さがすくん
なんか分かるようで分からないような話になりました。
私の同僚に、狭川君というやつがいる。彼はメモ魔なのだが、そのくせ自分が書いたメモをよく失くしてしまう、という悪癖がある。
会議でも朝礼でも飲み会でも、ひどいときには合コンの時ですらメモを取る彼の様子は、おそらく彼を知らない人から見ると熱心なんだな、とか、あるいは熱心過ぎて薄気味悪いな、という感想を抱くものなのかもしれない。
でも私たちがそれを見ているときの気持ちは……なんて言えばいいのかな、苦笑いが浮かぶ感じというか、生ぬる~い感じというか……とにかく半笑いでその様子を見つめてしまう。
なぜならばだいたいその翌日から三日後の間、最速だと数時間後ぐらいには彼がその熱心に取ったはずのメモを探す風景を必ず見ることになるからだ。「あれ~、どこ行っちゃったんだろ~、無いな~」という彼の独り言を何回聞いただろうか……数え続けていたら面白かったかもしれない。
とにかく私たちは、彼がメモを取る間、おそらく同じことをずっと思っている。「あとで失くすのに」。
いつの間にやら彼には本名の狭川を捩った「さがすくん」という仇名が付けられた。誰がその仇名を付けたのか、正確なところは知らないが、よくできた仇名だと思う。
私は今やっている書類を家に持ち帰りたくない、という理由で気合を入れて残業に励んでいる。明日からは連休なので、この作業を何とか終わらせてしまいたいのだ。
同じフロアには由加里先輩もいた。彼女も同じような理由で残業中。机の上で書類を眺めたり、慌ただしく手を動かし続けている。
最初は作業をしながら適当な世間話をしていたものの、残業開始から二時間目に突入したいま、私たちの会話の数はゼロに近くなり、私がPCのキーボードを叩く音や由加里先輩が書類を捲る音が、私たち以外誰もいない暗いフロアに控えめに響いていた。
なぜ残業中のオフィスという空間はこうも突然に、そして容易に異界を生み出してしまうのだろうか。非日常というものが我々の人生の脇にいつも存在していて、時折我々に干渉してくるのだ、ということをこれほど実感できる空間も無いんじゃないか。
伸びをするふりをして周りを見渡せば、散らかった机も綺麗に整頓された机も、均等に主を持たず、使われることもなく、ただただ暗がりの中に佇んでいる。そりゃ本来の終業時刻はとっくに過ぎてるわけで当然のことなのだけれども、もしかしたらこの机の持ち主たちはずっと不在のまま、二度とここに来ることはないんじゃないか、という悪いイメージが頭を過る。
少し離れたところで作業する由加里先輩の机の上に置かれたスタンドライトが放つ光は、まるで冬の早朝、空と同化した深く黒い海を漂う漁船のようで非常に頼りない。そして私が今いるこの机も、遠くから見ればオフィスの闇に浮かんだ頼りない漁船に過ぎないのである。会話も途切れた今、彼女の世界の中に私はいない。同じ空間の中にいて、しかも二人っきりにもかかわらず、お互いの意識の中に相手がいない。
なんだか薄ら寒くなったので、デスクの上に視線を戻す。スタンドライトとPCの液晶画面がやや強めの光を放っている。視力が悪くなるかもしれない、と不意に思う。私は再び作業に集中することにした。
それからどれくらい経っただろうか。
急に物音がした。あまりに急だったので情けないぐらい驚いてしまい、その影響でキーボードの上を這っていた手が十数センチほど飛び上がった。
音のした方を向こうとする間に、今度はフロアに電気が灯った。
そこにはさがすくんが立っていた。
「なーんだ、もーう!びっくりさせないでよー!」
安堵感からか、私は必要以上にフランクな態度で彼に話しかける。
「あれ、さがすくんどうしたの?忘れ物?」
由加里先輩も話しかける。
