【4】父と息子
たまたま父と、大阪に出向いている時期が重なって、その夜は一献付き合わされた。
今は普段からして同じ屋敷で暮らしているというのに、屋敷では仕事の用向き以外ではさほど父に声をかけられることもない。
そのわりには、こうして出先で顔を合わせると飲みに付き合わされて色々と聞かれるから、父は父で隆郷のことを何かと気にかけてくれてはいるようだった。
その日、話題は当然、隆郷が先日迎えた正室についてのことになった。
「ひとまずは上手くやっているようだな。それは重畳」
父は勝手に上機嫌だったが、隆郷は多少苦々しい思いでいる。
「……いや。そうでもありませんよ」
彼が珍しく渋い顔を隠さないので、父は老いて皺の深まった瞼を開いて目を丸くした。
「なにか不満でもあるのか? あの嫁御どのに」
少しばかり年上の女のほうが、正室として置いておくにはちょうど良いだろう。
というのが、父のかねてからの言い分だった。父の女の好みには興味はないので、隆郷はげんなりして首を振った。
「特には。ただ、まだうまく行っていると言えるほど、まだ関わり合いもないだけです」
「なに? それはまあ、おまえのやりよう次第だ」
父の言いようはまるで、年配の者が若者をからかう時の下卑た、ありふれた雰囲気だった。
ろくに取り合う気もないなら、わざわざ話題を振らないでほしい。ただでさえ最近は、よくある新婚へのからかい交じりの説教に方々で付き合わされてうんざりしているのだ。
「良いか。くれぐれも嫁には気を遣って過ごせ。おまえはせっかく母親のほうに似てきれいな顔に育ったのだから、笑顔で愛想のひとつも振りまいておけば女など造作もなかろう」
国元にいる母にはしばらく会っていないが、元服前のことならさておき、成人してしばらく経っても母に似た女顔だと揶揄されることは多い。
隆郷が女々しいだの女顔だのと言われ飽きていることも承知の上で、父は敢えてそう言ってくるのだから、余計に癇に障った。
「ほどほど器用に関わって、あとは頃合いを見て子でも産ませてやればよい。家あっての女。しかし、女を家に縁づかせて腰を据えさせるためには、かすがいとなるのはやはりやや子よ」
「父上」
隆郷は、多少語気を強めて父の言葉を遮った。
しかし父はなおも、そんな隆郷をたしなめるように口を止めなかった。
「わかっているだろうな。何しろ産まれれば、どこからも文句の出ようのない嫡男だ。そこまでがおまえの仕事だ。織田の血を受け継ぎ、関白殿下の若君とも母同士が姉妹ともなる子など、これを得ない手があろうか」
これ以上ない差し出口を受けながら、隆郷は、彼女のことを考えていた。
婚儀の夜以降、新婚の妻と一度も関係を持っていないことが、どこかから父に漏れているのかもしれない。
閨から人払いはしているはずだが、家中にいて完全に父の耳目から逃れられているとは元より考えてはいなかった。
「父上。それなんですが」
とはいえ、そのことを真正面から父に抗議する気も起きなかったので、隆郷は話題を少し逸らした。
「……淀君と央姫は、必ずしも姉妹仲が良い間柄とも言えぬようです」
央姫の実妹――淀君のことについてだ。
「そうなのか?」
それはそれで、政略的な観点での話だった。
央姫が関白殿下の寵妾、淀君の姉姫であるという事実は、彼女の政治的重要性を吊り上げる一つの重要な要素だった。
ましてや淀君は先年、関白殿下の子を産んでいる。
その人は今や天下人の寵愛ますます揺るぎなく、世の権勢をほしいままにしていた。
関白が、かつての主家筋であった血筋の姉妹を二人預かって、姉のほうを養女に、妹のほうを自分の妾としたというのは有名な話だ。
その悪趣味さについてもさておき、好色の関白がわざわざ年少の妹のほうを選んだという噂に尾ひれがついて、央姫に関しては必要以上に様々な悪評が立っていた。
隆郷は別に悪評を鵜呑みにしていたわけでもなかったが、彼は結婚前は央姫の人柄や容貌にさしたる興味もなかったので、噂などどうでも良いと思っていた。
しかし、今にして思えば、父はもともと央姫がどういう人物であるのかある程度は知っていたのかもしれない。
「しかし淀君は、若君を出産してまだ間もない時分にさえ、周囲の制止も振り切って姉姫に会うために忍んで尼僧院に足を運んだという話だぞ?」
