迷子のお宿
「ねえねえ知ってる?裏山の怪談話」
「あー、聞いたことある」
「えー、なに。あたし知らない」
「あれだろ、怪物が出るって云う話」
「そう。あの山には怪物が棲んでいて、子どもを攫いにやって来るんだって」
「そんなの大人が作った作り話に決まってるだろ」
「わからないわよ。本当にすごく怖い怪物が出てくるかもよ」
「やめてよぉ~」
「大丈夫だよ。そんな怪物なんかいないって」
「そうそう。どうせ大人たちが子どもを山に近づけさせないために作ったんだろうよ」
「もしかしたら裏山には宝物が隠してあって、それを隠すためにそんな作り話をしてるのかも」
「宝物ぉ!」
「でも本当に怪物がいたらどうするの?」
「そんなの俺様が退治してやるよ」
「じゃあ行ってみる?」
「えっ?」
「明日裏山に行って確かめてみる?」
「お、おうっ。もちろん」
「でも……」
「何だよ」
「もしも、とんでもない怪物が出てきたら……」
「何だよ!俺様が負けるって云いたいのか?」
「お前、親分を莫迦にしてるのか?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
「怪物なんかいないと思うけど」
「でも裏山に何があるか確かめたいって思わない?」
「あたしもぉー」
「それじゃ、明日皆で行ってみようぜ」
「いいっすね、親分」
「さんせーい」
「さんしぇーい」
「あんたたちが行くって云うなら、私も行ってみようかな」
「俺も行く」
「お兄ちゃん」
「お前も来るんだ」
「……うん」
「お前も来いよな」
「……わかったよ」
「で、お前はどうするんだ」
「行くよねー?」
「いくよねぇー?」
「別に無理に誘わなくても」
「そうそう、来なきゃ臆病者になるだけさ」
「さっさと答えろよ。行くのか、行かないのか」
「行くよ」
夕方ごろから雨が降った。広葉の上で雨水が跳ねてグロテスクな大樹の幹を沢山の水滴が流れる。絶え間無い雨音に降水の激しさが分かる。辺りには雨の音以外聞こえるものが無い。
深い森が辺り一帯を覆っている。見渡す限りを木々が覆いそれなりの年代を感じさせる。深緑に包まれて山のように起伏が激しい。麓の村では裏山と呼ばれて久しい。
山道を小さな影が駆けて行く。山に棲む野生の動物ではない。どうやら人のようだ。乳白色の着物を纏い、腹部を覆う帯は木の実で染めた鮮やかな紫色をしている。木々の間に子どもは一軒の建物を見つけた。子どもはそこへ向かって一直線に駆けて行く。
近づくにつれて建物の様子が見えてくる。昔に立てられた寺のようだ。正面には「御蔭堂」と書かれた札が屋根の上に掲げてある。
「オカゲドウ?」
子どもは呟きながら迷わずお堂の屋根の下に滑り込んだ。
「助かった」
子どもは自分の着物を見る。白い布地は水気を吸って足元は跳ねた泥で黒くなっている。
「止むまで待つしかないか」
子どもは軒先に座って森の中を見つめる。豪雨のせいで視界は悪く雨音以外に耳には何の音も聞こえない。当分止みそうにない。
「中で乾かせないかな」
子どもはお堂を見た。大分前に立てられたのか、木造の柱や軒先は黒ずんでいる。子どもは傍にある扉を開けようとしたが長い間使われていないせいか立て付けが悪く、酷い音を立てながら少しずつしか開かない。
自分が入れる幅が開くと子どもは中の様子を窺った。中は暗くてよく見えない。
「あの」
子どもはお堂の中に向かって声をかける。
「誰かいませんか?」
返事は無い。どうやら空き家のようだ。
雨は一層激しさを増す。子どもは寒さからすぐに中へ入った。ギシッ、と床が軋む音が響く。子どもは扉を閉めようとしたが固くて閉まらない。諦めて扉を開けたまま中に入る。
歩くたびに床の軋む音が聞こえる。子どもはお堂の中を見渡した。所々に蜘蛛の巣や埃が見える。子どもは次の部屋に続く扉の前に立った。子どもは力を込めて扉を開けたが、今度の扉は簡単に開いてしまった。その勢いで扉は柱にぶつかって音を鳴らす。
