第三章 現実の女神と絵画の女神 (発端)
------------------------トルトリン寺院来賓室------------------------------
「おや、お口に合いませんか?」
宮殿の一室のように調度品が映える教会の来賓室では、エルディーン司教とエイダが長いテーブルを挟んで向かい合うように昼食をとっていた。
テーブルの上には豪華な料理が並んでいる。
「……」
エイダの前に並ぶお皿もフォークも、昼食が始まってから動くことはなかった。
「あまり食欲はないのかもしれませんね」
「リオン……は?」
「彼らなら心配はいりません。今はちょうど特別な場所にいらっしゃると思います」
「私……会いたい」
「下々の身を心配されるとは、さすがは女神さま……アナタ様に我々のお願いを聞いていただければ、すぐにでも会えると思いますよ」
「お願い?」
「ええ、お願いです。手始めに少しだけ血を頂けますか?」
「血……?」
部屋の外からナプキンを被ったシスターが現れると、周りに目もくれず一目散にエイダの横に歩み寄る。手には小さな救急箱のような鞄を持っていた。
「少しチクッと致しますが、我慢ください。女神さま」
そう言うとエイダの手を掴み、鞄から取り出した箱の中に入っている小さな銀色の針で小指の先を刺す。
「痛い……」
エイダの小さなうめき声が静かな来賓室に響いて、すぐに消える。
顔色一つ変えず、シスターは淡々と小指から水滴のように浮き上がる血液をスポイトで吸い取ると、液体の入った小皿に垂らしていく。血液は円形の波紋をおびて広がっていく。
「痛くして申し訳ありません。女神さま。消毒液の染みたガーゼで数分間押さえておいてください。すぐに血は止まると思います」
そう言って一礼するとシスターは小皿を持って席を離れ、そのまま部屋の外へと出ていった。
「ありがとうございます。貴重な女神さまの血液を頂けまして、我々一同感謝致します」
立ち上がるとその場で舞台の上の役者のように、エルディーン司教は深々と頭を下げた。
「リオン達……には?」
「おっと、それはもう少し血液を頂いてからですかな……フフ」
「……そんな」
「エイダ様……ご辛抱下さい。これもイーダストの民のためなのです」
「……」
トントン
張り詰めた空気を割くようにノックを音が聞こえる。
「失礼します」
ドアが開くと、一人の侍女が足早にエルディーン司教の元に歩み寄っていく。
「エイダさまと食事中だが……」
「すみません、ですが……至急のことでして」
「どうしました?」
「実は……」
そう言って侍女は一枚の紙をエルディーン司教に手渡す。
「元老院の使いか……しょうがない」
紙に書かれた内容を見たエルディーン司教は、眉を歪ませる。
「残念ですがエイダ様、私は所要ができましたので、これで失礼します」
急いでナプキンで口を拭くと、エルディーン司教はそのまま部屋を出て行った。
エイダを残し部屋を出たエルディーン司教は、長い廊下を抜け一つの部屋の中に入っていく。その部屋の中はカーテンが閉め切られ、太陽の日差しが届かない人工の暗闇であった。
「お久しぶりです。エルディーン司教様」
すでに部屋に存在していた人物が話し出す。
「おやおや、元老院の爺どもの飼い犬がなんのようですかな?」
少し棘のある言い方でエルディーン司教は、言葉を返した。
「爺……これは聞かなかったことにします」
「ふん、好きにしろ。それで何のようかな? 私も忙しいのだが」
「それは失礼しました。それでは手短に実は司教様が長年探していた、女神さまが見つかったと町で噂話を聞きまして」
「えぇ、それはとても神々しく、美麗な女神様ですよ」
物思いに耽るように、エルディーン司教は頬を染めながら言う。
「名をエイダ様と申すとか?」
「えぇ。あいかわらず、気味が悪いほど耳が早い」
「ありがとうございます。褒め言葉ととっておきます」
言葉を交わすほど二人の間に緊迫した空気が流れていく。
「で、本当のところは何の用で?」
先程より、エルディーン司教の声は鋭くなる。
細めた目が一段と相手を見据えていた。
「……最近、教会の中にも不穏な輩が多く……我々、鵺の仕事も増える一方です」
「それはご苦労なことで……裏の仕事は増えないことが平和な証拠のはず。残念なことだ」
「まさしくその通りです。ただ内部にて元老院の皆様のやり方に反旗を翻して、槍や剣などの大量生産による武装行為や不貞の輩を雇って人員を集めている支部があるとか……」
言葉に反応するようにエルディーン司教の唇がピクっと動く。
「そんな支部が……怖いことだ。教会の意思は常に一つでなければ」
「ですから……それを見て回っていただけのことです」
「ほう、大変ですな。ちなみに我がトルトリン寺院はいかがかな?」
硝子にヒビが入ったかのように、一瞬部屋の中の空気が張り詰める。
ただの沈黙が部屋の中の重苦しさを一段と掻き立てていく。
「……どうでしたか?」
問い詰めるようにもう一度言う。
柔らかな口調であるが、エルディーン司教の声色は尋問しているかのようにも聞こえる。
「……どうでしょうか? 私の仕事は調べること……あとは上が決めることです」
そう言って一陣の風が吹くと、暗い部屋の中からは気配が消えていた。
