【2】婚家の人たち
央姫という人が輿入れしてくる前、結城家の女房たちは当初、ひどく思い違いをしていた。
いくらあの弾正忠さまの姪御という高貴な血筋のお方でも、最初の嫁ぎ先での不幸があって以来、八年も尼寺に暮らしていたお姫さま。
その来歴からも、人相が変わるほどの思いをされていてもおかしくはないし、この世の全てを疎んだような、あるいは萎れ果てた枯れ木のような女が来たとしても、決して驚くまい、と思っていた。
何しろこれは、家と家のための重大な結婚だ。
結城家のため、そして何より、央姫を正室として迎え入れなければならなくなった若殿さまのため、女房たちは誠心誠意お仕えする覚悟だった。たとえ、央姫がどのようなお方だったとしても。
そう、婚礼というよりはひとつの戦に赴くような団結と覚悟を決めて、お輿入れの当日を迎えた女房たちだったが。
それが実際に蓋をあけてみれば、なんとまあ――。
上方の、華やかな関白殿下の御殿から参った花嫁さまの、なんとなんと美しいこと。
お歳は既に三十路近いとは聞き及んでいたが、その落ち着きは、彼女のすらりと伸びた背筋や気品の中に現れこそすれ、苦しんだ歳月の影は感じさせなかった。
隆郷と並んだ姿を見ても、悪目立ちするほど年格好が悪いようには思えない。それどころか涼やかな風情の花嫁には、余人を惹き付け目を引くような不思議な魅力があった。
「噂話のなんてあてにならないことかしら」
「……何も良い情報がないから、てっきり、ねえ」
「お美しい花嫁さま。若殿さまも良かったわね」
「さっきお声をかけていただいたのだけれど、私たちのようなものにまで分け隔てなくお礼を言ってくださって」
「見た? 家老たちの拍子抜けして狐につままれたような顔ったら」
「替え玉じゃないの?」
「いえいえ、それはあり得ないわ。あの気品と立ち振る舞いができる替え玉がいるもんですか」
「あれが本物の姫御前さまなのねえ。三河の田舎じゃとうていお目にかかれないわよね」
央姫があまりに事前の想像と異なる姫君だったものだから、華やかな婚儀の裏で口さがない女房たちは、あれこれと言葉を交わした。
*
与加那は、若殿さま付きの筆頭女房として、結城家の中で誰よりも気を張っていた。
何しろ、央姫にとって気忙しく煩わしいことがないよう、家中のおしゃべりで粗忽な女房たちをしっかりと統制しなければならないからだ。
央姫は、いかにも上方でお育ちのお姫さまらしいおっとりとした風情と、なるほど長く俗世から離れて、常ならぬ日々を送っていたのであろう、独特の雰囲気のお方だった。
少し浮世離れしたようなところがある彼女のために、周囲には念には念を入れて気の利く女たちを集めたつもりだが、そこはやはり結城家の譜代は三河の田舎者ばかり。自ずと限界はあった。
幸いにして、央姫は筆頭として仕えることとなった与加那を、そのまま気に入って下さった。
彼女は普段からおそばに大勢の人間が侍るようなことを好まないようで、周りの者たちもそれを察して、央姫の周囲は静かに整えられていった。
「与加那、与加那」
その日、央姫に呼ばれている声に気がついて、与加那は慌てて御前に滑り出た。
そばに誰もいなかったらしく、央姫は珍しく歩き回って女房を探していたようだった。何事もなければ立って歩くことすら稀な彼女がそうしているのは、何か急を要する用件だろうか。
「いかがなされましたか」
「ああ。ここにいたの」
あまり表情の豊かな方ではないと思っていたが、央姫は目当ての与加那を見つけると、ほんの少し眉間を緩めるようにほっと表情を変えた。
「表が騒がしいようだけれど、旦那さまか、大殿さまがお帰りになったの?」
小柄な彼女と近くに立って並べば、少し見上げられるような形で目が合った。
「はい。若殿さまが先刻、大阪からお戻りになられました」
表御殿のほうが少し騒々しくなってきているのを央姫は気配から感じ取ったようだった。
ここ数日、隆郷は伏見の結城屋敷から足を伸ばして、余所へ所用を済ませに出向いていた。その一行が数日ぶりに帰還したため、表御殿に詰めた使用人たちが気忙しく動き回っているようだった。
「そう。私はお出迎えの支度をしなくても良かったのかしら」
しかし、央姫の用件は、与加那にとっては予想外のことだった。
「ご心配には及びません。表の使用人たちが対応しておりますわ」
「そう?」
そのことを確認するために、わざわざ女房を探して歩き回られたのか。
隆郷の帰りにしたって、平時の所用からの戻りだ。家を空けたのもほんの数日のことで、わざわざ正室が表御殿まで迎えに出向くほどの大事でもない。
……もっともそれは、隆郷や彼女がそのように振る舞うことを望むのあれば、出迎えに出て眉を顰められるほど品位に欠ける行いということでもなかったが。
「ほどなく夕餉の時刻ですし、若殿さまもじきに奥にお戻りになりましょう。夕餉の席か、夜にでも、ご挨拶なさればよろしいかと」
