしかった。
両親はそんなマリアナに何も言わず、王都に送り出した。
結婚式への準備に気を取られている姿を見ながら学生時代のマリアナは達観したように気持ちが凪いだ。
選ばれなかった人間への配慮はこんな感じなのかと母親を見ながら理解したふりをしていた。
本当はとても傷ついた癖に何もなかったかのように装った。だから両親に相談も大してせずに家を出た。
王女のお輿入れについて行けなかったあの時も、侍女仲間を前に『悔しい』とは言えなかった。
『王女を頼みます』と自分より僅かに若い彼女に丁寧に頼んでその場を終わらせた。
他国に行くことで人生の転機を得ようとしていた自分が恥ずかしく思えて周囲に言えなかった。
王女が配属先を騎士団にしたことを深読みしすぎて『貴女は結婚願望があるのだろうから男性の多い職場にしておいたわ』という意味かと勘違いしたこともある。随分と気持ちが落ち込んでいるマリアナに声をかけてくれたのは騎士団長であった。
意を決してマリアナの考えを伝えると四〇代になる男は素っ頓狂な声をあげた。
『そんなわけあるか!』
焦った顔は未だに見たことがないほど額に冷や汗が浮かんでいた。
団長の言葉で心の重しを取り除くことが出来、やっと笑顔を見せることができた。確かに男性の多い職場だが、出会いの場ではない。騎士団は臨機応変さを求められる文官たちの中でも優秀な人材が期待される部署なのだと懇切丁寧に言われた。
いつも勉強や仕事で認められれば、心の罅は埋められると思って生きてきた。
メソメソしても両親は慰めてくれなかったし、クヨクヨしたって仕方ないと思っていたからだ。
人生において、それはとても勿体無いことであるとモリー達は言う。
『解決の糸口は多くの人が持っていて、人生は気付くことの連続よ。神様は試練を与えているのではなく、越えられる壁を周囲の人と一緒に飛び越すチャンスとして与えてくれているのだと思うのよ。だから今までマリアナが築いてきた人たちに頼っていくことは全然問題じゃないわ。寧ろ良い結果に導いてくれるチャンスよ』
信心深い人間とは言えないモリーが『神』という存在を出して話すものだから驚いてしまった。
だが、ヴァレンタインのことを相談するようになったあたりから、心を強く持て、気持ちの折り合いがついているように感じる。
振り返ればマリアナの人生はそれなりに順調であり、姉のように結婚出来なかったことに一時的に傷つきはしたものの、田舎の領地で一生を終えることは自分の性に合わないと最近は考えていた。ナッティにも指摘されたがマリアナは本来好奇心が旺盛で外の世界で多くの人間に触れ合って生きることが好きな性質らしい。
これもティータイムを取り、自分と向き合う時間が増えたからこそそう考えることができるようになったのだと思う。
文官という職業を通じて多くの人々にたくさんの学びを与えてもらう人生の尊さは何物にも代え難いと最近は感じている。エリックから言われたように収入で頼られては堪ったモノではないが仕事に誇りを持ち、自分に自信を与えるモノなのだと今ははっきり言える。
(私が人生の緊急事態だと思った時にどれほどの人が手を差し伸べてくれたか……冷静になると本当に有難いわ)
騎士団長もヴァレンタインの上司であるにも関わらず、マリアナを尊重してくれたし、文官の仲間たちも温かく見守ってくれている。
貴族の醜聞だと嘲笑うことなく、マリアナと交流のある人たちはみんな心からマリアナの決断を待ってくれている。
婚約者との波乱万丈さえ横に置いてみると、マリアナは人が羨むほどのたくさんの良い機会に恵まれているのだと実感した。
レモンティーの香りを楽しみながらマリアナは先ほどの出来事をモリーやナッティに話す。
エリックに咄嗟に相談できなかったことも含めて自分の心の整理がついていないと言うとモリーは深くため息を溢した。
「そうね……ヴァレンタイン様の気持ちは分かるわね。自分の婚約者が外の世界で認められて他の男の贈り物で美しくなる。これほど屈辱的なことは無いわよね」
