第三章 現実の女神と絵画の女神 (偽善)
「お待ちなさい」
凛とした声がすり抜けるように浸透する。声に引き込まれるように周りを囲む群衆の動きは止まり、嘘のように静けさが包み込もうとしていた。
「どうなってるんだ?」
さっきまでの「女神さまー」という叫び声が飛び交う様子も異様だが、ただじっと黙ったまま立ち尽くす今の群衆の姿も、人の皮を被ったロボットのようで気味が悪かった。
しだいに群衆の列は左右に分かれ始める。まるで台地の隆起で地面に裂け目が生まれるかのように、その間を、腰まで伸びた白い髭を蓄えた一人の老人がゆっくりと歩いてくる。身に着けた白いローブと、肩から掛けた飾り帯に刻印されたエンブレムはどう見ても教会関係者であることを示している。
一歩一歩ゆったり歩む老人の視線の先には少し怯えたエイダの姿がある。
「おぉ……これはまさしく女神さまじゃ」
エイダの前に膝まづくと、胸に手を押し当てた後、大袈裟にも見える仕草で両手を天に広げた。老人の動作に呼応するかのように、静かだった群衆も息を吹き返したかのように「女神さまー」と叫びだした。
もしかすると、この老人が群衆の先導者なのだろうか? 一連の流れから、そう感じずにはいられなかった。
「おい、誰だ? あの髭面のじーさん」
「僕に言われても……」
誰かなんてわかるわけもない。ただなんとなく、教会から隠れて旅する僕らにとっていい出会いではなさそうなことだけは確かである。
「女神よ……美しく……可憐で……神々しく」
ポツリポツリと呟かれる言葉たち。目の前のエイダに対してなのか、それとも讃える自分自身に対してなのか、心酔したその姿は見ていて怖いくらいだ。
「あの……すいません、エイダさんも困っていますし」
守るようにスッとマリアさんは老人とエイダの間に割り込む。
「おぉ、エイダさまと言うのですね。女神さまの御名前は」
「「エイダさま」」
老人の言葉を聞いた群衆たちも今度は女神ではなく、エイダの名前を叫び始める。
「あの……ですから」
全く話が嚙み合わない。僕ら以外の群衆にはエイダしか見えていのだろうか? 完全に無視されたままのマリアさんの表情も珍しく引きつっている。
「あの……いいかげんにして下さい」
「おや、私としたことが失礼しました。つい夢中になってしまい。申し訳ない」
さすがに、僕らの存在にも気づいてくれたようだ。遅すぎるくらいだけど。
「私はイーダストの街を守るトルトリン寺院の司教を務めております、エルディーンと申します。いろいろと話したいことはあるのですが……ここでの立ち話もなんですから我らが教会にお越しいただけませんか? そこでお話を……皆様もエイダ様について、お聞きになりたいことがあると思いますので」
エルディーンと名乗った老人はエイダに向かってそう言うと、横でムスッとしたマリアさんを見る。エイダ様について……つまり灯り師についてのことだろうか? どこまでこの人が知っているのかは分からないけど、僕らが知らない何かを知っているのかもしれない。
「マズイですよね? 教会に行くのは」
そっとルインさんに耳打ちする。
「そうだけど……断れるかこの状況」
周りを囲む群衆はエイダに群がっているようでもあり、見方を変えれば逃げられないように囲いこんでいるようにも見えた。この中を逃げるのはさすがに難しそうだ。
「とりあえず……行くしかなさそうだな」
諦めたように頷くと、目線でそっとマリアさんに合図を送る。
マリアさんも気づいたのか、無言で頷づくと「分かりました。我々もエイダさんと一緒に教会に行きましょう」と、待ちかねた様子のエルディーン司教に返答した。
「納得していただき光栄です、それでは参りましょう」
そう言ってエイダの手を取ったエルディーン司教が振り返ると、再び群衆は両サイドに道を開け、両手を胸の前で組んで祈り始める。
その間を堂々と歩くエルディーン司教の姿は、まるで教会の司教というよりも王のようにも見えた。これが教会への信仰心が強いといわれるイーダストの街の本来の姿なのかもしれない。
