表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

赤の小びん

作者: 弘せりえ
掲載日:2020/08/22

休日のお昼過ぎ、

友香からLine電話が

かかってきた。


私は寝起きで機嫌が悪かった。

なぜ、Lineだけに

してくれないんだろう。



最近、仕事はうまく行かないし、

見合い話は駄目になるし、


おまけに今日は生理日の二日目で

気分は最悪だった。


 

だけど友香の押しはいつも強烈で、

気の進まないまま

強引にひっぱり出されそうになる。



・・・でも、一人で家にいるよりは

いいかもしれない。


 

いつものように観念して、

アスピリンを三錠飲むと、


出かける準備を始めた。




 

夕方近くに、いつもの

本屋の前で待ち合わせした。



「どこ行こうか?」



そう言いはするものの、

いつだって友香のペースである。


 

今日も私はおなかが重いのを堪え、

友香に連れ回される破目になった。




「見て、すごくきれい」



友香にひっぱられて街角の

雑貨屋に入った。



「ほら、なみ、このびん、見て」


 

言われるまでもなく、

その店に入った途端、

目を引いたのは、


色とりどりで様々な形をした

ガラスのびんだった。



「中にバスオイルが

入ってるんだって。

びんの形もきれいだけど、

この色が素敵よね」


 

店の人が出て来て、

友香に何か説明している。


 

私は幻想的な色彩の中で

ぼんやりしてしまう。



「・・・びんは全て手作りで、

香りによって色が・・・」



さわやかなグリーン、

透き通るようなブルー、

明るいオレンジ・・・




そして私の目は

ある色彩に吸い寄せられた。


  

・・・深い深い血の赤。


 

思わず、その赤い液体の

入った小びんに触れてみる。



もしかして、

まだ温かいんじゃないかしら。 


まるで生き血を

絞ったかのような赤。



「やだ、グロテスクな色!」


 

友香は、私が手にした小びんを

見て声を上げる。



「そうだね・・・」


 

私は何気なく、

びんを裏返して見る。



ラベルには

“くわの実の香り”と記してあった。



「くわの実って、どんな香りかな?」


 

友香は近くにあるテスターの

びんを鼻先に持って行って、


うわっと声を上げ、

次に私の鼻先に押し当てる。


  

・・・息が詰まるほど甘いにおい。


 

深い血の赤がその重苦しい甘さと

共に私の上にのしかかり、


軽い眩暈と同時に、

遠い昔の出来事を思い起こさせた。


 

― ああ、この色・・・ ―


 

私は何かにひっぱられるかのように、

時を遡っていった。



カズと暮らしていたあの頃・・・


それほど大切な時間だとは

思わず過ごしていたあの頃へ。




二十六の時、

三つ年下のカズと暮らしていた。



アパートに突然ころがりこんできた

カズは、前の彼氏の後輩だった。



彼氏と別れてからカズと

付き合い始めたのか、


カズと付き合い始めてから

彼氏と別れたのか、

はっきりしない。



気が付けば、生活の中に

カズがいた。


 

定職につかず、

フリーターをしていたカズに

してみれば、私はよいカモ

だったのかもしれない。



私にとっては、

路頭に迷った仔犬を

拾った感じだった。



それでも、一人より

二人の方が楽しかった。 


カズといると何だか温かかった。



そしてちょっぴり私を

大人の気分にさせてくれるカズが

かわいかった。




「なみ、今夜は遅い?」


 

土曜日の朝、

狭いベッドの中で、

カズは私の髪をいじりながらたずねた。



私はまだ眠たくて、

カズの手を払う。 


すると今度は頬をつねろうとする。


 

「ねぇ、なみ・・・」



「もう、何なのよ!」


 

カズは仔犬みたいに、

やたらじゃれついてくる。



自分の力がよくわからないまま

じゃれたり体当たりするものだから、


時々こっちは本当にふっ飛んだりする。


 

そんな時、カズは申し訳なさそうな

表情ですり寄ってくる。


まるで仔犬が鼻を鳴らして

飼い主を呼ぶような憐れな顔をして。



そうなるとこちらの負けである。




ある時、どうしてカズに

こんなに惹かれるのか、

どうして一緒にいたいのか

考えたことがある。


惚れているから? 

好きだから? 

恋しているの? 