「でも彼は追い縋ることはしなくなったんだろ?押して押して今度は引く作戦かな?って思ってたんだけど」
ナッティはパクリとサンドウィッチを口に運ぶと首を傾げた。
「手紙でわかる通りよ。彼は多分マリアナを愛しているの。だから無理をさせるのを止めたのよ。本当は攫って帰りたいくらいの気持ちがあったかもしれないけれど、これ以上マリアナに嫌われたくない気持ちが勝っているのだわ」
手紙を読み終わったモリーは穏やかに微笑んだ。
「自分がどうなりたいかなんて、人の基準じゃ測れないわ。自分の心に聞いてみないとね。マリアナに必要なのは自分を見つめる時間よ。私ったらついついお節介を焼いてしまったけれど誰と人生を歩んでも自分が決めたことなら後悔はしないものよ」
ナッティは目を細めると唇を尖らせた。
「男の失敗を許すのは女の甲斐性だという人もいるけど僕はそうは思わないんだよね。彼はマリーを傷つけた。これは変わらない事実だ。ちゃんと向き合う心の強さが準備できたんならそうするべきだけどマリーは本当はどっちが好きなの?」
「どっち?」
「え?!あれだけデートしているエリック様のことは好きとかないの?」
ナッティが哀れな声をあげる。
そう言われるとマリアナはドキリとした。よく考えれば彼に会うだけで胸が弾むような感覚はここ数週間なかった。
ヴァレンタインに手紙をもらった瞬間であっても彼に必ず相談しなければ!という気持ちは湧き起こらなかった。それはつまり、彼のことをそういう視点で見てないということになるのではないだろうか?そう思い至る。
思い返せばエリックから直接『好きだ』と言われたことはない。
(エリックは本当に私のこと好きなのかしら?)
ヴァレンタインから告げられた愛の告白にはマリアナに向ける感情がある。だがエリックからその熱を感じたことがなくずっと踏み込めない要因であった。
曖昧な関係のまま、デートを重ね『口説いてる真っ最中で』という甘い言葉も人の目がある時だけ。実際に口説かれたことはなく、見ようによっては社交辞令のようにも取れることに気がついた。
マリアナはエリックを素敵な男性で結婚相手にはこんな人が良いだろうと思っている。しかし彼自身の魅力を『スマートでデート慣れしている大人の男』以上に評価していないことに思い至る。
もちろん本人に『好きです、愛しています』とも言えていない。
その気持ちが本当に自分の心の中にあるのかさえ不安になってきた。
一流の作家であるエリックに出会うチャンスは普通に暮らしている限りはあり得ない。
そして法務部のエリートにエスコートされることもなかなか無い。夜会で多くの令嬢が羨望の眼差しでマリアナを見ていたのは十分にわかっていた。マリアナがその視線によって僅かばかり優越感に浸れたのも事実だ。
モリーの予想ではレジロンティ子爵はもうすぐ法務部でも役付きにまで引き上げられるだろうとのことであるから、女性たちはますます必死に彼を追いかけているのだという。
法務部での実績はもちろん作家としての成功を同時に収める多才な男を世の中の人間は放っておかない。
マリアナは改めてエリックの男性としての価値を多くの場所で実感していた。
だがトキメクやトキメカナイという言葉で表すとなんとなくスーンとしてしまうのである。
(あの考え方と、前の婚約者の面影を引きずられては建設的な未来はないわ)
メイドが下がるとモリーは菓子の皿を脇に退けマリアナの顔を見つめた。
「恋に堕ちるまでには至らなかった……ってことかしら?」
モリーの柔らかな微笑みの下に僅かに(残念)という言葉が浮かぶ。
顔色を読み取るのが早いマリアナはそれを感じてしまうけれどここだけは嘘をつけない。
「すみません……本当に良い方なんです。わかっているのにあと一歩踏み込めなくて」
申し訳なさに視線が下がるがナッティはそれを笑い飛ばす。
