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時代小説

食卓の凡人達

作者: 民間人。

「ほう、無花果、ですか……」


 誕生日席から艶やかな皮を持つ無花果越しに、主人は客人たちを眺める。

 主催者の隣席には桂冠を頂くお抱え詩人、名をペトラルカという。300年は前の桂冠詩人の名を借りた胡散臭い男で、常にすまし顔をしている。眼が悪いのに眼鏡もかけず、襞を重ねたトーガに身を包んでいる。


「聖書にございます禁断の果実、これは無花果だという説がございますが……」

「無花果の葉で局部を隠したからでしょう。柘榴だとか、林檎だとかも言われていますね」


 主催者は無花果の皮を優雅に剥くと、詩人の突き出た鼻先を艶やかな果実で覆い隠した。


「鼻先が突き出さないと良いがね」

「滅相もございません」


 主人は無花果を頬張る。口の中に広がる甘美な果汁が、男の乾いたのどを潤していく。

 ペトラルカの突き出た鼻の向こうには、行儀よく座る男の子が一人。カルロスという名のその子は、つい50年ほど前に崩御なされた、皇帝陛下の名前を借りて名付けたのだという。


「無花果といえば、アヴィケブロンのお話をご存じですか?」


  カルロス少年は突き出た顎を自慢げに傾けて語り掛ける。主人は無花果を摘まみ上げ、カルロス少年に手渡した。子供は無邪気にこれを剥き、手を果汁で汚しながら口の中に放り込む。咀嚼がうまく出来ないのか、噛み合いが悪いのか、果実を殆ど噛まずにそのまま飲み込んでしまった。


「あまりに甘美な無花果の実が実るというので、その根元を暴いてみると、アヴィケブロンの遺体があったそうです。なんでも、詩の才能に嫉妬されて、殺されてしまったとのことですよ」

「女性のオートマトンを連れていたそうですね。そいつを咎められたので、その場で解体して見せたとか」


 宴の主催者はペトラルカの付言に耳を傾けるふりをして、カルロスの酷い食べ方を、この詩人の鼻先で隠した。その様を目敏く見つけて、詩人の向かいに座る女がいじらしく笑う。


「ご主人様、まさしく無花果の葉で隠すようですね」

「冗談はよしなさい、アンリエット。お前の列席も許した覚えはないが……」

「まぁまぁ、そう言わずに、ご主人様。今日は楽しい日にしましょうよ」


 アンリエットは細い身をくねらせて主人を蠱惑する。公娼とは言え、恥じらいもないではない主催者は、アンリエットを視線から外そうと試みた。すると今度は子供の汚い食べっぷりが目に付く。彼は咳払いをして誤魔化し、シェフに声を掛ける。


「やい。喉は十分潤っただろう。ほかのものを出さんか」

「あら、あら、つまらないじゃありませんか。ほらちょうど、こいつのように刺激的に楽しみましょうよ」


 アンリエットは砂糖漬けのレモンをフォークで丁寧に掬い上げ、紅の乗った唇を持ち上げてみせる。詩人は滴る砂糖水が皿の上で輝く様を、まじまじと見つめて呟いた。


「ほう、シトロンですか。この場で語って良いのならば、ユダヤ人の仮庵祭のお話でも吟じますが」


 アンリエットが砂糖漬けのレモンを舌で弄びながら口に含む。下品なように見えて、それがまた主催者の心を捕らえるのであった。

 言葉が途切れたので、詩人は口を窄めて唇を湿らせ、しめやかな低音を良く響かせて語り始めた。


「これは聖書にある通り、エジプトを脱した人々が、主の導きに従って、荒野に天幕を敷いたのです。これに因んだスコットは、まずシトロンや、ナツメヤシの葉、カワヤナギの枝で庵を編んで、ここで犠牲を捧げるのです。

 見事な牛や美味な豚を、くべて脱出を記念する。主の偉大な御慈悲のために、我らを導き救い上げて下さった、これを記念するためにです」


 詩人が語り終えるころ、主人に催促されたシェフが、次の料理を運んできた。アンリエットはレモンの砂糖漬けを食べ終えると、この色とりどりの料理にいたく興奮し、ぎらぎらと目を輝かせた。


「もうお肉なのね?」

「臓物だな。ご苦労」


 主人が労いの言葉をかけて、フォークを取る。この銀色の肢体は実に豪華で、一つ二つの細工がついている。この見事なフォークの上に、たっぷりとソースの絡んだ臓物が乗ると、銀色を伝って広がるソースが、又の間に流れて色を満たしていく。主人は嬉しそうにこれを口に運ぶ。程よい苦みと甘みの強いソースが口の中に広がった。彼が咀嚼に抗いながら解ける臓物の弾力を楽しんでいるうちに、カルロスは絡みつく筋の屈強さに耐え兼ねて、これをナフキンの中に吐き出してしまう。