その部屋には灯かりがあった。囲炉裏に赤々と炎が揺れていた。炎に照らされて人影が揺れている。火の傍を見るとそこに誰かが座っているのが見えた。
「す、すみません」
子どもは驚いたように声を上げる。人がいるとは思っていなかったのだ。
「突然の雨で、ここが見えたもので、少し雨宿りを」
相手の反応は無い。子どもはよくよく相手を窺った。身の丈からして自分と同じくらいの年の子だろう。黒い着物に黒い帯を巻いている。男の子にしては髪が長かったが、髪に隠れて性別もわからない。しかし女の子が黒い着物を着るだろうか。子どもは再び声をかける。
「君、名前は?」
やはり返事は無い。
「俺、ヒサカ」
囲炉裏の前に座る黒い着物の子どもは返事をしない。代わりに子どもは囲炉裏の前を指した。
「座っていいの?」
子どもは首を縦に振った。ヒサカはそこに座った。目の前の炎が冷えた体を温めてくれる。ヒサカは横目で子どもを見た。男の子のように見えるが長い髪に覆われてよく見えない。
繁々見つめていると、黒い着物の子どもはすっと立ち上がった。子どもは軋む床の上を歩いていき、何も言わずに奥の扉を開けて向こう側へ姿を消してしまった。
ヒサカが着物に触れると意外に乾きは早く、ほとんど濡れていない。ヒサカは立ち上がって子どもが向かった扉の前に立った。ヒサカは引き戸に手を掛けて、今度はゆっくりと開けてみる。扉は抵抗無く開いた。ヒサカは扉の向こうを覗き込んだ。入り組んだ通路が広がっていて、幾つもの部屋が扉で仕切られている。子どもの姿はもうない。
「どこに行ったの?」
返事は無い。ヒサカは廊下に出て扉を閉めた。パタン、と扉が閉まり、同時に部屋の囲炉裏の火が消えた。勢いのあった炎は風もなく消えてしまったが、ヒサカが気付くはずもない。
「親分」
廊下の向こう側に声をかける子どもがいた。黄色の着物を着て、深緑の帯を締めている。後ろでは雨音がうるさいくらい響いている。
「どうした」
声を聞きつけて二人の子どもがやってきた。一人は青い着物の袖を捲って、藍色の帯を締めていて、着物も帯も酷く褪せている。もう一人の着物は継ぎ接ぎが多くて統一感がない。帯は地味目の黒にしてある。三人の中で一番横周りがある。
「どうしたキヨ。何か見つけたのか」
青い着物を着た子どもが訊ねる。キヨと呼ばれた黄色い着物を着た子どもが頷く。
「もちろんです親分。見てくだせ、ここから入れるみたいですぜ」
二人はキヨの指差すほうを見つめる。どうやら引き戸のようだ。二人が目を輝かせている中で、体格のいいもう一人はあまり乗り気ではない。
「やっぱり止めようよ、ヤンムくん。何か出るかも」
「何言ってんだよ」
叱咤の声を上げたのはヤンムと呼ばれた青い服を着た子どもだった。キヨも賛同する。
「親分の言う通り。そんなに怖いなら、クル、お前だけ帰れよ」
「そんなー」
情けない声を上げるクル。三人の背後を無情にも雨が降り注ぐ。弱まる気配は無いようだ。
「そんじゃキヨ。お前先行け」
「え~!俺っすか?ここはクルに行かせるべきでしょう」
「こいつが使えるかよ。早く行け、まさかお前、ビビッてんじゃねーよな?」
「も、もちろんっすよ。クルみたいな臆病者と一緒にしないでくだせえよ」
「じゃあ行け」
後の無くなったキヨ。仕方なく、キヨは引き戸に手を掛けた。長年使われていないせいか、立て付けが悪くなかなか開かない。
「開きやせんね」
「ホントか」
ヤンムが力一杯扉を引いた。その勢いで扉は呆気なく開いてしまった。
「開いたぞ」
ヤンムに睨まれて、キヨはゆっくりと中の様子を窺う。
「さっさと行け」
ヤンムに押されて、キヨは暗いお堂の中に投げ出された。廊下の軋む音が酷く耳に響く。キヨは慌てて顔を上げた。お堂の中は真っ暗で何も見えない。キヨの足元には一本の廊下が左右に伸びていて他には何も見えない。
