【9】お蓮の方
蓮。
夫の側室であるその人に関して、央は正直なところ、特にどうとも思っていなかった。
ただ、あの掴みどころのない隆郷にも存外に人間らしいところもあるのだな、と思った程度のことだった。
央自身が何もしていなくても、こと陰口になるととたんに勤勉になる上方の女房たちがせっせと蓮の情報を集めて運んできたおかげで、央は夫と蓮の十代半ばの頃からの赤裸々な恋物語についてやたらと詳しくなってしまった。
まあ別に、いいのではないか。
ありていなことを言えば、男としての甲斐性にしたって、あちこちに見境がないような振る舞いよりも決まった局を持ってきちんと世話しているほうがよほど行儀が良いことだろう。
そう、知ったようなふうに思う央自身、まだまるで自分が彼の正室であることについても他人事のような心地でいた。
だから央は思ったことを思ったままに伝えただけだった。和姫は蓮と引き離されたくないと強く願っていたし、その望みは叶えてあげると女と女の約束をした。
蓮のことを認めます、と言った自分の物言いが、思わぬ行間を含んだ態度として周囲の心胆を寒からしめたことにも彼女は無自覚だった。
誰にとっても幸いだったことに、蓮もまた、自らの立場をよくわきまえた女だった。
初めのうち、央と蓮は互いに自ら積極的に関わろうとはしなかったが、同じ御殿に身を置いてれば自ずと顔を合わせる機会も多くなる。
ましてや和姫がちょこまかと御殿中を走り回り、央姫のところにしょっちゅう遊びに来ては我が物顔で入り浸るので、蓮が娘を探し回っては申し訳なさそうに宥めて連れ帰る、というようなことが繰り返された。
蓮は当初こそはひどく緊張している様子を見せていたが、どうやら彼女の性情として、そういう縮こまった顔が長続きする人でもないらしい。
蓮は次第に央のいる前でも、和姫に甘えられたり、顔見知りの三河女房たちに声をかけられたりして、笑顔を見せるようになっていった。
ところで目下のところ、央や蓮や周囲の三河の女房たちの最大の悩みごとは何かと言えば、それは和姫が少々活発が過ぎるということに尽きた。
「……どうにか、室内での遊びに和姫さまの興味をひけないものでしょうか?」
和姫はいつも外に出て遊ぼうとする。木登りやら鬼ごっこやら、あるいはただ蟻の行列を日が暮れるまでじっと見つめ続けるやらで、女房たちはみんな和姫に付き合わされたり和姫を探し回ったりして庭を走り回ることになるのを嫌がった。
今までは仕方なしに蓮がずっと遊び相手をしてやっていたようなのだが、和姫はここ最近、隙あらば央の手を引いて央を庭に連れ出そうとするのだ。
これにはさすがに、女房たちも参ったようだった。
央もたまにのことならば構わないのだが、連日のように六歳児に付き合って動き回るほどの体力はなかった。央が動き回れば女房たちもそれに構わざるを得ないし、そうすると西の丸全体がざわざわと落ち着かないような雰囲気にもなる。
「申し訳ありません。和はもう遊び相手が私だけなことにも飽ききっていて、央姫さまが遊んでくださって、嬉しくて仕方がないのですわ」
蓮は恐縮しきりでそう言った。
「けれどねえ。部屋の中に押し込めようとすればするほどかえって外に出たがるような気もするし」
「人形遊びはいかがでしょう?」
「お手玉などは」
女房たちの提案に任せて色々と試した結果、最も和姫の気を引くことに成功したのは、盤遊びだった。
「……すごろくにございますか?」
すごろくとは、さいころを振って出目の数だけ盤上に配置された十五個の駒を動かし、先に相手の陣地に全ての駒を入れたほうが勝ち、という盤遊びだ。
最初は「子供には難しすぎるのでは」と懐疑的だった女房たちも、和姫が意外にも呑み込み早く遊び方を覚えていったので、目を見張ってちやほやと盤上を見守っていた。
「おうちゃま、こっち?」
「うーん。こっちの駒を先に動かした方がいいかな」
「ここ?」
「そうね」
座布団を三枚重ねた上にちょこんと正座して、和姫は見様見真似でしゃかしゃかとさいころを振った。
「次で六が出たら私の上がりよ」
「だめ!」
央は昔からすごろく遊びが頗る強かった。
和姫が遊び方を一通り覚えた後は、子供相手にも手加減せずに大人げなく勝ち星を上げていたので、和姫は負けが込んでくると癇癪を起して地団太を踏んだ。
かといってたまにはわざと負けてやろうとしても、和姫はすぐに手加減されたことに気がついて余計に怒った。央の手加減が下手なのもあるだろうが、和姫もやはり歳よりはよほど賢い子供ではあるだろう。
「おうちゃ、なんでろくばっかでるの!! ずるいっ」
「ふふふ。もう一回やる?」
「や!……おうちゃまとはやらないっ」
央や与加那に勝ち切れなかった和姫は、一計を案じた。
「かかちゃま、すごろくして」
彼女は、自分よりも初心者に目を付ける作戦を思いついたようだった。和姫は蓮の袖を引っ張ってきてすごろくに誘った。
「ええと……、」
袖を引かれた蓮は困惑したようだったが、央としては別に構わなかったので、席を空けた。
「蓮どの、遊び方はわかる?」
「ええ、はい。何度か、和が打つところを見てはおりましたから」
ここ数日、盤遊びに熱中する和姫の姿は当然蓮も見ていただろう。
「あらあら。和姫さまのご所望にございますわ」
「蓮さま、お気張りなさいな。母君としてはここは意地を見せなければ」
女房たちもすっかり好奇心を出して、母子のすごろく対決を楽しみに見守っている。
実際、すごろくは女同士で無聊をかこつ奥向きでは時折、熱病のように流行ったりする。
和姫は思惑通りに母を負かして得意げにきゃあきゃあと声を上げていたが、央は二人の対戦を眺めていてほんの少しの違和感を持った。
「和姫さまもお強うなられましたな」
「蓮さまも呑み込みが早いこと」
「今のうちに勝っておかねばすぐに五分五分になってしまいますわ」
……いや。
この手の遊びの定石を熟知している央は、蓮の駒の動かし方が、心得のある者のそれだと見ていて気がついた。
すごろく遊びはさいころの出目の確率にある程度左右される盤遊びではあるが、実際のところ勝ちに大切なのは駒を動かす戦略のほうなのだ。
蓮の手は、どちらかと言えば定石を知っていて、それを敢えて要所要所で崩しているかのような負け方だった。
たぶん彼女は、すごろくをやったことがあるだろう。
三河の女房たちがあまりすごろく遊びに明るくなかったところを見ると、彼女に教養のある遊びを教えたのはもしかすると隆郷かもしれない。まあ、それをおいても、彼女は盛り上がる女房たちに水を差さず、央の顔を潰さないようにするため初心者のふりをするのが適当だと判断したのだろう。
「ええ、ほんと」
和姫に気がつかれないくらいの絶妙な手加減ができる程度には、蓮はすごろくを知っていた。
そもそも彼女は下働きの女中だったという。そうであるなら、ここにいるたいていの女房たちがかつては彼女にとっては上役だったはずだ。
しかし、そういう中で側室として成り上がっても方々に可愛がられて隔意もないというのは、やはり元から備わった彼女の才能の一つだろう。
「とても上手ね」
蓮は気立ても良くて人好きもする。しかしその明るい顔の裏では、その実、とても細やかな気遣いをする人だった。