第八章 雪解けを待つだけ (朝日)
…………………… Ada side story …………………………………………
「……来て……だ……」
誰かの声が聞こえる……誰?
「来ては……め」
よく聞き取れない……私のせい……?
「来ては……駄目」
どこに? どこに行っては駄目……なの?
夢の中で語りかけてくる貴方は誰? 誰なの?
声に向かって手を伸ばすと、黒く染まった無数の真っ黒な手が体中に巻き付いてくる。
もがけばもがくだけ締め付ける。蝕まれるように触れた場所に模様が刻まれていく。見たことのある……洞窟で見た……あの模様。模様の隙間から真赤な血が垂れ落ちる。
垂れ落ちた血に、火の粉が舞い落ち、灯り師の輝く炎が灯る。
私と同じ炎……。
「熟した……お前の血がいるのだ」
耳元で老人のようなしゃがれた声で誰かが言い放つ。
寒気がして、逃げたい、でもどこに行けば……私の居場所は……どこ?
「エ……ダ」
今度は別の声が聞こえる、暖かな声。
暗闇に光をもたらしてくれる。太陽のような声。
「エイダ……エイダ」
私はこの声を知っている。よく知っている声だ。
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「エイダ、エイダ」
呼びかけながら肩を揺すると、ベッドに横になるエイダはゆっくり目を開けた。額には汗が流れ、前髪が少し汗で湿っていた。
ロージェさんが隣町に帰っていってから2日、噂では例の貴族様一行は次の町へ旅立ったようだ。きっとロージェさんも今頃馬車の中で、腰を摩っているのだろう。
調合してもらった薬を飲んで、エイダは少しずつ体調を取り戻しつつあった。今日もマリアさんと交代でエイダの看病をしていたのだけれども、いつもと少し様子が違っていた。眠っていると思えば、急に何やら寝言のような言葉を呟きだし、次第に表情は崩れていく。まるでうなされているかのように。無理やり起こすのもよくないとは思ったけど、あまりに苦しそうなので、つい起こしている自分がいた。
「大丈夫……エイダ?」
「う……うん……リオン?」
まだ意識がはっきりしていないのか、上半身だけ起き上がったエイダはぼーっと天井の隅を見つめている。ふいにエイダの頬を、大きな粒の涙が一筋、流れ落ちる。
肩は小刻みに震えだし、まるで寒さを耐えている子供のようだった。
どうしよう? マリアさんを呼ぶべきか……それとも先生。
どうすればいいかなんて分からなかったけど……咄嗟に僕は震えるエイダの体を引き寄せて抱きしめた。
「大丈夫だから」
いつ以来だろうか……抱きしめたエイダの体は冷たくて、一段と小さく感じた。
「大丈夫だから。大丈夫」
子供のように同じ言葉を連呼することしか僕の頭では思い浮かばなかった。でも、エイダの体から伝わる震えが、なんとなく落ち着いていくのが分かった。
「大丈夫。僕もいるよ」
何がエイダを苦しめているのか……頬に残った涙の跡が乾くまで、僕は力強くエイダを抱きしめていた。
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太陽の光に照らされた海が鏡のように光を反射する。
傍では行きかう船を見守るように、ミレーネの大灯台の炎は、輝きを失うことなく燃え続けていた。
丘の上に聳え立つ学院に向かって一組の男女が坂道を登っていく。着ている服が制服ではないところを見ると、学生ではないことが分かる。坂道の途中、少し平らになった場所で男性こと、セシル・フォン・グランヴィッツ卿は休憩するかのように、壁を背にしてもたれかかる。その横で女性はピンと背筋を伸ばしたまま直立不動で立っていた。
「リン、もう少し自然な立ち振る舞いでお願いするよ」
「あ、はい。申し訳ありません」
リンと呼ばれた女性は慌てたようにセシルの横に回り込み、同じように壁を背にしてもたれかかった。
「あ、あの……セシル様」
「どうした?」
「なぜ変装などして、ドゥーブル卿に会いに行かれるのですか?」
変装という言葉の通り、セシルの今の姿はいつもの枢機卿らしい煌びやかな服装とは違い、リレイドの古着屋で購入した、にしめた色のズボンにシャツというカジュアルな装いだった。
「なぜって……ドゥーブル卿は身分を隠して働いているからね。枢機卿として会いに行って、彼の立場を面倒にはしたくないのさ。それに私自身も誰に狙われているのか分からない……それなら素性を隠した方がいいと思ってね」
「そ、それは分かりますが、どうして私まで一緒に歩いているんでしょう……」
ぎこちない話し方のままリンは言う。普段の黒ずくめの衣装とは違い、白い靴に藍色のショートパンツ、襟の付いたカーディガンという装いは、肌の露出も多く“影”という役割からは想像もできない姿であった。
「リン、そんなにオドオドしていては逆に目立ってしまうよ。私としてはいつもの凛としているリンとして、恋人のフリをしてくれるとありがたいのだけど」
「こ、恋人ですか……そ、そんな、私がセシル様の……役とはいえ、他の仲間になんていわれるか……」
下を向いたままブツブツと呪文を唱えるかのように呟き続けるリン、短く切りそろえられた黒髪の間から見える耳は、真赤になっていた。
「すまない。恋人は荷が重そうだな。では友人でもよい」
「ぜ、善処します。セシル様」
「あと、そのセシル様っていうのもやめてくれ。それでは、私は枢機卿ですといって名札を付けて歩いているようなものだ」
「申し訳ありません。それではなんとお呼びすれば?」
「うーん。面白味はないが、ここは慣れた名前の方がいいだろう。うん、私のことはジーニアス……ジーニアス・ハルバ―と呼んでくれ」
「かしこまりました」
「おっと、ここからは敬語も禁止。私も少しフランクな話し方にする」
「わかり……」
「敬語は駄目」
「は、う、うん」
「いいね。では行こう」
再び坂道を登り始めた二人は、丘の上に見える学院を目指す。すれ違う学生達は友人達と楽しそうに談笑している。彼らの目はとても澄んでいてその目を見ていると、セシルはふとハイダルシアで出会った4人の旅人の事を思い出すのであった。
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