3 母の一撃
ヒーローが痛い目に遭います。
もっと痛い目に遭えばいいのにね……
作者は手厳しいのです。
ヴァレンタインは兄レオンからの一報をもらったのでそのままブラックホルム家のタウンハウスに戻った。
玄関を開けレオンの表情を見た瞬間左の頬にピシリと強烈な痛みが走った。
母親のヤスミンが横から振りかぶってヴァレンタインの頬を張ったのである。
ジンとした痛みに思わず手を当てると母親はフーフーと肩で息をしながらヴァレンタインを睨みつけた。
「馬鹿!!あなたマリアナさんにきっと捨てられるわ!!」
珍しく甲高い声で怒鳴るとそのまま自室へ走り去っていった。
呆気に取られたヴァレンタインに兄が手招きする。
「話がある」
冷たい視線を受けヴァレンタインを猛烈な不安が襲う。そしてその不安は的中するのであった。
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「じゃあ、マリアナは俺とレイチェルを見て勘違いしたのか?」
「勘違いじゃないよ。お前はそれだけのことをした……」
レオンの素早い切り返しにヴァレンタインはウッと言葉に詰まった。
あの晩のことはヴァレンタインの中では美しい思い出のようなものであった。
それを否定されたことが腹立たしくもあり、兄の話が正論であることも理解はしている。
「取り敢えず、マリアナと話し合うよ」そう声を絞り出すとレオンは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「わかっていないな。会ってはいけないんだ。お前から会いに行くのは禁じる」
上から押さえ付けられるように言われたことでカッと頭に血が上った。
「指図は受けない。俺とマリアナの問題だ」
「そんな簡単な話じゃなくなったんだよ。マリアナは婚約を解消したいとまで言っている。勿論有責はこちらだ。100人に聞いて、100人がお前を責めることは間違いない」
ヴァレンタインは顔を真っ赤にしてレオンに噛みつこうと口を開きかけたがレオンがそれを右手で制する。
「相変わらず本能のままに生きてるな。そんなところを母上は可愛いと思っていらしたのだろうが、マリアナを怒らせたのは最悪だ。自分がしてはいけないことをしたと自覚はあるのか?お前がレイチェルをどう思っていたのかなんて、もうどうでもいい。だがな彼女に捨てられたらお前に次はないぞ?それを理解しているか?」
普段はゆったりと喋るレオンとは思えないほど強く、早口で捲し立てられた。
ヴァレンタインはその顔を見て一瞬で反抗的な気持ちが揺らいだ。
「婚約を有責で解消……いや、破棄されたらお前も破滅だし、レイチェル嬢も痛手を負う。
そもそもお前はマリアナのことを愛しているから結婚を申し込んだんじゃないのか?」
ヴァレンタインは苦しげに顔を歪めながら呟いた。
「マリアナは俺を愛してくれているし、俺も彼女を愛している……本当に愛しく思っているよ」
その言葉を聞いてレオンは呆れ顔で再び溜息をつく。
「じゃあなんでレイチェル嬢に愛を囁いたんだ?お得意の女好きが疼いたのか?」
「違う!愛なんて囁いていない!!」
ヴァレンタインは肩で息をしながらレオンの胸ぐらを思わず掴む。
「違う!!違うんだ!!レイチェルは妹分で、ちょっと励ましてあげただけなんだ!!」
「抱きしめて、優しい言葉を掛けただけでそれはもう裏切りだ!!考えてみろ!!マリアナが他の男の腕でその言葉を掛けられているところを見てもお前はなんともないか!?」
ハッとヴァレンタインの顔が歪む。
掴んだ胸元の手が緩み、レオンは素早くその両手を叩き落とした。
「お前は本当に傲慢だな。
あんな良い子を捕まえたのに、自分の子供じみた感情を優先させたんだ。
ブラックホルム家としてはマリアナに嫁いでもらいたい。それは母上も父上も同じだ。
何せお前の今までの女関係は娼婦に毛が生えたようなくだらん女達ばかりだったからな。だが、そっちの方がお前にはお似合いだったということだろう。いいか。マリアナ嬢が落ち着くまでお前は絶対に誠実に謙虚に時を待て。今はそれが最善だ。間違っても話し合おうなんて思うなよ。お前には荷が重すぎる」
それだけ言い放つとレオンは席を立ち大股で部屋を出ていった。
ヴァレンタインは言葉もなく暫く立ち尽くしていた。
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マリアナは『相手の実家にきちんと話せました』とモリーに手紙を書き、朝から仕事に向かった。
本当はヴァレンタインに会う可能性しかない職場など行くのも嫌だったが、エリエファイス公爵家のレイチェルとヴァレンタインの関係は非常に危ういことに気がついた。
