第九章 追う者と追われる者 (合流)
雲が覆いつくした空は灰色に染まり、まるで子供が泣いているかのようだった。身を隠すものにとっては明るい空の下よりも、今くらいの天候が望ましくもある。手配書が出回っているわけではなさそうだが、顔をあまり多くの人に見られたくはない。とくにイーダストは教会信仰の強い街、あんなことがあった後だとしても……枢機卿である私の顔を知っている者がいてもおかしくはない。どちらにせよ細心の注意を払うべきことであることに変わりはなかった。
イーダストの街の南門に隣接した関所、ここを通らなければリレイドからイーダストの街に入ることはできない。人々が活動を始める時間よりも早く来たおかげで、国境検査室に他の旅人の姿はなく、すんなり私の番がやってきた。
検査室の受付には、眼鏡をかけた年配の女性が一人、椅子に座って出迎えてくれる。
「証明書の発行をお願いします」
私が言うと、慣れたように女性は引き出しから一枚の紙を取り出した。
「こちらにご記入頂き、ご提出下さい。その後、奥の部屋で手荷物検査と身体検査を行います。男性は入って右奥に進んで下さい」
舞台の台本のように読み終えると、女性はネジが切れた人形のように押し黙る。まるで心を持たない機械のようにも見えた。周りに誰もいないことが余計に怖くもあった。
奥の部屋には制服を着た警備隊の兵士が一人、眠たそうに眼をこすっていた。こんな朝早くに来る旅人も珍しいのだろう。意図的にこの時間を狙ってきたとはいえ少し申し訳ない気持ちにもなる。
「荷物を確認します」
肩にかけていた鞄を渡すと、中を物色していく。
「次は身体検査です。両手を上げて」
今度は体を触ってチェックしていく。至近距離まで近づかれても、この兵士は私に気づいていないようだ。当たり前だが、私の知名度もまだまだのようだ。
「はい、問題ありません。ようこそイーダストの街へ」
そう言って検査室から先に通される。関所の裏手のドアを抜けると、そのまま街の入口へとつながっていた。
どうやら無事にイーダストの街に入ることができたようだ。あとはリンと合流するだけ、約束の場所は裏通りである。イーダストのように規模の大きな国境の街では、かなり奥深くまでいかないと裏通りにはたどり着けない。その分、表の光が当たることが減り、普通の街に比べて、裏の治安は悪くなるいっぽうであった。
「だから離してください。私には待っている人がいるんです」
裏通りに向かって歩いていると、聞き覚えのある声が聞こえてくる。一緒にいるのは数人の男だろうか。声からして、あまり好意的な相手ではなさそうだ。
思った通り、少し困った様子のリンを逃がさないように3人の男が取り囲んでいた。着ている服のみすぼらしさからも、表通りの住人ではなく、裏通りの住人であることが見て取れた。人数は3人で圧倒的に不利ではあるが、腕も細く、鍛えられた様子のない姿から想像するに、リンに敵う相手ではなさそうだ。
ただし、裏通りとはいえ人目がないわけではない。そのせいもあってあまり大っぴらにチンピラをボコボコにするわけにはいかないのだろう。周りに潜んでいるであろう仲間の“影”も助けようにも助けられない状況だ。
と、なれば待ち人である私が助けに入るほかなさそうだ。
「すまないが、妹を離してくれないか?」
「セシ……ジーニアス兄様」
リンは一瞬驚きからセシルと言いかけて、すぐに言い直す。設定上の関係を思い出したようだ。
「妹? 誰だお前は?」
「言葉が理解できないのか? 私は妹だといったはずだが、つまりキミ達が強引に取り囲む女性の兄ということになる」
「おうおうおう、兄だがなんだがしらねぇけどな、こっちは今可愛い子ちゃんとお楽しみ前でイライラしてんだよ。邪魔すんなら容赦しねぇぞ」
いかつい眼で脅されているのは理解できるが、言っている意味は理解不能だ。その道理で私がリンを置いて逃げるはずがないだろうに。やはり知能指数はあまり高くないようだ。そんな相手に言葉は意味をなさない。ちょうどいいかもしれない、素振りの成果でも確かめようではないか。
「やれやれ……」
数分後、私の周りにはうめき声を上げながら地面に倒れる男達の姿があった。さっきまでの威勢はどこにいったのだろうか。鈍っていた体を鍛えなおす実践にもなりはしなかった。裏通りのならず者といってもこんなものなのだろう。
「申し訳ありません。お手を煩わせてしまって」
駆け寄ってくると、周りに聞こえないように小さな声でリンは言う。
「かまわないよ。困っている妹を助けるのも兄の務めだ」
本物の兄妹がいない私にとって、兄として一度は言ってみたいセリフであった。
「さて、無事合流できたわけだし。少し落ち着いて話をしたいんだが……」
「それでしたら、この先の宿を押さえています」
「さすが、仕事が早いね」
蹲っている男達はこのままでいいだろう。急所は外しておいたので数十分もすれば起き上がれるはずだ。
「じゃあ行こうか」
リンに案内されるまま裏通りをさらに奥へ進み、橋の下の暗いトンネルを抜けた先に、お目当ての宿はあった。第一印象は家と家を無理やり縫い合わせたような……つぎはぎだらけの巨大なボロ屋に見えた。無理やり部屋数を増やしたのが外から見ただけでも分かる。大丈夫なのだろうか? 崩れる一歩手前で、絶妙なバランスで維持されているように思えた。
「こんにちは」
気にした様子もなくリンは開いていた扉からつぎはぎ宿の中に入っていく。彼女にとっては見慣れた光景なのかもしれない。
「いらっしゃい。ってリンじゃないか。待ち合わせの相手は見つかったのかい?」
威勢のいい声で迎えてくれたのは、パーマのかかった栗色の髪をバンダナで結んだ恰幅の良い女性だった。
「ええ、無事会えました」
「そりゃよかった。で、そっちが」
リンに笑顔を見せた後、女性の視線は私へと向けられる。
「妹がお世話になっています。初めまして、兄のジーニアスといいます」
「あらー……兄貴って聞いてたけど、ずいぶん男前な兄貴じゃない。それに似てないわね。本当に兄妹なのあんた達」
ドキッとするようなことを大胆に聞いてくる。それが嫌味にも悪意にも聞こえない。フランクで親しみやすさを感じさせる目の前の女性だから気軽に言葉にできるのだろう。
「兄弟です。と、とにかく、兄さま部屋に上がりましょう。詳しい話はそこで」
からかわれていることに気づいていない様子のリンは、顔を真っ赤にして逃げるように階段を上っていく。外から見えていたように、宿の中も迷路のように入り組んでいた。




