第9話 知ってること、知らないこと①
バジレ宮に集められた人物が日常的に使う場所を、シュテファニに連れられて順々に巡った。
全員の個室、大小ある食堂とサロン、図書室に多目的ホール、それからビリヤード台やボードゲームが置いてある遊戯室。他にも用途不明の部屋がいくつか。
部屋数が多いため、案内してもらっても、いや案内されればされるほど、クラリッサは迷子になる自信ばかりが増していく。
「日中ならどこかしらに侍従がいるから平気よ」
移動するたびに「ここはどこだろう」と顔色を青くするクラリッサを、シュテファニが笑って励ました。さすが全貴族の憧れだ。
ロイヤルゲシュヴィスターになるような家柄であれば、日頃から他者の手本となるべく行動するよう教育を受けている。シュテファニの振る舞いはまさしくお手本と呼べるのだろう。
おかげさまでクラリッサは、ここでの生活もそう悪いものではないと思えるようになった。フロレンツやアメリアと接する機会を極力避ければ良いのだ。彼らも暇ではないだろうし、難しい話ではない。
最後に、と連れられたのはギャラリーだった。いくつもの絵画と彫像がバランスよく並んでいる。
離宮だから数は少ないけれど、と言い添えるシュテファニの言葉に驚くほど、クラリッサにとっては宝の山だ。作品をひとつずつ眺めれば、クラリッサでさえ知っている名前があった。
その中で気になる絵を見つけ、いくつかの作品を通り過ぎて真っ直ぐに向かった。
「わぁ! これはやっぱりヴァルターの絵ですね!」
「……よくわかるのね」
背後から、シュテファニの抑揚のない声が返ってくる。興奮し過ぎて呆れさせたかもしれないと思ったが、残念ながらこの興奮はしばらく抑えられそうにない。
だってクラリッサはこの空の色を知っているのだ。昔ヴァルターに見せてもらったものよりずっと綺麗だが、その本質は全く変わっていない。
「ええ、これはヴァルターの描く空に違いありません!」
「さっきは何も覚えていないようなこと言ってたけど、なんだ、本当は覚えてるんじゃない」
クラリッサが振り返ると、表情を無くしたシュテファニと目が合った。
しかし不思議な事を言うものだ。こんなにもわかりやすいヴァルターの証が描かれているのだから、記憶の有無の問題ではないのに。
「いいえ、これは特別なんです。だってこの空は――」
小さな頃クラリッサはヴァルターに、彼の描く空の色がシュテファニの瞳にそっくりだと言ったことがある。彼はほのかにはにかんで、だから好きな色なんだと言った。
そんな素敵な空の色を忘れられるはずがない。
しかし、クラリッサの言葉はシュテファニによって遮られてしまった。
「フロレンツがどんなつもりで貴女を呼んだのか知らないけれど、歴史が古いだけのアイヒホルン家が、他の名家に近づけるだなんて思い上がらないことよ」
大人びた微笑みから一転、シュテファニは険しい目でクラリッサを睨み、顔色も少し赤いようだ。両の手は拳を握っていて、誰が見ても今の彼女を怒っていると形容するだろう。
クラリッサは何かしてしまっただろうかと首を捻るが、今度こそ理由が思い当たらなかった。
先ずは謝罪するべきか、それとも一体何が彼女の気に障ったのか問うべきか、普通の貴族はこの場合どのようにコミュニケーションをとるのか、何もかもがわからない。
「あ、あの」
「案内はこれで終わり」
シュテファニは、吐き捨てるようにしてバジレ宮のガイド終了宣言をすると、プイと背中を向けて立ち去ってしまった。
何か謝ることも理由を問うこともできないまま。突然のことに、クラリッサはギャラリーに並ぶ新作の彫像よろしくその場に立ち竦んだ。
彼女の言葉に答えを探すなら、昔のことを覚えていないというクラリッサの言葉が偽りだと感じたから、だろうか。
それとも、何も知らないふりをして男性陣に近づく浅ましい人間に見えたのか。
「ちょっとくらい話聞いてくれてもいいじゃん……」
ようやく動きだしたクラリッサは、ゆっくりヴァルターの絵を振り返って呟いた。
シュテファニはもしかして、このスミレ色の空の由来を知らないのだろうか。由来を知っていればこの色を忘れるはずがないとわかってもらえるに違いないのに。
見上げたヴァルターの絵はやっぱり綺麗で、もしこの空が何を意味しているのか知らないのなら、それはとても寂しいことだと思った。
「シュテファニめっちゃ怒ってたねー、あのレベルで怒るのは珍しいよ」
パチパチと手を叩くような音とともにクラリッサの耳に届いたのはロベルトの声だ。振り返ると、柱に寄りかかって実に楽しそうに笑うロベルトがいた。
鳶色の瞳を無邪気に細め、形のいい唇を片方だけ上げたその表情はほんの少し子どもっぽい。
「見てたなら助けてくれればいいのに」
「えー? このあと俺の部屋に来るならいいけど?」
助けを求める相手を間違えたと悟って、クラリッサはフルルと首を振る。ロベルトもまた、ほらね、としたり顔で頷いた。
(うー。やっぱり貴族は苦手だ)
ここでの生活は前途多難に違いないと思い直してクラリッサが大きく溜め息を吐いたとき、ロベルトが一際大きく手を叩いてクラリッサに一歩近づく。
長い足の一歩は大きい。クラリッサが驚いてビクっと跳ねるのも構わず、ロベルトが目を輝かせた。
「ちっと思い出したんだけどさ。クラリッサってさー、昔からシュテファニを怒らせる名人だったよね」
「へ??」
(シュテファニを怒らせる名人? 私が?)
不名誉な称号をもたらしたロベルトの、鳶色の瞳には呆けた顔のクラリッサが映っていた。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。バジレ宮での生活に不安を感じている。
●シュテファニ:ローゼンハイム公爵家ひとり娘。離宮内の案内を申し出てくれた。優しい。
●ロベルト:エルトマン公爵家長男。チャラモテ男子。手が早そう、要注意。
※名前だけ登場の人
●ヴァルター:ペステル伯爵家長男。のんびり屋さん。クラリッサのこともよく覚えているらしい。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。ゲシュヴィスター制度の研究をしている。偉そう。
●アメリア:ギーアスター伯爵家長女。クラリッサのことが嫌い。
今回登場用語基礎知識
●ゲシュヴィスター制度:兄弟姉妹制度。5~10歳の同年代の貴族の子が集まり基礎教育を受ける。元は王族の情操教育が目的。