自分が騒ぎ立てたらレイチェル嬢まで破談になる可能性に思い至ったのだ。
いずれ婚約を解消するにしても、義母のヤスミン(義母じゃなくなるかもだが)が話していたように、彼女はもう直ぐ皇国に出立する。
自分の婚約の行末はその時でも良いだろうと考えた。
やんごとなきお嬢様はなんと言っても外交にまで関係している人間だ。王宮勤めの田舎令嬢マリアナが騒いでも勝ち目はないし(勝たなくてもいいが)女好きのヴァレンタインが、レイチェルの気持ちを無視して勝手に盛り上がった可能性も捨てきれない。
公爵家に睨まれたらマリアナの実家はタダでは済まないだろう。
他人の人生に関わりそうな案件だからこそ、王宮勤めの人間だからこそ、慎重にしようと判断した。
(本当は泣き寝入りなんてしたくないけどこればかりはね……)
マリアナはこれを機会に他人の感情に左右される人生を変えたいと本気で決意した。レイチェル嬢達に振り回されたくないと覚悟を決めたのだ。
昨日モリーの屋敷から行李を運ぶときは最年長のナッティが付き添ってくれた。女一人で持ち上げるには重すぎるそれを軽々と肩に載せたナッティにマリアナは少年ながら逞しさを感じた。
夢を追い働く少年たちの姿に感銘を受けたわ、と寮に帰る馬車の中でナッティに告げると彼は嬉しそうに微笑んだ。
「俺はマリーを応援しているよ。貴族って大変だろうけど俺が手伝えることがあったら遠慮しないで言ってくれ。マリーって自分が思ってるよりスゲェ可愛いんだぞ。自信持てよ」
「ありがとう、私も貴方達の姿にとても励まされたわ。というか、生き方そのものにね。信念を持って行動していることって素晴らしいわ」
「下を見て、嫌な思いに囚われるだけじゃ進めないだろ?自分を理解してくれない人たちの言葉に耳を傾けても心が塞ぐだけだよ。それより、マリアナを心配して手を差し伸べてくれている人たちの意見に耳を傾けることだ。それが人生のヒントになるよ」
そう言って握手してくれた。少年から少しだけ大人になっていく男の子の体温の高い掌は思ったより大きく、自分にはない熱量で思わずマリアナは涙が滲む。
(ありがとう!!ナッティが独立したら絶対ドレスを沢山オーダーするからね!!)
とすっかり絆されるチョロいマリアナ。22歳で小銭を稼いでいる分、財布の紐が可愛い青年に向けてパックリ緩むのであった。
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「おはようございます」
マリアナは、オフホワイトのすっきりとしたシルエットのセットアップワンピースを着て執務室に現れた。制服代わりに愛用していた紺色のブレザーは昨日処分した。
「あ?あぁおはよう」
騎士団長が一瞬両目を見開いた。
「今日はどこか仕事終わりに出かけるのかい?」
昨日の欠勤のことより思わず、雰囲気の変わったマリアナを二度見してしまう。
先日まではキチキチと結い上げていた髪は下ろされ、ハーフアップにしているので濃い金髪がしっかりと目立つ。
今まで額を覆っていた前髪は斜めにカールし、隠れていたエメラルドのような緑の瞳がはっきりと見えるようにセットされていた。
マリアナは二度ほど瞬きをすると大きな瞳で騎士団長を見上げた。
「?あぁ……服ですか?」
そう言うとウフフと微笑んだ。
今まで愛想笑い一つしなかったマリアナが微笑んだことに周囲が一瞬で驚いた顔をする。
「いや、あーまーそうだな。今日のワンピースとても可愛いぞ。デートなのか?」
騎士団長はマリアナの笑顔に少し驚いたように笑ったが、可愛いと褒めてくれた。
「いいえ、特に予定はありません。お部屋を整理して今まで制服代わりに着ていたジャケットを止めたんです。元々好きで着ていたデザインじゃなかったので。王女付きの時はどうしても縛りが多かったんですけど、よく考えたら今は私服でも良いんだし……と思ったらお洒落しないと勿体無い気がして。団長?派手ですか?もしお気に障るようでしたら改めますが」
「いやいや、華やかでいいよ!私は歓迎だよ。騎士団はただでさえ男世帯でむさ苦しい。女性らしい色合いがあるだけで気持ちが華やぐよ」
「そうですよ!ノビーパークさん!今日すごく可愛いじゃないですか!」
いつの間にか第三隊の事務官が後ろに立っていた。
好奇心旺盛な眼鏡男子はニコニコとマリアナを見つめて賛辞を贈る。
「騎士団はカチコチの事務官が多いですけど、ここは本来制服ないですから、服装規程めちゃ緩いんでもっと可愛い服を着てもらえたら僕も嬉しいです!」
マリアナはそれを聞いて目を細める。
(思った以上にすぐに良い反応がもらえて嬉しい!)
