第十話
内部に踏み込むと、ホールは無人だった。
ただ一人、黒服の男がエレベーターの前に立っている。案内役の者だろうと判断する。
「来たか。では武器がないか調べさせて――」
「その必要はない」
動こうとした男に銃口を突きつける。
「エド! やめて」
「殺しやしない……このまま素直に案内してくれるならな」
男は顔を青ざめさせた。
無線機でエドガーたちの到着を知らせ、彼らに背を向ける。
「案内はするが……私に何かあったら、息子の命はないぞ」
「ふん」
エドガーは鼻で返事をした。
どっちにしろ生かして帰すつもりはないだろう。それならば大人しく従って殺されるより、抵抗して死んだほうがましだった。
やがてエレベーターが到着する。
中に入り込むと、男は階数を選択するパネルの下にある鍵穴に、懐から出した鍵を差し込む。すると天井辺りにある電子表示に、選択できる階数より上の数字が現れる。そこがキースの住んでいるペントハウスなのだろう。
そして到着する。
男の背中に銃口を向けたまま、廊下を進む。その突き当たりに大仰な両開きの扉がある。
「案内ご苦労」
「うっ!」
男の頚部を銃の底で殴りつける。
意識を寸断された男はどさりと力尽きて倒れた。ジュリアが怯えるようにその様を見ていた。
「大丈夫だ。死んでない」
果たして彼女の心配はそれだったのか。
わからないまま、扉へと進む。押し開いて見ると、壁一面を夜景を望むガラス張りにした広い部屋だった。そして、その中央に待ち構えていた姿がある。
「ようこそ……待っていたよ」
見間違うはずもない。
資料で見た顔だった。キース・ヘルマン。両脇に護衛らしき黒服の男を従えている。
「ジョンはどこだ」
開口一番はそれだった。
まずは彼の安否を確認しなくてはならない。だがその部屋に少年の姿は見えなかった。
「子供にショックを与えたくなかったのでね……別室に移してある」
「黙れ、人質にしてるだけだろう!」
エドガーは激昂して銃口を突きつける。
護衛の男たちが身構えるが、キースはそれを手で制した。
「君は私を殺せない……そうだろう?」
勝ち誇ったようにキースは嘲笑する。
それは事実だった。ジョンを優先するならば、キースを殺すことはできない。それはどこかに監禁されているはずの少年の死に繋がる可能性が高い。
「では、取引といこうか」
「なに?」
「君たちを呼んだのは理由がある。それは、事件を忘れてもらうためだ」
「…………」
キースは何を企んでいるのか。
その目を直視できずに、ジュリアは顔を背けて口を閉じていた。もう二度と見たくもない顔なのだろう。その苦しみをエドガーは怒りに変えてキースにぶつける。
「人の記憶はな、そう都合よく作り変えられるもんじゃねぇ!」
「果たして、そうかな?――君が一番、知っていると思うが……まあいい。お互いにとって、良い解決法を思いついたんだ」
彼はにやにやと、面白がるように続ける。
「ジュリアを私の妻とする。その代わりに、君たちには平和を約束しよう」
「な……何を馬鹿なことを!?」
予想だにしない言葉。
どこまで本気なのか、キースの冷えた笑みから窺い知ることはできない。
「それでいいわ」
エドガーはさらに困惑させられる。
プロポーズを受け入れたとでも言うかのように、ジュリアはキースの元へと進んでいく。その表情はどこまでも虚ろだった。
「騙されるな!」
叫ぶが、止められない。
無気力になったものは疑うことをしなくなる。彼女の状態はまさにそれだった。
「ごめんなさい、エド……私、もう疲れたのよ」
キースの隣でエドガーに向き直って呟く。
その瞳はなぜか、哀れみに満ちていた。自分の運命を哀れんでいるのか、それとも。
「ははっ、見たまえ。彼女は君でなく、私を選んだぞ」
「やめろ……」
キースはジュリアの腰に手を回した。
ジュリアも嫌がる素振りも見せず、知らない者が見れば恋人同士だと思ってしまうほど密着していた。
「今日からジュリアは私のものだ。毎晩、可愛がってやるさ」
「やめろ……!」
改めて銃を握りなおす。
怒りで頭が沸騰しそうだった。いや、本当に意識が白んでいくのを感じていた。血が上りすぎてしまったのだろうか、だが気を失うわけにはいかない――そう思いながらも、視界が徐々に霞んでいく。
「うおおああああああっ!!」
意味のない叫び。
それは悲鳴だったのかも知れない。エドガーの構えた銃はキースではなく、ジュリアに向けられていた。そのまま、引き金を引く。
空気が割れ、ジュリアは崩れ落ちた。
エドガーの意識はついに、そこで途切れてしまった。