「一概に険悪な仲、というふうでもありませんが。しかし央姫と淀君の双方に仕えて二人の仲をよく知っているはずの上方の女房たちですら、少なくとも淀君と央姫を多少引き離したがっている様子なのは見て取れます」
隆郷はここ一ヶ月ほど央姫本人には当たり障りなく接しつつ、女房たちとの会話や関白家との間のやり取りなど、色々と事情の把握に努めていた。
「引き離したいのは、淀君からか。……それとも関白からか?」
「さあ。それは、なんとも」
「まあ、あの好色の関白のこと。養女として縁談を決めたものの、手放したのが惜しくなったとしても不思議はない」
「いや、まあしかし関白殿下は派手好みですからね」
「おい。新婚早々に嫁御の愚痴は良くないぞ」
「混ぜっ返さないで下さい」
別に央姫が地味な女だと言いたいわけではない。
しかし、隆郷はいまだにあの華やかな淀君と、我が家で大人しく過ごす央姫という人が実の姉妹だとは信じられないような思いでいた。
関白の寵妾である淀君とは、当然近くで言葉を交わすような機会などないから、隆郷はかの人が関白と一緒にいるところを遠くから見かけたことしかない。しかしその時の印象だけをもってしても、淀君は確かに美しかった。
高い血筋に生まれた奢りと自尊心をこの上もなく華やかにその身にまとい、蕩けた媚びさえまるで恥じぬと言わんばかりに、この世の贅沢を謳歌する。
その姿は、まるで狂い咲きのようだった。
「ともかくいたずらに藪をつつくような真似は控えたほうが賢明です。幸い、央姫も東下りには前向きですし、このまましばらくは、三河に」
「それが良かろう」
隆郷が長く領地を留守にしている父に代わって領国に下るのは、央姫との縁談のこととは別に以前から決まっていたことだ。
「三河に下れば、何かと気忙しい畿内にいるよりかはゆっくりと時間も使えるだろう。なんのかんのと言いつつ、夫婦仲が良いに越したことはない」
父はどこまで本気なのかわからないようなことを言った。
父は、長い間自身の正室の座は空けたままでいる。
母や母以外の側室が幾人か父に仕えてはいるが、新たに他家から正室を迎えるようなつもりはもうないのだろう。
隆郷には昔、歳の離れた嫡出の兄がいたらしい。
しかし兄は、隆郷がまだ幼い頃に亡くなった。――父が兄を殺したからだ。
父は家を守るため、自らの嫡男だった兄を見殺しにし、その兄を産んだ正室のことは自害に追い込んでいる。
そういう父の冷徹さがなければ、きっと今日の大大名家としての結城の家は存続すらも危うかったのだろう。
必要であれば妻子すら躊躇いもなく見捨てる。そういう犠牲の上で、父はこの世を渡り歩いて、家と領国を守ってきた。
それが武家の当主として求められる資質だと、教えられるまでもなく理解して育った隆郷は、もともと自分の結婚になんの夢も見てはいなかった。
「……個人的にはもっと死に体の、ものの数にも入らないような女が来たほうがありがたかったんですがね」
父は珍しそうな顔でちらとこちらを見た。
隆郷が珍しく、単なる本音を愚痴として漏らしたからだった。
「どうでもいいような相手なら、多少嫌われたところで気にもならなかったものを」
いっそのこと央姫が、こちらが気を遣う必要を感じないほど傲慢な女だったり、あるいはこの世の全てを恨んでいるような不幸な女だったら隆郷も楽だった。
しかし彼女は、話せば話すほど普通の人だ。
普通に生きて、狂った方がきっと楽に過ごせたような道を、正気のまま歩んできた人。
「ははは! おまえにそういう顔をさせるとは。見上げた嫁御どのだ」
「笑いごとではありませんよ」
心底面白そうな顔をして笑う父が、さすがにこの時ばかりは悪趣味だと思った。
「このまま接していると、俺はいずれ、彼女のために便宜を図ってやりたくなるかもしれません」
家のための結婚、と突き放して考えておいたほうが楽な相手であることは明白なのに、隆郷は央姫への態度をいまだに決めかねている。
「それもまた良いではないか」
父だって、隆郷が何を念頭において、自身の「正室」という立場の女との関わり方に身構えているのかは察しているだろう。
しかし父はただ穏やかに、機嫌が良さそうな風情で笑った。
「おまえはおまえのやりたいようにやれば良いのだ」