キヨが少し歩くと襖が見えた。長いこと掃除をされていないせいで埃を吸って汚れていたが、目立った傷も見られず、わりと保存状態はいいらしい。
「親分」
キヨはすぐに二人のいる場所へと引き返した。
「どうした」
「奥に部屋を見つけやした」
「ホントか。中はどんな感じだ」
「あー……」
キヨは一瞬言葉に迷った。そしてすぐに云った。
「とにかく来てくだせ。すごいもんがありやしたぜ」
「よし、行ってみよう」
「ま、待ってよー」
二人はキヨの後をついていく。襖で閉ざされた部屋まで来ると、ヤンムはキヨとクルの前に立って襖を開けた。
「結構広いね」
先頭を歩く子どもが呟いた。この部屋にいるのは女の子三人だけのようだ。
「すごい」
後をついていく二人のうち一人が感嘆を述べる。
「見て見て、ロロちゃん」
部屋の隅のほうで別の女の子が二人に向かって手を振っている。繊細な花柄の着物を身に纏い、帯には牡丹の柄が描かれていて着物とは対照的に濃い色が使われている。
「コラ、マーフ。一人で勝手なことしちゃダメでしょ」
ロロと呼ばれた女の子はマーフの傍に駆け寄る。ロロのほうは、橙と白の格子縞の着物を着ていて、帯は淡い黄色をしている。髪を後ろに括ってポニーテールにしている。先頭を歩いていた女の子、ランパもマーフの元へと歩み寄る。マーフは部屋を支える柱を見て声を上げる。
「見てよこの柱。ぜんぶ漆が塗ってある」
ロロとランパも目の前の柱に目を凝らす。漆塗り独特の輝きを放つ太い柱がこの広い部屋の天井を支えている。ざっと見渡しても十本以上の柱が同じように並んでいる。ランパが頷く。
「本当だ。よく気付いたね」
「えへへ」
「でもさ」
ロロが口を開く。
「誰がこのお堂作ったんだろうね」
「さあね。相当古い、ってのは見て分かるんだけど」
云いながら、ランパが辺りを見渡す。ランパは濃い目の赤い着物を身につけて、帯は濃い紫色、髪は女の子にしては短いショートヘアだ。マーフが首を傾げる。
「オカゲサマでしょ?」
ロロが溜息交じりに答える。
「それはこのお堂に祭られてる神様か何かの名前。確かに外の札に書いてあったけど、このお堂を立てた人の名前ってわけじゃないでしょ」
「あ、そうか」
マーフが感心したように頷く。ランパが辺りを気にしながら二人に声をかける。
「他の連中は来てないのかな?」
「さー」
ロロが応じる。
「この雨だもの。どこかで雨宿りでもしてるんじゃない。雨が止んでから探せばいいよ」
「……それもそうか」
「それじゃ、次の部屋に行きましょう!」
「いきましょー、いきましょー」
ロロにあわせて、マーフが陽気な声を上げる。ランパは呆れたように溜息を吐いて、それから改めて周囲を見渡した。雨の音以外、目立って聞こえるものは無い。ここにいる三人以外に誰もいないことを確認してから、ランパは先へと進む二人の後を追った。
「待ってよ」
「待ってよ!」
大雨の中をヤオは走っていた。足元は雨のせいでぬかるんで思ったように走れない。
「お兄ちゃん!」
先を進むヤオの兄であるヤクのほうは、妹の頼みに応じようとはしない。
「さっさと来い」
ヤオに掛ける言葉はこれだけ。それ以外はひたすら山を登り続ける。
「待ってよ、……きゃ!」
ヤオが短く悲鳴を上げる。その直後に水溜りが弾けるような派手な音がヤクの背後でした。ヤクは振り向いた。水気を含んですっかり柔らかくなった地面の上にヤオが倒れていた。モスグリーンの着物が泥に濡れて土色に汚れる。
「……うぅぅぅ…………」
ヤオの顔は今にも泣きそうな顔をしている。ヤクは倒れたヤオに手を貸そうとはせず、同じ場所に立ったままヤオを見下ろす。
「泣いたら置いてくぞ」
その言葉を聞いて、ヤオは必死になって怺えようとするが、顔は泥と涙のせいでグチャグチャニなって、それでも泣き喚きそうになるのを何とか耐えようと顔を顰めている。ヤクは何も云わずに歩き出した。ヤオとの距離が次第に離れていく。