「気を抜くなよ。リオン」
「はい」
ここから先はいつ教会関係者の中に、エイダを狙う奴らがいてもおかしくはない。
周りを伺いながら、エルディーン司教の後をついて行く。
途中ですれ違う人々はみな司教に対して深々とお辞儀をし、隣を歩く女神さまこと、エイダにも暑苦しいほどの好意の視線が注がれていた。
「あちらに見えるのが、イーダストの街が誇るトルトリン寺院ですよ」
指さす先、通りのつきあたりに頑丈な門に守られた教会の姿が見えてきた。
エルディーン司教が自慢するのが分かる、遠くから見ても大きく威厳に満ちた装いで立っているのが伝わってくる。
「……大きい」
聳え立つ教会を見上げたエイダが呟く。近くで見ると一段と大きく見える。
「エイダ様、この街は教会への信仰が強いおかげで、他の都市にひけをとらない大きく優美な寺院があるのです」
エルディーン司教はまるで自分のことのように誇らしげに説明する。
信仰が強いおかげということは……街の住民の寄付によって建てられたといっても過言ではないだろう。
確かに僕が住んでいたリレイドの寺院も大きく拘った造りだったが、目の前のトルトリン寺院もひけを取らないように思えた。ただの一都市の寺院が首都レベルの寺院と同じ規模……どれだけの寄付を集めたのだろうか? つい考えてしまう。
「それでは、中にどうぞ」
門を守るように立つ二人の衛兵が笛を鳴らすと、中から門が開く。エルディーン司教はエイダを連れて中に入っていく。
要塞のような強固な門が開く姿は、平和を願う教会とはかけ離れた姿のようにも感じられた。
寺院の中は大きな礼拝堂が広がり、奥には大きなパイプオルガンが置いてあった。そのまま奥のドアを開けて進んでいく、そこには細長いテーブルがあり、エルディーン司教はエイダを椅子に座らせると「お座りください」と僕らにも席を勧める。
席に座ると、待っていたかのように同じエプロンを着た給仕係が手慣れたようにカップを置いていく。カップの中からは白い湯気が浮き上がり、ほのかに柑橘系の香りが鼻を揺さぶる。
「どうぞ、お飲みください。ハイダルシア名産の雪棗の実と葉で作った紅茶です。とてもおいしいですよ」
勧められるまま僕らは一口、紅茶を口にする。
「……おいしい」と、女神であるエイダが言うと、エルディーン司教は嬉しそうに目を細めてほほ笑む。
「女神さまのお口にあってよかったです」
「エルディーンさん、一つお聞きしてもいいですか?」
「どうぞ。ちなみに貴方は?」
「私はエイダさんと一緒に旅をしています。マリアといいます」
「マリアさんですか、それで聞きたいこととは?」
「どうしてエイダさんが女神なのですか?」
「そのことですか……少しお待ちください」
そう言うとエルディーン司教は扉の横に控えた侍女を呼んで何やら耳打ちをする。侍女はそのまま部屋を出ていった。
「見せたいものがありましてね」
しばらくして侍女は手押しの台車を押して戻ってきた。台車の上には紫色の布で覆われた物体があり、シルエットからそれが大きな額に入った絵ではないかと想像できた。
「こちらを見てください」
エルディーン司教はそう言って絵に掛かった布を取る。
「「え?」」
絵を見た瞬間、その場にいた全員が同じ表情をしていたかもしれない。それくらい予想していなかったものが目の前にはあった。
「……私」
「ちょっと違うよ。エイダ」
動揺した様子のエイダの肩にそっと手を置く。エイダが驚くのも無理はない。僕だって一瞬驚かされたのだから。台車の上に置かれた絵、そこには一人の女性が描かれていた。空を見て祈る女性、横を向いているので顔はよく分からないけど、はっきりと分かることが2つあった。一つは白銀の長い綺麗な髪をしていること、そして吸い込まれそうな蒼い眼をしていることだ。つまり、この絵に描かれている女性は灯り師ということになる。
「この人物は?」
すぐに落ち着きを取り戻したルインさんは尋ねる。
