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【1】身の上話





 このままずっと、死んだ子の歳を数えて生きていくのだと思っていた。







 いつの時代にも、珍しくもないような話だ。


 (おう)にとっての最初の結婚は、不幸なものだった。


 最初の夫に嫁いだ頃、央はまだ十三か十四そこらだった。あくまで家同士の縁を結ぶための結婚であったから、央がまだ妻となるには幼すぎたことも、周囲の大人たちの間ではさほど問題にもされないようなことだった。


 ただ、若いというよりはいっそ幼いと言えるような年頃の花嫁は、その立場に期待される役割を果たすことができなかった。


 夫とはあまり良い関係を築けたとは言えなかったし、姑や家中の家来たちからの信頼を得ることもできず、央は生家と婚家の間で板挟みとなって、次第に苦しい立場に追い込まれていった。


 彼女は決して自分の血統や育ちを笠に着て、夫や婚家を見下したわけではなかったが、周囲はそういう色眼鏡を通して央を見た。


 夫は、特に対外的な場では央を本家筋の姫君として立てて過ごさなければならないことが、ひどく気に障ったようだった。


 彼もまた、譜代の家臣たちに大切に大切に育てれらた一城の主だった。周囲から若さま殿さまと持ち上げられて育って暮らしていた人だから、外交というものを知らず、相応に世の時流にも疎かった。


 夫はどちらかといえば、向こう見ずな蛮勇を、武将としての資質と思い込んでいるような人だった。


 武勇だけで生き残れる時代は終わっているのだと、彼はきっと最期まで知らないままだっただろう。


 彼の何が悪かったのかと問われれば、おそらく生まれた時代が悪かった。この生き延びるだに難しい時代に、家を守る才に欠けた男が、当主として立ってしまった。


 その時点でもう、あの家の命運は尽き果ててしまったのだ。


 それでも央は、どうにか婚家の尽きかけた命運を救い上げようとして、幾度も幾度も真摯に夫のため、婚家のために進言を重ねた。しかし夫はそのたび、生意気な小娘だと央をなじっては叱り飛ばすだけで、央の意見が聞き入れられたことは一度としてなかった。


