【7】盗み聞き
与加那たちが気にしていたのは、当初はむしろ蓮のことより和姫の存在のほうだった。
三河の使用人たちの間でも、央姫の身の上については誰もが知るところだった。彼女は先の家で、自分が産んだ子を殺されるという亡くし方をしているということ。
和姫のことは、ただでさえ自分が嫁ぐ以前に夫が側室に産ませていた子……というだけでも面白くはないだろうに、ましてや央姫のような人に対して、幼い子供を目に触れさせるというのもあまりに配慮のないことではないか。
しかし、実際の央姫は使用人たちが青くなっているのを後目に、誰もが拍子抜けするほどあっさりと和姫の存在を受け入れた。
それどころか彼女は、和姫の個性や難しい性情についてさえ親身に理解を示そうとした。
央姫の態度はまるで親類の子にでも接するような嫌みのなさで、距離を開きすぎも詰めすぎもしない絶妙な距離感だった。
可愛がってはいるが、そこには親に取り替わってやろうだとか、嫡母としての務めを果たそうとするような堅苦しい雰囲気は皆無で、どちらかと言えば飼い猫に気まぐれに餌を与えるかのような身軽な愛情だった。
しかし、央姫の好意的な姿勢に嘘がないのは、他ならない和姫自身がはじめから彼女にべったりと懐いたことからも明らかだった。
央姫はどこか浮世離れしたような人で、余人に心の内を察させないようなところがある。
蓮。
隆郷の側室であるその人に対して、彼女は同じ西の丸に住まわせると決めたきり、特に積極的に関わるというわけでもなければ、さりとて丸きり無視してやり込めるということもなかった。
しかし、央姫自身が何も言わないのをよそに、央姫の輿入れに伴って上方からついてきた女房たちは、やいのやいのと我が意を得たりとばかりに側室の存在について過剰に反応した。
「――あの、お蓮の方とか呼ばれている女。元はと言えば生まれも低い、半農の小ざむらいの娘だそうにございますわ」
「おまけに、足軽だった父親もとっくに亡うなって、家自体も傾いているとか」
「お城に上がったのも、最初は下働きの女中としてだったようです。行儀見習いなどではなく、一家が困窮して弟妹たちの食い扶持を稼ぐため。……いかにも地下人の娘らしく、そこで若殿さまに媚びを売って擦り寄ったのでございましょう」
盗み聞きは良くないとは思いつつ、上方女房たちがあまりに金切り声をあげてまくし立てているので、与加那はうっかり廊下で立ち聞きしてしまった。
まったく上方女房たちの噂好きにも困ったものだ。
彼女たちは、華やかな都から退屈な田舎に下らされたことが内心面白くないようで、そうした不満の捌け口として、好きに陰口を叩けるような「敵」を見つけて楽しんでいるような風情ですらあった。
「――お方さま。聞いておられますか」
しかし次の瞬間、与加那ははっとして、思わず柱の影に身を隠してしまった。
女房たちが言い合っているだけならばまだしも、央姫も室内にいるのだと気がついた。
思わぬことにそっと息を潜める。こんなところで話を盗み聞きしたと央姫に知られれば、たちまち信頼をなくしてしまう。それを思えば今すぐこの場を立ち去ったほうがいい。
しかし、この件について上方女房たちに央姫がどう答えるのか、与加那はどうしても気になってしまった。
「聞いているわ」
脇息にでも寄りかかり、おそらく頬杖をつきながらといったような、いかにも気のない央姫の声が与加那の耳に届いた。
「お方さま。こればかりは、そのように呆けておられる場合ではございませんよ!」
央姫は、蓮に対して自らはなんら言わない代わりに、上方女房たちの口さがない陰口を諫めようともしなかった。
「お気をしっかりお持ちになって。既に子を産んでいる側室だからといって、男児でもなし。元女中などにでかい顔をさせてはなりません」
彼女の適当な相槌に、女房たちが焦れたように詰め寄る。
「けれど、そうは言ってもねえ。和姫はもう六つになるというし、蓮どのとのことも別に昨日今日の仲ではないのだから。後から来た者が何か言ったところで、今更どうということもないでしょう」
至極冷静な言葉に、女房たちもさすがに一度グッ、と押し黙った。
「……け、けれど若殿さまにしたって、いかにも勤勉実直な跡取りさまというような顔をなさっておきながら、これは到底品行方正とも言えぬようなお振る舞いですわ」
「そうですわ、そうですわ。側女を囲っているのは百歩譲るとしても、下働きの女中に手を出すなど。嫡男さまがその程度では、所詮は結城の格の知れるというもの」
女房たちの矛先の雲行きが怪しくなりかけたところで、央姫は彼女たちを宥める語気をさすがに強めた。
「まあまあ。あなたたちが勤勉なことはよくわかったわ。けれど、この件についてはここまでよ」
央姫は珍しく、明らかに嫌みと取れるようなことをさらりと口にして、それ以降の問答を切り上げさせた。
「捨て置きなさい」
「――お方さま!」
「なりません。決してあの者を、側室とお認めになってはなりませんよ」
なおも色めき立つ女房たちを、それ以上央姫が相手にすることはなかった。
潮時と思った与加那は、慌ててその場を立ち去ったのでその後のことはわからない。
けれどともかく今のことは胸の内に留めて誰にも話すまいと心に誓う。
結局盗み聞きのような行儀の悪い真似をしてさえ、央姫が蓮をどう思っているのかということは何ひとつわからないままだった。
様々な問題がふわふわと宙に浮いたまま。
と、そうこうしているうちに、領国を見回って帰参が遅れていた隆郷が、ようやく戻った。