【12】癒えぬ苦しみ
与加那は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたが、央はその日はもう誰とも関わり合いになりたくなかった。
夕餉の席を普段通りに蓮や和姫と一緒に支度しても良いかと問われ、今日は何も食べる気になれないと答えると、与加那は「少し早いですけれど、お床をのべてしまいましょうか」と言って寝支度を整えてくれた。
彼女の気遣いに感謝し、陽が落ちて早々の時間にもう部屋を閉め切ってしまって、布団の中に潜り込んで誰の声も聞こえないよう耳目を閉ざした。そうして己の中で解決するより他に、この苦しみに向き合うすべはないと知っていた。
大丈夫。朝になればきっと、いつも通りの顔ができるだろう。
央はそう自分に言い聞かせた。明日になればみんなに会って、和姫には傷の具合を聞かなければならないし、蓮には城下で見た物珍しいものの話でも聞いて、参詣の労をねぎらい、またいつも通りの一日が始まるのだ。
目を閉じても眠気はなかなか訪れてくれなかったが、それでも気がつかないうちに幾度かうとうとと少し意識が落ちることを繰り返し、気がつけば夜半になっていた。
央がふと気がついたのは、障子戸がそっと開く気配だった。
物音を立てぬようにと気遣った衣擦れの音がして、央はとっさに身を起こした。
「……旦那さま?」
几帳の影から姿を覗かせた衣擦れの主は隆郷だった。
「起こしてしまったか?」
「いえ。少し眠りが浅かったようで」
彼が夜半の訪いをすまないと言い置くから、央は少し目を擦りながら、床から出て布団の横にきちんと座り直した。
「妻の寝所は夜半に訪れて差し障りのない場所ですわ」
央の返答を聞き、隆郷は少し目を見張った後に彼女に笑みを返した。
「そうだったな」
用件を問うと、央の前に座った彼は今日の昼間のことの顛末を話して聞かせた。
昼間の女房は、隆郷の異母弟、国長に仕える使用人たちということだった。
「国長どのの」
央はその異母弟と、何度か顔を合わせたことはあるが、儀礼的な以上の言葉を交わしたことはなかった。
そういえば、隆郷と国長が話をしているところを央は見たことすらなかったような気がする。
「国長は先の関白との戦にも出ていて、あれの軍勢は家中で一番の大きな被害を出している」
それは、央が長らく尼僧院にいた間に起きたらしい、近年では最も規模が大きい戦の一つで、関白家と結城家の間に起きた戦の話だった。
今では表向き友好的な同盟関係にある関白家と結城家は、ほんの数年前までは戦場で刃を交えて相争う仲だったのだ。そして央は、まがりなりにもその関白の養女としてここにいる。
「国長付きの家臣たちの中には、親兄弟をその戦で亡くした者も多い。それもあってどうしても関白に対する憎悪がいまだ抜けきらぬようだ」
「そうでしたか。それは、仕方のないことですね」
それは戦乱の世では珍しい話でもなかった。
央は頷きながら、しかし隆郷の話の中の少し妙なところに気がついた。
「しかし、国長どのはそのお歳で初陣を経験なさっているのですね」
隆郷は確か、まだ実戦の戦に出たことはないという話だった。
歳の頃を考えれば、彼はまだ先の戦の時は元服の前後だっただろう。だから隆郷自身はその戦に参加しておらず、それ以降は結城に大きな戦はなかったので、彼がまだ初陣を経験していないこと自体は特に違和感のない話だ。
しかし彼の弟の国長は戦場に出たことがあるという。
隆郷は、央がその疑問を口にしなければ説明する気のなかったことだろうが、かといって特段隠しだてをすることもなく答えてくれた。
「国長は、今では俺の弟という扱いになっているが、実際には同年か、あるいはあちらのほうが少し先に生まれているんだ」
それもまた、戦国の世にはよくあるような話だった。
「母同士の出自や生まれた時の状況のこともあったんだろう。父は俺を跡取りとして遇して、長幼の序を逆と定めた。家中にも以前はそのことに反発する者もいたが、先般の戦での失態でほとんどその芽は潰れた。……国長は血気に逸った初陣で、父の言うことも聞かずに独断で動いて、結果として自陣に大きな犠牲を出したからな」
「さようでしたか」
