【13】それでも
「私は以前の嫁ぎ先で、子を亡くしました」
央姫の穏やかな淡々とした語り口は、ともすれば優しいほどの音色で隆郷の耳へと届いた。
そのこと自体は隆郷も知っている。しかし考えてみれば、彼女の口からこうして聞くのは初めてのことだった。
「かわいらしい子でした。まだ振り分け髪の。にこにことして。……今にして思えば、あの子は今の和よりも、ずいぶんとお小さかったこと」
隆郷は相槌を挟む変わりに、膝の上で彼女の手を取り、その手を握った。重ねた懊悩の長さを示すように、彼女の言葉からは思い描くその光景がありありと見て取れた。
しかし、次いで彼女の口をついて出た言葉は、隆郷にとっては予想外のものだった。
「私、あの子のことを、この手でちっとも、育てられもしなかったんです。それどころか、ろくに抱き上げた記憶もないの」
震える声が自らの苦しみの記憶を暴く中、その手を隆郷はずっと握っていた。
「あの子は私の子ではなく、婚家の、あの家の子でした。産んですぐに連れていかれて、跡取りとして義母に取られて。わた、私は、あの家ではあまりに弱い立場でした。夫にも義母にも、逆らうことも、自分の意見を言うこともできずに。勇気をだして、……あの子に会わせてと、ただ、言い出すことさえも、できなかった」
央姫から、かつての結婚の話を一度として聞いたことはなかった。
ただ隆郷は、おぼろげながら彼女はきっと最初の結婚で幸せだったのだろうと思い込んでいた。この人はきっと、前の夫にも愛されていたのだろうと。
だって彼女を自らの妻として、どうして大切に守って、慈しまないでいられる男がいようか。
「けれどだからこそ、婚家がああいうことになった後、あの子のことは強く強く未練に残りました。ああ、どうしてわたしは、あの子の短かった生涯に、少しも、母として情を交わして、愛してあげられなかったのか、」
血を吐くような独白と、静かな涙を流す彼女が痛々しい。央姫はなおも泣いた自分を恥じるように、隆郷の手から手を離してそっと袖で涙をぬぐうから、隆郷はそのすっかり冷えた肩を抱いて抱き寄せた。
「申し訳ありません。今少し、平然としていられればと思いますのに」
「謝るな。取り繕うなと言ったのは俺だ」
自らの心の内に気持ちが向いているからか、隆郷がそうして触れても、彼女はいつものように身を縮めることもなく、ただ落ち着いて身を預けてくれていた。
こうして今、初めて彼女に触れたような気がするというのも皮肉なものだ。
「尼僧院を出る時、お世話になった院主さまとお約束したんです。もう、意味のない涙はこちらに置いていくよう、言われました。ですから、私はもう泣くことはないのです。夜だから、暗くてよくは見えないし、旦那さまは朝になれば、もう何も覚えてはおられません」
そうしてほしいという彼女のせめてもの強がりに、隆郷はただ頷いた。
彼女は誇り高い人だ。その矜持をいたずらに傷つけることを、隆郷もまた望まなかった。
「そうだろう。しかしあなたを傷つける言説と、必要以上に戦う必要はない。この件を片付けるためにあなたを矢面に立たせることはないし、もう二度とあなたが国長の女房たちと城内で顔を合わせることもない。そのくらいのことは、俺にもさせてほしい」
「ありがとうございます。しかし、申しましたように、あの者たちにひどい目に合ってほしいとは私は思いません。どうか許される範囲で、穏便に」
「ああ。わかっている」
同じだけの経験をしていない隆郷には、彼女の痛みを類推することしかできない。
しかし隆郷は、自らの恐ろしく身近にもう一人、彼女に似た身を切るような苦痛を抱えたまま生きているであろう人物を知っている。――それは、隆郷の父だった。
父はかつて、自ら妻子を見殺しにしてまでこの家を守った。
「……央姫」
名を呼びかけ、隆郷はその小さな体を腕の中に囲ったまま、この静かな夜を分け合うようにそっと深く身を寄せた。それは穏やかな、親愛の情からの触れ合いだった。
少なくとも央姫もまた、それを受け入れてくれていた。肩を抱いた隆郷の腕に、彼女の手がそっと触れ、呼びかけに答えるように隆郷の着物の袖をくしゃりと力なく掴んだ。
「あなたの言葉には、深い苦しみと同時に、この世を生き抜くだけの強かさを感じる」
癒えることのない苦しみは、人を狂わせることも、強くすることもある。
深い苦しみの中に一度は沈んだ彼女は、それでも今ここにこうして居てくれる。
「一度目の結婚では婚家で立場を得られなかったことを、あなたは深く後悔した。けれどあなたは、同じ失敗はしない人だ。現に今、あなたは結城で立派に正室としてやってくれているし、その立場で上手く立ち回ってくれている」
同じ過ちを決して繰り返さないと、信じて再び前を向くことの、どれだけ難しいことだろう。
その健気な心映えに敬意を表しこそすれ、隆郷は彼女が弱い人だとは少しも思わなかった。
「旦那さま。それは違います」
央姫が、しかし弱々しく少し笑った気配がした。
「確かに私はこの家に来る時、もう少し頑張ってみようと心に誓いましたけれど。けれど、結局のところそれは、私の行いのみでどうすることもできません。私が今、こんなにも心安く過ごせているのは、結城の皆さまのお優しさのおかげ。あなたさまの、おかげです」
隆郷は、柄にもなく胸が喜びに高鳴るのを感じ、今はそんな場合でもないのだとすぐに思い直した。しかし央姫が、隆郷と一緒になったことに真実に幸福を覚えてくれているのなら、隆郷もまたその事実に深い安堵を覚える。
「だって、今回のことで思いましたもの。もし義父上がご自身の跡取りを旦那さまでなく、たとえば国長どのと定めていたら、私はそちらと縁付くことになっていたかもしれないでしょう? そうすれば二度目の結婚生活ももっと嫌なものになっていたに違いありません」
あり得そうで嫌な想像をする央姫に、隆郷は軽口を返した。
「そうしたら俺はあなたに横恋慕でもしようかな」
「あら。兄嫁に道をはずれた懸想ですか」
「そうだ。そうなれば、俺はきっと国長が羨ましくて仕方なかったに違いない」
央姫はくすくすと笑って、その顔にはもう、昼間の顔色は見る影もなかった。
彼女に、ずっとこの家に居付いてほしいと思う。
様々な立場の都合が交錯する戦乱の中、一つの戦で全てがひっくり返る世で、それでも彼女に、いつまでも結城の人間でいてほしい。この先もずっと、永らえて安泰な日々の中で、彼女を守り続けたい。
それはひどく難しく、大それた願いであることを承知の上で。




