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第5話 久しぶりと言うには遠すぎる②


 エントランスホールからぐるりと大きくカーブした階段を上ると、階下の音はもう聞こえてこなかった。


 行き止まりがよく見えないほどの長い廊下をフロレンツとふたり並んで歩く。すれ違うお仕着せ姿の女性が深く頭を下げるのが、クラリッサにはすごく懐かしく感じられた。


「久しいな、クラリッサ。あの頃のことは覚えているか?」


 いつもの、お腹から張り上げるような覇気のある声ではなく、静かに語りかけるような言葉。それがフロレンツから発せられたものだとは俄かに信じ難く、びっくりして顔を上げる。


 しかしフロレンツは前を向いたままで、クラリッサからその表情はいまいち読めなかった。


「いえ。申し訳ありません」


 久しいなという言葉はつまり、彼はクラリッサのことを覚えているということだ。

 ほとんど何も覚えていないクラリッサは素直に謝るしかないのだが、しかし王子殿下が覚えているのに自分が覚えていないのは不敬ではなかろうか、という可能性に行き当たって、ピャっと姿勢を正した。


 げ、どうしよう。と急に不安になって、慌てて言い訳を並べ立てる。


「あ、あの! 私は当時ここにほとんどいられなかったので、あまり。でもそれ以上に、身辺の変化が大きすぎて、そちらの印象が強いのです。だから、その」


「誰がいて、どのような生活をしていたかも?」


「殿下のゲシュヴィスターは誰もが存じ上げております。常識の範囲内で、どなたがいらしたかということなら」


 クラリッサの言葉に、フロレンツは「そうか」と言ったきり口を噤んでしまった。ふたり分の足音が刻む一定のリズムと、眉一つ動かないフロレンツの横顔が、少しずつクラリッサの不安をほどいていく。


 窓から入って来た光が黒檀の廊下を白く染めて、よく磨き込まれていることをクラリッサに知らせた。


 実家には執事とメイドが一人ずつしかいないため、クラリッサも積極的に掃除を手伝うから知っている。これだけピカピカに光沢が出るほど磨くのはものすごい努力の賜物なのだ。


 美しい廊下を維持することに携わった全ての人へ心で感謝を述べた。清潔で明るい廊下ひとつだって誰かの苦労の上にあるのだと学べたのは、没落したからこそだろう。


 横を歩く王子様はきっと気づくまい。廊下の美しさひとつぶんだけ、クラリッサは王子様より世界を知っている。だから、ゲシュヴィスターのメンバーを覚えていなくても仕方ないのだと心の中で言い訳をする。


「今日はお前の歓迎会だ。あとで皆に自己紹介をさせるから、ゆっくり覚え直せばいい」


「あ……ありがとうございます」


 表情が変わらないまま告げられた言葉は、優しさから発せられたものなのか、あるいは無関心からくるものなのか判断がつかない。


 けれども、記憶がないことを咎めるどころか理解を示したフロレンツに、子どもみたいな言い訳を用意した自分が恥ずかしくなって少し俯いた。


「それから、このバジレ宮において形だけの礼儀作法は結構だ。誰が相手であろうと子どもの時分と同様、敬称も敬礼も必要ない」


「は、はぁ」


「もちろん、一歩外に出たらそれ相応の態度でな。マナーを忘れる心配があるなら教師でもつければいい」


(これ、王家流(ロイヤル)嫌味だ!)


 幼少期から常に厳しく躾けられる貴族の子女が、一部を無礼講にしたところでマナーそのものを忘れるはずがない。日常の中で貴族としての礼儀作法から離れることの多かった、クラリッサにだけ効果のある嫌味である。


 しかし言われてみればその通りで、昨日までアウラー家で先生をつけてもらっていなければ、クラリッサはこうして落ち着いて王族と話すことすらできなかったかもしれない。


 それに、自分自身では完璧にできているつもりでも、王族(ほんもの)の目から見たらまるで酷い出来かもしれないのだ。ここは素直に助言に従って、先生をお願いするのもいいだろう。


 そこまで考えて、クラリッサはハタと思考を止める。


「先生をつけられるのですか?」


「ああ。あとで紹介するが専属の侍女もつけてあるから、教師も教科書(テキスト)も必要なものはその者に言えばいい。ここは俺がゲシュヴィスター制度について研究する場だが、お前たちは基本的に好きに過ごして構わん。遊ぼうが学ぼうが享楽にふけろうが」


 フロレンツの返答にクラリッサは心が踊るのを止められない。

 教師も教科書も、求めれば与えられるという理解で合っているはずだ。


 クラリッサはアウラー家の情けで基礎教育こそ受けられたものの、あとは全て独学だった。それがついに、専門家に教えを請うことができる。なんという幸運だろうか。



 ピタリとフロレンツが足を止めた。

 気が付けばふたりは長い廊下の最も端まで到達していて、重厚な造りの扉が目の前にある。床と同じ、黒檀でできた扉だ。


 フロレンツはドアハンドルに伸ばした手を途中で止めて振り返る。紺碧の瞳が冷たく細められた。


「ひとつだけ言っておくが」


「はい」


「どうも巷じゃこのバジレ宮を指して『恋人探し』だとか『娼館』だとか噂をするバカがいるらしい」


 よくご存じですねとはさすがのクラリッサにも言えず、細く息を吸った。


 どんな顔をしてどんな返答をするのが正解なのかわからないまま、曖昧に笑ってその場を誤魔化す。マナーを教える教師は、できればこういうタイミングの切り抜け方を教えてくれる人がいい、と切に願いながら。


「はは……」


「もしもお前が、そんなことを目的にここへ来たなら見当違いも甚だしい。浅ましい考えは早々に捨てておけ。ヨハンやロベルトに媚を売っても無駄だからな、もっとマシな目標を掲げておくことだ」


「えっ!」


 さっきのヨハンとのやり取りが、媚を売っているように見えたのだろうか、と振り返る。そもそもここへクラリッサを呼びつけたのはフロレンツだというのに、酷い言われようだ。


 やはりビアンカには見る目がないのだと伝えるべきだ、と心に決めた。


 が、自身はともかく善意で声をかけてくれたヨハンに失礼ではなかろうかと思い直す。


 彼の名誉のためにも、おかしな誤解は解いておかねばとクラリッサが口を開きかけたとき、フロレンツはすでに背を向けてドアハンドルを握っていた。


(これが王家流(ロイヤル)ムーブ……! これだから王子様は!)


 他人の様子などまるで興味を持たない様子のフロレンツに、クラリッサは目を白黒させる。その間にもドアハンドルはゆっくりと回り、カチャリと静かに扉が開いたのだった。


今回登場人物紹介

●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。なぜかバジレ宮に呼ばれてテンパっている。

●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。偉そう。でも字は綺麗。


名前だけ登場の人

●ヨハン:ハーパー伯爵家の次男。丁寧な対応をしてくれた人。クラリッサのゲシュヴィスター。

●ロベルト:ゲシュヴィスター仲間のひとり。エルトマン公爵家の長男ということしかまだわからない。

●ビアンカ:クラリッサの幼馴染。アウラー家長女。フロレンツの大ファン。

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― 新着の感想 ―
[良い点] おお~、バジレ宮の綺麗な様子が目に浮かぶ。 フロレンツ殿下、「ヨハンやロベルトに媚を売っても無駄だからな」ってそれは、嫉妬から来る牽制ですか?
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