与加那の提案に、央姫は頷いたが、彼女の顔色はなおも浮かないものだった。
「ごめんなさいね。勝手がわからなくて」
「いいえ。私どもこそ、事前にお伝えしておくべきでしたわ」
与加那は央姫を促し、彼女の居室へと戻った。間もなく表からの連絡を女房が運んできたところによると、隆郷から、夕餉を共にしようという伺いだった。
「ええ。夕餉の席を支度してちょうだい」
「かしこまりました」
そこでようやく彼女は落ち着いたようだった。
日々をぼんやりと過ごしていることが多い人だから、時折こういうことがあると、それはどうしても悪目立ちする。
ここ一ヶ月、与加那なりに央姫のことを注意深く観察しているが、時折彼女から張り詰めるような緊張を感じることがあった。
央姫にはこの結城家でなるべく心安く過ごしてほしいし、日々の生活に不満を持ってほしくはないのだが、そのあたりのことに踏み込んで言及すべきか与加那は少しだけ悩んで止めた。
なぜなら、彼女の行き過ぎた気遣いや遠慮の矛先は、たいていの場合、夫となった隆郷に関することに向いているからだ。
央姫が、勝手がわからずに戸惑っている時、その念頭にあるのはきっと最初の結婚生活のことであろうと容易に察せられる。
しかし前の夫と死に別れている央姫の前で、その生活がどのようなものであったか触れるなど、禁句中の禁句に違いなかった。
(……そればかりは、ねえ)
そればかりは、女房たちがどうこうできる問題でもない。
彼ら二人は、婚儀の日が初対面であった新婚の夫婦にしては、決して険悪な仲というわけではない、と思う。けれどそれと同時に、まだ打ち解けているとも言い難いのも事実だった。
隆郷も杓子定規な対応なりに央姫に丁寧に接しているようには思うが、彼に仕えて長い与加那をもってしても、隆郷が何を考えているのか、今ひとつ読み切れないところがあった。
結城家の当主である大殿が決めたこの縁談について、隆郷は一切の否やは唱えなかったという。
彼はたとえ、央姫が当初言われていたような世捨て人同然の姫君でも、文句も言わず彼女を正室として遇する気概を見せただろうし、嫡男としての己の立場を家中で盤石にするためならば、平気で結婚くらいは犠牲にできる人だ。
与加那にとっては、愛らしかった幼い頃から世話をして、よく知っている若さまだ。
しかし、やはり元服してしばらくの時が過ぎて、嫡男として次第に後継ぎに相応しい立場と態度を求められるようになってから、彼は変わっていった。
それ自体は良い変化だ。いずれお家を預かる立場の若さまが、いつまでも育ての女房たちにやり込められているようでは度量を疑われることだろう。隆郷は男として戦場に出て、領民や家臣、この結城一門を守る立場がある。
彼が元服して以降、結城家が大きな戦に直面したことはいまだになかったが、しかし隆郷は近年父と共に他家と渡り合い、諸大名が集まる政治の場にも出るようになっている。彼にとっての戦場は、刃を交える実戦の中ではなく、言論と立ち回りによって命のやり取りをする政の場にあった。
家中の武断派の家老たちの中には、初陣の経験のない隆郷のことをもの知らぬ若造、大殿の言いなりと軽んじる者もいるようだが、隆郷はそういう老兵からの横槍ですらうまくいなして転がしている。
跡取りの自覚というものは、一人の人間をこうも変えさせていくものなのかと、与加那は時折、泣き虫でままごと遊びが好きだった幼い頃の隆郷を思い出す。懐かしむと同時に、お育てした若さまの成長に惚れ惚れするような思いだった。
(まあ、それを思えば、それなりにうまくおやりになるでしょうけれど……)
関白家との縁を繋ぐ姫君を正室に迎えて、隆郷がそうそう無下に扱うとも思えない。
しかし、与加那が不安に思うのはむしろ、隆郷が央姫に、政略的な結婚という意味合いを踏み越えた懸想を向けるような事態のほうかもしれなかった。
央姫には、楚々とした中にもどこかこう、崩れたような色香があって、彼女が無自覚に纏う深い愁いの色には女の与加那ですら時々はっとさせられる。
そして隆郷はまだ若い。そういう意味では若造に違いない。ましてやここ伏見の屋敷で、周囲に側室もいないとなれば、彼が寝所で央姫と仲睦まじい時間を過ごしたいと望むに、なんの疑問もない。
しかし、央姫はそもそも俗世を離れて久しい暮らしを送っていた人だ。
彼女にとっては普通の夫婦生活ですら、耐え難いもののように感じているかもしれない。
こんな野暮な口出しはしたくはないが、与加那は何度かやんわり、夫婦の寝所に宿直をつけてくれるようにと進言し、隆郷からことごとく却下されている。
女房が口を挟むことではないのを重々承知の上だが、肝心なところに限って周囲はあれこれと気を揉むしかないというのもな難儀なことである。
家のために何より肝要なことは、彼ら二人が先々まで破綻しない関係を築くことだ。
だから隆郷が万に一つも、央姫に苦痛を強いるような真似をしないといいのだけれど、と与加那は気を揉んでいた。