【3】御風違い
央は、嫁いで間もない自分が、今のところまだ家中では客人のような扱いと大差ないということをよく自覚していた。
彼女はまだ結城での暮らしに馴染んでいるとはとても言い難かった。どちらかと言うと、新しく始まった日々には困惑し通しだ。
まず、結城のご家中には、彼女にとってめぼしい上役というものがいなかった。
大殿や隆郷などの男連中を除けば、彼女が頭を下げるべき相手は誰もいないのだ。何しろ、この家には姑がいなかった。
大殿の奥向きには側室方はそれなりの人数がいるようだが、その正室の座は、長いこと空席となっているらしい。
家中は当主の正室という中心的な存在を欠いている中、かといって特に浮つくこともなく、優秀なお局さま方が分担してその穴を埋めて各々の役割を果たしている。
たとえば、京や大阪の屋敷に入って、諸大名の奥方との顔をつなぐ外交的な役割は、阿茶の局さま。
御領地のほうで留守を守っているのは、嫡男隆郷の生母でもある、西郷の局さま。
そうやって皆々が遠慮し合って、いがみ合わないように協力して家を保っているというような状況では、央に対して大きな顔で姑づらをしてくる人は誰一人いなかった。
むしろ嫡男の正室として家に入った央には遠慮のほうが先に立つようで、誰しも遠慮しいしい、好意的に様子を見つつ歩み寄ろうとしてくれているような雰囲気のほうを強く感じている。
そういう緩やかな歓迎基調の雰囲気は、大殿の側室方だけではなく、結城家中に仕える大半の女房たちにも言えることだった。
遠慮され、客人のように扱われているのは自覚しているが、それでも家中は決して排他的ではなかった。
どうして、みんな優しいのだろうか。
正直なところ、央はこの家に入ってからのあまりの過ごしやすさに困惑気味だった。
関白家にとって結城は有力諸侯の中でも筆頭の家であり、両雄は友好と対立の狭間で、絶えず一定の緊張関係にあるはずだ。
にもかかわらず、関白の養女としてこの家に入ったはずの央に、あからさまな敵意は向けてくるような相手は誰もいなかった。
彼女にとって不可解な相手、その最たるは、夫となった隆郷だった。
その日、隆郷が数日ぶりに伏見の屋敷に帰った夜も、女房たちは当然のように央の寝支度を整えさせて、隆郷の寝所へと連れて行った。
前の夫は、どこかへ出かけて帰ってきた日はたいてい不機嫌だった。それを昼間に思い出していた。
夫の前で何かをすることも、かといって何もしないで姿を見せずにいることも不機嫌の種になったから、央はその顔色を伺うことで精一杯だった。
今にして思えば、夫に愛されたかったというよりは、夫に認められなければと必死だったのかもしれない。「妻」としての役割を果たすために、彼と良い関係を築いて、意見を受け入れてもらい、家のために便宜を図らなければならないと。
前の夫のことを懐かしく思い出すことはないけれど、この家に来てからいくつかのことを考えるようになる中で、今ならばきっともう少し上手くやれたのだろうかと思うこともあった。
あの人が何を考え、何に苦しんでいたのか、央は結局その心の内を一つも知ることができないままだった。
知ろうともしなかったのは、こちらにも諦めがあったということだろう。
「お帰りなさいませ」
央は、あの時と同じ失敗はすまいと思う。
しかし、かといってどうすればいいのかはわからなかった。
たぶん、ただ顔色を伺うような態度を取るのは良くないことなのだろう。
彼が央に言うこと、することを、ただ自然に生じる事象のようにやり過ごそうとするのではなくて、彼という人と真実に向き合い、理解しなければならない。
そうは思っても、だからこそ余計に隆郷の穏やかさが央の目には不気味に、奇異なもののように映った。
「留守中は大過なかったか?」
彼はその夜も特に変わった様子はなかった。
足を組んで、やや姿勢を崩して座っている姿は少し眠そうにも見える。
「はい。心安く過ごさせていただいております」
普段よりも少し重たく響くような声に、多少は疲れが見えるだろうか。
会話は続かなかった。普通に誰かと世間話をしているのであれば、央は会話の接ぎ穂に、「大阪はいかがでしたか?」と聞き返したことだろう。しかし、今はそれが適切な話題であるのかどうか判断がつかない。
大阪で彼がしてきた所用は、政治に関することかもしれず、央の立場で不用意にそれについて触れることは、あるいは、結城の出方に探りを入れていると受け取られるかもしれない。