「子供にはまだ早かったかな」

 主催者のからかう声に、少年は不貞腐れた様子でフォークを置く。右下に揃えられたフォークを見て、ますます主人は楽しそうに笑った。


「うまく歯が噛み合わぬのでしょう。先程も殆ど丸飲みでしたからね」


 詩人はすまし顔で答える。少年は満杯の皿を前にしてそっぽを向き、拗ねていたものの、今度は何かを思いついて意地悪な笑顔を主催者へ向けた。


「そうそう、僕がフィレンツェに視察に行った時のことを話しましょう。きっとお気に召すはずですよ」


「あら、楽しそう。いつ行ったのかしら?」


 楽し気に身を乗り出す顎先に興味をそそられたアンリエッタが身を乗り出す。少年は、不揃いの歯を剥き出しにして、高い鷲鼻を鳴らした。


「この前のカーニバルの時ですよ。禁欲日目前の浮かれた時期です。みんな仮装をしたり、お肉をたらふく食べたり、隣人と踊りまわったりして楽しんでいました」


 少年は一度言葉を区切ると、何の気なしに臓物を咀嚼する主催者に、意地悪な笑みを向ける。喉につまらないようにしっかりと咀嚼する男は、首を傾げて少年の話を聞いている。


「そう、皆浮かれていました。そんな時、画家工房の職人たちが、こぞって店から出ていく様を目にしたのです。謝肉祭の熱気に浮かされていた僕は、催し物と見て彼らについていったのですが……。怪しげな建物の、薄暗い室内まで降りていくのです。降りた先には松明やら蝋燭やらがあって、ぼんやりと室内を照らしているのです。僕は体が小さいですから、身を捩って集団の奥へ奥へと入っていきました。写生をする人の波を抜け、中心部に身を乗り出すと、裸で寝かされた罪人が一人と、それに医者が複数人。何をするかと思えば、処刑された罪人の腹を切って、中から色々な臓器を画家連中に晒すのです。僕はびっくり仰天。だってそうでしょう?そんなの神様がお怒りになると思います。やはり気分が悪くなり、途中気を失い運ばれていく人もいました。でも結局、入っていく時と同じように出ていくことが出来ず、僕は並べられていく臓物などが全部取り出されるのを、怖いの半分、興味深いの半分で見せられることとなりました」


 ここまで一気に語った少年が主人を見やると、顔を青ざめてフォークを置いた。したり顔の少年は、ナフキンで口を拭うふりをする主人が、口の中のものを包んで捨てるのを見逃さなかった。


「あれ、大人にはまだ早かったですかね?」


「次の料理だ、あと口直しにパンも頼む」


 主人は不機嫌な様子で乱暴にこう言い放つと、少年に怒りを隠さぬ表情を向けて「楽しい話を有難う」と言った。この時突き出した顎が楽しそうに下に向くのを、主人は憎々し気に見おろしていた。


 蝋燭の火を灯すには少し早く、また消したままではまだ仄暗い頃、夕刻を告げる教会の鐘が甲高く鳴り響く。包んだナフキンをシェフたちに渡した少年と主人は、寂し気な高い音色が空を包む音で心を和ませていた。音が途切れると、今度はペトラルカが憎々し気に顔を歪ませて語り始めた。


「時計というやつをご存じだと思います。昔は太陽が影を伸ばす傾きを頼りに時間を計測し、そのうち水やら砂やら、流れるものとか、蝋燭やら火縄やら、焦げ落ちるもので時間を刻みました。時計が正確に時を刻むことで、祈りの時間を正確に示そうとするために、ニュルンベルクで生まれたゼンマイバネを用いた時計や、重石の落ちる速度で時を刻む時計が開発されました。敬虔な目的のこれらの時計ですが、薄汚い小銭拾い共は、これで労働時間を長くしようと企んだのです。つまり、日の長い夏と同じ時間に時計が指し示す時間を、日の短い冬にも適応してやろうという企みです。おかげで市井の労働者たちは、日の暮れた後も、冬には余分に働かされるようになったのです」


