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第31話 氷の解け始める兆し⑥


 バジレ宮に静かな時間が戻る。クラリッサとヨハンの間には、二筋の湯気。

 熱いお茶と対峙したときのハフっという息遣いも、テーブルにカップを戻すときの微かなカタタッという音も。普段なら聞こえないような音が今夜はやけに大きく響いた。


 クラリッサは、ふたり分のお茶を淹れたというのに話題がないことに今さら気づいて狼狽する。日頃はほとんど顔を合わせる機会もないし、昔のことはクラリッサが覚えていない。


 共通する話題がない。由々しき事態に、やけにお茶を飲むスピードが速くなってしまう。



「あ。そういえばヨハンは観察者だって言ってましたけど」


「ん? ああ、そうですね。それがどうかしましたか?」


「誰と誰が争っているんですか? 勝者にベットするって、言ってましたよね」


 唯一共通する話題でピンチを回避する。ヨハンを不思議ちゃんだと思ったきっかけの話題なので、あまり深く突っ込みたいわけではないのだが、背に腹は代えられない。


 ヨハンは持ち上げたカップを口に運ばず、静かにソーサーに戻した。

 真っ直ぐクラリッサに向けられた瞳はただ相手の意図を探るように揺れている。


 必死に捻くり出した話題がそれだったというだけで、深い意味は何もないのだが。


「さあ、どうでしょう。そのうちにわかるんじゃないでしょうか?」


「はあ」


「私はどちらが勝とうが構わないのですよ。勝ち馬に乗って、『何者にも邪魔されない自分の時間が保たれる環境』を得られるのなら」


「じゃあ……今の環境を壊さないようにしないとですね。でもきっとヨハンなら軽々やってのけそうです!」


 熟考したいからと朝から侍従を締め出せる環境はなかなか手に入れられるものではない。もしクラリッサがカルラを締め出したなら、きっと何時間も叱られるか、何時間も泣かれるかするはずだ。


 そもそもフロレンツがねじ込んだたくさんの授業が、クラリッサにひとりの時間をほとんど与えない。


 侍従のことだけではない。社交に出ずとも許される環境もまたヨハンが苦労して築いてきたもののはずだ。それがいいか悪いかは別にして。


「ただ、お茶の淹れ方は覚えたほうがいいかも。ふふ」


 ヨハンの求める環境が持つ、唯一の欠点に笑ってしまったクラリッサとは対照的に、ヨハンはどこか遠くを見ている。


「すみません。大切な時間を邪魔してしまいましたね。では私はこれで」


 何か考えごとをしているようだと察してクラリッサが席を立つ。思ったより時間が経ってしまったし、早く戻らないとカルラに叱られるかもしれない。



「あ、クラリッサ」


「はい?」


「昔、貴女といつも一緒に過ごした子がいたでしょう。それは思い出しましたか?」


 ヨハンの言葉にクラリッサの心臓がポコンと飛び跳ねた。これは鎌をかけられているのだろうか? ()()()()()はヨハンではないのか?


「さぁ、どうでしょうか。あまり考えたことがありませんでした」


 ヨハンの探るような視線にいたたまれなくなる。なんと答えるのが正解だったのだろうか。

 あれはヨハンでしょう、気づいてましたよと? だが、その後に続く言葉はきっと「とても立派になりましたね」だ。まるで母親みたいな目線ではないだろうか。


 さらにもし思い出話をしようものなら、よく泣いていた話とか木登りができなかった話とか、簡単な足し算に3時間かけたこととか、そんな話題ばかりになってしまう。


 それは普通、今さら思い出させてほしくない類の話題になるだろうし、クラリッサにもその手の話をしないだけの気遣いはある。


「貴女なら探すかと思ったのですが。……好きだったのでは?」


 ヨハンの言葉に思わず息を呑んでその瞳を見つめた。

 そういえば昼間に目を通したビアンカの手紙にも、同じことが書いてあった。あの子のことが、好きだったんじゃないのと。


 クラリッサは例のあの子と過ごしたほとんどを覚えていないのだ。あの子のことを思い出そうとしても、靄がかかったように曖昧で実体を伴わない。

 ただ、お別れが寂しかったことと、最後に聞いた彼の言葉が浮かんでくるばかり。



 ――リサがいなかったら、オレ、どうしたらいいの……っ!


 ――×××なら、私がいなくたって大丈夫。


 ――駄目だよ、オレ、リサがいないと!



 あの子を思い出そうとすれば必ずこの会話が浮かぶ。いや、この会話しか浮かばない。


 バジレ宮で過ごした1年間、あの子とクラリッサはいつも一緒にいたはずなのに。だから、彼を好きだったとは思えないのだ。好きなら、忘れたりしないんじゃないかと。



 そもそも。もし好きでしたなんて言ったら愛の告白みたいになるではないか。この男は自信過剰すぎやしないか。不思議ちゃんも度が過ぎれば腹が立つ。


「それは……恋愛的な意味で、ですよね? そんな風に思ったことはありません。当時の私はきっとあなたより幼かったから」


 完璧な回答だとクラリッサは自分で自分を褒めてやることにした。

 と言ってもこの回答はほとんど真実なのだが。



「そういうものでしょうか」


「私にとっては。もし小さなうちから誰かを恋せるなら、それはとっても素敵なことだと思いますけどね」


「……そういう、ものでしょうか」


「ええ、きっと」


 あの子のことは今度こそこれでおしまい、そう心に区切りをつけてクラリッサはニッコリと笑った。

 5000歩くらい譲って仮に彼を好きだったとしても、それはもう昔の話だ。今のヨハンは……、優しい人だとは思うのだけども。



今回登場人物紹介

●クラリッサ:弱小男爵アイヒホルン家の長女。バジレ宮で多方面に向けて鋭意努力中。

●ヨハン:ハーパー伯爵家の次男。本の虫。ちょっと不思議ちゃん。


名前だけ登場の人

●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。ゲシュヴィスター制度の研究をしている。

●カルラ:バジレ宮におけるクラリッサの侍女。以前はアイヒホルン家で働いていた。

●ビアンカ:クラリッサの幼馴染。アウラー伯爵家の長女。フロレンツのファン。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ちげーよ! それヨハンじゃなくてフロレンツだよ! ……なんてずっと思ってましたけど、意表をついて実はロベルトだった! みたいな罠がないか怖くなりました。
[一言] >――駄目だよ、オレ、リサがいないと! これは母性本能をくすぐる( ˘ω˘ )
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