第九章 追う者と追われる者 (山村)
息遣いが自然と荒くなる。ふと考えてみるとリレイドに着いてから山道を登ってばかりだ。自らが選択したこととはいえ、日頃の政務による運動不足が恨めしくもなる。楽さや時間制限を気にせず、馬車での移動を徒歩に変えてみるのもいいかもしれない。そう思いつつ、凛とした表情で隣を歩くリンの顔を見ると「護衛が大変なので馬車で移動して下さい」と間違いなく言われそうな気がして、少しおかしくもあった。
「私の顔に何かついてますか?」
私の視線に気づいたのかリンが尋ねてくる。
「たいしたことではないよ。ただ少し運動不足だったなと後悔しているところさ」
「そうですね。確かにこの坂は岩や石が多く、足にはかなりキツイです」
キツイと言いながら汗一つかいていないのは、普通の服を着て、普通の妹のように見える彼女が、私の“影”であることを改めて実感させられる。
「何見てんのよ」
ふいに、幼い女の子の敵意が込められた言葉が頭の中に思い出される。あれから……随分大きくなったものだ。人の成長は過ぎ去る時の早さを教えてくれるというが、まさしくそうである。駄目だな……一人で昔話に思いをはせるのは歳をとった証拠かもしれない。そう思うとまた、少しおかしく自然と笑みがこぼれていた。
「お客の兄ちゃん達すごいな。坂道なのに笑顔なんて」
前を歩いていたリンゴ売りの少年が振り返って言う。坂道を登ることが楽しくて笑っていたのではないが、どうやら勘違いされてしまったようだ。
「表向きは頑張っているけど、足はパンパンさ。キミ達は平気そうだね」
リンゴ売りの少年も妹も、売れ残ったリンゴの入った籠を背負いながら登っているが、平然とした顔をしている。
「当たり前だろ。おいら達はほとんど毎日、町に下りてリンゴを売ってるんだぜ。こんな道もう慣れたよ」
自慢気に言う少年の足には、確かにしなやかな筋肉が付いているように見えた。教会の屈強な聖騎士達の筋肉とは違う、柔軟性のある筋肉。彼の筋肉が柔なら聖騎士の筋肉は剛だろうか。自然に鍛えられた足は、岩肌の多い坂道を登ることに適応しているのだろう。
「そういえばまだ名前聞いてなかったね。おいらはヨン、こっちは妹のアン。兄ちゃん達の名前は?」
「これは失礼。自己紹介が遅れたね。私はジーニアス、そしてこちらは妹のリンさ」
「へー……ジーニアス兄ちゃんにリン姉ちゃんね。ジーニアスって変わった名前だね」
「し、しつれいな。由緒ある名前なのに、変だなんて」
「リン。静かに」
「は、はい」
ボルテージの上がったリンを制止する。私のこととなると彼女は少し熱くなってしまうことがある。嬉しくもあるが……心の自重は大切なことだ。
「ごめんよ。悪気があって言ったんじゃないんだ。この辺じゃ珍しかったから」
「こちらこそ悪かったね。ほらリンも」
「はい。ごめんなさい」
リンは渋々といった様子で頭を下げる。頑固なところは誰に似たのだろう。まったく。
「いいよ。それにほら、そろそろ見えて来たよ。ハイムの村が」
ヨンの後を追うように小高い丘を登ると、山肌に木で造られた家が立ち並んでいるのが見えた。こちらからは影になって見えにくかったが、反対斜面に生い茂る木々が並んでいるのが見える。推測するに、あれがヨン自慢のリンゴの木なのだろう。
立ち並ぶ木造の家の中で、リンゴの木々に一番近い家の前でヨンは足を止める。どうやら彼らの家に、ようやくたどり着けたようだ。
「ただいま」
勢いよく扉を開けてヨンは中に入っていく。背負っていた籠は扉の横に置いて。開いた隙間からは暖かな光と、鼻孔を揺らす香りが流れ出てくる。
「おかえりー。兄ちゃん」
鼻にかかった高い声と共にヨンに飛びつく小さな影が見えた。
「コラ、急に抱き着くなよ」
ヨンの腕の中でジタバタと苦しそうにもがく小さな腕。隙間から見える顔はヨンにもアンにも似ている。きっとこの男の子も兄妹なのだろう。
「おかえり。おや、お客さんかい? いらっしゃい」
薪の燃える囲炉裏の上で鍋をかき混ぜている女性がこちらに向かって言う。ニコッとした気持ちのいい笑顔を見せるこの女性が、ヨン達の母親であることは一目で分かった。
「ただいま。かーちゃん。ほらお前も挨拶は?」
ヨンの腕の中から顔を出した少年は、声変わりする前の高い声で「イルだよ」と言ってそのまま母親の傍に駆け寄っていった。
「こらこら、イル走らないの。それにしてもヨンがお客さんを連れてくるなんて、あの子たち以来かね」
「あの子達……」
なんとなく気になる言葉。
「エイダ達のことだよ」
「なるほど」
思っていた通りの答えだった。
「町でリンゴ売ってたらこの二人に会って。そうだ、すごいんだよ、かーちゃん。この二人エイダ達の知り合いなんだ」
「そりゃすごい。あの子達は元気でしたかい?」
「えぇ、ハイダルシアの街でしばらく一緒でしたが、4人とも元気でした」
「そうかい。それはよかった」
ヨンの母親はまるで我が子の無事を安堵するように胸を撫でおろしている。暖かい心の持ち主であるのだろうと思うのと同時に、いい人との縁を持ったあの4人が羨ましくもあった。
「それでエイダ達も泊った家に来たいっていうから連れてきたんだ」
「すいません。急にお伺いして」
「いいのいいの。うちは賑やかな方がみんな好きだから。こんな所だけど我が家だと思って楽にしてよ。ちょうどご飯もできたところだから」
鍋のフタを開けると、部屋の中に充満していた食欲をそそる香りが、一段と濃くなる。
「かーちゃんの鍋は隠し味にうちのリンゴが入ってるから、おいしいよ」
鍋から取り分けられたお椀の中には、味が沁み込むまで煮込まれた野菜やお肉などの具材が詰め込まれている。箸で野菜を掴み、口に持っていく。口の中で温かく優しい味が広がっていく。
「……おいしい」
隣で同じように食べるリンも思わず呟く。リンのこんな表情が見られたことも旅の成果かもしれない。
本当に美味しく……体全体が温まる料理である。これはきっと料理の温かさだけではない人の温かみ……今、一番教会に欠け始めているもの……久しく感じることのない気持ちに、自然と笑みがこぼれていた。




