第五話
何もしないことがこんなにも苦痛だとは思わなかった。
ずっと働き続けていたが、それは生活のためだった。正義感に燃えていたのは訓練校に居た頃と、警官になって最初の一年だけだった。正義がどこにもないことを知ってからは、ただ生活のために制服を着ているだけだった。時には嫌になったこともある。投げ出そうとしたことも。
(しかし今は、何もできないことが辛い)
エドガーはうめいた。
銃とバッジを没収された彼は、今はただの一般市民でしかない。倦んでいたはずの仕事をこれほど恋しいと思ったことはなかった。
「ねぇ、どこか痛いの?」
高い声と見上げる視線があった。
黒い肌の少年がソファにもたれて苦悶しているエドガーを心配そうに見つめている。
「大丈夫だ。ジョン、おいで」
安心させるために笑みを浮かべる。
ジョンはジュリアの子供だった。エドガーの甥っ子である。仕事に行っているジュリアの代わりにジョンを見ているのだった。彼には父親がいない。
「お前のママは強いな」
ジョンを膝の上に乗せて言う。
あの事件の日から三日後、ジュリアは周りの反対を押し切って出社した。まだ笑顔は戻らないが、子供のために休んでいるわけには行かないと彼女は話す。もう五年も、女手一つでジョンを育ててきたのだ。父親はジュリアが身ごもったと知った途端、姿を消してしまった。
「スパイダーマンより?」
「はは、そういう強さとは違うさ」
子供の純粋な瞳に見つめられ、エドガーの気持ちも大分落ち着く。
自分は何を必死になっていたのだろう。ジュリアはすでに立ち直ろうとしている。彼女は事件を忘れ新しく出発しようとしているのだ。それをわざわざ蒸し返す必要があるのか? エドガーは自問する。
「あのね」
ジョンに声を掛けられ我に返る。
「なんだ?」
「……ママ、どうして泣くのかな。夜になると、泣いてるんだ」
エドガーは言葉を失う。
彼女は立ち直ってなどいない。事件を忘れてなどいない。とてつもなく深い傷を負っているのだ。辛くないはずがない。被害者の女性の社会復帰が二日三日でできるものではないとエドガーは知っていた。
「ジョン……ありがとう」
「?」
少年を下ろして、エドガーは立ち上がった。
(停職処分になったくらいで、燻ってる場合じゃない)
鍛え上げた体は見栄ではない。
守るために、戦うために自分は存在しているのだ。それをどこに忘れてしまったのだろうか――エドガーの瞳にはもう迷いがなくなっていた。