第四章 老人と湖 (面影)
「ふぁーあ」
我慢しているつもりでも、生理現象として大きな欠伸がでてしまう。よく見ると横を歩くエイダも、まだ眠たいのか閉じかけた目を起こすようにゴシゴシと指で搔いている。元気なのは曲がった腰でも、杖を使って流暢に歩く老婆くらいだろうか。本人が言っていたように若者顔負けの体力だ。町を出てしばらくたつけど疲れた様子はなさそうだ。
山の中にある洞窟を目指して町を出発した僕らは、ヘルタン湖に沿って畔を歩いていた。老婆曰く、山の方向とヘルタン湖は同じ東側にあるようなので、しばらくヘルタン湖に沿って歩いていけばいいそうだ。同じ方向にあるとは、ますます二つの洞窟の関連性が強くなった気もした。
地平線の彼方から、登り始めた太陽の光に照らされたヘルタン湖の水面はガラスのように輝いている。手を突っ込んでみると、その冷たさにビックリしてしまう。きっとこの冷たさが美味しい野菜を育てる秘訣なのかもしれない。
「コラ、不用意に手を突っ込んではいかんぞ。最近のヘルタン湖には人食いナマズがすみついておって、簡単に指なんか食われてしまうんじゃ」
「え? うわ」
条件反射的に手を抜き出す。指先からは透明な水滴がポタポタと垂れ落ちていく。
「驚かさないでください。でもこんな綺麗な湖の中に危ない生き物がいるなんて信じられないです」
少し離れた位置から覗き込んでも、水面近くに生き物の姿はない。いくら透き通るくらい綺麗な水でも見えるわけはないかもしれない。
「ヒッヒヒヒ」
「何が可笑しいんですか?」
「ヒヒヒ、これが可笑しくないわけないじゃろ」
楽しそうに言う老婆の後ろでは、同じようにニヤけた表情のルインさんの姿もあった。なるほど……さすがに鈍いと言われる僕でもなんとなく想像はできた。
「騙しましたね?」
「すまんすまん。まさか本当に信じるとは思わんかったんじゃ。素直で単純じゃの」
「単純で悪かったですね。ルインさんも人が悪いですよ、知ってるなら教えてくれてもいいのに」
老婆と一緒になって騙さなくてもいいものを。
「怒るなよ。俺だって別に知っていたわけではないさ、ただなんとなく人食いナマズがいるとは信じられないし、もしそんなのがいたらもっと町で騒ぎになっていてもおかしくないなと思ってな」
冷静になって考えてみるとルインさんの言う通りである。確かに町に滞在している間、ナマズのナの字も聞いた覚えはなかった。
「若者をおちょくるのは楽しいの。ヒッヒヒ」
まったく本当に人をからかうのが好きな老婆である。
「もうナマズの話はいいですから、さっさと行きますよ」
前を歩くいじめっ子二人(老婆とルインさん)にこれ以上関わると余計にからかわれてしまうのは目に見えている。少しペースを落として僕は安全地帯である、後方をゆっくり歩く二人に合流することにした。前の二人が鞭なら後ろの二人は絶対に飴である。
「エイダ、疲れない? 大丈夫?」
「……うん」
僕とマリアさんに挟まれた状態で歩くエイダは、心配とは裏腹に疲れた様子はない。僕もそうだけと、リレイドからの旅で少しは体力がついたのかもしれない。それに山歩きでも大丈夫なように、ブーツのような長靴に、動きやすいパンツスタイル、チェック柄のシャツを着こなしている。もちろんマリアさんのコーディネートである。なんでも山ガールファッション? というらしいけど……その手のことに疎い僕には何のことだかチンプンカンプンである。
「ねぇリオン」
「何?」
「人食いナマズって……?」
どうやらさっきの恥ずかしい件をしっかり聞いていたようだ。エイダに見られていたと思うと余計に恥ずかしくなる。気のせいか横を歩くマリアさんも必死に笑いをかみ殺しているようで、つくづくである。
「そろそろ山道に入るぞ」
タイミングよく前を歩くルインさんが振り返りながら言う。狙って救いの手を差し伸べてくれたわけではなさそうだけど、はぐらかすにはちょうどいい。
「ほら、エイダ。今から山道になるよ」
「え? でも……ナマ……」
「そ、それは、いいからいいから」
