二葉亭四迷『浮雲』への考察
小説家を志す私にとって、この江戸から明治への転換期、即ち様々な概念が変革され行く激動期にあり、初の言文一致による人々の世界把握の仕方の改変を始め、前近代の文学から、新たな近代の文学への移行を試みた『浮雲』という作品は、正に学ぶものの宝庫であった。今回は、その中から大学の授業でも取り上げられた手法を幾つか提示し、それぞれの意義について私なりに考察する。
まずは第一篇39ページに見る、西洋的な擬人法。
ここで二葉亭四迷は、従来の和歌や漢文を用いた静的風景描写から一転、「まなざし」にこだわり、時間の推移と共に月を動画的姿勢で捉えた、動的風景描写を成し遂げた。三つの時間各々に、同じ動詞を語形変化だけをもって対応させるという所に、私は強く興味をそそられる。更にその際に重視した「まなざし」を、登場人物たちの心理描写へも利用するという手法には、素人目ながら、そこに熟練の技術を感じずにはいられない。私も、こうした形の美や、それを作る際の工夫を心理描写へまで生かす技術を、自分の作品に反映させていけるよう努力したい。
次に第一篇から第三篇へ掛けての、変容する語り手の位置。
当初は主人公・文三の内面の代弁や「独り言」、それに対抗する外部からの評価との対話性をもって三人称小説として成立していたが、第三篇では後者がほぼ脱落し、それにより一人称小説へと近付いている。つまり、これは同じ三人称の語り手でも、使用によってはその性格を大きく変容させ得るという事実の顕著な実例に他ならず、私にはその変容こそが、表現の面白さに思えて仕方がない。授業や友人からは酷評であるが、これも使い所次第では更なる濃度を生むに違いなく、是非とも活用したい技術である。肝腎要はそれをどこでどう使い分けるかであり、それを見極める戦術眼こそ、小説家の最たる武器の一つなのではなかろうか。
加えて第一、二篇などでの、普段は軽視しがちな一般名詞。
華やかさや洒落っ気の代名詞である「菊見」を見ると、それに行くお勢と昇、行かずに第八回の大半を孤独と葛藤で苦しむ文三、この対比が実に明瞭で甚だしい。又、第二篇139、179ページでの文三の世界の代名詞である「二階」の用法を見るだけで、お勢の文三への冷めいく心理が読者へ伝わる。更に、文三と「二階」の関係性を物語全域に追うならば、文三の心理的領土の止めどのない縮小の様が、正に一目瞭然である。思うにこれらの称賛すべき所とは、実際に対比や心理描写を表す表現は存在しないにもかかわらず、自然と対比や心理の移行を読み取ってしまう所にあるあろう。小説を書くなら、何気ない一般名詞などの道具の選択も重視するのは当然とは言え、ここまで有効に使い回す事の出来る道具の発見は、なかなか骨の折れる作業のはずだ。改めて、この作業の大切さを実感した。
最後に再び第一篇38から39ページの、和・漢文脈の連続。
新たな文学の構築を目指す中で、敢えて伝統的な日本文学のコードを導入、前近代の文学で最高峰とされた定型的な風景描写を大々的に展開し、展開しつつも、近代の象徴たる文三とお勢がそれを見る事はない。授業でこれが指摘された折、私は驚嘆すると同時に、小説家を目指すならこの程度の計算能力は必要なのだと痛感し、自分なりにそれに挑戦しようと躍起に為った。結果、後の大番返しの布石という観点でなら、多少なりとも自分にもやれるという結論に達し、今も実践し続けている。このように、婉曲すれども自分の解釈を広げ、活用も可能な『浮雲』に、早い段階で出会えた事は幸いだろう。又私は、前後の文脈とは異なるコードを突如として持ち込む事で、その箇所だけあらゆる面での雰囲気を徹底的に変更するこの手法は、非常に便利で且つ容易であると実感し、早速同様にして使ってみた。読んでもらうと確かに効果は有るようで、これは錬磨の対象に為ると確信した。
以上のように多くの手法を学び取り、そして自分なりに解釈、活用出来るだけの大きな幅を有するこの『浮雲』のような作品は、小説家として立つ事を目標とするならば、正にその道には不可欠な「コード」である事が伺えるだろう。
以降には、初めの一読における篇別の感想程度のものを載せておく。第一篇の表現に関しては、難解な単語が長々と連なりじれったいようでいて、しかし読んでいると情景が映像として浮かんでくるような、的確かつ効果的な比喩や心理描写には脱帽する限りであった。
例を挙げれば、まず第二回終盤の文三がお勢に心惹かれ始める場面で、その掴み難いもやもやした気持ちの増大を、始めは気にも留めぬ程の小さな虫が、やがては大きく重い蛇にまで成長するという隠喩で示し、しかもお勢のどっちつかずの態度により苦しむ様を、文三の腹の中で蛇がそんな生殺しに耐え兼ねてのたうち回り、腸を噛みちぎるという生々しさをもって描き出している。
