幻想としての『村上春樹』
本屋で村上春樹の「職業としての小説家」をパラパラ読んでいた。買わなかったが、今の村上春樹というのは「ナルシスト村上」と呼ばれても仕方ないなという印象を持った。もちろん、元々、村上春樹にはそういう資質があって、自分の中に閉じこもった作品を書いてきたわけだが、その資質が年を取ってはっきり出てきているように感じられた。
とはいえ、村上春樹は世界的に売れている作家である。その事実は認めなければならない。すると、村上春樹のように自分に閉じこもっている作家がどうして世界的に売れるのか、について考えてみなければならないだろう。
ネットを見ていて、自分の目を疑わずにはいられないのが、村上春樹の作品をあたかも文豪の作品の一つのように評価している批評が結構あるという事だ。これは自分には信じられない事で、自分はシェイクスピアの作品を読んでその凄さに感嘆し、村上とシェイクスピアというのはとても比べられないと感じる。しかし、シェイクスピアというのはゲーテですらが「叶わない」と言った人なので相手が悪すぎるかもしれない。だがもう少し下げて、サリンジャーとくらべても、サリンジャーにあった本質性は欠如している。
村上春樹の作品というのは高校生~大学生くらいにはちょうどよい読み物だと思う。基本エンタメだが、哲学的な雰囲気を兼ね備えていて、何か一歩大人の世界に入り込んだような気がする。しかし、実際それは「気」だけで、本当に面倒な問題に突っ込むわけではない。ドストエフスキー、トルストイであれば、色々な社会問題、人間の問題、哲学について考えざるを得ない事になるが、村上春樹は雰囲気だけで十分だ。そして村上春樹が世界的に受けるという事は、大半の人には、基本エンタメ、雰囲気哲学、というので文学は十分だと感じられているからかもしれない。
村上春樹の作品は「自分へ閉じこもっている」と自分は書いた。しかし、これは村上作品を好きな人には伝わるだろうが、ある種心地よい閉じこもり方である。村上春樹は母性を独占する物語を書いていると批評していた方もいたが、それは正しいと思う。村上春樹作品は、自分の内部に独特な閉じこもり方をする。他者を締め出して、ただ自分の気持ちよい空間のみを作り出そうとする。そしてそれが消費社会で生きる僕達の心性にピッタリ一致する。難しい事、ややこしい事、死、実存の問題は微妙に僕達の外に追いやる。しかし、それらは物語を作る上で雰囲気として入り込んでくる必要がある。この微妙な構造の上に村上作品は成り立っているように思う。つまりそこでは様々な問題が解決されるように見えるが、結局は、問題の解決というよりは問題の回避に終始する。問題の解決(問題との全面的対決)を問題の回避として、解決したかのように見せるという技術が村上春樹には存在している。
この微妙な構造の気持ちよさというのは確かに存在する。しかし、この詐術の上には安住できない。人はやがて人生の荒海に放り出されなければならない。村上作品の上にいつまで安堵する事は不可能だ。人はいつか村上作品が文豪でなかった事に気づいて、本当の文豪が一体何と戦ったかを見なければならないだろう。…あるいは人は今度は、自分達で「村上春樹」の役割を生み出すのかもしれない。つまり、今度は自分達で幻想を作り、嫌なものを極力遠くに退けようとするのかもしれない。
村上春樹は自分の事を「小説を書く資格を天から貰った」みたいに話していたが、まあなんと大層な話なのだろう。ドストエフスキーやトルストイや漱石が「私は小説家としての資格を天から貰った」なんて言うだろうか。彼らは皆それどころではなかったし、現実や社会を芸術によって乗り越える事に必死だった。トルストイはその挙句として芸術を否定するに至るが、トルストイの悲劇(喜劇)の意味は村上春樹には理解しかねるだろう。トルストイは人生の深淵な問題として芸術を捉えていたのであり、芸術がそれに耐えられないと見るやいなやそれを放り出してしまった。トルストイの悲劇も、「死せる魂」を焼いてしまったゴーゴリの悲劇も皆、村上春樹には関係ない。文豪にとって文学は死活問題であり、宿命的な意味を持っているがそれは「自分には物語を生み出す才能がある」なんて自惚れるタイプのものではない。
最も、村上春樹の傍観者的態度は世の中にフィットしている。文学なるものを自分とは違う所で少し離して考える。作者も読者も作品の「雰囲気」に浸る。そして本を離れるとすぐに「文学」は忘れ去られる。
世の中は自分達が楽しむ為にあり、世界とはその為の道具に過ぎない。社会学者のマックス・ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のラストで不気味な言葉を残している。
「『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまで登りつめた、と自惚れるだろう』」
ドストエフスキーは作家の日記で「人間が地中から牛肉を何トンも引き出す事ができるようになっても人間は救われはしない」ーーそうした事を言っていたと記憶している。ドストエフスキーやウェーバーが予見していた当のものに僕達は成ってしまった。すると、その地点から振り返って、ウェーバーやドストエフスキーを眺める事になる。ウェーバーは大学の単位を取る為に存在し、ドストエフスキーは「総合小説」を書くための道具である。我々は既に「心情のない享楽人」だからこそ、その為の道具として「心情のない享楽人」という言葉そのものを捉えている。村上春樹が過去を振り返り、そこから文学的方法論を取り出して行っている事、彼が作家としての自分に誇りを持っている事ーーそれら全ては正に、文豪と呼ばれる人がそうであってはならないと念じていた姿ではないか。村上春樹が自分には小説を書く資格がある、と自惚れられる立場とは一体何か、とは考えない所に村上の自惚れの源泉はある。こうした事を本の売上で糊塗する事は自分には不可能に思われる。
やがてメッキは剥がれ、真実が顔を出すだろう。そう思わずにはいられない。真実はおそらく、村上作品よりも心地よくはないに違いない。しかし、それ以上に力強い、「本物」であろう。景気の後退が長引き、中産階級が底から抜け落ち始めている今、必要なのは夢を見る事ではない。真実を見て立ち上がる事にある。その時、僕達は村上春樹という夢を捨て去る事だろう。