エイダの背を押して無理やり進んでいく。小さい山といっても山は山である。頂上付近は少し靄のようなものが、白くかかってよく見ることができない。山道への目印だろうか、長方形に削られた石が垂直に二本、杭のように地面に打ち付けてある。
少しずつ踏み鳴らされた道から、勾配のある獣道に変わっていく。足元に雑草が生い茂り、生えている木々も好き勝手に枝を伸ばし、地面に降り注ぐ太陽の光を遮断しているかのようだ。自然と少し体感温度も下がってきているのだろう。
「この辺で少し休もう」
肩にかけていた鞄を、倒れた木の上に置いてルインさんは言う。そこは何本かの巨木が倒れた影響で少しだけ光がさしていた。丁度倒れた木の幹が椅子変わりにもなり、休憩するにもってこいの場所である。
竹で編んだお弁当箱にはマリアさんお手製のサンドイッチが入っている。
「宿屋のキッチンを借りて野菜サンドを作ってみました。どうぞ」
一つ貰って食べてみる、新鮮な野菜の歯ごたえがしっかりして美味しい。エイダも美味しそうにモグモグと食べている。
「なぁばあさん、滝までは後どれくらいかかるんだ?」
「そうじゃな。もう少しなんじゃが、だいぶ昔より山道が荒れてるせいで遠回りにはなっておるの」
「そうか……急がないと嫌な予感がするな」
そう言ってルインさんは空になったお弁当箱を鞄にしまう。先程まで吹いていたそよ風もいつのまにか止んでいた。
「確かに少し天候が怪しくなってきましたね」
マリアさんは木々の隙間から見えるどんよりとした空模様を見て心配そうに言う。さっきまで晴れ渡っていた空はいつのまにか灰色の雲に覆われていた。
「これは一雨きそうだな」
「ヒヒ、山の天気は変わりやすいんじゃ」
「笑い事じゃないだろ、ばあさん」
老母の意味深な笑いは、残念ながら悪い方へと僕らを導いているのだろう。休憩を終えて再び、山道を登り始めると手の甲に小さな水の雫が落ちてくる。それは肩、髪の毛、耳と次第に増えていき、雨が降りだしたことは間違いなかった。植物の葉に落ちる雨音が徐々に大きく、数も増えていく。雨脚は途切れるどころか、次第に強くなっていく一方だ。
「やばい。本格的に降り出したぞ」
追い打ちをかけるように一瞬の閃光が走った後、強大な岩を落としたかのような衝撃と音が襲ってくる。近くに落ちてはいないだろうが、それが落雷であることは簡単に想像できた。
「どうします? ルインさん?」
「どっか雨宿りできる場所でもあればいいけど……」
生い茂る木々に囲まれた山の中で雨宿りできる場所といっても……。
「そうじゃ、この道を左手に降りたところに住み込みの樵が昔使っていた小屋があったはずじゃ」
思い出したように言うと、一目散に駆け出していく。腰の曲がった老婆が山道を登ってきた後とは思えないくらい俊敏な動きだ。
「ちょっと待ってください」
見失わないように老婆の後を追いかけていくと、遠目に小屋のような建物が見えてくる。どうやら老婆の言っていたことは正しかったようだ。近づいてみるとかなりの年月、放置されていたのか屋根は傾き、蔓状の植物が柱や壁中に巻き付いているのが分かる。それでも外にいるよりはマシだろう。ガタついたドアを力でこじ開けると、逃げるように小屋の中に入った。中に入ってみると、案の定、屋根に空いた穴から所々、雨水が流れ落ちていた。
幸いにも小屋の中央には灰だけが残された囲炉裏が辛うじて残っていた。小屋の中に落ちている枝や布切れを薪にして火を点けると、小屋の中全体を暖かな光と熱が包み込んでくれる。雨に濡れた服も体もようやく暖を取ることができそうである。
「小屋があって助かったな。あとは通り雨がすぐに止んでくれればいいけど」
「そうですね」
激しく鳴り響いていた雷鳴も収まり、今は滝のように空から雨が降り注いでいるだけである。激しく動く雲の様子からしても、過ぎ去ってくれれば途端に天気は回復してもおかしくはなさそうだ。
「おばあさん大丈夫ですか?」
老婆の体をタオルで拭いていたマリアさんが慌てたように言う。
「どうしたマリア?」
「それが……先程から体が震えてらっしゃるので、それに手もとても冷たくなっています。もしかしたら雨に打たれすぎて体温が下がったのかも」
