第三章 現実の女神と絵画の女神 (回顧)
ヨン達に別れを告げハイムの村を出発した僕らは、クライストの街に戻ってきていた。
これから目指す先、リレイドとハイダルシアの国境を守る関所の街イーダストまでは、まだまだ距離があるため旅に必要な食料の買い出しも行う必要があった。
「リオンはリレイドの国を出るのは初めてか?」
隣に座るルインさんは言う。
店屋の前の椅子に僕らは腰掛けていた。エイダの服を買っているわけではないけど、買い物はマリアさんに任せきりとなっていたので、僕ら二人は素直に待っていた。
「はい、生まれて初めてです……一応」
「一応って?」
「僕が小さい頃に一度、ハイダルシアの小さな村には行ったことがあるそうなんです。なんでも、死んだ母はその村の出身だったとか……」
孤児院に入る前の話だった。といっても小さな頃だったので村の名前も何も覚えてはいない。
「ふーん、そっか」
「そっかって、聞いたわりには興味がないんですね?」
「悪い悪い。そういうわけではないけど、俺とマリアは旅をしてるからハイダルシア国内によく行ってたんだ」
「ハイダルシアは安定した国ですし、入国が楽だからですか?」
ハイダルシアは4大国随一の広大な国土を持っていることでも有名だが、4大国の中で一番、関所での入国審査が楽だった。楽な理由はいろいろあるらしいけど、国土が大きすぎで不法入国を取り締まるのが大変な為、入国審査を楽にする代わりに正規の入国者を増やそうとしているらしいとの噂もある。
「それもあるな。あとはリレイドとハイダルシアの交流のよさも大きい」
ルインさんの言う通り大戦が終わった後に、いち早く国交を回復したのも、この両国であった。
「ただ、イーダストはリレイド内で一番教会信者の多い町、無駄な騒ぎを起こさず、早く通過するに限るな」
「それなら、町には寄らずに、ハイダルシアに入ればいいじゃないですか?」
ふと思ったことを思わず口に出してしまった。
イーダストの町は、国境にそって大きな壁があるわけでもなく、ハイダルシアの領内に入る際には、先程も言った通り町を通過しないでも簡単に入ることができた。
「チッチッ。それが甘いんだな。リオン君」
人差し指を器用に横に振りながら、学校の先生のように言う。
「どうしてですか?」
「確かに大戦が終わり平和になった。人々の交流が増えていき、リレイドとハイダルシアの国境には大きな壁がなくなった」
「……それなら」
「それでも、決して同じ国ではない。ハイダルシアは不法入国を許されない。もちろんどこの国もだけど」
「でも、不正に入ってもバレないですよね?」
不正行為を認めるわけではないけど、思わず売り言葉に買い言葉でムキになって聞き返してしまう自分がいた。
「残念、国境の町では証明書の発行と証明印を押すようにしているんだ。これがないとハイダルシア領内のどの町にも入れない、つまり買い物もできないし、宿にも泊まれない。もちろん途中で警備隊に見つかると問答無用で牢屋行きだ」
「でも、町に寄らないで通過するだけなら……」
「うーん。理論的には可能だけど……前にも言ったように4大国の中で一番の国土を誇り、国土のほとんどが雪に覆われるハイダルシア領内で、1回も町に寄らずに通過することは難しいし、いたるところに警備隊の基地があって、小さな関所や広域を見張っているから、現実的には無理だろうな」
「……そうですよね。すいません、変なこと聞いて」
「いや、いいって。リオンはエイダのことを思って極力見つからない選択肢を考えてくれてるんだろ。それに、そろそろ戻ってきたみたいだ」
そう言って手を振るルインさんの視線の先には買い物を終えたマリアさんとエイダの姿があった。
こちらに向かってくるマリアさんの手には袋が1つだけ、その姿に安堵したのは僕だけではないだろう。さすがのマリアさんの購買欲も今は身を潜めてくれていたようだ。
合流すると、さっそくイーダストの街を目指す。
少し急げば、夜までにたどり着ける距離だった。
しばらく歩くと遠目にイーダストの街が見えてくる。するとルインさんは岩陰に荷物置き始めた。
「どうしたんですか?」
僕の問いに「今日はここで一泊しよう」と当たり前のように言った。
「え? イーダストの街には入らなんです?」
「いや、用心して明日の朝にしようと思う。この時間は街の中に人が一番多いからな」
時刻は夕方を過ぎ、夜になろうとしていた。栄えている街であれば酒場も多く、酔っぱらった荒くれ者も自然と多くなる。
「ということは野宿ですか?」
「そうなるな」
野宿が決まるとすぐさま焚火の炎でマリアさんは料理を始めた。
おそらくマリアさんは最初から野宿になると分かっていたのだろう。会話がなくても二人の間には阿吽の呼吸のようなもがあるように見えていた。
