第九章 追う者と追われる者 (迷子)
山村の朝は視界を遮る霧が立ち込める。太陽の光が遮られているせいもあり、白い霧に包まれた世界は怖さも含んでいるように思えた。
ヨンの家から少し離れた場所、傍らに落ちていた木の棒を拾うと、両手で握り構える。目を閉じると仮想の敵が目の前に現れた。
ブンブンと、空気を切り裂く音だけが霧の世界の中で広がっていく。
久しぶりに素振りをしてみると足と同様に、体がなまっていたことが分かる。昔は日課にしていた素振りも、最近では忙しさを理由にサボっていた。私らしくないことだ。
10分……いや、20分だろうか、手の平の皮が少し剥けてしまい、頬を大粒の汗が流れる。
「タオルをどうぞ」
霧の中から無地のタオルが腕と一緒に突き出される。見かたによってはちょっとしたホラーにも見えてしまう。
「ありがとう。起こしてしまったか?」
タオルを受け取ると木の棒を置き、汗を拭いた。こんなことをしてくれる相手は一人しかいない。分かっているだけに恐怖よりも、起こしてしまったことへの罪悪感の方が湧き上がってくる。
「いえ、いついかなる時も主の傍を離れないのが“影”の務めですから」
そう言ってリンは霧の中からゆっくりと姿を現した。
「頼もしいな。ふふ」
「どうされました?」
笑われた理由が分からず、頭にハテナマークを浮かべたリンが尋ねてくる。
「いや、ヨン達の兄弟を見ていたら。昔のことを思い出して」
「昔……ですか?」
「そう。私がまだ聖騎士になりたての頃、小さな町の巡察に同行した時のことだ。そこで出会った少女のことを……」
「……」
「あの当時の枢機卿に、今の私のような物好きはいなかった。だから巡察といっても教会の一部の幹部が観光旅行をするようなもので、同行する聖騎士もただ付いて行くだけの仕事だった」
私が思い出すように語りだすと、リンは黙って耳を傾けていた。
半分観光旅行に成り下がった巡察に同行する聖騎士は、教会幹部を宿まで護衛すると、町を出発する日まで自由な行動が許されていた。もちろん町の範囲内でのことではある。護衛対象である教会幹部は、町ごとの教会支部から接待を受けており、護衛など必要ないことが理由の一つでもあった。
「おい。どっか飲みにでもいかないか?」
同僚の聖騎士がグラスを傾けるジェスチャーをしながら言う。最低でも2日は町に滞在するのが慣わしだったため、到着した初日は浴びるようにお酒を飲んでも、仕事に支障がでることはなかった。
「やめておくよ。少し町の中を見て回りたいのさ」
「ふん、あいかわらず物好きだなセシルは。まぁいい俺達は行ってくるぜ」
そう言うと3人の聖騎士達は、相部屋となっている宿屋の部屋から出て行った。
「さて、私も出かけるか」
別に仲間とお酒を飲むことが嫌いなわけではない。ただ、せっかく巡察に同行しているのだから、似たような酒場で飲み潰れるよりも、町ごとの風景や町並みを見て回ったほうが楽しくもあり、聖騎士としての厳しい訓練や戦いの日々を忘れる気分転換にもなった。大国同士の大戦が終わったとはいえ、この世から悪がなくなったわけではない。日夜起こる暴力や略奪をなくすため、聖騎士の手が血にまみれることも少なくはなかった。
私はなんのために聖騎士になったのか……そんな時、ふと自問自答してしまうこともある。
答えなんて、自分の力では思い浮かばなかった。
教会幹部の宿泊する宿や酒場が並ぶ賑やかな表通りから、一つ二つと奥の小道へと進むと、寂れて朽ちた裏通りが見えてくる。町を散策する時、表よりも裏を見るようにしていた。その方が、町の内情を色濃く知ることができると思ったからだ。
「……思った以上に酷いな」
煌びやか表通りと比べ、この町の裏通りは風化の一途をたどっているように見えた。建物は崩れ、ただの瓦礫の山のように見え、ところどころ動かない人が頭を下げて座り込んでいる。人々の手や足は細く、枯れ木のようだった。
「おっと、ごめんね」
そう言って黒髪の少年が通り過ぎるさまにぶつかっていく。
「ちょっと待った」
少年の右腕を掴むと、拘束するように背中に回す。
「イテテ、なにすんだよ。放せよ」
「放してやりたいが、先に返すものがあるだろ」
「返すものって、イテテテ。分かったよ返すよ」
観念したように少年は、懐から小さな紐で結ばれた布製の袋を取り出した。それは先程まで私の懐のポケットに入っていたものだった。
「人の物を取ってはいけないな」
「ふんだ。ケチ、いい恰好してんだから。ちょっとくらいいいだろ」
よく見ると少年の肌には傷が多く、他の人と同じように手足は骨が浮き出るほど細くなっていた。
「あげてもいいけど、残念これはただのお守り袋さ。財布ではないよ」
「チェ、おもしろくないや。だったらもう離せよ。ようはないだろ」
「……それもそうか」
握っていた腕を離すと、逃げるように一歩後ろに飛び退く。どうやら随分嫌われてしまったようだ。
「そういえば坊や、親御さんは?」
「ふんだ、父ちゃんも母ちゃんも死んだよ。それに私は坊やじゃね。れっきとした女だよ」
「おや、これは失礼。勇ましい言葉づかいから勝手に男の子だと……私はセシル、よかったら名前を教えてくれないか?」
「ふん、リンだよ」
そう言うとリンと名乗った少女は瓦礫を飛び越えていなくなってしまった。
これがスライム街で生きる少女、リンとの初めての出会いだった。
「わ、私はそんなに不愛想でしたか?」
じっと黙って話を聞いていたリンは、ムッとしたように言う。
「思い出を脚色したつもりはないよ。それに私の財布を盗もうとしたのは事実さ」
「や、やめて下さい。恥ずかしい、若気の至りです。昔の自分に会えるならセシル様の財布を狙うなんて行為、やめさせたいくらいです」
「それは困るな。あの時の少女が私の財布を盗もうとした事実は大切な事だ。そのおかげで私はリンに出会えたんだから」
「……セシル様」
人の出会いは一期一会、縁によって結ばれている。だから私は導かれるままにレールに沿って歩くことにしたのだ。




