閑話:蓮の独白
蓮は、元々の生まれの低さで言えば、本来であれば隆郷の側に上がれるような身ではなかった。
彼女はが生まれたのは、半農半武士のような地侍の家だった。
女子供は日々農作業に精を出し、男たちは戦があれば武装して、意気揚々と出かけていく。
もし戦働きで成果を上げれば、主家から褒美や俸禄をもらって、もっと程度の良い家臣としての扱いに取り立ててもらえるかもしれない。そういう立身出世を夢見るような、取るに足らない家の娘だった。
ましてや蓮の一家は父が早くに亡くなり、母も病弱であまり働けずに苦労をした。弟妹たちはまだ幼くて、蓮がどうにか一家の食い扶持を稼がなければならないとなった時、近所の長屋の人々はみな善意で言った。
――『ご主人のことは気の毒だったけれど、まだ娘がいて良かったわね』『あれだけ見栄えよく育てば、どこへなりとも貰い手が付くでしょう』
半農の貧乏長屋から出たにしては、鄙には稀なほど美しい娘。
これならば娘を嫁に行かせるのに、ろくに持参金がなくとも文句は出まい。それどころかきっと、老いた母や幼い弟妹の面倒もまとめて見てもらえるような、「孝行な」縁談も舞い込むだろう。
当時十代半ばかそこらだった蓮は、それでもいいか、と思っていた。
親族や近所の人々が、一家を心配して親切で取り持ってくれる縁談がどういう種類の話でも、蓮はそれを甘んじて受け入れるつもりでいた。
たとえばそれが、どこかの裕福な商家や庄屋の後妻やら妾奉公だったとしても、食うに困らないだけありがたいことだ。相手も侍の家がいいなどと言っていられるような状況でもなかったし、蓮の第一の望みは幼い弟が無事に成人するまで、父の代わりに大黒柱となって一家を養っていくことだった。
ただ、そういう蓮の健気な心映えに応えるように、運は彼女に味方をした。
たまたま遠縁の便りを伝って、困っている一家がいるという話がお城で働く親戚に伝わったらしく、蓮は下働きとしてお城に仕えさせてもらうことができたのだ。
俸禄は一家を養っていけるほどには潤沢ではなかったが、母は食い扶持のために娘を売らずに済んだことを大層喜んだ。母は自分たちも頑張るからと、農作業と内職に精を出してなんとか家計を支えてくれた。
お城での仕事は、どんな力仕事だろうと雑用だろうと一生懸命にこなした。働き者の下女は気の良い三河女房たちにもとても可愛がってもらえたし、そうすると蓮はますます懸命に働いて、所作や言葉遣いも地下にいた時よりはだんだんと見様見真似で変わっていった。
蓮に、特に目をかけて可愛がってくれたのは、大殿さまのお母上――つまり、隆郷の祖母君だった。
足の悪かった祖母君は、ちょっとした用事の際に下女の手を借りて移動するのが常になっていて、大柄で力持ちだった蓮は重宝されていた。
祖母君は孫の若君たちをたいそう可愛がっていて、特に、当時から家中でも跡取りとして有力と目されていた隆郷のことは特別に気にかけていた。隆郷はよく祖母君のもとにご機嫌伺いや見舞いに訪れていて、蓮が彼と接するようになったのも、そうした流れからのことだった。
蓮は当時、何も知らない年端も行かぬ小娘であったから、雲の上のような存在の主家の若君に接するのは恐れ多いと感じつつも、分不相応であるなどということにまでは考えが至らなかった。お城のお殿さまはいつかお姫さまをお迎えになるものだと思っていたし、側女だとか夜伽役だとか、そういう種類の女性がいるということさえあまり認識していなかった。
だから身分違いは知りつつも、歳の近い気楽さもあって、隆郷が会うたびに珍しい菓子をくれたり、盤遊びを教えてくれたりするのを嬉しく思っていた。
今にして思えば、祖母が可愛がる下女に誰にも断りなく手をつけた隆郷も隆郷だ。
彼もあの頃は幼さが残っていて、今の品行方正な一門の跡取りの顔からは想像できないほど、まだ色々と迂闊だった。蓮もそれを断るような立場にはなかったものだから、なあなあに流されて受け入れているうちに、気がつけばそういうことになっていた。
