10 決着の日とその後
マリアナがやっと決心がつきました。
もー!ハッキリさせてよ!と思っていた優しい読者様お待たせいたしました。
久しぶりのブラックホルム家は葬儀でもあったのかと思うほど静まり返っていた。
(今日の約束だったわよね?)
マリアナはあまりに静かな雰囲気に思わず足がすくむ。
だが玄関に近付けばドアが大きく開かれた。
「ようこそいらっしゃいました」
よく知る家令のジェフが恭しく頭を下げる。
心なしか少々歳をとったように見えるがまだ三ヶ月も経っていない。
「奥様達は応接間にてお待ちです。今日はレオン様はお立ち合いになるとのこと。シャロン様とお子様達は植物園へと出かけられているのです」
そうか、子供の気配がなくて静かな気がしたのかとマリアナは納得した。このような話し合いになった時、レオンの子供達が何かを感じ取ってしまっては気の毒だから遠ざけているのかも知れない。
マリアナは一人でブラックホルム家を訪れたことを僅かばかり後悔した。
いつもならばレオンの妻、シャロンが家にいてくれるのでどことなく心強いが、まさか子供が邪魔になってはと気を利かせて連れ出しているとは夢にも思わなかったのだ。
勝手知ったる屋敷であったが二ヶ月以上の期間を経るとどことなく他人の家のように感じてしまう。
時間を設けるとはこういう感情にもなるのだな……と屋敷の廊下を眺めると客室に向かう花瓶にフリージアの花が生けてある。
マリアナの好きな花だ。
家政を取り仕切るヤスミンは気の利く性格であるからマリアナに精一杯の気持ちを伝えているような気になった。
応接室に通されるとマリアナは三人とガッチリ視線が合った。
ブラックホルム家はどちらかというと明るい夫人の性格上、いつも談笑の絶えない賑やかな家である。それが三人揃って蒼白な顔をしており、まるで死刑宣告を待つ囚人のように見えた。
「お久しぶりでございます皆様」
マリアナは深々と頭を下げた。カーテシーをするよりも、間を空けてしまってこの家の住人達が考え込んでしまう時間を作ったことがどことなく申し訳ない。あの事件が起こらない限り、笑顔を向けていた人々だ。それほどに三人の様子は沈んでいた。申し訳なく思う必要なんて本当は無いはずなのにと思うがヤスミンの窶れた目元を見ると自分を思わず責めてしまう。
席に着くと温かな紅茶が運ばれマリアナは遠慮なく口をつける。
会話が始まらぬままにしばらく四人はカップを握りしめていた。
レオンが最初に口を開いた。
「ご両親が一緒に来られなかったということは婚約の解消を思いとどまってくれたということだろうか?」
そう言い終わった瞬間、ヴァレンタインがソファから転がるように床に膝を突いた。
「すまなかった。本当に俺が悪かった‼︎だから頼む。俺を捨てないでくれ」
その姿にマリアナは思わず目を見開いた。謝ることをしなかった男が土下座するなんて信じられなかった。
「マリアナさん本当にごめんなさい。私もバカだったの。ことを軽んじてしまって自分が同じ目に遭ったら絶対に許せないことを簡単に捉えてしまって。この通りよ。どうか私たちにチャンスをくれない?」
ヤスミンは丁寧にマリアナに謝罪してくれた。
義母になろうかというこの女性からまで謝られるなんて……とマリアナは益々驚く。
マリアナは改めて思った。
(私はブラックホルムの家の方達が好きだったんだわ)
姉が結婚してから、実家で疎外感を感じながら生きてきた。
両親共に姉が居れば十分なのだろうと思うと気持ちが沈んで、家に寄り付かなくなってしまったが、今回の件で家族はちゃんと心配してくれていた。
マリアナは自分の偏った考えで家族から距離をとっていたのかも知れないと最近は反省している。
ブラックホルム子爵家はマリアナに本当に優しかった。
だから言い出すのが辛くなった。
「すみません。ヴァレンタイン様と二人で話す時間をいただけませんか?」
マリアナはレイチェル嬢のことをちゃんと聞かなければ心の区切りがつかないと思っていた。聞く勇気が湧くまでに二ヶ月もかかってしまったと自嘲する。
レオンの促しにより母親と当主は静かに席を立つ。二人に深々と会釈するとマリアナは姿勢を正した。
そして久しぶりにヴァレンタインを正面から見つめた。
整った顔立ちに手の甲に残る刀傷。鍛え上げているから肩幅はあり、シャツを着た時の胸板がマリアナは色気があって本当に好きだった。金髪は今は短くなって刈り込まれており、前よりも精悍な印象である。
「時間をもらってごめんなさい。気持ちの整理がつかなかったから」