嫡出の絶対的な跡取りがいる場合を除いては、息子たちの中で誰を後継者と目すのかは当主の胸先三寸というところもある。
「なるほどそれは、さぞや折り合いも悪いことでしょう」
断片的な説明を聞くだけにおいても、国長が「兄」である隆郷を恨む理由は想像するに余りある。
それと同時に、結城家の大殿はきっと、いかにも隆郷のような息子が好みであろうな、と央は思った。
隆郷は賢明な男だ。父親に従順で自省的であることが、自らに求められる役割であると理解している。彼は俯瞰で物事を考えることのできる、武家の子息として稀有な才を持っている。
そして国長は明らかに、そんな兄とは真逆の男のようだった。
「仔細承知いたしました。なるべくならば、穏便にお済ませいただければと存じますが、それでは示しがつかないこともありましょうし、後のことは全て旦那さまと義母上の判断にお任せいたします」
央個人の一存としては、昼間の女たちになんら重い処罰は望まなかった。しかし、仮にも本家の正室に対してあの態度を取る女房たちを野放しにしておくことは、家中の序列と風土を乱すことにも繋がるだろう。
そうした内情を踏まえての央の言上に、隆郷は奇妙な間の後に頷いた。
「何か?」
「……いや。もうすっかり、普段のあなただな」
彼は、どちらかと言えば拍子抜けしたというような顔だった。
昼間は取り繕ったことを言う余裕さえなかった央は、そんな自分の様子を恥じた。
「昼間はお見苦しいところをお見せしました」
「あなたをああまでおかしくさせたのは、やはり女房たちのあの言葉か?」
「……私が、自らあの場を収めることができていれば、こうまでお手を煩わせずに済みましたでしょうに」
「責めているのではない。ただ聞いているだけだ」
央は黙り込んだ。
それと同時に当惑していた。
この家に嫁いで一年と少し。隆郷はこれまで、互いに快適でぶつかり合わずにいられる距離から先には決して踏み込んでは来なかった。
言葉にせずとも二人の間でそれは不文律であったし、だから今回も、隆郷は央を困らせない距離で引いてくれると思った。
「普段から、あなたは穏やかだししっかりしているし。もうすっかり過去のことはあなたの中で折り合いがついているのかと思っていた」
央の遠回しな拒絶に気がつかないはずもないのに、彼は構わずに真正面から央を揺さぶるような真似をする。
「けれど違った。あなたはたぶん、弱いところも傷ついたところも残したまま、どうにか取り繕って、今日まで上手く過ごしているだけだったんだろう」
そうとわかっているのなら、聞かないでほしい。
彼が、朝になってから会いに来てくれれば良かった。そうすれば央はもう完璧に普段通りの顔をして彼に対峙することができただろう。
しかし時間をかけて傷口を覆い隠してしまう前の、まだ昨日が続いたような夜の時間に彼は現れた。夜の時間は、線引きを曖昧にする。
「……過去のこと、折り合いがついていないわけではありません。しかし、過ぎたこととて、悪意を持って土足で踏み荒らされれば、ほんの少し心がざわめくこともありましょう」
動揺し、普段の央が言わぬような皮肉げなことを言っても、隆郷はなおも引こうとしなかった。
「俺は上手な顔をしたあなたではなく、何も取り繕えなくなった、本当のあなたと話がしたい」
弱いところも剥き出しの傷も、あるままを晒せと彼は言う。
「随分と、ひどいことをおっしゃいますのね」
それらと向き合うこと自体、央にとっては痛みを伴うことであるにもかかわらず。
隆郷は彼にしては珍しい、弱ったような自嘲的な笑みを浮かべた。
「俺は、あなたを知りたい。あなたを傷つけてでも」
許してくれ、と彼は言うのだ。
央を傷つけても構わない。けれど、それは央が憎いからではない。彼自身がこれまでの距離を踏み越えて、央を真実に理解したいと望んでいるから。
「私は……」
央はしばし悩んで、逡巡したまま、ようようなんとか口を開いた。
癒えぬ苦しみについて話すことは、どうしても、一時の大きな苦痛をもたらす。しかし、人は己の苦しみについて理解されることで救われるということを、央もまた知っている。
彼に理解されたいという欲と、反面、話したところで望むような結果は得られないのではないかという不安の狭間で、央は深く葛藤していた。