 筋の通らない同盟は結んではならない。戦働きだけでは、この世を立ち回れない。主家筋に逆らってはならない。


『――小賢しい女だ』


『――俺を愚弄しているのか?! 俺のやり方に口を出すな!』


 時には、激昂した夫に髪を掴み上げられ、脇息や廊下の欄干に頭を打ち付けられるようなこともあった。


 言葉を尽くして説得しようとしても、央が何かを言えば夫は気分を害するだけだった。夫の暴力は、ほかに人目がない寝所では特にひどくなった。






 そうした地獄のような日々が続いて、やがて夫は、決定的な悪手を踏んだ。


 最大勢力との同盟に背き、報復と見せしめを受けて、大軍に城を囲まれ攻め落とされるに至ったのだった。


 まるで砂の城が崩れ落ちるかのように呆気なく婚家は滅び、夫は城を枕に討ち死にして果てた。


 けれど、央はそこで婚家の人間として殺されることもなく、焼け落ちる寸前の城から救い出された。むしろ丁重なまでの扱いだった。


 こういう時、多くの場合、女は命が助かる。央は婚家の嫁としてではなく、生家の出自に相応の扱いを受けたのだった。


 もし。


 こういうことが、嫁いだ当初に起きたことであったなら。


 薄情な央は、夫にも婚家にももはやなんの未練なく、ただ輿に揺られて助け出されてこの地を静かに去れたことだろう。

 不幸な結婚生活にも、婚家にも、なんの思い入れもありはしなかった。


 もし。


 ――央が婚家で、子を産む前であったのならば。


 央は数年前に、夫との間に男児を産んでいた。央があの家に入ってから、あまりにも時間が経ち過ぎていたのだ。


 ああ。あの時、気の毒そうに央にそのことを告げたのは、誰の声であっただろうか。


『――お子のことは、お方さまには、お気の毒なことですが』


 世の慣習として、家が滅ぶ時も女は助けてもらえる。

 けれど央があの家で産んだ子は、不運にも男の子だった。


『ご覧にならないほうがよろしいかと』


 央の子は、戦火の混乱の中で姑に抱き抱えられて連れ出されたらしかった。


 姑は城から亡命を試みたもののほどなくして軍勢に捕えられ、央がそのことを知った時には、もう全てが終わった後だった。


 捕らえられた我が子が連座で処刑されたと聞いて、央はその時自分がどうしたのか、よく覚えていない。


 今となっては記憶は何もかもがいっそ曖昧で、何が現実で、何が悪夢だったのかも定かではない。


 だって、とても諦めきれなかった。


 悪夢の向こうで大勢の人間が、泣き叫びうずくまる央に対して何かを言って聞かせては、代わる代わるに彼女を諭した。


『仕方のないことでしょう。これも世のならい』


『敗軍の将の血筋は、根絶やしにしておく必要がございます』


『先々に争いの火種を残さないためにも。たとえそれが、罪のない幼子であっても』


『今はお辛くとも、お子はまた産めます』


 何も耳に入らなかった。武家の習わしについて滔々と言って聞かせる言葉も、央の悲しみを深めるばかりで、なんの慰めにもならなかった。


 罪もない我が子を殺された。しかし、殺されても仕方のないことだった。諦めて粛々と、武家の女としての「正しい」振る舞いをしろ、と強要されて、行き場をなくした恨みを抱えて、央の時間はその時そこで止まってしまった。


 いっそ、あの子に死をもたらした明確な敵でもあれば、央は敵を後生大事に恨んで復讐を誓い、自らを奮い立たせることもできただろうに。


 けれど、央の不幸に明確な敵はいなかった。憎いというのなら、央はこの世の理全てを憎まなければならなかった。


 いったい自分はどこで間違えてしまったのだろう。何がいけなかったのだろう。何もできなかった己の無力さを呪えばよいのか。あの子がなぜ、死ななければならなかったのか。


 そうして央は自分自身を恨み、この世の全てを呪って暮らした。


 やがて、同じ場所で永遠に堂々巡りを繰り返す思考に、とても終わりが見えないということを知った。


 この世に生き続ける限り、この地獄から逃れる術はない。だとすれば、央はこのままずっと誰にも気づかれない場所でひっそりと息をして歳を取り、ただ死がこの身を救ってくれる時を待つより他なかった。