 

・・・違った。




― じゃあ、なぜ? ―


 

すると私の本能が答えた。


 

“カズはあんたの

子宮の中にいるからよ”




カズの子を宿すならまだしも、

カズ自身を宿しているなんて、 

考えてもみなかった。


 

この一体感は

“男女のもの”ではない。


もっと深い絆でつながって

いるのかもしれない。


そう思った時、

私はどんな時よりも一番強く

自分の中の“女”を意識した。




その日、カズはバイトが

休みだったらしい。



私が飛び起きて仕事に行く

準備をしていると、

もう一度聞いた。



「・・・今夜、遅いの?」



「しつこい子ね、帰ってくるわよ、

いつも通りに」


 

カズはベッドの中で、

ニチャ、と笑った。 



“なみ依存症””に

なっているのが憎めない。



「行ってくるね」


 

出かける間際に、

まだころがっているカズの髪を

くしゃっとなでると、


カズは私の手をつかもうとした。



私はすっと身をかわし、

部屋を出た。


 

カズの右手がむなしく

宙をかいてパタンと

ベッドに落ちるのが見えた。




その当時、

友香と同じ店で働いていた。



友香は昔から姉御肌で、

何かと私の面倒をみてくれた。


同じ年なのに

すっかり仕切られていたけれど、


物事には役割分担と

いうものがあって、


彼女においては

大人しい妹役を演じているのが

楽だった。


 

早番のシフトの勤務を終えると、

くたくただった。



同じシフトなら時々お茶したけれど、

今日、友香は遅番だった。



「あれ、もう帰っちゃうの?」



「当たり前よ、疲れたぁ」



「カズくんの待つ、おうちに直行!ね」


 

職場でカズのことは

内緒にしているのに、

友香は全然気にせず口に出す。


 

その日も慌てて辺りを見回し、

友香の背中をバンッとなぐった。




六時半に、店から少し離れた

駐車場に止めてある

黒の軽自動車に乗りこんだ。



その当時酷使していた、

決して今風ではないけれど

愛着のある車。



数日前にカズと洗った

ばかりでつやつや光っている。



近所の洗車場で、

ホースから出る水で虹を作ろうと

はしゃいでいた子供っぽい奴。


 

カズには私のような

役割分担というものがないようだった。


誰に対しても仔犬っぽい

“かわいがられる存在”であった。



私ほど打算的に自分を

演じないカズが

とても純粋でいとおしい半面、


それで人生やっていけるのだろうか

とも思った。



しかし裏を返すと、

私の方が、カズの純粋さを疑わない

自分を演じているのかもしれない。


 

どちらにしてもこの時はまだ、

楽しいだけで毎日が

過ぎていくことの不安に

気付いていなかったように思う。




その日は土曜日で

帰宅ラッシュもなく、

早めに帰って来られた。


 

途中、コンビニでカズの好きな

ビールを買った。


アパートの駐車場に入り、

カバンと買い物袋をつかんで

エレベーターに乗り、

四階のボタンを押したのは、

ちょうど見たい番組が

始まる時間だった。




「カズ?」



玄関のベルを二度鳴らして、

やっと出てきたカズの顔を見て、

私はいぶかしく思った。


 

何て情けない顔を

しているんだろう。



「なみぃ・・・」


 

カズはおもむろに、

私の前にタオルでくるんだ

右手を突き出した。



白いタオルの端が

赤く染まっている。


 

慌てて薄暗い玄関口で

荷物を放り出し、

カズを連れて明るいリビングへ

向かう。


 

そこでカズはゆっくりと

タオルを開いた。



「手ぇ切った・・・」




 

電気の光であらわになった

白いタオルの中は

血の海だった。


 

よくテレビでなどで見る

朱色ではなく、

恐ろしいくらい

深く濃い“赤”だった。


 

カズは台所の方を見やって言う。



「なみとカレー食べようと思って、

じゃがいもむいてたら、

手ぇすべって・・・」


 

まな板の上に、途中まで

むいたじゃがいもがころがっている。



「ああ、全く、なんてドジなの・・・」




 

血は止まらない。



私のために作ろうとした

カレーの存在は、とりあえず今、


カズの親指からしたたる血に

押し流されてしまう。


 

もう一度様子を確かめようと、

カズはゆっくりタオルを開く。



そして何を思ったか、

私の顔を見てにっこり笑う。



「・・・出血多量だね」




 

その血の生々しさと

カズの笑顔のギャップに

眩暈がした。


 

どろどろとした

濃い液体が指から溢れ出る。



カズの体温そのままの

生温かい体液。



血生臭い鉄のにおい

が屠殺場の動物を彷彿とさせた。


 

そして、この“赤”。



その赤は、

ぞくぞくするほど肉感的で、

狂気じみていた。



が、そんな事を考えたのは

だいぶ後になってからである。


 

その時は大急ぎでカズを

緊急病院に車で連れて行った。




助手席に座った

カズが黙り込んでいると不安だった。


これしきの怪我で

大の男が死ぬわけがないけれど

心配だった。



「ねぇ、大丈夫? 