色々ときちんとしないまま、すぐに身ごもってしまって、若君の「不祥事」は家中でちょっとした騒ぎになったりもした。
蓮は当初こそひどく不安で、何か罰を受けるのではないかと心配したりもしたが、三河の年長者たちはいかんせん大らかだった。それも却って若君の甲斐性だと、生暖かい苦笑を受ける程度の扱いで、蓮は家中で安心して娘を産ませてもらえた。
生まれた娘は、隆郷の母君をはじめとする主家の方々や、譜代の家臣たちにもとても可愛がってもらえた。
隆郷は成人してからはとても忙しくなって、蓮が周囲の人手を借りながらどうにかこうにか娘を育てている間も、ほとんど三河の城に居付くことはなかった。
ほんの時折、会えればそれでも、彼は娘を腕に抱いて可愛がり、そして蓮のことも変わらずに側に呼んでくれた。
そういう、ほんの時々の触れ合いだけでも充分だと思えるほどには、彼は遠く、蓮の知らない、重い宿命と覚悟を背負った世界の男になってしまった。
蓮にとって隆郷は、単に愛しいだけの男と思うには、あまりにも立場が隔たり過ぎていた。
初めからそうだったのか、それとも、彼が父君に付いて政治や戦の世界に出るようになってから、徐々にそう変わっていったのかはわからない。
ただ一つだけ言えることは、それはきっと隆郷にとっては必要な変化で、彼は立派に、その立場にあるべき振る舞いを少しずつ知っていったというだけのことなのだろう。
彼は立派な男に成長した。父君のため家のため、あるいはこの時代というものに、自らの身を賭す覚悟を持って。
柔をもって剛を制するような彼のやり方を、人々はまだ、あるいは父君に従順なだけの傀儡の息子と評することもあるかもしれないが、彼に対してそのような言い条をする家臣たちがいっそ滑稽なほど、彼は既に、見ている景色というものが違う。
蓮もまた、彼が見ている景色を全て知ることは、きっとできないのだろう。
彼の側にいられるだけで幸せだけれど。
もし生まれ変わったら、この次の世ではどうか彼と添い遂げてみたい。
身分の違いも、明日をも知れぬ不安に押し潰される夜もない平和な世界で、彼に対等な愛を乞えたら、きっとどんなにか嬉しいことだろう。
今生でそれは叶わぬことと理解する程度には、蓮は利口で、そして卑屈な女だった。
手を伸ばせは届く距離にいる時でさえ、彼は一時たりとも、蓮だけのものになることはない。
けれど、だからこそ蓮は早くもう一人、彼の子供を産みたいと願っていた。
それもできれば、元気な男の子を。
彼との間に生まれた和姫のことは当然可愛いけれど、愛情とは別に、彼女の心の中には明確な打算があった。吹けば飛ぶような弱い立場では、女はどうしても生き残りをかけて狡猾にならざるを得なくなる。
物知らぬ地侍の娘から、子を産んで母になり、低い生まれから成り上がって家中の末席に加わった蓮は、いつしか忠心と強欲の狭間に身を置いていた。
隆郷が央姫という方を正室に迎えると聞かされた時、蓮は内心で、怖くてたまらなくなった。
隆郷がついに正式な妻を娶る。別にその座が空位だったところで蓮がそこに座れるわけでもないが、それでも正室がいるのといないのとではやはり蓮や娘の扱いも様変わりするだろう。
蓮などは及びもつかない、名門の血筋を汲む生まれながらのお姫さま。
その人と、張り合うことなど考えもつかなかった。必要なのは、とにかく央姫の不興を買わないようにすることと、……そして彼女との関係において、家中の人々を味方につけることだ。
邪魔にならない場所で小さくなっていれば、そうそう邪険にされることもないだろう。
央姫の手前、たとえ一時は遠ざけられたとしても、そうやって日陰の身で大人しくわきまえた顔をしておけば、隆郷が蓮を捨てるとまでは思えなかった。
しかし、蓮にとって最も大きな誤算は、内心でかなり身構えていた母をよそに、娘の和姫が早々に央姫に懐いたことだ。