マリアさんの上着に覆われて小さく丸まっている老婆は、町を出た時に比べて見違えるほど、弱弱しく見えて怖くもあった。
「やっぱり山登りは無理だったんです。今からでも連れて戻ったほうが……」
「心配せんでも少し休めば大丈夫じゃ……それにわしがいないと滝まで行かれんではないか。それでもよいのか?」
「……でも」
出てくる言葉はあいかわらずの強気だけど、なぜだか老婆の弱り方は命をすり減らしているようにも見えた。
囲炉裏の火で濡れた服を乾かしていると、空気を読んでくれたのか外から聞こえる雨音も小さくなってくる。
「雨も小降りになったみたいだ。そろそろ行くか」
割れたガラス窓の隙間から外の様子を見ていたルインさんは言う。どうやら天候は回復してくれたようだけど、問題は老婆のほうである。体は温まっても、まだ体力の低下で歩けそうにはなかった。
「最悪、ばあさんを置いていくか……」
「本気ですか? ルインさん」
こんな小屋に一人でおいていくなんて見殺しにするようなものである。
「馬鹿、冗談だよ。しょうがない。ほら、ばあさん」
ルインさんは老婆の前で背を向けて膝まずく。どうやら老婆をおぶって洞窟を目指すようである。冷たいことを言ってもなんだかんだ優しいのがルインさんだ。
「何ぼーっとしてんだ。早く乗って」
「気持ちがありがたいんじゃが、できればそっちのお主にお願いしてもええかの」
「え? 僕?」
まさかの指名に、きっと驚いたのは僕だけではないだろう。
「そうじゃ。悪いんじゃが……少しだけ滝までの道をおぶってくれんか」
「いいですけど……」
思わず膝まづいたままのルインさんの顔色を窺ってしまう。
「振られましたねルイン」
「ほっといてくれ」
拗ねたように言うと、立ち上がって場所を開けてくる。こうなると僕の取る道は一つしか残されてはいないだろう。素直に膝まづくと、背中を老婆に向ける。すると、迷った様子もなくゆっくりと老婆は僕の背に納まるのだった。
僕の荷物はルインさんが持ってくれたので、老婆を背負ったまま僕らは小屋を出て、滝を目指して登り始めた。雨のせいで一段と地面がぬかるんでいる。
「大丈夫かの?」
「なんとか……頑張ります」
老婆自体はそんなに重くない、それでも両手がふさがった状態で山登りをするのは初めてのことだ。
「こんな風に背負われると……昔を思い出す」
老婆は耳元でボソッと呟く。
「昔……ですか」
「わしには歳の離れた兄がおったんじゃが、小さな頃はよくこんな風にわしを背に乗せておぶってくれたものじゃ」
そう言うと僕の首に回された腕が少し硬くなったような気がした。
「お主はどことなく兄に似ているようじゃ」
「お兄さんは……もう……」
なんとなく老婆の話し方からして、すでに兄がこの世に生きていないのだろうと想像できた。
「兄は殺された。真面目でまっすぐで、それが裏目にでた」
男性が殺された……そのキーワードはもしかして、老婆の家で聞いた昔話の中にも出てきていた。
「それって……」
「あ、あれじゃ、あれが洞窟のある滝じゃ」
老婆の指さす先には確かに、3,4メートルの高さから流れ落ちる滝があった。幅も1メートル以上はあるだろうか、その大きさは滝の裏に洞窟が隠れていてもおかしくなかった。
「洞窟にはどうやって入れるんだ?」
「滝の左手側に小道があって、そこから裏側に周りこめるようになっとるのじゃ」
「……なるほど」
老婆の説明を聞くと、ルインさんは一人、伸びた雑草をかき分けるように先に進んでいく。姿が見えなくなって数分待つと「あったぞ、狭いけど道もある」と言って、草の間から顔を出した。
滝の裏手は水しぶきが飛んできて、足元の石にも湿気の影響で苔が生えている。滑らないように慎重に歩を進めると、やっとお目当ての洞窟の姿を垣間見ることができた。
「暗そうですね」
滝の裏にあるせいもあって日の光はほとんど届いてはいない。穴の中は暗闇しか存在していないように感じた。
「持ってきといて正解だったな」
