【6】和姫
賑やかになりそうだわ、などと大らかに構えていられたのも、ほんの束の間のことだった。
「おうひめっ」
というのも、なぜかべったりと央に懐いた和姫が、ことあるごとに部屋に転がり込んできては遊べとねだるようになったからだ。
和姫は、六歳という年齢よりは少し幼げに見えた。
ちんまりとしてすばしっこく、伸ばしかけの髪を束ねて身軽に走り回る姿は、そうと知らなければとても結城百四十万石の姫君とは思えなかっただろう。
ただ、和姫は顔立ち自体は実際、父親の隆郷によく似ていた。
隆郷に、というより祖母にあたる西郷の局に似たと言ったほうが正しいかもしれない。ほっそりとした輪郭に、柔和な目鼻立ちは幼いながらに理知的で愛らしい。将来はさぞや美人のお姫さまにお育ちになりそうだ。
しかし今はまだ、きょろきょろと落ち着きのない挙動や、市井の子のように日焼け跡の残った肌への印象のほうが勝つ。目下のところ、その子は今はまだ、田舎でのびのびと育つ山出しの子ザルのようなものだった。
「ん」
ある日、和姫はおずおずと近づいてきた。何かと思えば、彼女は央の眼前にその小さな手のひらを勢いよく突き出した。
和姫の手のひらには、大ぶりなセミの抜け殻が乗っていた。
物珍しそうに彼女の動向をうかがっていた女房たちは、とっさに「ひっ、」と声にならない悲鳴をあげた。
「あら。くれるの?」
しかし、女房たちの反応をよそに、央自身も大概田舎育ちである。央も幼い頃は都や大きな城ではなく、伯父の一人の持ち城に母と共に身を寄せ、のびのびと暮らした一時期があった。
央が、差し出されたセミの抜け殻と彼女の顔に交互に視線をやると、和姫は心なしか緊張した面持ちで頷いた。
「ありがとう。きれいな空蝉を見つけたのね。脚も潰れてないし、背中も丸くてかっこいいわ」
この前あげた飾り紐のお返しだとしたら、存外に義理堅い子だ。
たぶん、彼女にしては渾身の贈り物なのだろう。無下にしないように、央は贈り物を心底喜んでいるという顔をしておいた。
それが和姫にとっても意外だったらしく、彼女は大きな目をくるくると動かして忙しなく考えごとをした後、央を庭に連れ出そうとしたようだった。
「あのね、おにわ。……あっち、」
身振り手振りで伝えながら、和姫は央の袖を引っ張った。
「お庭で見つけたの?」
「こっち、!」
央はついつい彼女に促されるままに立ち上がる。和姫に引っ張られながら、縁側からそのへんにあった草履を引っかけて、打掛の裾をからげるように持ち上げただけの軽装で庭に下りた。
和姫はどうやら、彼女がセミの抜け殻を見つけた場所に央を案内してくれると言っているようだった。
三河の城は大大名のお膝元に相応しい広大な大城で、相応に庭も広い。
遠くから女房たちが、「お待ちくださいっ」「お方さま!」と声を張り上げている気がするが、和姫は一切気にかけた様子なくずんずんと先へ進んでしまう。央はひとまず、女房たちに構うよりも和姫を見失わないようにと後を追った。
木々の生い茂る庭をしばらく行ったところで、和姫はピタリと足を止めた。
「ここ」
彼女は木のうろを指さして、央に振り向いた。
「ここにあったの」
あまり表情の出ない子供だろうが、その顔はどこか得意げで可愛らしい。
「あとね、こっち」
和姫は、子供の背丈では少し高い位置にある枝を指さしてぴょんぴょんと飛び跳ねた。抜け殻を見つけはしたものの自力では届かなかったかったようだった。
「おいで。抱っこしてあげる」
央は和姫の腹のあたりに腕を巻き付けて、よいしょと小さく息をついて抱き上げてやった。
「取れる?」
「う、ん!」
目当ての空蝉を手に入れた彼女は、嬉しそうにパチパチと手を叩いた。
ゆっくりと抱き下ろしてやる。央はその時にうっかり自分の着物の裾を踏んでしまって、泥の汚れがついたから、後で女房たちが困るかもしれないとぼんやりと思った。
「かかちゃまにもあげるの」
和姫は上機嫌にそう言ってから、唐突に、自分が何かまずいことを言ったという顔をした。
子供は顔色を取り繕えないから、全部が顔に出る。
「……かかちゃまのこと、きらいなの?」
「え?」
突然の質問に、央は首を傾げた。
「おうひめって人がきたら、かかちゃまいなくなるって。みんないってた」
確かに当初、三河の女房たちは央に気兼ねして、側室とその娘の和姫の存在を隠そうとしていたようだった。
「いなくならないわ。母さまも和姫も、みんな一緒に暮らしたらいいもの」
和姫は、なおも納得しかねるというような顔をして、むう、と唇を尖らせた。
「……おうひめは、かかちゃまのこといじめるの?」
「ううん。どうして?」
三河でのびのびと育つ和姫の世界は狭く、彼女はまだ色々なことを理解していない。けれど、わからないなりに色々なことを不安に思っている。