又、第四回から第五回に掛けての、免職の事をなんとかお政へ告白せんと苦悩する文三の優柔不断な心境の行路では、惜しみなくページを割いての、文三の心中の台詞と言葉に出しての台詞の掛け合い、そして打ち明けるべきお政と聞かれたくないお勢の二人の登場による、文三の葛藤の緊迫した臨場感、これらをもっての読者を引き込んで離さない表現力に、私は大いに魅せられた。
第二篇では文三、昇双方がお勢への恋慕を当人へと突き付けるという、物語のストーリーにおいても登場人物の心理描写においても、最も重要と為る段階へと入ってきた。それ故に注目すべき場面も多いが、私はその中から第八、十二回の二つに、特に興味をそそられた。
先ず第八回であるが、これは三分の二が文三のお勢を巡る心理描写で埋められている。私はそんな、忌み嫌う昇にお勢を取られ、一人家に残った彼の、延々と続く挙動不審や脳内の葛藤の表現には、ただただ感服するのみであった。あれだけしつこく一人の男の内情のみを、改行も殆ど無しで描写し続けられて、どうして読み手のこちらは一切の飽きを感じずにいられるのか。やはりそれは、筆者の文章表現が極めて高度な水準に達し、文三の心理を様々な知見から生き生きと伝わらせてくる事に由来するのだろう。第一篇に比べると格段に読みやすさを増し、より言文一致を完成体へと近付けつつある筆者が、その計り知れない辛苦を伴う挑戦の中で、ここまで読者を引き込む表現力を失わずにいるのには、ひたすらに畏敬の念を募らせるのみである。又、文三が母からの励ましの手紙を受け、母にこれ程の心労を与えながら、お勢の事なんぞばかり考えている自分を失跡する場面では、私は単純に文三に共感し、尊敬した。
そして珍しく会話文が主体と為った第十二回だが、遠回しではあるが遂にお勢へ自分の想いを吐露する文三と、昇を気に入り彼を卑下する文三を諌めるお勢とのすれ違いや、そんなお勢に対しつい喧嘩腰に為り、お勢に決して彼女は自分と両想いなどではなく、昇の方が良いとまで言わせてしまう文三の不器用などがひしひしと伝わり、いよいよ物語も佳境へ突入した事が思い知らされて面白かった。この面白さというものは、文三やお勢、昇の三角関係を形成する要因が、単なるありきたりのなまなました恋模様などではなく、互いの信ずる真の恋愛への志という、極めて高尚な所に在るからこそ生じてくるものであろう。
友人たちの間でも、なんだ文三のこの体たらくはと罵られ、授業でも、文三の妄想が独りでに暴走していると評されるこの第三篇だが、私個人としては、第一、第二篇にも増して、多分に面白味をはらんだ内容に思えてならない。
私は別の授業にて、物語の構成要素はフィクション、即ちストーリーと、ナレーション、即ち語り口の二つであり、後者の方が圧倒に重要な位置を占めるという事を習っている。『浮雲』第三篇を面白く感じる要因の一つには、このナレーションが平成に生きる我々のそれに格段に近付き、又文三への批判性が喪失した事で、逆に彼の深層心理へ接近する作業が容易と為った事もあるだろう。しかしそれ以上に、私は文三の深層心理により強烈に触れる事で、改めて彼と自分との余りに酷似した性癖を見出した事をもって、上記のように述べている。
第十六回の序盤にて、文三を代弁する語り手は、「今となッて考えてみれば、お勢はさほど高潔でもない。」とし、「意味もない外見の美、それを内部のと混同して」いたのを恥ずべき事だと評している。これは、私自身が女性不信に陥った折の合理化の真理を、正にそのまま文章化したものに他ならない。更にその後お勢について、ある何かに「如何にも熱心そうに見えるものの、固より一時の浮想ゆえ、まだ真味を味わわぬうちに(中略)打棄ててしまう」女だと酷評し、一方で彼自身については「何事につけても、己一人のも責めてあえて叨りにお勢を冘めなかッた」のが「よろしくなかッた」と弁護する立場を明示している。加えて第十九回では、文三が園田家において精神的に徹底して追い詰められていく中で、人情に縛られるが故に未だそこへ留まっているのだと述べられている。
私は、これらは全て文三にとっての鉄壁の自己防衛手段と為り得るものであり、己のアイデンティティを死守し、存在を保っていく為には必須の思考回路であると考える。おそらくこの思考をもって、多くの人々は第三篇を文三の一人妄想ごっこと評するのだろうが、少なくとも私個人には、この思考を擁護する立場へ身を置いても構わぬ、という覚悟がある。二葉亭四迷自身もこの作品をごみ扱いしているという事だが、素人目ながら私には、これは心のか弱い青年の、人間味溢れる葛藤と自己の確立を描いた良作に思えてならないのである。