「じゃあ、お言葉に甘えて。この前素敵なブティックを見つけたので久しぶりにお洒落が楽しくなったんです。お休みの日だけだと物足りないですからこれからはお仕事も少しだけお洋服を楽しみますね」
ぜひそうしたら良いよ!との他の人間からもエールを貰い、気を良くして席に着く。
夜会の夜には死にそうなくらい脱力したのに、今日周囲からちょっと洋服を褒められたくらいで舞い上がるとはゲンキンな性格だ!とも思わないでもないが、近年人から褒められることなんてずっとなかったんだと気がついた。
ヴァレンタインは最近の夜会に行く時に、ドレス一つ褒めてはくれなかった。
(女って本当に洋服一つで気持ちが違うものなのね)
モリーの言葉を噛み締めつつマリアナは昨日溜め込んでいた書類の束を早速手に取った。
たかが洋服を変えただけ……と考えていたマリアナだったが、半日で周囲の反応が大きく変わった。
すれ違う人皆がマリアナに声をかける。
「あらマリー、イメチェンしたのね。どこのドレス?」
「こんにちは。今日は雰囲気が違うね」
会釈だけの関係だったおじさま達まで頬を緩めてマリアナを呼び止める。
男女問わず侍女や事務官、女性職員までマリアナに
『凄くいい!化粧も雰囲気も素敵』と言ってくれる。
第二王女付きで仲良くしていた侍女の一人ベロニカは、マリアナの変貌に驚き、すぐにランチに誘ってきた。
職場では一番仲が良いベロニカ・マゼラッティはすぐにマリアナの変化を良いことだと誉めた。
「どうしたの!すっごく可愛くなって。結婚前にヴァレンタイン様を更に惚れさせる計画でも立てたの?」
笑顔で肩を叩く豪快なベロニカにマリアナは複雑な苦笑いを零し食堂ではなく、裏庭でランチをしようと提案した。
流石に親友であるベロニカには嘘はつけないとマリアナは夜会での出来事を包み隠さず話した。
そしてヴァレンタインと婚約を解消も視野に入れていると話すとベロニカは憤怒の表情を浮かべた。
今までは
『軽薄に見えないように。若いからと侮られず、きちんと仕事ができる人間だと認識してもらいたい。上級女官や第二王女に相応しい真面目な、落ち着きのある……etc』というテーマで色んなことを選んできた。
明るくて元気で、自分の気持ちに素直すぎたり、多くの言葉を発する(口が過ぎる)女は選んでもらえないと自分で自分を縛っていた。沢山のマイルールで頑張った結果、男性にも、王女にも切り捨てられてしまったのだが…………。
だったら……だったら自分の好きな生き方でいくしか無いじゃないのか。
そのほうがよっぽど後悔が少ない。
そう気がついた、と話すとベロニカはウンウンと激しく同意した。
「ヴァレンタイン様は本当に許せないけど、レイチェル様も大概よね……私ちょっと幻滅しちゃったわ」
素直さが美徳のベロニカは歯に衣着せぬ物言いで公爵家をバッサリ切った。
レイチェルは王太子の我儘を受け入れた懐の広い女性として社交界で非常に評価が高い。
実際王太子妃に成った伯爵家のフリーデリッヒはレイチェルと比較されることが多く、人当たりは良いものの外交成績も中位であれば、見た目もセンスも社交界の華……とは程遠い。
抜きん出て色々なことに秀でていたレイチェルはこれまでずっと社交界の中心であったのは間違いない。
だからマリアナも複雑な気持ちを抱えてはいる。
だが、これはこれ、それはそれ。
(レイチェル様みたいに皇子に見初められるほど華やかではない自分が逆立ちをしても意味がない)
マリアナは割と現実的だった。
だから自分の好きにしてみようと思い立ったのだと語ればベロニカは『あーーーまぁ、それも良いかもしれないわよね』と微笑った。
「だって、ヴァレンタイン様にマリアナは勿体無かったと思っていたし」
と予想外の意見を言われる。
「え?私が勿体無い?」
逆じゃないの?とマリアナが目を見開くとベロニカはフフフと笑う。
「生まれの爵位だってマリアナは悪くないし、事務官の中でもエリートじゃない?まあ、王女殿下とお輿入れのお供は出来なかったけれど、あのチームは特殊な事情があったしね。
元々美人だし、頭の良さは勿論、プライベートに乱れたところも一切無い。ハッキリ言ってスーパー優等生だわ。そんな貴女に役職なしで子爵家出身の一騎士。しかも遊び人よ?顔は良いかもしれないけれど、男なんて十年経てば劣化するわ。それならほら、第三隊の事務官の21歳眼鏡くんの方がよっぽど良いわよ。彼とかあなたの婚約で結構ガッカリしていたしね」
「え!!そうなの!?ホワイティ事務官が!?」
「マリーは鈍感ね。第二のロッティ副隊長もウォード指導官も皆貴女のこと悪くないって思ってたわよ?
