【10】揺動
三河での暮らしは、それから大過もなく、穏やかに流れていった。
忙しない京での暮らしから様変わりした日常は、上方からついてきた女房たちに言わせれば退屈そのものであるらしい。
しかし央にしてみれば、ただ何事にも脅かされることなく、静かに今日と同じ明日を迎えることができる日々は喜ばしいものだった。
この平穏が束の間のものであるのか、それとも長く続く安泰なのか。
政治の中心である京から離れたことで、央は時々、一寸先も見えない闇の中に立っているような気分になった。明日にはこの穏やかな暮らしも、戦乱の渦の中に消えてしまうのかもしれない。
しかし三河の城にいる限り、央にできることは何もない。何かを知ろうとすることがむしろ央自身の身を危険に晒すことになる。
正室として央に求められる数少ない役割は、関白家と内通しないことと、央をここに置いた隆郷の意向に逆らわないことだけだった。
月日は大過なく巡り、変わり映えのしない日々の中で、やがて一年が過ぎた。
その日、央はやはり、三河の城の広大な庭で和姫のことを追いかけていた。
「かず。そっち行っちゃだめよ」
どうして和姫がそこまで央に懐いたのかはわからないが、彼女はなぜか央のことをずっと気に入ったままだ。最近ではますます遠慮というものがなくなって、歳の離れた姉か何かと思っているかのような態度さえ取るようになった。
まあ央は、人生の中でぼんやりと過ごしてきた時間が長すぎて、いまだにしっかりとしていないところがあるとは自認している。そういう央の性情をこの子は正確に見切っているのかもしれない。
和姫は極端に口が重く、難しい子のまま育っていた。
あの溌溂とした生母を持ちながらこういう子が育つというのも、巡り合わせとは不思議なものだ。けれど三河ののんびりとした風土と、蓮の優しさのもとで育つことは、和姫に取っては本当に良かったことだろう。央は、蓮が和姫の気難しさを叱っているところをいまだに見たことがなかった。
蓮も蓮でだいぶん大らかなので、和姫がどうしても言うことを聞かない時などは、有無を言わせず首根っこを掴んで親猫が子猫にそうするかのようにほいほいと連れ回している。
たぶん京にいた頃の央だったら、そういうところを見れば田舎の粗雑さに驚いて、呆気に取られてしまっただろうが、最近ではすっかり見慣れてそういうものだと思うようになっていた。気がつけば央もずいぶん三河の大らかな風土に馴染んでいるのかもしれない。
しかし、そうした大味の振る舞いを見慣れてきてはいても、かといって央自身がそういう真似ができるようになるかというと、それはまた別の話だ。
「かず。和、だめよ、帰りましょう」
その日はたまたま、和姫と二人で庭先にいた。
一緒にトンボを見ていたら、ふと何に興味が映ったのか、和姫はすたすたと普段行かないほうへと歩き出してしまった。央は声をかけながらその後を追ったが、当然和姫は止まってくれるはずもなく、子供の足はどんどん速くなる。
いつの間にか小走りになって、それでも和姫はなおのこと足を速めた。
ああ、わかった。たぶん彼女は、央をからかっているだけだ。ちらちらと振り返りながら息が上がりかける央を楽しそうに見ている。
思わぬやんちゃは、普段であれば後ろから見ていた女房たちなど慌てて追い付いて、央がふらふらになる前に和姫を掴まえてくれるような他愛ないじゃれ合いだった。
けれど、その日は単に少し間が悪かった。折悪く、西の丸の主だった女房たちが留守にしている日だった。
先般二人目の子を懐妊した蓮が、安産の祈祷のために城下の菩提寺に赴いていて、与加那たちもみんなそれに付き従っているからだった。
御殿に誰もいないわけではないにしろ、人手は足りずに、誰も央と和姫を見ていなかったのかもしれない。央は和姫を追いかけながら何度か後ろを振り返ったが、期待に反して誰も二人を追いかけてきてはいなかった。
そうこうしているうちに、和姫が木々の乱立する森を抜け、その先の生垣にわずかな切れ目ができている隙間に潜り込んで更に逃げようとしたものだから、央は慌てた。
「かず! こらっ」
そっちはもう、城の中でも表側の、誰が出入りするかもわからないような城門付近だ。
この庭から出られたら央はもう追いかけられないし、見失ったら、彼女の身を危険に晒してしまうかもしれない。