マリアナが伏し目がちに頭を下げるとヴァレンタインは申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「謝らせてくれ。俺が悪かったんだ」
今まで年下のマリアナにこのような態度をとったことはなかった。
だからこの変わりように本当にマリアナは慣れずに混乱してしまう。
「レイチェル様とずっと隠れてお会いになっていらしたんでしょう?」
マリアナは困ったように微笑んだ。
友人のベロニカはこの二ヶ月間で随分と沢山の情報を仕入れてくれた。親友の相手に対しここまで苛烈に怒る人間もいるのかと呆気にとられるほどの、行動力を見せてくれたのである。
ヴァル様ったらレイチェル嬢と食事に行っていたみたい、や、宝飾店でプレゼントを購入したようよ、などとどこからかその話を聞いては裏付けをとっていった。
彼女の仕事は事務官ではなく《諜報員》?と疑いたくなるほどの勢いである。
その結果ヴァレンタインは仕事の合間や、休日マリアナと会う前にレイチェル嬢を慰めにいったり、励ましたりの会を二人で開いていたことがわかった。
あくまでエリエファイス公爵家の視点であるが。
ヴァレンタインはしばし沈黙した後に
「あぁ。隠していたつもりはなかったんだがすまなかった」と僅かに唇を噛んだ。
マリアナはやっぱりね……と聞こえない程度の声で囁くと大きく息を吐き出した。
親友ベロニカはこれらの情報を手に入れた時大きくため息を吐いたものだ。
『マリアナ、大切なマリー。落ち着いて聞いてね。こんなこと言いたく無いけれどレイチェル様は『相談』することで男性を意のままに操る手管を持っていらっしゃる女性なのよ』と。
ベロニカ曰く、他人のものが欲しくなる癖の悪い人間が一定数いるという。夜会にも時々現れる、既婚者を狙って夢中にさせてからポイ捨てする最悪なパターンの女性や男性。
おそらくレイチェル・エリエファイス公爵令嬢もその部類に入るかも知れないとベロニカは分析した。
元々が高位の貴族家であるし激しい男女の遊びは御法度だ。けれど本当に手に入れるつもりはなくても、人が大切にしているものを一度は味見してみたくなる悪い性癖を持つ人間はいる。こういう女性はよく『相談させて欲しい』『貴方にだから話せるの』『こっそり二人で会えないかしら?』と秘密裏にことを運ぶのだそう。
男性は綺麗な彼女から『貴方だけ』という特別感を煽られ舞い上がってしまい、大したことをしているわけでも無いのに、非日常の感覚に陥り、中毒のように婚約者や妻を裏切ってしまうのだそうだ。
一度手にすると興味を失うので相手が本気になったりする前にサッと踵を返すのが彼らなりのルールらしいが、レイチェル嬢は自分が異国に渡ることが分かっていたので、最後に手近なところで楽しんだのだろう……という。
『これは私の推測なのよ。あくまでも推測。けれど彼女が今まであのように夜会に出席していたのにも拘らず、結婚しなかったのはそういう《遊び》をされていたからかも知れないわ』多分〇〇様と〇〇様も被害者なのよね……と掠れるような声で囁いた。
マリアナは愕然とした。
そんな彼女の他愛も無い《遊び》で自分たちはこんなに苦しんだのかと思うと頭の中が煮えたぎりそうなほど怒りに満ちた。
ベロニカは冷静であった。
『ヴァル様ももしかしたら被害者なのかも知れないわ。だけどそれを理由に許すのも違う気がするけれど……ごめん。わからない。マリアナが今の話を聞いて決めて欲しいと思ったの』
ベロニカの表情は心配でしょうがないと書いてある。それに僅かに涙腺が緩んでいる。
(私は友達に恵まれているわね)
マリアナはベロニカの熱いアドバイスに素直にお礼を言った。
そして今日。ヴァレンタインの顔を見てマリアナの気持ちは決まった。
「ヴィー。ヴァレンタイン様……婚約を解消しましょう。こんな風に頭を下げる貴方じゃないのに、そうさせているのも私は嫌なんです」
ヴァレンタインは大きく目を見開いた。
「貴方とレイチェル様に私は裏切られたという記憶はどうやっても消えそうにないんです。本当に仲の良い幼馴染として慰めていらっしゃっただけかも知れませんね。でもやっぱり婚前の男女が抱きしめ合っているのは私は納得がいかなくて……そして黙ってお二人で会っていらしたことも一生納得できそうにないんです」
マリアナの頬にいつの間にか温かいものがホロリと落ちた。
「私はヴァルが好きでした。ヤンチャで強気で引っ張ってくれる性格も全て好きだった。私が落ち込んで辛い時に声をかけてくれてから、ずっと貴方に手を引かれて引き上げてもらっていたと思っています。でもこんな気持ちで結婚は出来ない。今は萎れている貴方が、少しでも以前と変わらない態度になったら……きっとまたこの日のことを思い出して不安になってしまうから。だからそんな苦しい結婚生活は送れないって気がついたんです」