ちゃんと手ぇ上の方に上げてるのよ」


 

車の中で突然私に

襲いかかってきたのは、 

アパートに残された

淋し気なカレーの材料だった。



二人で一緒に食べようと、

カズが作りかけたカレー。



可哀想に、置いてけぼり。



そしてカズのいじらしい気持ちに

涙が滲んだ。


 

― 今夜、遅い? ―



今朝のカズの声と、

さっきの作りかけのカレーが、


俄かに目の前のカズを押しのけて、

涙を誘った。


 

カレーを目の前にしては

カズを思い、

カズを前にしては

カレーを思い、


要するに私の頭の中は

パニックだったのだ。


 

いつか自分の子供が

こういう風に怪我をしたら、 

今と同じ涙がこぼれるのだろうか。


 

カズは私の息子なのかもしれない。


そんな涙をカズは

ただ無邪気に見つめていた。




病院でカズは

親指を三針縫った。

それだけのことだった。


若い青年の体は

それ以上の治療も必要なく、

すぐに回復した。




 

不思議とその夜の記憶は、

そこで終わっている。


どうやって帰ったのか、

何を話したのか憶えていない。


例のカレーを食べたか

どうかさえ思い出せない。




そして二十七になってすぐ、

カズと別れた。


直接の原因は

思い出せないけれど、


カズが誰にでも

甘えられる奴なんだと思ったような

気がする。



特別、私にだけ

愛されようとしていたわけではない、


むしろ誰の愛でも構わなかったんだ

という打算のなさ・・・


 

かつてはいとおしかった理由が、

突然許し難い欠点に感じられた。



カズがそういったわけではない。 

彼自身は結局何も

変わっていないのだから。


 

私の方が一方的にカズを

愛する役を降りてしまったのだろう。



子宮にいたはずの息子は、

やはりただの男だったのだろうか。


 

人間の本能って信じられない。



でも、子供だってこうして

離れていくものなのかもしれない。


 

だったら、私、子供いらない。




 

そして今、

赤い液体の入った小びんを

見つめる。



あの時感じた、

カズへの愛情は殆ど失せてしまった。



しかし歳月が流れるにつれ、

不思議と鮮明に思い出されるのは、


あの血なのである。


 

あの赤を思い出すと、

体の奥で何かが煮えたぎる。



獣が血の匂いのひかれるように、

無性にカズの血が恋しくなる。



血を流しているカズが

見たいのかもしれない。



孤独な独身女は狂気に

向かっているのだろうか。


 

ああ、あの血は

どんな味がするのだろう。



カズの指からしたたる

生温かい滴は、

どんなにか甘いだろう。


 

あの当時、

気付かなかった異常な情熱。


 

カズの血を求めている。


 

カズに会いたい。


 

カズの温もり、

肌の香り、

甘い血の滴・・・。




体内からドクンッと

血液が溢れ出した瞬間、

私は床の上にガラスのびんを

落としていた。




「やだ、なみ、何してんのよ!」




遠くで友香の叫び声がする。


気が付くと一人、

雑貨屋の床にしゃがんで、

ガラスの破片を集めていた。


 

辺りに充満する、

くわの実の甘たるい香り。



胸が苦しくなる、

甘い甘いカズの血の匂い。


 

友香が大声で

何かまくし立てている。


 

お願い、友香、

今はそっとしておいて。


すぐにあんたのお気に入りの

なみに戻るから、

今は・・・。




赤い液体を見つめながら、

破片を集めた。



指先なんかじゃない。


カズの手首を切って

その甘い血をすすりたい。



いや、いっそ、

あの首筋に刃を当てて・・・。




赤の液体を指に絡めながら、

血まみれのカズの姿を

思い浮かべ、


私はうっすらと

ほほえんでいた。


                 了



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