「待って!」
ヤオは叫んだ。それでもヤクは止まらない。
「待ってよ、お兄ちゃん!」
ヤクは振り向きもせずに歩き続ける。ヤオは泣きそうになるのを必死に怺えて兄の名を呼ぶ。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」
もう二人の距離は十メートルくらいに広がっていた。ヤクは突然振り向いて凹凸の激しい道を駆け下りてヤオの前で止まった。
「……お兄ちゃん」
ヤクは黙ってヤオを見下ろした。木々で覆われた山だったが、雨量が激しすぎて二人のいるところまで容赦なく雨水が降ってくる。
ヤクは一瞬屈んだかと思うと、素早くヤオの手を掴んで勢いよく起き上がった。
「わっ!」
ヤオは咄嗟に声を上げた。何とかバランスを保って、ヤオは立ち上がることができた。
「行くぞ」
ヤクは短く云ってヤオの手を無理矢理引っ張る。ヤクの歩く速度はヤオには少し速すぎた。ぬかるんでいる足場にヤオは足を掬われそうになる。
「わっわっ……」
「うるさい」
ヤオは慌てて口を閉じた。
「少しぐらい黙ってろ」
ヤオは視線を上げた。獣道の先に建物が見える。どうやらヤクはそこへ向かっているらしい。
ヤオがぼおっと建物を見ているとまた転びそうになった。今度は転ばずに済んだ。
「余所見するな」
ヤクに叱咤されてヤオは素直に足元に注意を払う。雨に打たれながら二人はお堂の前に辿り着いた。ヤクはヤオから手を離した。ヤオは雨に打たれながらお堂を眺めていた。
「風邪ひくぞ」
ヤクはすでにお堂の階段に向かって足を進めていた。
「お兄ちゃん、あれなんて読むの?」
ヤオに訊かれてヤクは顔を上げた。屋根の上に表札のようなものが掲げられている。
「さーな」
ヤクは簡素にそれだけ返した。ヤクの年なら一通りの文字を読むことができたが、ヤクは答えをはぐらかす。ヤオもそれ以上は訊かないでヤクの後に続いた。二人はお堂の軒に腰掛ける。
「皆どうしてるかな」
「知るか」
ヤオの言葉に無愛想な言葉をぶつけながら、ヤクは薄茶けた帯の隙間から白い布キレを一枚取り出してヤオに抛った。ヤオは不思議そうにその布を眺めてからヤクのほうを見た。
「それで顔拭け」
「うん」
ぶっきらぼうなヤクの言い方に、しかしヤオは素直に従った。
「着物も拭いておけよ。さっきこけたせいで汚いから」
「うん」
頷きながら、ヤオは横目で兄を見た。ヤクの藍色の着物も長く泥道を歩いていたせいで裾の周りが泥で汚れている。だがヤクは何も云わず、雨が降りしきる森の奥を見つめている。
ヒサカは一人で暗い廊下を歩いていた。古びた廊下は歩くたびにギシギシと軋んで音を鳴らす。ヒサカは頻りに辺りを見回している。ヒサカ以外に人の姿はない。
「どこ行ったんだろう。あの子」
頻りに首を動かしていたヒサカだったが、廊下の上に飾られている絵画に目を留めた。廊下を囲う壁の上に横五十センチメートル、縦三十センチメートルの額縁が十センチくらいの間隔で並んでいる。額は黒く色づけされて大変高価そうだ。額縁には大量の埃が累積し、長く動かされていないようだ。額の硝子も埃で曇り、飾られている絵も大分色が褪せている。
「何だろう」
中には獣の絵が書かれている。人のように日本の足で立って駆けているようにも見えるが、人にしては酷い形相をしていて、弛んだ腹と何よりも口から溢れた鋭い牙が特徴的だ。
「鬼、かな」
人とは似て非なるもの、その醜悪な形相は古代に描かれた地獄絵図の住人に近いものがある。
「こっちにも」
ヒサカは他の絵と見比べる。絵の描き方や内容にさほど差異は無い。子鬼が無邪気に遊んでいて、人の顔とは異なるが、子鬼の表情はとても楽しそうだ。
ヒサカは何かの気配を感じて我に返った。辺りを見渡すと奥の廊下に先程の黒い着物の子どもがいた。ヒサカが自分に気付いたのを知ると、子どもは音も立てずに廊下の先に消えた。