私だって飲み会に何度も誘ったじゃない。忘れちゃった?」
ベロニカが一時期『食事会をしよう!異業種交流会よ!!』と言っていたのはマリアナに男性を繋ぐためだったのか……と今更ながらビックリする。
「まあ、まだ気持ちの整理はつかないでしょうけれど、思ったより凹んでなかったのは良いことね。私も旦那様に聞いてみるからこれからは楽しく婚活したら良いわ。王宮の中じゃマリーは若手なんだし」
マリアナは驚いた………
だが、そうか。ヴァレンタインは31歳と年上であったから、マリアナはそれに合わせて色々背伸びして振る舞っていた。
よく考えれば自分はまだ22歳で特に行き遅れと言われる年齢まではもう少し猶予もある。
それに王宮の人間は総じて結婚が少し遅いのだ。
「そうね……私ったらなんだか恥ずかしいくらいに視野が狭かったかもしれないわ」
そう言うとベロニカもキャハハと笑った。
「ヴァレンタイン様の昔の元カノなんて全員30歳くらいじゃない?意地悪なおばさん達にチクチクやられて可哀想って思ってたもの。大丈夫よ、マリーはお利口さんだし誠実なんだからいい人が現れるわ」
(ベロニカったら別れる前提で話してる……)と思わず吹き出した。
ヴァレンタインはモテる男であったが、それに自分が合わせる必要はなかったんじゃないかとマリアナは改めて思った。
帰り際騎士団長がマリアナを呼び止めたため、仕方なく団長には夜会のことは相談した。昨日ヴァレンタインがマリアナを探してワタワタとしていたから団長も気にかけていたのだ。
「まさか……レイチェル嬢とヴァレンタインがなぁ……」
と厳しい表情になり団長は不機嫌になる。
「こんなことになるなんて思ってもいませんでした。
でも、ここ最近ヴァレンタイン様がそわそわしているのはわかっていましたから、何かあると思っていたんです」
「すまないな、あまり役に立てそうになくて。俺は恋愛ごとに疎いからなあ……」
ボリボリと頭を掻く騎士団長が可愛らしく見えマリアナは微笑んだ。
「この職場に来てよかったです。団長が私の味方をしてくれるだけでとてもうれしいですもの」
50歳に差し掛かるイケオジに素直に礼を言うとマリアナは寮へと帰った。
その日心配していたヴァレンタインの襲撃は無かった。
(レオン様がきっと諭してくださったのでしょうね)
まだ彼と一対一で話す勇気は持てない。
それくらいには婚約した彼を愛しているのだとマリアナは自覚している。
あの甘い垂れ目で見つめられて「お願い、許してくれ。事情があったんだ」
と言われたら、今までのように自分が汚水を無理矢理飲み込んだだろう。
だが、それはもう懲り懲りなのである。
皆事情があるのだ。
「主張した人の事情だけが通るのは違うと思うわ」
いつか正面きってこの言葉を相手に投げかけたいと思うマリアナであった。
──────────────
数時間前。
ヴァレンタインは団長とマリアナの話を思わず立ち聞きしてしまう。
執務室に押しかけたのは
(マリアナと二人で会うのは無理でも団長を挟んで話せば!)