「もうしない!本当だよ!信じてくれ」
ヴァレンタインも目に涙が浮かんでいる。だがマリアナは自分のハンカチで彼の頬を拭った。
「信頼って難しいですよね。私は貴方との思い出でどうにか乗り越えたいって二ヶ月間踠きました。でもどうしてもダメみたい。レイチェル嬢の幸せを祈ったように、私の幸せもどうか祈っていて。次に貴方が愛する方には苦しい思いをさせないであげてね」
ヴァレンタインが嫌だ嫌だと首を振っていたがマリアナはそのまま立ち上がった。
「家族が後の書類関係などはしてくれるそうです。ここに来るのは最後ですが皆様によろしくお伝えください」
「マリーーー!」
マリアナはそのまま玄関に向かいブラックホルム家を後にした。
涙が止まらずハンカチは色が変わるほど濡れていたがマリアナは足を止めることはしなかった。
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「ノビーパークさん、この書類はこちらの形式でサインを貰って頂かないといけないものですよ?今回は申し訳ないですが書き直しです。一体どうしちゃったんですか?」
第三隊の事務官オースティン・ホワイティは苦笑いしながら書類を持ってきてくれた。
眼鏡の弦を押さえながら『コラッ』と怒ったふりをするホワイティ事務官はマリアナよりも二つ年下であったはずだが最近はこのように書類ミスをさりげなくカバーしてくれる。
思わず赤面しながら『本当にごめんなさい』と蚊の鳴くような声で謝るとオースティンは
「仕方ないですね」とマリアナの肩をポンポンと叩いた。
マリアナは昨日の休日に婚約解消の書類が全て整い、それなりの金額が慰謝料として渡されたばかりだ。
慰謝料まで考えの及ばなかったマリアナであったがノビーパーク伯爵(義兄)は当然のようにその金額を受け取って帰宅した。
マリアナの動揺を他所にノビーパーク伯爵夫妻は『これで貴女の次の相手に相応しい結婚式を豪華にしたらいいわ』と強気な発言をした。ヴァレンタインの有責で婚約解消である。
破棄にしなかったのはお互いの事情も鑑みてだ。
貴族の婚約は面倒な一面がある。どんなに事情が知れていても破棄になると『気の強い女性』だと思われ、次の縁談が舞い込まなくなる。その上ヴァレンタインのお相手レイチェルは皇国皇子の妃。表立って噂になってはいないがエリエファイス公爵にまで被害が及んでしまうと高位貴族の人脈でどんな報復があるかわからない。
マリアナはヴァレンタインとの別れを決心してからどうしても仕事に身が入らず、今日のようなミスを連発していた。
「よかったら、気晴らしに食事でもいきませんか?僕奢りますよ」
オースティンが心配そうにマリアナの顔を覗き込んだ。
「え?そんな。いいわよ」
「あんまり食事も摂ってないんでしょう?少し痩せられました?ベロニカさん心配していましたよ」
そう言われるとマリアナはハッとなる。
自分が相談した親友までこの姿を見て心配をしてくれているのだと思い至った。
「そうなの……ごめんなさい。何となくボーッとしちゃう時があって。しっかりしなきゃなのに」
「仕方ないですよ。人生の一大事があったんですから。僕が元気が出るように美味しいお店予約します!マリアナさん魚介類が好きだって聞きましたよ。今夜と明日だったらどっちがいいですか?」
「え?今夜?」
「明日のほうが準備できます?」
「あ、えっと、じゃあ明日でいいかしら?」
オースティンは気軽な感じで笑顔を浮かべた。
「たまには気分転換が必要ですよ。いつもと違う人間と食事して会話すると悩みも軽くなるかも知れないですよ」
こうしてオースティンがとんとん拍子で食事を段取り、マリアナは翌日初めてオースティンと食事をする運びとなった。
翌日。
「ホワイティさん……この店すごく高いお店じゃない?」
マリアナは馬車の停まった門構えに思わず口をパクパクとさせた。
仕事終わりに馬車に乗せられ、着いた先は郊外にある『フルールロカス』。貴族たちでも正装して訪れるような店だ。
仕事着にほんの少しだけお洒落したマリアナは思わず自分のワンピースを見下ろした。
「これで入店して大丈夫かしら?」
思わず冷や汗がたらりと落ちそうになるがオースティンは平気な顔をして
「僕も仕事着のまま来ること多いですよ。個室を頼みましたから平気です」
と無邪気な笑顔を見せた。
「ホワイティ様お待ちしておりました」