「まぁ、大変ですこと」


 アンリエッタは大仰に口を覆い、目を見開いて驚いてみせる。反応の薄い残りの二人は、運ばれてきたパンを一つずつ手に取った。


「時計ねぇ。古都テーベにあった日時計なども私は存じているよ。確かオベリスクと言って、神殿にあったのかな。えらく大きな柱でね、それは見事だよ」


 主人が手を縦に伸ばして、これを柱に似せている。この背の高い男を持て囃すために、ヘンリエッタは手を叩いて喜んだ。


「テーベに因んで言えば、発酵させたパンというのは昔の給金だったそうですねほら、三角の何とかという建物も、きっとパンを対価に作られたんですわ」

「ピラミッドのことかね、中々どうして面白いじゃないか。私も大聖堂を建てる時はパンを対価にしてやろうかな」


 主人が悪い笑みを浮かべて言う様に、ペトラルカは顔を歪ませる。その間、カルロス少年は柔いパンを水で湿らせて、口に運んでいた。

 この少年の所作を見て、意地悪な主催者は厭味ったらしく言う。


「ああ、そうか。黒パンを用意すればよかったかな?」

「殿下、あまりに大人げないですよ」


 パンで口直しをした一行のもとに、魚の塩漬けが運び込まれる。内陸に位置するこの都市では、魚は中々に貴重なものであった。


「さぁ、気を取り直して食べよう。こいつは珍しい魚だよ。君たちは生の奴を見たことがあるかな?」


 主催者があまりに鼻高々に言うので、参加者たちは破顔してひとしきり笑った。物珍しい物品を自慢したがるのは貴人の性とは言え、これはあまりにも滑稽に思われた。


「川面から泡が浮く様をご存じないのですか?ああいや、確かに珍しい光景ですかね」


「魚は鮮度が命ですからな。ですから、昔の魚屋は鮮度を誤魔化す術を用いていたのだそうです」


 ペトラルカがすかさずフォローを入れる。とはいえ、綻んだ口角が容易に戻るわけではなく、主催者は裏切り者を睨みつけて言う。


「そうか。では話してみせろ」


 一つ咳払いをしたのち、詩人は自慢の心地よい低音で語り起こす。


「それでは。かつて衣服が襞を持つ、長い一枚布だった時代、人々は海に面した島々に、こぞって暮らしていたのです。この頃、水揚げされた魚や蛸などが市場に並べられ、また食卓を彩っていたのです」


「まぁ、蛸を食べていたの?」


「えぇ、そのようですよ。可愛らしいとさえ思われていたそうな。市場にはルールがありましてね、水揚げして市場に持ち込んだ魚には、水を掛けてはいけないというのです。つまりは鮮度を偽ることは許さん、というわけですな。ところが、魚屋もよく考えるもので、人を雇い、魚屋の前で喧嘩をさせるのですね。そして、倒れた方に桶一杯の水をかけてやるのですが、この先にたまたま店頭の魚があるわけです」


「……あぁ、小狡い」

「そう、商人とは常々そう言うものです」


 詩人の語りを聞き、客人らは呆れながらもこの滑稽さを大層喜んだ。臓物は残されたが、魚の塩漬けは味付けも小狡い話と実に相性が良く、口当たりよく感じられた。脇に置いた葡萄酒も辛い味わいに大層合うので、喉の渇きを潤すためにと参加者のグラスが次々に空いていく。主催者はこれを苦にして、グラスを透き通ったもので満たすことを求めた。


「おい、シェフ。グラスが空になったぞ。冷たい水を持ってこい」

「おぉ、酒ではなく、水ですか」


「そうだとも。一度煮沸し蔵で冷やし、滑らかな口当たりにした水だ」

「連れないわねぇ」


 アンリエッタが自分の分の酒を注文すると、主催者はほくそ笑み、気障に振舞って語り掛ける。


「ああ麗しいマドモアゼルよ、どうして酒だけを善きものと心得るのですか。井戸から水を汲み取れる、これがどれ程有り難いことなのか。カルロス少年、語ってあげなさい」


「えぇ、僕ですか?いいですけれど。例えば海水は塩辛くて飲めたものじゃありませんよね。ですから都市に井戸を掘り、あるいは川から水を引くわけです」


「そうね。そうしたら井戸から水を汲み、川から水を掬えばいいもの」


「ですが周囲が海ばかり、潟の上のヴェネツィアではそうはいかない。何せ四方八方海で、運河の水も塩っ辛いでしょうから。そこで、ヴェネツィア人、頑張って井戸を作ったんですよ」


「井戸を掘るのではなく?」


 アンリエッタが興味をそそられ身を乗り出す時、ちょうど一同のもとに冷えた水と、葡萄酒が配られた。


「まずは、穴を掘り、これを粘土で固めます。これで、海水が沁みてくるのを防ぐんですね。次に、器を中に入れ、これに砂を満たす。四隅に穴をあけます。最後に、器の中心に、底まで届く井戸を掘るのです」