「待って!」
ヒサカはその子どもの後を急いで追った。ギシギシと軋む音が更に酷く響いた。ヒサカが子どもの消えた先を覗き込むと、そこに子どもの姿はない。代わりに闇の中に溶け込むように黒い扉が目に付いた。ヒサカは迷わず扉まで駆け寄って扉を開けた。中は真っ暗で何も見えない。しかし一本道のこの先に黒い着物を着た子どもが入ったのは間違いなかった。
ヒサカは部屋の中へと飛び込んだ。後ろで音も立てず扉がひとりでに閉まった。
ヤンムとキヨとクルの三人は部屋の中に入った。中に灯かりは無く部屋全体は暗闇そのものだ。しかし三人にはすぐに部屋の様子が分かった。
「すげー」
最初に感嘆の言葉を口にしたのはヤンムだった。他の二人も同じ気分だろう。部屋はやけに横幅が広く、中央には紅色の絨毯が敷かれ、その周りには金の糸で刺繍が施されている。それだけではない。絨毯の上には水晶でできた透明なテーブルが置かれ、その周りを革のソファーが取り囲む。他にも子どもたちが今まで見たことのないような珍しい品がこの部屋にはあった。
三人ともしばらく呆然としていた。キヨが気を取り直して、ヤンムに声をかける。
「ね、ね。俺の云った通りでしょ」
ヤンムはキヨのほうには見向きもせずに、部屋の中央へ向かって歩き出す。その後をキヨが追う。ヤンムは部屋の真ん中に置かれたソファーを繁々と眺めながら呟く。
「これは相当な値打ち物だぞ。――これは何だ?」
ヤンムは透明なテーブルの上に置かれた黒い板を手に取った。板には格子状の線が引いてあって、手にした感じでは相当の重さがある。キヨも同じように覗き込む。
「きっと町の連中が使っている遊び道具ですよ。これがそのときに使う道具でしょう」
キヨはテーブルにおいてあった小箱を手にして蓋を開けた。中には金銀に輝く様々な形をした駒が入っていた。ヤンムは目を輝かせる。
「こいつは高く売れるぞ」
「ですね」
二人の含み笑いが聞こえる。そんな二人を遠目で見るクルの表情はどこか不安そうだった。
「ねー……」
控えめに呟いたクルの言葉は二人の耳には届かなかった。
「よーし!ここにあるもの全部持ってこうぜ」
「そうしやしょう」
ヤンムとキヨは着物の中から袋を取り出して部屋の中の珍しい品を詰めていった。
「ねー……」
クルのことなど無視して二人は一心に宝をかき集めてる。
「すげー。もう一杯だ!」
「親分!他の部屋にも宝物があるかもしれやせんぜ。それもこっちまで運んで来ましょう!」
「ねー!」
クルは声を上げた。ようやく二人がクルの存在に気付いた。
「何だよ、クル」
ヤンムが煩わしそうな声を出す。クルは遠慮がちに二人に訴える。
「ねー。もう帰ろうよ。人のもの勝手に盗るなんて良くないよ」
「はー?何云ってんだよ。こんなお宝前にして何もしないで帰れるかよ」
「そうだぞ。それにこんな襤褸屋敷、誰も住んでいるわけないだろ」
二人はクルの云うことなど聞きもしないで、次の部屋に向かうべく三人が入ったところとは別の扉へと歩いていく。
「まだまだ何かありそうですね、親分」
「当たり前だろ。おい、クル!いつまでそんなところに突っ立ってやがる。早く来いよっ」
ヤンムとキヨはもう部屋を出て、廊下の上を歩いていた。クルは一回溜息を吐いてから二人の後を追った。
部屋を出ようとしたところで、クルは何かの視線を感じて咄嗟に部屋の中を見渡した。部屋の端は片方が壁、もう片方が襖になっていて、壁のほうに掛け軸がかかっている。部屋の天井はかなり高く、その天井から床まで垂れる巨大な掛け軸だった。その掛け軸には、これまた巨大な一匹の鬼が描かれていた。右手には鬼の腕と同じ長さほどもある大剣が握られている。鬼の顔は天井付近の闇に呑まれて良くは見えないが、おそらく憤怒の表情に歪んでいる。
「御免なさい」
クルは小さく謝って、廊下に出ようとして、再び振り返った。
――今、目が動かなかった?