「くえない犬め」
気配の消えた部屋でエルディーン司教の呟きが静かに響いていた。
---------------------------------------------------------
ぴちゃ……ぴちゃ……水音が脳裏に響く。
固くひんやりとした背中の感触で目を覚ますと、そこは見覚えのない冷たい鉄の床の上だった。牢屋といった方が分かりやすいだろうか、南京錠のかかった鉄格子が一段と雰囲気を醸し出していた。
「目が覚めましたか? リオンさん」
覗き込むようなマリアさんの顔が見えた。
「マリアさん……ここは?」
「地下牢だよ」
マリアさんの後ろで、ぶすっとした顔のまま壁に背を預けて座るルインさんは言う。
分かりやすいくらい不機嫌なオーラを体中から飛ばしている。
「どうしてここに?」
「覚えてないのもしょうがありませんね。リオンさんは衛兵に捕まった時、抵抗が激しかったので衛兵に殴られ気を失っていましたので……」
そういえば先程から頭の後ろのあたりがズキズキすると思えばそういうことか、手で触ってみると大きなたんこぶができている。
「クソ。あの偽善者司教め……覚えてろよ、今度会ったら絶対に一発殴ってやる」
悔しそうにルインさんは言う。
「すいません……私が買い物せずさっさと宿に戻っていれば」
「謝るなマリア、お前のせいじゃない」
「そうですよ。マリアさんのせいではないですから」
どうせこの町にいれば遅かれ早かれ、エルディーン司教には目をつけられていたはずだ。
「ありがとうございます。私も反省しているだけでなくエイダさんを無事助ける方法を考えないといけないですね」
「その意気です……と言いたいですけど、まずはここから出る方法を考えないといけないですね」
教会内部にあるとは思えないくらい頑丈でしっかりとした造りの牢屋である。まるで歴史書に載っている戦時中の施設のようで、こんな物を造ってるところからしても、やはりただの教会ではないのかもしれない。
「そうなんだけどな……どこにも抜け穴はなさそうだし……」
お手上げといった様子で、ふて寝のようにルインさんは冷たい床に横になった。
「エイダは大丈夫でしょうか?」
ふと、エルディーン司教のもとにいるだろうエイダのことが気になった。
最後に見たエイダの姿が脳裏から離れない……僕は彼女の傍を離れないと誓ったはずなのに。
「たぶんな……」
「そんな簡単に言わないで下さい。早くしないとまた連れて行かれる可能性だって……ありますよ」
この教会から連れ出されてしまえば、取り戻すことだって至難の業である。
「そこなんだけど、俺の予想だと……きっとあのエセ司教は、すぐにエイダを教会本部に送ったりはしないような気がする」
「私もそう思ってました」
マリアさんもルインさんの意見に同意する。
「どうして?」
「たぶんだけど……アイツの言っていた民衆の支持を得る対策として女神であるエイダを囲いたいって話は本当のように思えたし、他に何か……灯り師としてのチカラを悪用しようとしている気がするんだ」
「他ってなんです?」
「それは俺も分からん」
キッパリと言う。
散々意味深な発言をしておきながら、結局のところルインさんも分からないのである。
「ただ、この教会は普通の信仰的な教会とは何か違う感じがするのは確かだな」
「それは確かに……」
ルインさんの言う通り、普通と違うとは僕も思っていた。平和を願う教会の理念とは何か違う。あの司教からはもっと好戦的な意思を感じていた。
「もう一つ気がかりなのは、あの絵ですね」
思い出したようにマリアさんは言う。
部屋の中で見せられた絵画にはエイダそっくりの人物が描かれていた。
「あれはいったい誰なんでしょうか?」
「分からん」
これまたルインさんはキッパリと言う。ある意味、はっきりしているのかもしれない。
「考えても分からないことは後だ。確かに気になるけど……今考えたって答えの出ることではないからな」
「……そうですけど」
どうせ牢屋からは出られないのだから、考えることしかやる事がないのも現実問題で……諦めてお尻から崩れるように床の上に胡坐をかいて座った時、隅の方でカランという金属の転がる音がした。
「なんでしょう?」
壁に掛かった燭台を手に、照らしみると……そこにはリングの輪に閉じられた鍵の束が無造作に落ちていた。まるで何か罠のようにも見える。
「ルインさん……これって」
「誰だ?」
僕の手から鍵の束を受け取った瞬間、牢屋の外に向かってルインさんは威嚇するように叫んだ。
「……」
「……」
怪しいくらいに沈黙しかない。
「気配はしないですね?」
聞かれないように配慮してか、小声でマリアさんは言う。
「だとしても、足もないのに鍵が勝手に動くか普通?」
「ありえないです」
あんなところに最初から鍵の束が落ちているわけもないし、勝手に動くわけもない。とすると、誰かが投げ入れたとしか考えられなかった。
「罠……ですか?」
「どちらかと言えば……可能性的には……な。どうする? 行くか? やめるか?」
「もちろん行きます」
答えなんて最初から決まっている。
例え罠だとしても、牢屋の中にいるよりはエイダの近くに行くことができる。それなら考える必要なんてない。
鍵を握りしめる右手には、一層力が入る。




