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2.弟の部屋

 Tさんという女性からの話である。


 夏の終わりかけのある日のこと。彼女は弟が一人暮らしをしているアパートに来てくれと言われた。

 子どもの頃はそれなりに仲がよい姉弟だった。

 気が弱くていじめられることもあった弟を、気が強い方であるTさんが守っていたこともあった。

 お互い社会人になってからは会う回数自体が減っていた。そのため、弟の方から家に来てほしいと言われたのはTさんにとっては少し嬉しく思われた。

 しかしその少し浮かれた気持ちも、彼の部屋まで来てみると一変する。

 アパートの部屋のインターホンを押し、弟が応答する。


「あたし、来たけど」


「ありがとう」


 弟に鍵を開けてもらい、Tさんは中に入った。

 気になることとして、異様な臭いがした。

 生臭いのとも少し違う、酸味を感じる臭いだった。シャツにお酢をかけて夏場に1日放置するとこのような臭いになるのではないかと、Tさんは一瞬で思った。


「実は、困ってることがあるんだよ」


 靴を脱ぐ途中のTさんに、弟が話しかけてくる。

 なぜか、靴をうまく脱げない。足元がふらつく。壁に手を当てて体を支えながら、Tさんは靴を脱いだ。


「何? 部屋が片付けられなくて困ってるとか?」


 臭いから連想してTさんは言う。いわゆる汚部屋状態になっていることを危惧した。


「いや、そういうわけでは」


 弟の言うとおりではあった。

 玄関から入るとまず台所があるが、特に床にゴミが散乱しているわけでもない。入ったときに感じた臭いはまだあるものの、徐々に鼻が慣れてきた。ただ、頭がふらふらとする。平衡感覚がおかしいのか、あるいは臭いの元凶は何かのガスなのか。


「こっちなんだ」


 促された方へ行く。閉まっているドアを弟が開ける。

 昼間だがカーテンが閉められていた。ドアを開けて入ってきた明かりによってわかったが、そこは寝室であった。ベッドが見える。

 弟が部屋の電気を付けた。


「これだよ」


 いたのは、セミのような巨大な虫だった。

 人間でいうと中学生ほどの大きさの虫が1匹、寝室の壁に張り付いている。


「ひっ」


 驚き、逃げ出そうとするTさん。


「姉ちゃん、頼むよ、ちょっと手伝ってくれないか」


「無理、絶対無理」


 何を頼まれるか聞いていない段階ではあるが、Tさんはもう逃げ出したい気持ちを抑えきれない。弟が悲痛な表情で懇願するが、こんな状況の部屋にいられるわけもない。

 慌てて部屋から出ようとするが、バランスを崩して転んでしまった。


「えっ、ううっ」


 立ち上がれない。頭も痛くなってきた。

 まさか、このセミのような虫が有毒ガスを発しているのか。


「10日ほど前に、窓を開けてたらこいつが入ってきてさ」


 媚びたような笑みを浮かべながら弟が話し始める。


「それで、ずっと部屋から出て行かないんだよ。ほうきとか傘とかで殴ってみたんだけど、天井に張り付いたりしてさ、ダメだった」


 Tさんは床に這いつくばったままだ。虫の方を見る。

 不思議に思った。虫の腹が動いている。

 セミはお腹の筋肉を震わせ、空洞状の体にそれを共鳴させて鳴くのだと聞いたことがあった。

 では、このセミみたいな虫は鳴いているのか?


「姉ちゃん、俺、部屋を出て行こうかと思ってるんだけど」


 姉が倒れているのに弟は心配した様子もない。目の焦点が合わず、壁を見つめている。

 ここで1つの仮設がTさんの頭に浮かぶ。

 こいつの鳴き声は、人間の耳に聞こえる周波数ではないのではないか。そして、耳には聞こえないけれども聴力にダメージを与えて平衡感覚を奪っているのではないか。

 確かめる術はないし、そうしたくもなかった。

 Tさんは腹ばいのまま這いずって部屋から出る。

 弟も虫も追いかけてこない。両手で耳をふさぎ、力を振り絞って立ち上がる。


 一気に玄関まで行き、靴を手に持って部屋のドアを開けた。

 転がるように部屋から出た。

 ギイイイイイィッ!

 ドアを閉める直前、鳴き声なのか何なのか、凄まじい咆哮が聞こえた。


「何なの、何なのあれっ……!」


 Tさんは階段を駆け下りながら、弟の叫び声を聞いたような気がしていた。



 話には続きがある。その日はどう対処すべきか悩みながら誰にも相談できずに過ごしたTさんだったが、翌日に弟から連絡があったのだ。

 Tさんが逃げ出したあの日、弟は密かに付き合っていたらしい女性の家で過ごしていた。

 そして次の日に自分のアパートに戻ったら、窓ガラスこそ割られていたもののあのセミのような虫はいなくなっていた。


「いや、姉ちゃんに頼もうと思ったのは、あいつを捕まえたらどこかに高く売れるんじゃないかと思って手助けをね」


「彼女さんに頼めばいいでしょ」


 あっけらかんとした弟の物言いに少し腹が立ってきたTさんである。


「彼女にそんな危ないことはさせられないんだ。だから捕まえるのは諦めて、うるさいから部屋を出てた」


「……まあいいわ、あの虫みたいなのはどうしたんだろうね」


「夏も終わるから、寿命が来てどこかへ行ったんだろ。セミの寿命は10日から2週間ほどだから、そろそろ弱ってくる頃かと思って姉ちゃんを呼んだんだ」


「弱り切ってから呼んでほしかったよ」


 弟は弟でどこか変わっているところがあるなと思うTさんだったが、とにかく無事を喜んだという話だ。

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