そこには何も変わらない鬼神の絵画があるだけだった。
「おい!早くしないと置いてくぞ!」
「待ってよー」
クルは慌てて二人の後を追った。誰もいなくなった部屋の中で、二つの光がカッと輝いた。
ランパとロロとマーフは次の部屋にいた。部屋を左右に裂くように絨毯が敷かれていて、絨毯の両脇には等間隔に燭台が設けられ、赤々と燃える灯かりが揺らいでいる。
「変わった部屋ね」
辺りを見ながらランパが云った。ロロが頷く。
「骨董品かな」
壁際には三人が今まで見たことの無い珍しい品がずらりと並んでいる。三人はそれぞれ品物に近寄って興味ありげに覗き込む。ロロが眉を顰める。
「かなり古そう」
「でもでも、とってもきれいだよ」
マーフは積もった埃を払おうと息を吹きかける。その拍子に埃が舞ってマーフは咳き込んだ。
「けほっ、けほっ」
「気を付けなきゃダメでしょ、マーフ」
「ふぁーい」
マーフは鼻を啜りながら明るくロロに手を振った。ランパが二人に声をかける。
「二人はさ、誰がこんなお堂建てたんだと思う?」
「さー」
「すっごいお金持ちの人ぉー」
「それはわかるけど」
マーフの答えにランパは苦笑交じりに応じる。
「変わり者だよね。こんな山奥にお金のかかりそうなお堂を建てて、高価な品々を並べてさ」
「でもここの人ってどうしたんだろう?」
ロロの問いにランパはすぐには答えなかった。
「そこら辺に埃が溜まってるし、もう誰も住んでいないのかな」
「じゃー、これみんな私たちのもの!」
「あたしたちのものぉー、あたしたちのものぉー」
「人様のものを勝手に盗ったら泥棒でしょ。一回村に帰って、大人に訊いてみよう」
「うん、そうしよっか」
「そうしよぉー、そうしよぉー」
ランパの意見に二人も同意する。ランパは元来た道を見ながら、口惜しそうに顔を顰める。お堂の中にいても激しい雨音が良く聞こえる。
「まだ止みそうにないか」
「だったら、もう少し奥のほうを見に行こうよ」
「わー。それいい。そうしようよぉー」
二人の輝いた視線がランパに集まる。ランパは少し悩んでから意地悪そうな笑みを浮かべる。
「ちょっとくらい、いいよね」
「やったー!」
「やったぁー!」
ロロとマーフは飛び跳ねて喜んだ。無邪気にはしゃぐ二人を見てランパは呆れたように溜息を吐く。しかしその表情は満更でもないようだ。
「それじゃ、次の場所に行ってみようか」
ランパは先のほうにある扉を指差した。扉は両開き式だ。ランパが先頭を歩いてロロとマーフがその後をついて来る。途中でマーフだけが一つの壺に興味を持ってこっそり壺に近寄る。
ランパとロロが扉の前に立って扉を開けようとすると、扉がひとりでに開いた。二人は驚いて硬直した。扉の向こうから人影が飛び込んできた。ランパが人影に向かって声を上げた。
「あんたたちっ」
ヤンムとキヨだ。走ってきたのか、かなり息が上がっている。ランパがもう一度声を掛ける。
「ヤンム、キヨ?」
「ランパに、ロロか?」
ようやくヤンムが反応した。キヨが大声で叫ぶ。
「なんでお前たちがこんなところにいるんだっ!」
「それはこっちの」
台詞、とロロが云い掛けたところでランパがロロの口を塞いだ。
「急に雨が降ってきたから雨宿りしてるの。あんたたちだって同じでしょ」
毅然と云うランパにキヨは口を閉じた。ランパの手が離れてロロが口を開く。
「あんたたちは何やってるの。大分急いでいたようだけど」
その詞で思い出したのか、ヤンムは真剣な顔で叫んだ。
「鬼が出た!」
「……え?」
ランパとロロは次の言葉が出てこない。しかしヤンムとキヨの顔は真剣そのものだ。
「だから、鬼が出たっての。物凄くでかいの」
「早くここから出たほうがいい」