「マリアさん上手いですよね」
前から思ってはいたけど、テキパキと料理を作っていく手際のよさには驚かされる。
「それはそうさ。もともとマリアは家政婦だったから」
「ルイン」
マリアさんは料理の手を止める。
「悪い悪い。でも良いだろそれぐらい」
当の本人は悪びれた様子もなく言う。
「へぇー。マリアさんは家政婦さんだったんですね」
「ええ、昔の話ですけど」
気のせいかマリアさんは言葉短めに話を切り上げる。なんとなくあまり触れて欲しくないのだと思えた。
「エイダさん、どうしました?」
話題を変えるように、マリアさんは鍋を覗いていたエイダに尋ねる。
「すごく……いい匂い」
「エイダって食いしん坊なんだな」
エイダを見ながらルインさんは楽しそうに言う。
「……違うよ……」
「そうですよね。ルインはデリカシーがないから」
「じゃあ、なんで見てたんだ?」
「きっと、エイダさんは料理に興味があるんですよ。ですよね?」
「……うん」
少し恥ずかしそうに頷く。
「教えましょうか?」
「……うん……やってみる」
マリアさんの横で教わるエイダの姿を見ていると、二人の姿が本当の姉妹のように見えた。
食事も終わり、僕とルインさんは交代で焚火の番をすることに。
先にテントの中で横になっていても、なかなか寝付けない……起き上がると焚火の傍に腰掛けた。
「まだ交代には早くないか?」
焚き火に枝を投げ入れながら、ルインさんは言う。
辺りは静かで、生き物の鳴き声すら聞こえなかった。
「違うんです。ただ……」
「眠れないのか?」
「はい……」
目の前ではパチパチと音を立てながら、焚火が燃え上がっている。
「まぁしょうがないか。リレイドを出てからここまで、休む間もなく、いろいろあったからな」
これまでのことを思い出すようにルインさんは言う。
リレイドでエイダと出会ってから……普通に学校に通っていて味わえないような日々を過ごしている。それが嫌という訳ではないし、後悔はしていない。それでも慣れない事もある……。
「人の死は苦手か?」
「……はい」
顔に出ていたのだろうか? ルインさんには全てお見通しのようだ。
「分かるよ。普通の人には縁のないことだからな」
「ルインさんは人を殺したことが……ありますか?」
おそるおそる尋ねてみる。返ってくる答えが怖くもあった。
「あるって言ったらどうする?」
「え?」
「フ、冗談だよ。運のいいことに俺もマリアも人を殺したことはない。そして俺もマリアも人を殺したくはない」
「……」
殺してない……簡単な理由だけど、少しだけ安心している自分がいた。
「でも、もし自分の命が狙われたときには……どうするかは分からない、いくら世界が平和とはいえ、悪人がいないわけではないからな」
ルインさんの言葉に反応するように焚火からパチと大きな木の割れる音が響いた。
「強いですね……ルインさんは」
「強くなんてないさ」
そう言うと足元に落ちている枝を半分に折って、焚火の中に放り投げる。一瞬だけ火が大きくなった後、また落ち着きを取り戻す。
「僕は……怖くて……今でも目を瞑ると思い浮かぶんです」
固くなって動かない体……流れる赤黒い液体……顔に張り付いてしまっている表情、すべてが脳に刻み込まれている。
「僕が殺したわけではないのに……」
「すぐに慣れろとも言わないし、慣れてほしくもないな……でも、この旅を無事に終わらせるためには……エイダを守るためには避けては通れない道だと思ったほうがいい。それも全部含めてお前はエイダをエルルインに連れていくって決めたはずだろ?」
「……はい」
決してあの時の決心が揺らいだわけではない。それでも、時々迷っている自分もいた……揺れる僕の心を映し出すかのように、焚火の炎も風によって小刻みに揺れていた。
「あの……一つだけ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「どうして二人は旅をしているんですか?」
「……」
じっとルインさんは考えるように黙る。
「なんとなくルインさんもマリアさんも、いい家の育ちに見えて……」
ここまで一緒に旅をしている中で、なんとなく感じていた。二人の所作や仕草には洗練された基礎のようなものが垣間見えて、ただの旅人ではないように思えた。
「例えばだけど……」
そう言って一瞬、ルインさんは間をあける。
「ある国……いや、一族にしきたりがあった。そのしきたりの内容は、生まれてくる跡継ぎは双子ではいけないという変わったものだった」
「……」
揺れる炎が映るルインさんの目は真剣で、何か大切な話をこれから語ろうとしているのだと思うと、容易に口を挟んではいけないのだと感じたし、上手い言葉も思い浮かばない。