と考えたからだ。だが、そこでの会話を聞いてヴァレンタインは自分が思っているより事態が重たい方向へ向かっているのだと自覚した。
朝、マリアナを見かけたヴァレンタインの心は躍った。
(なんだ……俺の為に着飾ってくれてるじゃないか……レイチェルに対抗して、俺を振り向かせるつもりだったのか)
遠目で見つけたマリアナは可愛らしいワンピースとジャケットを身に纏っており、まるでデートの服装だった。
(ちょっと高級なレストランでも連れて行けば機嫌を直すだろう)
なんとも都合の良い解釈をし、マリアナを褒め称えるシミュレーションまで脳内で行った。
だがいつまで待ってもマリアナは騎士団員達が屯する場所に現れない。いや、ヴァレンタインの前に現れない。
濃い金髪は柔らかく波打ち、サイドを綺麗に編み込んだ髪型はマリアナを年相応に見せた。
22歳らしからぬ落ち着きと、まとめ髪でマリアナをいつも年齢以上に扱ってきたが、今日は可愛らしく若々しいマリアナに不覚にもときめいた。
昼を過ぎても夕刻になってもマリアナは執務室や事務管理棟を往復するだけだ。
すれ違う壮年の男性に
「今日のワンピースはとても似合っているよ」
と話しかけられているのを見て急に腹が立った。
(俺を焦らしてるのか?)
夕刻の鐘が鳴り響くとマリアナを探して騎士団長の執務室に向かった。マリアナはいつもなら各部隊書類を回収して最後に執務室へ戻るからだ。
レオンのアドバイスなどその瞬間は全く頭から抜け落ちており、兎に角マリアナと話したかった。
「夜会でレイチェル様と抱き合っているのを見て目が覚めたんです」
マリアナの声が聞こえて思わずヴァレンタインはノックしようと上げた左手を止めた。
「私はヴァレンタイン様がお付き合いしていた以前の女性達から随分辛辣なことを言われたのに、彼は婚約した後は全くフォローをしてくれなくて……寧ろ上手くやれと責められました。10歳近く年上の彼のお付き合いしていた女性は皆大人で言葉もかなりキツくて。あの時から私は疲れ始めていたのかもしれません」
すると騎士団長が大きくため息を吐いた気配がした。
「まぁ、アイツは昔から女にだらしなかった。そのツケをマリアナが払う必要は無いわな」
「彼の愛が信じられている時までは頑張れたんです。でもレイチェル様を抱きしめて優しい言葉を掛けているのを見たら流石にもう無理になっちゃって」
「幼馴染らしいからな。距離は近かったかもしれんが、恋愛とはまた違うかも知れないぞ?」
団長が僅かながらヴァレンタインの肩を持った。だが、マリアナはスッパリとそれを否定する。
「じゃあ団長の奥様が第二の副騎士団長と抱き合っていても平気でらっしゃる?」
「そんな馬鹿な話許せんだろ!あ!」
騎士団長夫人は第二の副騎士団長と幼馴染で、デビュタントは彼にエスコートしてもらったのは有名な話だ。
騎士団長は言われた言葉を想像して一瞬で顔を赤らめた。
「まぁ……気持ちがある分心中穏やかに……は無理ですよね。私も無理でした。なので今後のことも考えて距離をおいて冷静になろうと思います。このまま結婚しても幸せになれると思えません」
『幸せになれると思えません』その言葉にヴァレンタインは愕然とした。
ヴァレンタインは真面目で大人しめではあるがマリアナを可愛いと思って口説き落とした。王女付きの女官たちは見た目も良い。
マリアナも例に漏れずスタイルも良く綺麗な顔立ちであった。
甘い顔立ちのヴァレンタインが一生懸命口説いても中々「うん」と言ってくれないガードの堅さも今までの女達と違い、とても好感が持てた。
自分がモテていたから、マリアナに意地の悪いことをする女性がいたのも知っている。
だが、マリアナを[選んであげた]のだから、そんなことで挫けないで欲しいと思って励ました。
それを……
「あんな風に考えていたなんて知らなかった」
小さな囁きが思わず口から飛び出たが、執務室の二人には聞こえなかったようだ。
いつの間にか二人はお疲れ様でした、と挨拶を交わしてマリアナは退室しようとしていた。
ヴァレンタインは咄嗟に柱の陰に隠れてそれをやり過ごす。
とてもじゃないが「許してくれ!」という懇願はできなかった。