私たちは直ぐ異変に気付いた。ふらふらと自分の席に向かって歩いているが、さがすくんは何も答えない。
「お、おーい!さがすくーん?」
由加里先輩がもう一度話しかけるが、全く反応を示さない。
一瞬、私は何らかの原因で幽霊になってしまったのか、それともさがすくん自身が幽霊なのか、とよく分からないことを思った。要するに今の彼が取っている態度は私たちにそれぐらいのことを思わせるレベルの無反応なのだ。彼は間違いなく私たちの存在を意識していない。いや、意識するしない以前に、私たちのことが見えているかどうかすら疑わしい。
私は思わず由加里先輩と顔を見合せた。
もっと言えば、さがすくんの動きは異様だった。普通に歩いている筈なのに、人が歩行するときにあるべき何かがひとつ丸ごと欠如しているというか……まるでビニール袋がタコ糸に引っ張られているような……実際そんな光景は見たことないのだけれど、しかし今見ている光景に付随する感触……ふわふわと頼りないものが、何かに引っ張られている感じを表現する比喩としては非常に正確だと思う。
やがてさがすくんは自分の席の前まで行くと、机の前に立ち、何かを始めた。最初は何をしているのかよく分からなかった。目を凝らして見つめているうちに、背筋が凍った。
さがすくんは自らが書いたたくさんのメモを、両手でぐしゃぐしゃにしながら掻き集めていたのだ。まるで雑草を摘むように。
大量のメモを鷲掴みにして掻き集めるその手には、明らかに怒りや恨みの感情が籠っている。しかし顔には喜怒哀楽が一切無い。その無表情と手元で行われている行為の激しさとのギャップにはおぞましさすら感じさせた。
やがて彼は壁際のコピー機の横の大きなゴミ箱の前に移動すると、その中にメモの塊を叩きつけるように放り込んだ。塊はゴミ箱の縁に当たり、その衝撃でいくつかのメモが塊から離れて床に転がった。
彼はゴミ箱の外に散らばったいくつかのメモに目を遣ると、今度はそれを踏み始めた。靴底を、何度も何度も床に落ちたメモ目掛けて叩きつける。その後、地面に捨てた煙草の吸殻の火を消すときのように、足元に力を込めて丹念にメモを擦り潰し始めた。目を背けたくなるほど、執拗に。
彼はその行為を床に落ちた数個のメモ全てに対して行った。そうしてボロボロになった紙片を、全て拾ってゴミ箱に放り込んだ。
彼はまたふらふらと歩き出して、フロアの電気を消して、そのまま扉を開けて出ていった。
結局、彼がこちらを振り返ることは無かった。
オフィスの暗闇の中に取り残された私たちは、そのまましばらく体を硬直させていた。
沈黙がしばらく続いた後、私たちは顔を見合せた。由加里先輩の顔には恐怖の色が見て取れた。私の顔にも恐らく同じ表情が浮かんでいるのだと思う。
いま何が起こったんだ?
しかし私たちは言葉を交わさないままに、互いから視線を逸らし、いま自分がやっている作業を再開することにした。そうすることでしか正気を保てないような気がしたのだ。
さがすくんはもういない。それでも私の目の前には明らかに異界が広がっている。
日常がぐるりと捲れ上がってしまったような恐怖、そして戸惑いが、まだ頭の中に強く残っている。なんでこんな場所にいるのか、どうして残業してしまったのか、自分を強く責めている。
それは由加里先輩も同様らしい。明らかに先程までとは表情が変わっているし、PCのキーを強く叩く音からは切羽詰まった感情を読み取ることが出来た。
それなのに私たちは逃げ出しもせず、必死で自分を胡麻化しながら目の前の作業を片付け続けている。
……ふと、脳裏に良からぬ疑問が思い浮かぶ。
私たちも、先程のさがすくんと同じように、既にこの場に広がった異界に呑まれた存在なのだろうか?
そんなはずはない、と思いたかった。強く信じたかった。
目の前のファイルをなるべく早く完成させようと急いでいる。