色々と考えるうちに会話はどうしてもぎこちないものになってしまうが、一方で隆郷は、央と二人でいる時も随分と気安い物言いをするようになっていた。
「うちの女たちは、上方風に慣れたあなたの目には、粗野でせかせかしい田舎者ばかりで大変だろう」
飛び出たのはそんな軽口の雰囲気だったから、少し迷って央も特に取り繕わずに答えた。
「そんなことは。ご家中の女房たちにとっては、逆に私はとんだのろまに見えておりましょう」
他家に嫁いだのだから、多少なりとも御風違いは当然あるものだ。特に結城は質実剛健な東国の家風で、女房たちも女らしく物腰柔らかに、というよりはきびきびと働くことを是としているようだ。
「めだかの群れに、かたつむりが迷い込んだようなもの」
こちらの女房たちには央の性情はよほど間延びして見えるらしく、結城に来てからというもの、やたらとおっとりしているだとか、おみ足を痛めておいでですかとか、言われることが増えた気がする。
「……与加那にはあなたの前ではゆっくり動くように言っておこう」
想像したのか、彼はクスクスと忍び笑いをした。
「いえ、私のほうが家風に馴染むべきでしょう。もうじきに三河にも下ることですし」
近いうちに、隆郷に付いていく形で、彼女は畿内を離れて領国に下ることが決まっている。
行ったこともない遠方の東国でも、央にとっては領国に下ることは、少なくともこのまま京に留まるよりもよほど気が進むことだった。
「父上の思惑もあるとはいえ、あなたに不便な領国での暮らしをさせるのは少し気が引けるな」
「いえ。……誰も私のことを知らぬ場所にいたほうが、却って気が楽というもの」
煌びやかな都の空は、息が詰まる。
それは、養父である関白の目が常に近くにあるという緊張感からでもあったが、何より彼女の神経をすり減らす要因となっているのは、他ならぬ実妹の存在だった。
央の実妹は、関白の側女としてあの家に入り、関白の寵愛を受けている。
妹と央の関係性は複雑で、一言で言い合わらすことはできない。
ただ、存命中の親族の中では最も近しい肉親であるにもかかわらず、いや、逆に近しいからこそ、姉妹の仲は難しい。
妹は、央が彼女だけを大切にしていないと烈火のごとくに怒る。早くに親と死に別れた二人姉妹で、妹は央のことを母代わりとも思って甘えたいのだろう。
彼女は央に、全てを許されたいのだ。妹は時折信じられないような癇癪やわがままを起こしては、央の関心や愛情を図ろうとするきらいがあった。
けれど、あの子は今や、関白殿下の寵妾だ。
妹が、思うに任せないと癇癪を起こして振り上げた拳の下で、姉妹喧嘩では済まされないような事件が起きることこそを、央は最も危惧していた。
それでも央が尼僧院にいた間は、妹は時折お忍びで訪れるくらいでまだ良かったのだが。
「領国は気候も良く、暖かいところと聞き及んでおります」
「ああ」
しかし央が還俗し、結城の家に入ってしまったことで、央が何か妹を刺激してしまったらその癇癪は婚家にまで及びかねないかもしれなかった。
しばらくは、手紙のやり取りくらいしか交流の手立てのない場に行ってしまって、距離を取ったほうがいい。
ふと、会話が途切れた拍子、央が視線を上げると隆郷と目が合った。
彼の視線が、央に止まったまま動かないのを感じて、央は困った。
けれど困った顔が表に出ないように懸命に取り繕った。
婚儀の日の夜以降、隆郷と央は同じ寝所で休んでいても、彼が央に触れることはこれまでのところ一度もない。
けれどまだ、それほどの夜を何事もなく一緒に過ごしたわけでもないので、隆郷がその日どういう心づもりでいるのかまではわからない。
彼は組んで座していた足を崩して、行儀悪く片膝を立てて伸びをした。
「もう寝るか?」
意図を図りかねていると、手を引かれた。
膝をついたまま引き寄せられて、無意識に身を縮めているうちに、彼は央を腕の中に引き寄せたままさっさと布団に横になってしまった。
「あの、……」
抱き寄せる腕の力はそれなりに強かったが、強引な真似はそれきりだった。
どうしたものかと央がまごついているうちに、彼は「おやすみ」とだけ言って隣に寝転びさっさと目を閉じてしまう。
隆郷は央の手を離さないままだったから、央は彼と体の距離を空けることもできずに、すぐ隣にいるしかなかった。
「おやすみ、なさいませ」
隆郷はその日、大阪から帰ったばかりで疲れが溜まっていたのか、実際眠かったらしい。
横になってほどなくして彼は、すぐに眠りの世界に旅立ってしまった。
央はいつまでも訪れてくれない眠気を待って、身を固くしたまま大人しく目を閉じ、じっと夜を過ごした。