「すると?」


「四隅の穴から落ちた雨水が、砂に浸み込んで、井戸の最深部へと浸み込んでいくのです。雨水は汚いですから、これを綺麗な飲み水にするために、砂で濾過できる井戸を作ったのです」


 少年の説明に満足した参加者たちは、皆感嘆の声を上げる。ペトラルカは補足のために、言葉を添えた。


「山の清流を思い出してごらんなさい。これは土に浸された雨水が、砂で濾過されて綺麗になったものなのですよ」

「ほうほう。砂漠のオアシスの例えでも出てくると思ったが、好例が意外と身近にあるものだなぁ」

 感心した主人が冷えた水でのどを潤す。滑らかな舌触りで、澄んだ味わいの水は、料理の味と混ざることなく、すっきりとしたのどごしで味を調えてくれる。

 さて、主人が客人たちと楽し気に語らっているのを見て、つい見栄を張りたくなってしまった知識豊かな料理人は、たまらずこのように口を挟んだ。


「それなら知っておりますよ。楼蘭という都市です。『※復此東行千餘里,至納縛波故國,即樓蘭地也』と。東方も東方、清国の方へ至る道すがらにあった都市で、旅人に飲み水を提供して大いに栄えたのだそう。ところが、湖が干上がってしまい、今は廃れてどこにあるのかも分からないそうです」


「よく知ってるね、君。そうだ、何か面白い話をしてみなさい」


 欲張って出てきたばかりに、ああ、かわいそうな料理人は、主人に無茶ぶりを強いられてしまった。ところが、知識豊かな料理人は、次の料理の蓋を開けて答える。


「では、これにまつわる小話でも」


 蓋の中から現れたのは、温かい湯気が立つ豚料理であった。脂ののった白い筋に、良く沁み込んだソースの香りが食欲をそそる。豚の臭みを抑えるために、天辺に添えられたハーブは、とろみのあるソースの殺風景な色味に鮮烈な緑色を添える。


「おぉ、豚かね。これは面白そうだ」


 メインディッシュに満足した客人たちは、この宝石にも似た輝きを放つ料理を、飛びつくように頬張り始めた。


「人間の御供と言えば犬ですが、豚もなかなか負けておりません。何せ豚たちはまだ賢いクレオパトラがいた時代、恐らくそれよりもっと古くから飼育されていたのですから。クレオパトラと言えばカエサルですが、ローマ人よりも我々は豚を食べているでしょうね。何せ豚をよく食べるようになったのは、ゲルマン人が痩せた土地で冬を乗り切るために好んでいたからなのです。私達も秋になると、豚たちに団栗を食べさせるために、共有地の森に行くでしょう?丁度そのように育てられるので、豚は私達の味方なのです」


 料理人があまりに饒舌なので、興味をそそられた詩人は、彼の懐に入ってやろうと、知識の底を求めて問いかけた。


「異教徒は豚を食べないというが、本当なのかね?」

「食べないのではなく、食べてはいけないのだそうですよ。私達とは随分違っています」


「なるほど。では、ちょうど堕落した人を、豚のようだなどというが、ここにいる人が豚のようだとあなたは思いますか?」


 このように聞くと、当然おべっかを使いたくなるところだが、大胆不敵な料理人は、あまりにも軽快に、「皆様よく豚のことを分かっておいでですね」と続けた。


「豚は鏡があることを理解できると言います。鏡を見るのは綺麗好きな証。アンリエッタ様はお綺麗な方ですから、綺麗好きな豚によく似ておいででしょう。それに豚は仲間を大事にする生き物です。我々部下を大事にする旦那様は、まさに豚に似たお方と言えましょう。さらに、豚は仲間と遊ぶのが大好きな生き物、先述の通り仲間思いだということは、社交的なわけです。これはカルロス様によく似ておりますね。それに、豚は互いにひしめき合っても文句も言わず争わず、却って譲り合う生き物です。ペトラルカ様のように優しさを持ち合わせた生き物なのです」