「わかりません。どこの誰なのかさえ」
エルディーン司教は残念そうに首を振る。
「ただ……この寺院に古くからあるもので、大切に崇められている絵でもあります。年に一度の巡礼祭でお披露目するのが恒例行事になってます。しだいに町の住民たちは絵に描かれた女性は女神さまだと称えはじめ、今では女神の肖像画とも呼ばれています」
それでエイダを見かけた街の住民たちが「女神さまー」と叫んでいたのか。
もう一度、絵画の女性を見ると、エイダにも似ているが、少しエイダよりは大人びているようにも思えた。
「さて、実は私から一つご提案があるのですが」
本題とばかりに、タイミングを見計らって話し始めた。
「なんですか?」
「提案と言うのはしばらくの間エイダ様、もちろん皆様もですが……当寺院にご滞在して頂きたいという、お願いです」
「それまたどうして?」
即座にルインさんは聞き返す。もしかしたら、この提案を少なからず予想していたのかもしれない。
「先程も言いました通り……この絵は寺院の神職者だけではなく、このイーダストの住民全てに愛され崇められているのです。そしてちょうど今は巡礼祭の時期、絵を一般公開する前に女神さまに似た方が現れた、これはもう運命なのです」
「なるほど、だから絵に描かれている女神さまそっくりのエイダが寺院にいてくれると、イーダストの住民が喜ぶといいたいわけだ」
「お察しがよくて幸いです。貴方のおっしゃる通りです、寺院にご滞在頂きたい理由は分かっていただけたでしょうか」
言い終わるとエルディーン司教はエイダの顔を見た後、僕ら三人の顔を見た。あくまでも主はエイダで、僕らは付録みたいなもののようだ。
「分かりました……と言いたいとこだけど、俺たちは先を急いでいるから。その話はなし、だよなリオン」
「え? 僕ですか?」
急な無茶ぶりに思わず聞き返していた。
「当たり前だろ。だってお前が俺たちのリーダーだろ」
いつの間にリーダーになったのかは気になるけど、それについては置いておこう今は。
「そうですね。ルインさんの言う通りだと僕も思います」
これ以上、教会に長居することはどう考えても危険でしかない。それに目の前で穏やかに話すエルディーン司教をどうしても信じ切ることができなかったからだ。何か裏のような……何かを隠しているような気がした。勘でしかないけど……。
「エイダ様のお考えも、同じでしょうか?」
確認のようにエイダに再度、尋ねる。
「リオンや……みんなが行くなら私も……」
「そうですか……それは残念、本当に残念です……フフフ」
俯いたまま肩が小刻みに震えだす。
「フフフ……ハァハハハ」
急に笑い出すと立ち上がり、天に向かって祈りを捧げるように両手を力いっぱい広げる。まるで大空に飛び立とうとする鷹のように。
「何が可笑しいんですか?」
目の前の不可思議な行動が妙に恐ろしげであった。
「分からない? 簡単なこと、この者たちにご慈悲を」
エルディーン司教の合図で、四方のドアから寺院の衛兵が現れると瞬く間に囲まれる。衛兵の手には鋭く尖った槍が握られ、矢先は間違いなく僕らを捉えていた。
「平和を願う教会がこんな暴力的なことをしていいのか?」
ルインさんの言葉には嫌味が含まれているのが伝わってくる。
「神に逆らう愚かな人間に多少の暴力を奮おうと、神は許されるのですよ」
「このエセ司教、こっちが本性だな」
「なんとでも言え。こいつらを早く連れて行きなさい、ただしエイダ様は残してな」
命令されるまま衛兵は槍を向け、綺麗に一列に並んだまま迫ってくる。初歩的な作戦だけど、単純なだけに逃げ場がない。じりじりと押し出されるように無理やり部屋の外へ押し込まれていく。
「エイダー」
「……リオン」
走り寄ろうとするエイダの腕をエルディーン司教が掴むと、そのまま隣の部屋に連れていく。
「……やめて、放して」
嫌がるエイダの姿が見えなくなるまで僕は、衛兵の間でもがくことしかできなかった。




