第10話 知ってること、知らないこと②
「私、そんなに彼女を怒らせてました?」
シュテファニを怒らせる名人と言われて、クラリッサは泣きたい気分でロベルトに確認する。まったく覚えがないのだ。無意識に他者を怒らせるのは才能だときいたことがあるが、そんな才能はいらないので、ご機嫌の取り方を教えて欲しい。
どうしましょうとオロオロするクラリッサを見て、ロベルトはもう耐えられないとでも言うようにお腹を抱えて笑いだした。呆気にとられて、クラリッサの混乱も一時的に落ち着きを取り戻す。
「くっ……腹痛いよ、あんまり笑わせないでクラリッサ」
「ロベルトが勝手に笑ってらっしゃるんです!」
「いや、怒らせたことも気づかないでグイッグイ彼女に向かってったあの頃よりは、成長したんだなーと思ったら胸が熱くなっちゃって」
(いくら子どもだったからって、怒らせたらわかるんじゃないの……? わかんないから才能なのかな)
ロベルトに何を言われても、当時のことは記憶にないのだ。言い返しようがなく、クラリッサはぐぬぬと唇を噛んでロベルトを精一杯睨みつけた。
しかし、手を叩いたりお腹を抱えたり、なにが可笑しいのか涙を流すほど笑い転げたロベルトに、クラリッサは次第に毒が抜けていく。
シュテファニを怒らせたことよりもむしろ、よく笑うロベルトの姿のほうに既視感を覚え、クラリッサは古い記憶の引き出しを漁った。
ころころと笑う姿、パチパチと拍子をとる手。その姿は最近誰かに説明したような気がするのだが。
「あー面白かった。案内が終わったんなら、もういつでも俺の部屋に来れるね」
「行きませんけどね」
「まぁそう言わずにさ。わかんないことあったらなんでも聞いてよ。場合によっちゃ、それなりの対価を求めるかもだけど」
昼間でも薄暗いこのギャラリーで、ロベルトの銀灰色の髪を間接照明が淡く照らす。
ゲシュヴィスターの中で最も妖艶で、最も素が見えない人物だ。しかしこの部屋の雰囲気のせいか、それとも彼の纏う空気のせいか、憎めないというか、危険な男ではあるが悪い人間ではない、そんな風に感じられた。
とはいえロベルトの言う対価はきっと恐ろしいものだ。クラリッサは頭脳労働を必要としない範囲の質問の中から、最も素朴な疑問をぶつけることにした。
「えと、結局ここは本当に自分の好きなように過ごしていていいの?」
フロレンツは「遊ぼうが学ぼうが享楽にふけろうが」好きにしていいと言っていた。しかしそういった自由は普通、最低限の制約があった上での話だ。
例えば、勉強はいいがある種の調査は駄目だとか、異性を連れ込むのはいいがゲシュヴィスター同士は駄目だとか。……是非、ゲシュヴィスター同士の不純異性交遊は禁止していて欲しいものだが。
歓迎会でその辺りの説明があるかと思っていたのが、意外にも会話が弾んで結局聞けず仕舞いだった。
ロベルトは貴族然とした紳士風の微笑みで頷く。こんな表情もできるのかと驚いたが、口にする前に飲み込むことに成功した。
「ここはね、子どもの頃と違って教育を受ける場所じゃないんだよね。良家の子女が集まってるんだから、切磋琢磨する場なんだろうね。積極的にみんなと交流したり、またはヨハンみたいに本の虫になったりしてさ、常に新しい刺激を求めるのがいいよ」
クラリッサの問いに対する明確な回答ではないものの、法に触れるようなことや常識から大きく逸脱したことでなければ、割と自由で良さそうだと判断した。
(ま、わざわざ禁止しなくたって、良家の子女が極端に悪いことするわけないか)
考えてみれば当たり前のことだ。貴族は――貴族と言えるかどうか怪しいクラリッサでさえも、外聞を悪くするような行為は慎まなければならないと肌で理解している。
ただでさえ、このバジレ宮の評判は良くないのだ。各個人が悪目立ちするようなことをしでかすはずもない。
(じゃ、私も早々に目標を決めて動くのがいいよね)
このバジレ宮にいる限り、クラリッサは望む通りに学びを得ることができる。アイヒホルンの再興という最終的な目標に、最短ルートで近づくことが可能なのだ。
とはいえ没落したアイヒホルン家の娘にできることは多くない。本城にメイドとして出仕できれば御の字と言えるだろう。
たくさん学べば、それだけ下働きよりも割のいい業務に携わることができるかもしれない。家のためには少しでも貪欲にならなくては。
思いを新たに拳を握りつつ、ロベルトにぺこりと頭を下げた。
「わかりました。ありがとうございます、ロベルト」
「まー個人的にはせっかく集まってるんだから、みんなで過ごすほうが趣旨にそうと思うんだよね。だーかーらー、いつでも相手してあげる」
「へっ?」
突然、瞳を妖しく光らせたロベルトが手を伸ばしてクラリッサの頬に触れた。ひんやりとした感触が肌をなぞる。
予期しないスキンシップに、クラリッサはまた彫像のように固まってロベルトを見上げた。背中をゾワワと何かが這い上がるような感覚。腕には鳥肌もたっているかもしれない。
(鳩だ、私)
クラリッサは動かない頭の片隅で、自分の弱点にようやく気づいた。前兆のない出来事に滅法弱いらしい。つまり、鳩だ。
鳩が豆鉄砲を食ったようとよく言うが、まさにこのロベルトの指が豆鉄砲なのだ。シュテファニの怒りも。
危険を察知したのか、かろうじてクラリッサの体が無意識に一歩だけ後ろへ下がり、身を守るように手を胸の前で組んだ。
ロベルトはそれを見て、またクツクツと笑いだす。口元を手で覆って肩を震わせる姿は、ただ笑っているだけなのに妙に色っぽい。
「大丈夫だって、クラリッサから来ない限り手は出さないから」
何事もなかったかのように、あるいは朝起きて顔を洗うのと同じくらい当たり前のことだったかのように、ロベルトはクラリッサに背を向けて歩き出した。
じゃーねーとヒラヒラ手を振って去って行く彼の背中を、クラリッサは呆然と見送った。
(……な、なんっ、なんなのあの人!)
鳩から人間に進化したクラリッサは、ふつふつと湧き上がる怒りに顔を赤く染めた。振り返ってみれば終始からかわれていただけだ。
もう嫌だ。今日は部屋に戻って引きこもってやる。夕食だって部屋で食べてやる。クラリッサは誰にも怒られず、誰にも笑われない場所を求めて歩き出し、10歩ほど進んだところでハタと足を止めた。
それで、ここから自室にはどうやって戻ったらいいんだろうか。
今回登場人物紹介
●クラリッサ:建国五名家のひとつで現在は弱小男爵アイヒホルン家の長女。
●ロベルト:エルトマン公爵家長男。チャラモテ男子。
※名前だけ登場の人
●シュテファニ:ローゼンハイム公爵家ひとり娘。全貴族の憧れの君。
●フロレンツ:ウタビア王国の第二王子。遊び人と名高い。ゲシュヴィスター制度の研究をしているらしい。