「ふふん、面白い男だ。ここまで豚を持ち上げる料理人も、なかなかいないだろうな」


「そんなことはありません。何せ料理人からすれば、豚ほどうまい食材もなかなかないのですからね!」


 料理人が楽し気に答えると、彼の主人は手を叩いて笑った。


「はっはっは!さしずめ『美味い商売だ』ってところかな?」


「こりゃまた、一本取られました」


 豚料理は大盛況のうちに空になった。誰もが綺麗に平らげ、その美味に酔いしれたのであった。それぞれが再びパンに手を伸ばし、あるいは水を飲んで口直しをする。ナイフとフォークの数が減り、良く酒も回った楽しい頃合いとなった。この頃になると、男を丸め込むことに長けたアンリエッタは、少し肩をはだけさせ、主催者にもたれ掛かって赤ら顔を向ける。切なげな声に気を良くした主催者は、公娼のために酒を注ぎ、飲みやすいように水を差してあげた。


「あら、ありがとうございます。なんだか酔っちゃったわ」

「酒が回り出したのだな。私も体が火照っている」


 二人の甘ったるい絡みを見かねて、カルロス少年は茶化して言う。


「『結婚というものは、喉が渇くものだな?』」


「おっと、それは妻に殺されてしまう」

「少し酔いを醒ましましょうか」


 事務的に素面に戻った二人は、片や僅かに青ざめて、片やますます顔を赤くした。詩人が咳払いを一つすると、参加者の注目がそちらに集まった。


「酒は節制を曖昧にするものです。悪酔いしたものはろくなことにならぬのですから、きちんと水で割り、少しでも楽しめるようにするべきです」


「んー、酒を薄めて飲むと言えば、帝国の寝帽子の話をしたくなりますね」

「話してみなさい」


「帝国の寝帽子、即ち神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世とは、その子マクシミリアン1世の英邁さに対して物静かで何よりケチな皇帝だったそうですよ。酒はとことん薄めて飲む、妻に怒ったなんてエピソードもあるそう。それに、遣いに出す路銀を渋って、乞食同然の有様で現地に辿り着いたという話があるそうです。そんなだから嫌われるわけですけど、案外そういう人が出世したりするものですね」


 酒の代わりに水で喉を潤す少年は、酷くつまらない様子で語った。これについて、詩人は二、三度頷いて、真面目な様子で返す。


「案外したたかなところのある人物なのでしょう。そうした賢さも処世術ですよ」


 カルロスは不服そうに息を吐く。喉も潤ったところで、今度は色とりどりの果物が運ばれてきた。


 瑞々しい梨、干したイチジク、ナツメヤシ。種々様々な果物が並べられ、主催者は切り分けられた梨を取った。


「辛いものや酒は、どうしても水分が恋しくなるものだ」

「あら、洋梨を選ぶなんて、あなたもおませさんね」


 アンリエッタはいじらしく笑いかける。彼女の手には林檎があった。意味を解しかねて、主催者は首を傾げた。


「どういうことかね」


「だって、下膨れでふくよかな体形が良いのでしょう?」

「む……」


 主催者は取り上げた梨の形を確かめ、顎を摩る。得心した後で、彼はこれを一口頬張った。瑞々しくまろやかな甘さが口の中に広がる。滑らかな瓶型の形を思い起こしながら、男は恥じらいながら独り言ちる。


「確かに、舌触りの良い体験だ……」

「ふふ……」


 アンリエッタは皮付きの林檎を頬張る。サク、と小気味いい音を立てた薄い林檎は、口の中で程よい酸味となって唾が出るのを促した。そして、次には恋のような甘みが口の中に広がる。彼女の温い吐息の中に、甘い香りが混ざった。


「んむ……」


 詩人が咳払いをする。果肉を楽しんだ両者がそっぽを向く様を睨みつつ、酸っぱい干しイチジクで口直ししている。


「しかし、イチジクに始まりイチジクに終わるとは、何とも風流なものだ」

「艶やかな若さは失われておりますがね」


 詩人は嫌味ったらしく零し、フィンガーボールで手を濯ぐ。汚れのないナフキンで水を拭い、湯気立つ紅茶を受け取って嗜んだ。


「口惜しいものだが、すぐに宴は終わってしまうな」

「まだまだ夜は長いですよ?」

「んむ……」

「ペトラルカ、あの人はさっきから何を口ごもっているのですか?」

「カルロス君、見せ物じゃないのですよ」


 詩人の皺の寄った手が、カルロスの視界を覆った。陽が沈み、夜の帳が落ちていく。客人たちの座る卓上にある燭台に、火が映される。灯された明かりは熱を伴いながら、向かい合う人々の顔を薄闇の中からぼんやりと浮かび上がらせた。


 脳から腹まで満たされて、宴は終わりを告げる。仮面を外した人々は、それぞれ静かに、あるいは激しく、月が傾くまでを過ごすのであった。


※玄奘三蔵『大唐西域記』(646年)第12巻「大流沙以東行程」

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