央は焦って走り寄り、生け垣をかき分けてもう体の半分ほどは外に出かけてしまっている和姫の着物を必死に掴んだ。
しかし、その時に履き物に足を引っかけてしまって、大いに態勢を崩した。
「!」
転んだ央に、急に勢いのついた力で強く後ろに引かれた和姫は、運悪く生け垣の折れて鋭くなった枝先の上に叩きつけられた。
それから先の出来事はあっという間のことだった。
気がついた時には、和姫の弾かれたような泣き声にどこからか人が駆けつけてきた。それはいつもの央に顔馴染みの西の丸の女房たちではなかった。
しかし彼女たちのほうは央の顔を知っていたようで、こんな西の丸から遠い城の外れで央が和姫を怪我させ、泣かせているという状況を見て、すぐさま金切り声をあげて央を非難した。
「何をしているの!!」
「離れなさい!」
しかし、央は状況を勘違いをしているらしい女房たちからの制止に構う暇なく、泣く和姫の手を掴み上げていた。 だって、頬を枝の切っ先で切ってしまったのか、柔らかい肌には真新しい傷がついてしまっている。それなのに和姫は頬の涙を拭おうとして、転んで泥のついた手で自分の頬を擦ってしまう。
傷口から汚れが入って傷が倦んだらいけない。
知らない女房たちは、央が和姫に伸ばした手を押さえ付けた。それは骨が砕けそうなほど強く無遠慮な力で、彼女たちはまるで央の手から守るかのように和姫を抱きしめ、ああおかわいそうに、と和姫を猫なで声であやした。
「まあ! まあまあ、なんてこと! ちい姫さまに何をなさったのですか!」
「お願い、この子の手当てを先に。ああほら、手に泥が。かず! ほっぺに触らないで。早く洗ってあげて」
「どの口でそういうことを申すのです?! ちい姫が怯えられるわ、これ以上声を荒げないでくださいませ」
「話は後で、……とにかく、顔に傷でも残ったら」
「都合が悪いからといって話を逸らさないでくださいな! ご自分が何をしたかわかっておいでですか! こんなところにちい姫を連れ出して、何をなさるおつもりだったの!」
女たちは、央が和姫をいじめていたと信じて疑わないようだった。
彼女たちがどこの者なのかはわからないにしろ、結城家の一門の中には、関白家の養女としてこの家に入っている央に必ずしも好意的な人々ばかりではない。もとは敵方の家の娘だ。
そういうことをよくわかっていたからこそ、央はこれまでいたずらに城内を出歩かず、ほとんど西の丸から出ないで過ごしていたというのに。
状況は悪く、央が和姫に怪我を負わせてしまって、しかも誰も一部始終を見ている者もいない庭の奥での出来事だった。女たちは鬼の首でも取ったかのように央を責めた。
途中から和姫は、傷の痛みや転んだ衝撃よりも、央を責め立てる女たちの剣幕に驚いてますます泣いていただけだろう。
けれど、女房たちは泣き止まない和をかわいそうがるばかりで、一向に傷の手当てに連れて行ってもくれなかった。
「まったく、西の丸の女房たちも使えないこと」
「――子を亡くした女に子供を預けるなんて、恨みで何をされるかわからないっていうのに」
女たちが吐き捨てるように言った言葉は、鋭利な刃物となって、央の心のいまだ癒え切らぬ場所に突き刺さった。
「ああいやだ。自分の子が死んだからって、人の子も、子を産んだ母親もみんなみんな憎くて憎くて仕方ないのね」
「ねえっ、何かお言いなさいよ!」
黙り込んでしまった央が、女たちにはひどくぼんやりして見えたようだった。
焦れた女房の一人が、どん! と央の背中を押した。央はのろのろとしてその場で足がもつれてその場に転んでしまう。
手をあげられたという、その事実にも情けないことに体が驚いて硬直してしまい、央はその場を収めるためにどうにか体裁を保って取り繕うように振る舞うべきが、現実には何もできずに、ただその場で俯いてしまった。
女たちが、央に何かさらにまくし立てて追い打ちをかける声はもはや聞こえず、ただ俯いたまま、和姫が弾かれたようにひどく大声で泣く声だけが遠く央の耳に響いた。
拉致の明かなくなった揉め事は、生け垣の向こうの表御殿のほうにまで騒ぎが伝わってしまったらしい。
「――何をしている?」
ほどなくして現れたのは、たまたまその日城内で近くにいたらしい、隆郷だった。