和姫は極端に口が重くて難しい子に育っていた。母としてはそれでも娘のことは可愛かったが、しかしよそから来る正室さまに、ああいう気難しい子を可愛がってもらうのは少し難しいのではないかと考えていた。それは蓮の意見だけでなく、家中である程度は一致した見解でもあった。
けれど蓋を開けてみれば、和姫は会うなり央姫に懐いたし、央姫もあの子のことを事もなく受け入れて、にこやかに接して下さった。
蓮は当初、央姫がどうしてあれだけ優しいのかわからなかった。
あのゆったりとした風情は、側女など歯牙にもかけないというような余裕の態度なのか、あるいは、まがりなりにも夫の一女を産んでいる蓮に対する、嫉妬などは超越した信頼からのものなのか。
生まれながらのお姫さまは、まるで異なる世界に生きる、別の生き物のように思われた。
央姫は初めて会った時からずっと、蓮の心を強烈に惹き付けてやまない存在だった。
知りたい。
知らなければ、怖いから。指先一つできっと蓮のことなどどこかに追いやってしまえるような、彼女は強い立場の女だ。
知りたい。
いつも泰然として、日々の小さな出来事におっとりと笑い、ただ機嫌が良さそうにしているだけで周囲を笑顔にする人。
そのくせふとした瞬間に見せる横顔はどこか寂しげで、時々、寄る辺のなさを感じさせる。
彼女が、別に全てを超越しているわけでも、強いからいつも笑っていられるわけでもないことは、一緒に過ごすようになって少ししてから知った。
彼女の前半生が決して幸福なだけのものではなかったことは、家中の噂話で女たちはみんな知っている。何かに執着したり、己を守るために立ち回ることすら、もう彼女にとっては億劫なことなのかもしれないと、ふと思った。
央姫はただ、何にも執着しないで生きることにしただけなのだろう。それは覚悟というより、そうするより他に心を守るすべがなかったというだけのことだ。
彼女の優しさになんら嘘がないことを、蓮は自らの子を死産した時に、身をもって知った。
ようやく身ごもった腹の子が月足らずで流れてしまった冬、蓮はひどく悲しくて、塞ぎ込んで泣き暮らしていた。愛情よりも欲得が勝った、打算まみれのそんな女の愚かさに、神仏は冷たいのかもしれなかった。
落ち込んで自棄になったまま、蓮は、央姫に八つ当たりをするような真似をした。
『――これで私も、少しはあなたさまのお気持ちがわかりましたか?』
それは、央姫の心を傷つけるためだけに投げつけた言葉だった。
けれど央姫は、蓮が吐いた毒を受け止めて、ただ痛ましそうな顔をした。
彼女はたぶん、蓮の卑屈な内心も、それを覆い隠して明るく振る舞っている平素の強かさも、全てを見透かして知っている。
彼女を相手にそこまで取り繕えずに言葉の刃をぶつけることは、弱みを晒して縋りついて泣いているのとまるで同義のことだった。ひどく惨めで、消えてなくなりたかった蓮の内心を、彼女も当然わかっていたことだろう。
央姫は愚かな女の手を握り、慰め、来る日も来る日も世話を焼いてくれた。
その情の細やかさは、決して打算や、立場だけから来るものではなかった。
でも彼女は、たぶん元からそういう人だ。
最初に会った時から、央姫はただの一度も蓮に対して打算で接したことはなかったのだろう。蓮は我が身を振り返り、これまでの自分を少しだけ恥じて、そして彼女に深く感謝した。
厳しかった冬が明け、ようやく体調が回復して起き上がれるようになった頃、蓮は結城の菩提寺に参詣した。
央姫が丁重に供養してくれていた月足らずの赤子の墓に参って、墓の前で一人、しばらく手を合わせた。
たかが側室の子に、ましてや元気に生まれられなかった子に、ここまで手をかけて丁重に供養を出してくれた。それは決して当然のことではなくて、央姫の厚意によるものだ。
早く帰って、央姫に会い、礼を言わなければ。
そう思うのに、涙が溢れて止まらなかった。
彼女の優しい笑顔と無償の愛は、和姫や生まれられなかったこの子にだけでなく、蓮に対しても同じように向けられている。
彼女の庇護の手の中に自分があるのだと知った時、蓮はこの家にいて初めて、深い安堵を覚えていた。