慌てる二人に対して、しかし、ロロの対応は簡素なものだった。
「そんなこと云って、ここにあったもの持ち逃げする気なんでしょ」
ヤンムの顔が一瞬強張る。どうやら図星のようだ。キヨのほうは何とか誤魔化そうとする。
「そんなことねーよ。それより、今は早く逃げねーと」
「あんたたちねー」
ロロはキヨの詞など信じていない。ランパはヤンムとキヨの慌てように懸念を抱く。
緊迫した空気の中で、マーフの緊張感のない声が上がった。
「ねー、ロロちゃん」
呼ばれてロロはマーフのほうへと振り向いた。他の三人も声のしたほうに目を向ける。
「この中に何かいるよぉー」
「何かって、何ー?」
間の抜けたマーフの声に、ロロも似たような声で訊き返す。しかしヤンムとキヨはマーフの言葉を聞いた瞬間、一気に顔が蒼ざめる。ランパは訝しんでマーフのいるほうを注視する。
マーフが壺を軽く叩く。それが合図となった。
巨大な壺の中から、大蛇が姿を現した。胴体の一部はまだ壺の中に隠れているが現れた首先は三メートル近い。首の周りはキングコブラのように膨らんでいて一層大きく見える。
マーフ以外の四人は、大蛇の登場に度肝を抜かれた。
「マーフ!」
ロロが叫んだ。ヤンムとキヨは呆けたように硬直する。ランパは早口でロロに耳打ちする。
「ロロ、マーフを連れて来て」
「うん!」
ロロは全速力でマーフの元へ駆け寄る。ランパが硬直している二人に叱咤の声を上げる。
「逃げるよ!」
「お、おう」
ヤンムはキヨの頭を叩いて元来た道へと戻っていく。二人の姿を確認してからランパは部屋の中に視線を戻す。ロロがマーフのところに辿り着いた。その上では大蛇が鎌首を上げている。
「わぁ、蛇さんだ」
「マーフ、行くよ!」
ロロが力任せにマーフの腕を引っ張る。その直後に大蛇はさっきまでマーフのいたところに頭から突っ込んで、古くなった木の床を突き破った。
「わぁ~」
マーフは間の抜けた声を上げながらも、ロロに連れられて扉のところまで向かってくる。
「早く!」
扉のすぐ脇に立っているランパは二人を先に行かせる。二人が部屋を出たのを確認して、ランパは扉を閉める。五人は暗い廊下に出た。ヤンムとキヨはすっかり震えている。
「早くここから出よう」
「そっちはまずい!」
ヤンムの声にランパは足を止めた。子どもたちの背後で轟音が起こる。子どもたちは慌てて振り向いた。扉は開かないが、部屋の扉が再度轟音を上げて軋む。ランパは視線を巡らせ、扉の横にもう一つの通路を見つけた。
「あっちから行くよ」
身を翻してランパは先頭を走る。遅れまいとヤンムが駆け出した。
「待ってください、親分」
キヨもヤンムの後を追って、ロロとマーフが最後尾を走る。通路はすぐに折れて先程ランパが進もうとした廊下と平行している。ヤンムがランパの傍まで追いついた。ランパは前に向かって走りながらさっと振り返って後ろを窺った。
数回の轟音を繰り返して扉が吹き飛んだ。そこから大蛇が姿を現す。全長十メートル以上はある巨大な蛇だ。扉が全壊した音を聞いてヤンムとキヨはランパを追い抜いた。
ランパは自分たちよりも早く逃げようとする男二人を一瞥してから背後の様子を注視する。ロロとマーフは自分より少し後ろを走っている。更に後方で大蛇が追ってくるが、大蛇が身をくねらせて前進しようとするたびに廊下の壁にぶつかってあまり速度が出ていない。大蛇の巨体はこの廊下では不利のようだ。ランパは背後の様子に注意を払いながらも走り続ける。
灯かりのない廊下の先でヤンムとキヨが立ち止まった。ランパは不思議に思って止まる。
「どうしたの?」
訊いても二人の反応は無い。後ろからロロとマーフも到着した。ロロがランパに声を掛ける。
「どうしたの?」
「わからない」