「かかちゃま、あやまってたもん。かかちゃま、悪いことしてないもん。おうひめ、かかちゃまのこといじめないで」
うーん、と央も央で頭を悩ませた。
数日前の、蓮との初対面の時のことを言っているのだとすれば、確かに蓮はあの時、いささか萎縮しすぎているようにも見えた。そういう両者の姿を見て、和姫が、母親がいじめられていると思うのも無理はないかもしれない。
しかし、和姫のそういう認識を放っておくのも、今後困ったことになるかもしれない。
今は二人きりで、彼女の弁を聞いているのは央だけだからまだ良いものの、もしも和姫が人前でこういう物言いをした場合はどうしたって蓮のほうの立場が悪くなるだろう。
「うーん。かかさまは、和姫になんとおっしゃった?」
「かかちゃまは、」
和姫は、ますます弱ったように眉をへの字にした。
「……おうひめがきたら、おうひめのこと、かかちゃまだとおもうのよって、ゆった」
そういう話。
夫の側室がわきまえた人であればあるほど、こちらも逆に気を遣う。
蓮という人のことを、央はまだほとんど知らなかった。少なくともしっかりとした言上のできる、折り目正しい女であるとしか。
「……かかちゃま、どっかいっちゃうの?」
幼い黒目がちの瞳が、不安げに揺れていた。
まだ幼い和姫にとっては、母親から離されることを思うだけでも不安だろう。
「大丈夫よ」
どう言ったものかと考えて、央はとりあえず、和姫の小さな背丈に合わせて身をかがめ、目を合わせた。
幼い子にあまり難しい話をしても良くないが、かといって、この子はたぶん敏い。大人たちが思う以上に周囲の色々なことを理解している。和姫のような子は、煙に巻くような返答にごまかされてはくれないだろう。
「あのね。かかさまや私のことに関して、もしかしたらあなたの周りのみんなは、難しいことや、良くないことを言うかもしれないわ。でも、大丈夫。かかさまは、私が来てもいなくならないし、和姫がかかさまと引き離されることもないわ」
「……? みんなはうそをついてるの?」
「嘘、というわけでもないけれど。みんなは、もしかしたらそうなってしまうかもしれない、という不安なことを話し合っていただけよ。私や、かかさまや、もうすぐお帰りになる和姫のととさまは、しっかりあなたを守るわ。だから不安なことは何も起こらないのよ」
たとえ子供相手であろうと、こうして言ってしまったことはまがりなりにも守らなければならない。
央は表情には出さないまでも、自らの言い分に自分でも驚くような心地だった。
央自身がまだ決して馴染んでいるとは言い難いこの結城の家で、本当は央は、自ら厄介ごとに首を突っ込むような真似はすまいと思っていた。
蓮と和姫の母子をこの西の丸に留めたのも、邂逅してしまった手前、追い出すよりは角が立たないだろうと思った程度のことで、二人の処遇については遅れて城に着くはずの隆郷の判断に任せればよいとも考えていた。
しかし、今しがた和姫に約束してしまった。
隆郷がもし、和姫を蓮と引き離したり、和姫を正室である央の手元に引き取って育てさせようと考えている場合、央は、その意向に逆らって彼と話し合わなければならなくなってしまった。
「……あげる」
和姫は相変わらず唇を尖らせて難しい顔をしていたが、彼女は意を決したように、手に抱えていたセミの抜け殻を央に突き出した。
「あら。いいの?」
生母にあげる予定だったはずだが、彼女はもう一つ央に彼女にとっての宝物をくれる気になったようだった。
「おうひめ、こわいひとじゃなかったもん。……かかちゃまのこといじめないなら」
実母に向ける情にしたって、とても愛情深い子だ。我が子にこれほど慕われて、蓮はこの子がどれほど可愛いことだろう。
「じゃあ、もうひとつ空蝉を一緒に探して、かかさまへの贈り物にいたしましょう」
「……うん!」
彼女は大きく首を振って喜んで、それから二人で、辺りの茂みを見回し、セミの抜け殻を探して回った。
央が大きな葉の裏に一つ真新しい抜け殻を見つけ、手招きをして和姫に取らせてやったところで、ようやく遠くから女房たちの忙しない声が聞こえてきた。
「お方さまっ、」
「――こちらにいらしたのですね!」
女房たちは、決死の捜索の末に二人の姿を発見したらしい。
心配した、いきなり行ってしまうなんてと央に泣き言を言い、着物の裾がすっかり泥で汚れていることに悲鳴をあげた。
「おうひめ、」
迎えに来た女房の一人に抱き上げられながらも、和姫は央に何か言いたげな様子だった。
央は彼女に笑いかけた。
「楽しかったわ。また一緒に遊びましょうね」
その日は、和姫にそう言って央はその場を収めたのだが。
……まさかその翌日から、新しい遊び相手を得たとばかりに、ほとんど毎日のように和姫が央の周りに貼り付いて離れなくなるとは思ってもみなかった。