【8】気まずい
隆郷が三河の城にようやく戻ったのは、央姫たちが城に入った約一ヶ月も後のことだった。
長く不在にしている父に変わり、領内で様々な所用をこなしてようやく国元の城に帰ってみれば、先般迎えたばかりの妻はすっかり御殿の女主人として傅かれている頃だった。
国元の小うるさい女房たちですら、特に疑問もなく彼女に従っているようなので、それは見違えるような変化だった。
しかし。
何がどうして、こうなった……。
のほほんとした央姫の隣に、恐ろしく寄る辺なさそうな顔をして座らされている女に、隆郷は間違いなく覚えがあった。
「――おかえりなさいませ。旦那さま」
西の丸御殿の広間で、央姫は隆郷を上座に座らせ、自身は一歩下がった場所で女房たちを以下に従え、彼を出迎えた。
そうした格式張った所作の美しさは、さすがは姫育ちといった風格だ。
やはり跡取りである隆郷にはきちんとした格の正室を、という父の思惑には、対外的な事情だけではなくて、こうした家中での振る舞いのことも含んでいるのだろう。
……しかし。
「道中は大過ございませんでしたか?」
「あ、ああ。こちらは特段。しかし、あなたには悪いことをした。見知らぬ居城に先に一人で入らせることになってしまって」
当たり障りのない話題を口にする央姫は、まるで平素の顔と変わりない。
しかし、この場にいる央姫以外の全員が、隆郷の内心の動揺を察して余りあるという顔をしていた。
「いえ。隊列を分けた後も、道中よく晴れてつつがのうございました。お城についてからも西郷の局さまをはじめ、本丸の方々にも良くしていただいております」
「三河でも特に困ったことはなかったか?」
「ええ。こちらは伏見よりも、ずいぶんと賑やかなご様子ですし」
「それは良かった」
白々しい笑顔で白々しい会話を続けつつ、隆郷は、ちらりと央姫の隣に座る女に意識を向けた。
央姫の隣に座っているのは、蓮だった。
蓮には、隠れておけと言い置いたはずだ。
上方から正妻を迎えるにあたって、堂々と恋人を城内に置いておいては何かと障りがあろうと、隆郷はしばらくは彼女を遠ざけておくつもりだった。
しかし、蓮は明らかに本意ではなさそうにそこにいて、今すぐにでもこの席から逃げ出したいと考えていそうな顔色を見れば、隆郷もさすがに彼女に落ち度はないのだろうということを悟った。
蓮を隠しておこうという小細工は失敗に終わったようだが、その失敗はなにも蓮のせいではなく、ましてや三河の城中の誰のせいでもないだろう。もとはと言えば誰に責があるのか、隆郷はよく自覚していた。
ここは素直に、彼が己の不格好を認めるべき局面だ。
「あの、央姫」
隆郷が彼女にそう呼びかけると、広間には奇妙な沈黙と間が落ちた。
しかし、央姫はただ小首を傾げて隆郷に言葉の続きを促しただけだった。
「……いや。なんでもない」
どう言ったものかと考えあぐねる隆郷に対して、央姫のほうが先に折れて助け舟を出すというような格好で、彼女がなまじ大人な対応を貫いているだけ隆郷の脇の甘さがますます目立った。
「旦那さま。私から一つ、ご提案をしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「和姫についてのことです」
彼女が真っ先に触れたのは、蓮との間に生まれた一人娘のことだった。
数年も国元を留守にしていたので、娘にもしばらく会っていない。蓮がまだ西の丸にいるということは、和姫もこの御殿にいるのだろう。当然央姫もその娘を見かけているはずだ。
「和姫は、結城家の大切なお子。私がここに来たとて、和姫がお育ちになったこれまでの環境を、大きく変えるべきではないかと存じます。和姫はこの西の丸御殿でのびのびとお暮らしのようですし、どうぞこのまま、こちらにいらしてはいかがでしょうか」
央姫はそう言って微笑む。
「もちろん、蓮どのもご一緒に」
妻妾の同居を受け入れるという、いかにも寛容な正室の気遣いに、隆郷はなんと答えるべきか大いに迷った。
「あなたがそう言ってくださるのは、何よりありがたいが。……もし、母や三河の者たちに何か言われて、そう言うようであれば、その手の気遣いは不要だ」
「ありがとう存じます。けれど私は別に、気兼ねして申すわけではありませんわ。私自身、そのほうが過ごしやすいと思うのです」
結局、のらりくらりとした央姫の態度に、隆郷は降参するより他なかった。
「央姫。しかしその、蓮のことは」
隆郷とて別に、事情が許せばこの昔馴染みの恋人のことを進んで遠ざけたいわけでもない。しかし、元は女中である蓮との関係が、結城の嫡男としてはあまり褒められた素行ではないことは重々承知していた。こうしてあっさり妻に許されて、知らぬふりをするというのも、いかがなものか。
「……すまなかった。黙っていて」
迷った結果、隆郷は単に殊勝な顔をして頭を下げた。
彼も大概、外では気苦労の多い嫡男の立場にいるから、自分が頭を下げればそれで丸く収まりそうな場では、必要とあらば躊躇いなくそれができる男だった。
央姫はそんな夫の態度に恐縮こそ示さなかったが、情けない姿を晒す彼を気遣うように、間を取り持たせるようなことを言った。
「こちらに一月もおりましたから、蓮どのに関することも、自ずと少し耳に入ってきてしまっているのですけれど。聞けば、旦那さまとは元服の頃よりの懇ろな仲だとか」
「あ、ああ」
央姫が何を話題にするつもりなのか、広間の女たちの緊張感はいや増していたが、央姫はそれに構わず続けた。
「まあ、ですから蓮どのについてのことは、そのように気兼ねなさらないでくださいませ。幼い時分から共に顔見知りのことなのでしょうし、それだけ深い仲の人については、添い臥しのような特別な局と思うことにいたします」
「添い……、まあ、そんな御大層なものでもないが」
添い臥し、古い仲、特別な――。
央姫はただおっとりと夫の側室を許したように見えて、その実、その真意のほどを決して周囲に悟らせなかった。
その言葉の本旨は、蓮を認めるという寛容さを示すものなのか。
それとも蓮「だけ」は認めるという、これは言外の含みを持った、手痛い釘刺しだろうか。
結局のところそれは、どちらともつかぬ曖昧な顔をした彼女の勝ちだった。
「しかし、私はまがりなりにもこの家に室として入った身ですから、こと奥向きに関して重大な隠しごとがあるというのも心許ないことにございます」
「……ああ」
「次にもしお子がお生まれになるという際には、できれば教えていただければと思いますわ」
「次?」
……。
当然のように不義理を起こす前提の話をされて、隆郷は面食らった。
しかし央姫は、その反応を取り違えたような顔をした。
「あ。もしや既に、蓮どのの他にも……?」
「い、いやいやいや。いない、蓮だけだし、子も和姫だけだ」
隆郷は体の前で手を振って即座に否定した。ともかく、既にこの場において完全に面目を失っている隆郷の位負けは明らかで、仕える若殿さまの情けなさは女房たちにとっても見るに堪えないものだろう。
しかし一方で女房たちにとっては、女主人たる央姫の思いのほかしっかりとした態度には胸のすく思いでもあるようで、内心複雑といった様子だった。
広間は。生ぬるい遠慮がちな苦笑に包まれた。
「かしこまりました」
央姫がそうして側室のことを寛容に許したという事実は、彼女の度量の広さを示す噂話として、後日には三河の城内に広まった。