 央は夫を亡くし、子を亡くし、寄る辺のなくなった者たちが集まる尼僧院に身を寄せた。

 療養と称した静かな日々を送ることを許されたのも、気鬱の相を患った女を周囲が扱いかねたということもあったのだろう。


 彼女はそうして、波風の立たない静かな日々の中で、隠遁して八年という時を過ごした。


 八年だ。


 それだけの時が経てば、央はもうこのままずっと、自分は死んだ子の歳を数えながら生きていくのだと日々を疑いもしなかった。













 しかし、央の養父は、八年が経ったある日、突然彼女の縁談を決めて寄越した。


『……再嫁?』


 いきなり突き付けられた縁談の打診に、央は院主に呼び出された部屋で困惑の声を上げた。


『関白さんも無茶を言いますねえ』


 院主は、養父への呆れ半分、央への同情半分といった様子の顔だった。


 もっとも、これは実質的に逆らうことのできない命令だった。


 時の関白の意向に逆らえる者など誰もいないし、養父とはいえ、央にとってその男は、常に央の身をおびやかす危険性のある人物だった。


 央はしばらく黙り込んだのち、平素の問答をする時のように、穏やかな声で院主に呼びかけた。


『院主さま』


 賢明な彼女は、自分がどうするべきかということをよくわかっていた。


『私は、このお話に従うべきでしょう。これまでお世話になった方々に報いて、ここを去るためには』


 ここで央が無駄な拒絶をすれば、養父は手を回してこの尼僧院を取り潰したり、あるいはもっとむごいことすらし兼ねないと思った。


 これまで彼女に優しくしてくれた人たちに迷惑をかけずに去るためには、央は再嫁の打診に素直に頷いておくのがよいのだろう。


『もう、充分。充分、よくしていただきました』


 八年前、この尼僧院に来たばかりの当初、央は自分の立ち回りによって何かを守るとか、周囲の人の恩に報いることなど、きっと到底考えられないような状態だったはずだ。


 気鬱の相を患った央は、誰の目にも使いものにならないと明らかなほどの有り様だったのだろう。何せあの狡猾で抜け目のない関白をして、央を放置したほどだ。


 別に八年前、敢えて気狂いのふりをしていたというわけでもなかったが、気がつけば穏やかな時間が過ぎ去る中で、心も体も癒えた。

 そして央はまた俗世のことわりに引き戻されようとしている。


 ああ。

 嫌だな。と思った。


 ここを出て世に戻されれば、止まっていた央の時間は、また独りでに動き出してしまう。


 どうして放っておいてくれないのか。ただ息をしているだけで央は満足だ。何かを得れば、また何かを失うことになる。何かを得れば、失ったものを忘れ去ってしまう。


『院主さま。どこかに嫁げば私は、また誰かの子を産むかもしれません。けれど、その子は私の、あの子ではありません。また誰かの子を産んだとて、その子だって、また死ぬのかもしれません』


 院主は、がんぜない子供に説法を説いて聞かせる時のように、淡々とした声音で央に答えた。


『央姫さま。死んだ子は、もう戻っては来ませんよ』


 強い言葉を使っても、院主の皺深い目元はいつも慈愛の色に縁取られている。


 それは央が最もほしかった言葉でもあって、最も聞きたくなかった言葉でもあった。


『あなたはどこに居ても、何をしていても、これからもそのことを忘れずに、その天命のついえるまでは生きていくしかないのだから。それはここにいても、俗世にお戻りになられても、変わりのないこと』


 この乱世の世に、央のような不幸を抱えた女などは珍しくもない。院主は等しく、ここに身を寄せる女たちにその手を差し伸べる存在だった。


『けれど、なんの心配もありません。この院や私どものことまでお考え下さる、お優しい央姫さまのことですもの。きっとどこにおいでになっても、あなたさまはあなたさまのままで、多くの方々に慕われ、愛されることになるでしょう』


『院主さま。私は、優しくなどありません。……私は薄情で、愚かで、惨めな女です』


 急速に俗世のことわりに引き戻されようとしていることを感じた時、央が真っ先におぼえたのは、強い罪悪感だった。


 ……あの子が殺された時、よほど自分も死のうと思った。


 けれど、結局は悩んで悩んで死に切れなかった。

 罪のない子を死なせた。央は、その後を追ってやりもしなかった。


 あの時央はどうしても、あの家や夫のためには死ねなかった。あの子だって、あの家の子として生まれたくてそこに生まれたわけではなかったのに。


 ――逆縁の不孝を起こした子は、賽の河原で、親が死んで来るのをいつまでも待っているという。あの子も今、一人でその河原にいるのだろうか。


 けれど、こんな母のためになど、そんな冷たい場所で石を積んでいなくていい。


 ごめんなさい。薄情な母のことは恨んで、そしてどうか忘れて。


 安らかに成仏するか、それとも、それもできないほど恨みを残しているのなら、いっそ央のこともそちらに連れて行ってほしい。


 院主は、そうやって涙を流す央を責めなかった。


 央が泣き止むのを根気強く待って、その歳月の刻まれたほっそりとした指先で、そっと頬の涙を拭ってくれた。


『いいえ、央姫さま。深く傷つくのは情の深さ故ですよ。あなたさまはお優しい。お優しい人ほど、ご自分をお責めになりますからね』


 この場所で央がただ穏やかな時間を過ごすことができたのも、死に体だった央にひたすら慈愛を注ぎ続けてくれた彼女たちのおかげだった。


『けれど確かにあなたさまは、いっそ痛ましいほどお心根が真っ直ぐでいらっしゃる。そのお心でこの世を渡っていくには、さぞやおつらいこともありましょう。だからというわけではないけれど、せめてどうかここに、今日の涙は置いていかれませ』