丁寧に髪を撫でつけた男性が奥まった二階の部屋へと案内してくれる。オースティンの顔を見ただけで彼はわかっていたようなのでどうやら常連らしい。
二人が通された部屋は決して広くはないがベージュを基調とした上品さが窺える一室。重厚な造りは思わずため息が出るほど素敵であった。
「素敵……」
贅を凝らしたテーブルクロスにマホガニーの椅子。
銀食器は美しく磨かれ壁際の彫像は部屋を圧迫することなく品よく鎮座している。
調和の取れた美しさに王宮で目の肥えているマリアナも唸ってしまうほどだ。
「気に入ってくれたみたいで良かったです。今日はヒラメを用意してもらいました」
「本当に!?嬉しい!私、大好きなのよ」
「僕は運がいいですね。ノビーパークさんの好物と僕の好物が被るなんて」
オースティンはニコッと歯を見せはにかんで見せた。
「女性と来たことが無いので、ちょっと不安でしたが喜んでもらえてホッとしました」
「あら!そんなことないでしょう?」
「本当ですよ、僕は学院時代は根暗な人間でしたし家族としかこの店は利用したことないので」
マリアナはオースティンの照れ笑いを見て久しぶりにリラックスした笑顔を見せた。
「ホワイティさんは婚約者はいらっしゃらないの?私今更だけどお相手の方に失礼じゃなくって?」
マリアナが慌ててしまった。高級店の常連など高位の爵位持ちな家柄に決まっている。オースティンに婚約者がいる可能性に思い至って慌ててしまう。
ハハハとオースティンは笑うと眉尻を下げた。
「オースティンって呼んでください。僕は三男ですから兄たちのように婚約者はいないんです。我が家は子沢山で姉も含めると上に五人いるんですよ。だから僕は基本放ったらかしで」と頭をポリポリと掻いた。
「そんな!でも我が家も家を継ぐ姉が婚約者を決めた後家族から催促もなかったからお気持ちは理解できるわ」
マリアナは僅かばかりオースティンの心情を理解してしまう。
家族は蔑ろにするつもりはなくても、手が掛からない子供はついつい後回しをしてしまうものだ。
「僕たち意外と共通点が多そうですね」
ワインとサラダ、スープが運ばれてくるとオースティンは眼鏡を外した。
マリアナは思わずグラスを取り落としそうになった。
眼鏡を外したオースティンが驚くほど鼻筋が通った美しい顔をしていたからだ。
太い野暮ったいフレームのメガネの奥に想像もつかない整った顔立ちが隠れているなんて露ほども思っていなかったマリアナは正直に『え!?』と声を上げた。
「どうしました?」
「オースティン君ってびっくりするほど綺麗なお顔なのね。知らなかったわ」
失礼を承知でマリアナは手放しでほめた。後輩事務官の彼とは職場の顔見知り程度であったがこれでデートひとつしたことないなんてもったいない事だとツイツイお節介を口にする。
オースティンは笑って答えた。
「子供の時は女顔だって揶揄われていい思い出はないんですよ。それに姉たちが僕にドレスなんて着せちゃうから小さな時は本当に混乱しちゃって」
「まぁ!楽しいご家族なのね。でもきっと本当にオースティン君は可愛かったでしょうね」
「そうですね。子供の時限定であれば可愛かったと思いますよ。もーマリアナさん笑いすぎです」
マリアナは久しぶりに声を上げて笑ってしまった。
オースティンの砕けた雰囲気と、嫌味のない物腰でまるでちょっとした女子会のように感じる。
彼はお勧め上手で、ワインにも詳しい。聞いてみればお酒そのものが顔に似合わず好きなのだと言う。
「意外だわ。実は私もお酒が好きなの。結構飲めるんだけど以前は監視の目が厳しくって」
苦笑いをするとオースティンは楽しそうに同意した。
「正直お酒を勧めてくれないお相手だと食事もつまらなくなりません?」
「言われてみれば」
「だって、こういうお店だってワインを美味しく飲むために食事のメニューを考えているんです。魅力が半減しちゃいますよ」
「まさにその通りね」
「こんな素敵なヒラメ料理にこのワインを飲まないなんて人生の損失です」
そう言うとグラス一杯分をクイッと軽く飲み干した。
「強いのね〜」
「男子校で鍛えられましたしね」
「まあ!悪い子ね」
アハハハ、フフフフとお互い笑い合うと二人はボトルをもう一本注文した。
「今日は良かったわ。誘ってくれて本当にありがとう」
マリアナが言うとオースティンは満面の笑みを浮かべた。
「僕だって美人な先輩とお酒を酌み交わすことができてとっても嬉しいです」
そう言うと二人は職場の騎士や団長たちの話題をし始め閉店近くまで盛り上がったのだった。
オースティン君を思い出してくださったら嬉しいです。
モブかと思いきや急に出てきた眼鏡男子。