「はるか昔に決められたもので、理由なんてもう誰も分からなくなっている。それでもしきたりであり、その一族は守り続け、一族の者はみんな子供が生まれる時、双子でないことを願っていた」
ルインさんの言葉を聞いているかのように、目の前の炎は穏やかに燃え続けている。
「あるとき悲劇は突然やってきた……」
「双子が生まれて……しまった?」
「あぁ残念ながらな。新しい命の誕生という素晴らしい出来事だったはずが、係わった全ての人達を一瞬で絶望のどん底に叩き落してしまった」
「どうしたんですか? 赤ちゃんは?」
「……殺した」
「え?」
「存在を殺したんだ……双子のうち弟を牢屋に閉じ込め、生まれた子供は一人だったと世の中には公表したそうだ」
「そんな……ひどい」
「しきたりにはまだ続きがあった。双子が生まれた場合は片方を殺さなければならない……ただし跡取りである兄の身に何があるか分からない為、双子の片方は、すぐには殺さず。しばらくは一目のない場所で育て、兄が無事に成人するまでは殺すなと。弟は替え玉として生きながらえ、必要ないと分かれば殺される運命を背負わされたんだ」
「……人の命ですよ」
そんな簡単に生き死にを勝手に決めていいわけがない。
つい先日、目の前で人の死を痛感したことで余計にも信じられなかった。
「それでもしきたりなんだよ」
「……」
ルインさんの言葉に一段と迫力が備わる。
僕は単純に何も言えなかった。
「兄弟でありながら、先に母親の胎内から生まれたかどうかで人生が大きく狂ってしまう。ギャンブルのような……いや、ギャンブルより酷いかな」
そう言って引いたように笑う姿はまるで、この人は一度絶望を味わったことがあるようにも感じられた。
「それで、その弟はどうなったんですか? 殺されたんですか?」
「兄が成人する日だった。弟は一族の見守る中、暗い棺桶の中に入れられ蓋を閉められた。蓋の裏には無数の針が付いていて、閉まると同時に串刺しにされたよ。棺桶の隙間からは、夥しいほど赤い血が流れていたそうだ」
「……」
言葉がでないとはこういうことを言うのだろうか? 想像しただけでも悍ましい殺し方……それを家族が行うのだ。常軌を逸しているとしか考えられない。
「どうして……こんな話を僕にしたんですか?」
「どうしてだろうな……俺にも分からない。ただ、人の命はいろいろあるってことを知っていて欲しかったからかな。人の命を奪う者もいれば、奪われる者もいる、はたまた初めから決まった命もある。全部同じ命なのにな……」
「実は、この話には続きがあるんだ」
「続きですか?」
「噂では、暗い棺桶には抜け道があって弟は死なずにすみ、家を出て、名を捨て、自由奔放に旅をしているとか」
「……それって?」
鈍感な僕でも、なんとなく予想ができる。この話は実話でもしかして……。
「やめやめ。こんな暗い作り話はなし。物語は終了。さて、眠気覚ましに川で顔洗ってくるな。火の番をよろしく」
無理やり言葉を遮ると、有無を言わせずルインさんはそのまま暗闇の中に消えていった。
「……ルインさん」
物語って言っていたけど……本当だろうか? 具体的な話が現実感を醸し出している。でも……そうだとして、僕は何を言えばいいのか分からない。消えていくルインさんの背中をじっと見つめることしかできなかった。
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パシャパシャ。
暗闇に川の流れるせせらぎと、水しぶきの音が響いている。
「はぁー……」
袖を濡らしながらルインは何度も川の水で顔を洗っていた。まるで拭えない何かを必死に落とそうとするかのように……あまりの水の冷たさに手の感覚が徐々になくなりかけていた。
「どうぞ」
気配もなく暗闇から差し出される一枚のタオル。
月明かりに照らされて、可愛らしいクマの刺繡が浮き上がっている。
「マリアか……ありがと」
「いえ」
タオルを渡すと、そのままマリアはルインの横に並んで腰かけた。
「……」
「……」
どちらも遠慮したように口を閉じる。二人の間には自然と沈黙が支配していた。
「聞いていたのか?」
ふいにルインが口を開く。
「……はい」
マリアが頷くと「そっか」とルインは小さく呟き、タオルで濡れた顔を拭く。
「……ルイン様、私……やっぱり」
搾り出すようにマリアは言葉を選んでいく。言葉の節々から苦しさが痛いほど伝わってくる。
「言わなくていいよ。マリアさん」
それをルインは手で制する。
「でも……」
「いいんだよ。俺は今幸せだから。ね、マリアさん」
「……はい」
そう言って下を向くマリアの頬には、涙の線ができていた。