「マリアナ。人の気持ちはそんなに簡単じゃない。エリック様は結婚相手としてはすごく良いけど、そんな気持ちで向き合ったってうまく行かないよ」
「でも、私は貴族の家で生まれてこんな気持ちがあるなんて思ってもみなかった」
マリアナは貴族だ。だから貴族の親が言う通りに結婚するものだと生きてきたし、感情なんて二の次だと捉えていた節がある。恋愛して婚約を結んだが、貴族の令嬢として受け入れられたことの方が喜びが優っていたのではないだろうか?と自分自身を勘繰ってしまう。
基本スタンスとしては結婚に夢を見ているタイプだったから、婚約した時は本当に嬉しかった。心のどこかにユリアナよりも『恋愛結婚できる』ということを誇りに思っていた節もある。
だから余計にレイチェル嬢に愛を囁いていた婚約者に『また選んでもらえなかった』とひどく傷ついたのであるが。
モリーのように信頼している人から紹介してもらった素敵な相手を無条件で受け入れれば、自分が愛してやまない恋愛小説の王道ストーリーと同様に幸せな成婚へと繋がったに違いないと思っている。
頭は『嫁げー(イケー)』と命令を下しているのに、心が『NO』と言っている。
(厄介な手紙をくれたものだわ)
他国で婚活しようとしていたほどのエネルギーはどこに霧散したのか?!と己を問いただす。
目の前の『成功』を掴もうとしないマリアナの弱腰に本人は情けなく感じているのに、二人はそれをなぜか受け入れているようだ。
「恋愛を尊ぶ風潮はあるけれど、貴族の在り方も確かにあるよね。でもマリー……これは自分の物語だよ。僕は親の決めたレールがあったけれど気持ちはどうしてもそれに従えなかった。自分を偽るのって本当に難しいんだ。人の評価で決めていいものじゃない」
ナッティの視線は鋭かった。マリアナはナッティの言葉の意味がよくわかる。
自分の気持ちを偽っていることはとても苦しいのだ。ヴァレンタインの存在を忘れたフリをして過ごした日々は何か違和感を拭えなかった。もっと言えば、家族と離れて過ごして自分が猫を被っていた間中違和感を抱えたまま生きてきた。
本当はおしゃべり好きで、活発な性格なのに、選んでもらえるように借りてきた猫を演じていた侍女時代。
エリックと会っている時も心から楽しめていなかったのは自分の婚約解消が終わっていないからスッキリしないのだと誤魔化していたが違うのだ。
『なんで?どうして?私のことを本当に愛していなかったの?』と聞きたかったのに答えが貰えず苦しいままにそれを忘れたフリをしていただけだ。
「ヴァレンタインの気持ちが本当にわかりません。あんなことしていて今更好きってなんなんでしょうね」
マリアナは泣き笑いの表情を浮かべた。
本当に時を戻せるならあの夜に戻して欲しいくらいだ。
「手から離れていく女性を追いかけたくなるのは男性の本能なのだけど、気持ちが整ったならそろそろ逃げずに話し合いするしかないわね」モリーは苦味を残した表情で微笑んだ。
応援している女性が自分の推薦する男性と結ばれたらいいのにな、と思ったが人の気持ちは簡単ではないようだ。
自宅のパーティーで二人が再会してしまうなんて皮肉であるがこれも運命であると思った。
モリーから見てエリックは女性に対してガードの堅い男だ。
少々クセのある性格だとも思っている。
条件ありきで近づく女性を嫌がるくせに自分は意識せずに条件をいくつかあげているタイプなのだ。
見た目の美しさを求めているところがあるし、貞淑な考えを持ちつつ、フラれた婚約者同様に少々芯のある性格の女性を好む。そして、少し困っている薄幸そうな女性を選ぼうとする。
エリックがフラれるのかな?と思いつつ、臆病な彼がストレートに愛を囁かなかった結果だと残念に思った。臆病になってしまう感情も理解できるが、しっかり勇気を出して本心を伝えることの大切さもモリーはわかっている。
エリックを良い男だと思いながらも、自分の夫がエリックのようにいつまでも気を持たせていたら、女の立場としてそれは歓迎できるものではないな……とため息が溢れた。