 もう、失ったもののことを思って泣き暮らすのはやめろと、院主は最後に彼女を諭した。


『悲しみに引きずられてご不幸でいることが、死んだ者たちに報いることではないと、あなたさまは本当はもうお気づきのはず』


『手厳しいことをおっしゃいますね』


『この婆があなたさまに差し上げられるものなど、もう、はなむけの言葉くらいですから』


 ここを出てしまえば、央はもうここに戻ることはできないだろう。もう、この優しい人に今生で会うこともないのだと感じ、央はそのことを寂しく思った。


『お言葉、胸に刻みます』


 老婆は春の日差しのような暖かな笑顔を浮かべた。

 央はいつまでも、その時の院主の顔を忘れなかった。


『どうかいつまでも、息災で』










       *









 二度目の結婚の年、彼女は既に三十路近くなっていた。



 対する夫は六つも年下で初婚。まだ男としても武将としても、若い盛りの人だった。


 そういう人と、あと数年でお褥滑りも勧められる頃かどうかという女とを娶せる据わりの悪い縁談に、特に婚家の人々はひどく気を揉んでいることだろう。


 しかし彼らも表向きは、あくまで関白家の養女をありがたがって迎え入れなければならない立場だった。


 急ぞろえの派手派手しい婚儀は、まさに内実の空虚さを金銀財宝で取り繕うような白々しいものだった。


 央はその儀式の中心で場違いなほど美々しく飾り立てられ、綿帽子の下で、厚塗りの白粉が剥げないように表情一つ動かさずに黙って座っていた。


 結構なことだ。


 関白殿下のご威光は一筋の翳りもなく天下を照らし、養女の央姫さまがお輿入れしてご縁を結び、今後ますます、両家の間は申し分もなく――。


 ただでさえ気詰まりな場であるのに、これが央にとっては二度目の結婚で、ましてや還俗して間もない身であるということは列席者の間で周知の事実だった。


 実のところ央は、新しく夫となるその人がどういう人間であるのかということだけは、内心で少し気に病んでいた。


 新しい夫。彼の名を、隆郷(たかさと)という。


 彼は関白治世の中でも有力な諸侯の筆頭、結城家の嫡男だった。


 彼は、大大名家の跡取り息子にしては、柔和な、どこか女性じみた風貌を感じさせるような男だった。


 ただ、近くで気配を感じればやはり、武将として鍛え上げられた肉体に、たくましい上背。そういうところはいかにも気鋭の若武者らしい。


 あの体で手をあげられれば、きっと央などひとたまりもないだろう。









 その夜、央は、新婚の夫婦の初夜にしつらえられた閨にいた。


 昼間の席ではろくに言葉を交わすこともなかったから、央はそこで初めてまともに夫と顔を合わせた。


「央にございます」


 夜の薄明かりの中で見上げれば、彼はなおさら美しい男に見えた。


「いく久しく、よろしくお願い申し上げます」


 定型通りの言上を紡ぎ、畳の上でそっと手をつく。


 形式的なこの夜を、央はどう無心でやり過ごすかということだけを考えていた。どうすれば彼の不興を買わないように振る舞えるのか考えもつかなくて、途方に暮れるような心地だった。


 俯いたままでいると、央のすぐ手前に、彼が片膝を付いてしゃがみ込んだ。


「ああ。末永う、花嫁どの」


 彼女が返事をするよりも先に、その手が肩に触れる。央はこの時失敗をして、反射的にびくりと身を震わせてしまった。しかし隆郷は特に気にも留めなかったようだ。


 央が固まっているうちに、彼はやや強引な所作で、平伏した央の身を起こさせて抱き上げた。


 弱い灯りに照らされた寝所はこれ見よがしな設えで、逃げ場はないように思われた。


 分厚い屏風の向こうの間には、幾人もの人間が潜んできっと聞き耳を立てている。立会人たちは、央に粗相がないか意地悪な耳目を向けているかもしれない。


「……そう、困った顔をなさるな」


 褥の上で抱き下ろされて固まると、彼は少し苦笑を漏らすようにそう言った。


 間近で見上げれば、隆郷は切れ長の凛々しい目を少し細めて、こちらを見ていた。


 蛇に睨まれた蛙のように身動き一つできない央を見下ろして、彼は髪を撫で、少し身をかがめて央の耳元に顔を寄せた。


「少しだけ、辛抱を」


 屏風の向こうには聞こえないような小さな声音でそう囁かれ、そのことに央は、ようやく少しだけ安心した。ああ、彼もまた、この結婚を完遂する役目を果たそうとしているのだとわかったからだ。


 互いにこの結婚を受け入れる夜、この男の目に自分の姿がどう見えているのか、その夜の間中央はずっと恐ろしくてたまらなかった。


 けれど、心配していたようなことは何も起こらなかった。


 隆郷は淡々と央に触れ、特段不満げにすることもなくことに及んだ。その行為は央に、耐え難いほどの苦痛は与えないものだった。


 並んだ布団で共に眠りにつく頃になってようやく、ふと央は、自分はもしかしたらまだもう少し、この家で生きていくことができるのかもしれないと思った。










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