鞄の中からルインさんは手持ち用の金具がついたランプを取り出すと、マッチの火でランプに炎を灯す。湿気のせいか火が付くまでにマッチを4本も使ってしまった。
「もう大丈夫じゃ。下しとくれ」
「え? でも……」
「大丈夫じゃから」
老婆に言われるまま膝をつくと、老婆はゆっくりと地面を確認して下りる
「よし、行こうか」
ランプを持ったルインさんを先頭に、老婆、僕、エイダ、マリアさんの順に進んでいく。洞窟自体はそこまで大きくないようで、横幅も狭く、少し進むと部屋一つ分くらい広さの場所で行き止まりになっていた。
中央には不自然に見えるシンメトリーに作られた台座が2つ、何かを乗せるための物だろうか? 台座の足元の柱には三角形を複数重ね合わせたような独特な模様が幾重にも刻み込まれている。台座の中を覗くと、両方とも薄いボウルのような陶器が置かれていた。
「壁で行き止まり……ですね?」
一番奥の壁をノックするようにコンコンと2回叩いてみる。うん、ただの固い壁のようだ。
「台座に何かあるのか……何か知ってるか? ばあさん」
「わしも実際に来るのは初めてじゃからな」
手分けして洞窟の中を調べてみても、これといって何かめぼしい物も見つからない。滝の裏に洞窟の穴があっただけで、絵本の洞窟ではなかったのか……絵本?
「絵本を持ってきましたよね、確か」
エイダの背負っているリュックから絵本を取り出す。タオルにくるんでいたおかげで、雨に濡れて破れずにはすんでいた。
「光を下さい」
絵本を照らすようにルインさんがランプの火を近づける。文字は書かれていないので、茶色くくすんだ絵だけで判断するしかない。
「絵の中の台座の傍に人がいますよね。人が何か……してます?」
残念ながら肝心なところが一番汚れていて読めなくなっている。
「見てください。この本の裏表紙に描かれた模様と、この台座の模様は同じでは?」
横から見ていたマリアさんが、気づいて本を閉じてみる。確かに裏表紙には台座と同じ模様が四隅に描かれていた。
あれ? この模様……どこかで……どこかで見た覚えがある。ヘルタンの町に来る前……そうなるとイーダストということになる。イーダスト……。
「そういえばイーダスト寺院で見た女神の絵にも同じような模様が隅のほうにありませんでしたか?」
「あったか?」
覚えていないのかルインさんにはピンときていないようだ。
「ありましたよ。思い出してください」
「覚えてないな。でも、もしリオンの言う通りならあの絵とこの台座には何か共通点があるってことだ」
共通点? なんだろうか? 絵は灯り師だった女性が描かれていたのもだけど、台座はただの台座でしかない。となると、数少ない情報は灯り師ということだけ、自然とみんなの視線がエイダに集まってしまう
「……私?」
不思議そうにエイダは言う。
あまりエイダに痛い思いや、血を流して欲しくはないけど手掛かりはこれしかない。
「エイダ……ごめん、少しだけ力を借りてもいい?」
「……うん、リオンが言うなら……いいよ」
「……ありがと」
エイダの了承も取れたので、台座から陶器を取り出すと、洞窟の外で滝の水を一杯に注ぐ。それをそのまま台座に戻した。あとはエイダが灯り師である自らの血を水に溶かすだけだ。ナイフの刃先をエイダは指先にあてる。少しだけ痛みに顔を歪めると、押し出されるように真赤な血が溢れ出していく。指先から爪をつたって陶器の中の水に血液が滴ると、1滴、2滴、血の波紋が広がって溶けていく。これで準備は万端である。マリアさんがエイダの指に包帯を巻いている間に、僕とルインさんはマッチの火を陶器の中の水に近づけていく。火は水面に触れ、鮮やかに輝く灯り師の炎が、洞窟の暗闇を吹き飛ばすように燃え盛り始めた。
「……懐かしい……ローネ様」
思わず呟いた老婆の目には、揺れながら燃え上がる炎だけが映っている。
突然、ゴオォっという音と共に洞窟全体が揺れだす。辛うじて立っていられる状態で耐えていると、しだいに揺れは徐々に収まっていく。音が完全に止むと洞窟奥の壁は崩れ、さらなる暗闇へと誘うように大きな穴が現れていた。