まだ大蛇との距離がかなりあるとはいえ、このまま止まっていればいつかは追いつかれる。
「どうしたのよ、二人とも」
焦れてランパが男二人に声を掛ける。するとヤンムが前を向いたままポツリと呟いた。
「来る」
ランパは言葉の意味がつかめず、ヤンムと同じように正面を見据えた。静かになった廊下の上に耳を澄ませると、闇の中で微かな音が聴こえる。それは大蛇の廊下を擦る音や壁にぶつかる音ではない。もっと緩慢で、けれど確かに近づいてくる。地響きがして廊下が揺れる。
「何なの。何が来るの?」
ロロが堪らず声を上げたが男二人は答えない。子どもたちは黙って闇の先を見つめる。
「来やがった」
ヤンムが云った。直後、闇の中に二つの灯かりが灯る。その光が次第に近づいてきて、そのたびに地響きが上がる。闇の中からそれが姿を現した。
「鬼だ」
ヤンムが云ったように、それは正しく鬼だった。天井に程近いほどの背丈を持つ大きな鬼だ。全長七メートルはあるだろうか。灯かりだと思った光は鬼の二つの目で、個々に意思を持ち、互いに勝手な方向を向いている。右腕には腕の長さと同じ長さの巨大な剣が握られていた。
「……親分」
キヨがヤンムに声を掛けた。その声に鬼が気付いた。二つの目が一旦動きを止め、ぐるりと動いて子どもたちを見つめる。鬼は咆哮した。口を目一杯開けて腹の底から声を吐き出す。凄まじい音量にお堂全体がビリビリと震動する。子どもたちは皆固まって動けなくなった。後ろからは大蛇が、前からは――隣の廊下だが――鬼が迫ってくる。
「くそっ」
ヤンムが突然駆け出した。その後姿にキヨが声を掛ける。
「親分!」
「あいつがまだあっちにいる間にここを抜けてやる」
キヨに応えながらヤンムは必死に走る。ヤンムの行動に、咆哮を止めた鬼の目が気付いた。
「危ないっ」
ランパが叫ぶ。ヤンムは鬼のほうを見上げた。右手の剣がゆっくりと上げっていく。
「親分!」
キヨが叫ぶのと同時に、ヤンムは身を翻して元来た道を駆け戻る。鬼は勢い良く掲げた大剣をヤンム目掛けて振り下ろす。ロロとマーフが同時に悲鳴を上げる。
「きゃーっ!」
大剣は鬼の向かいの廊下に深く食い込んで、轟音を上げて木造の廊下を粉々に砕く。四人の子どもは目の前の廊下の先を見つめる。廊下は真っ二つに抉られて、とても向こうには渡れない。大剣が食い込んだ廊下のすぐ手前に色褪せた青い着物を着た子どもが一人倒れている。
「親分!」
キヨが叫ぶ。ヤンムの指先が動いた。ゆっくりと立ち上がってふらふらと歩き始める。
「親分!無事で?」
「当ったり前だろ」
ヤンムは埃塗れの体で云ったが状況は良くない。鬼は剣が深く入ったのか、抜くのに梃摺っている。大蛇は近くまで迫っている。ランパは辺りを見渡しすぐ後ろの扉を見つけた。ランパは扉に駆け寄り力一杯引いた。重みのある両開き式の扉だが子ども一人通れる隙間は開いた。
「皆こっち」
ランパの呼びかけに、まず近くにいたロロとマーフが入り、次にヤンムとキヨが入る。全員が入ってからランパは周囲を確認する。大蛇はまだ遠い、間に合った。鬼は廊下に嵌っていた大剣が抜けるところ。鬼の目がランパを睨みつける。ランパは鉄製の扉を内側から引いた。しかし扉は簡単に動かない。鬼は剣を横に構える。ランパは扉を閉めようと更に力を込める。
鬼は咆哮しながら剣を払う。ランパは渾身の力を込めると、扉は重厚な音を立てて閉まった。間一髪のところで大剣は扉擦れ擦れを通り過ぎて、鬼のすぐ隣にある壁に向かって突っ込んだ。
ヤクとヤオは縁側に腰掛けて外を彩る豪雨を見つめていた。ヤオのモスグリーンの着物は転倒の際に酷く汚れていたが、完全にとはいかないものの、綺麗になっている。ヤクの藍色の着物も少し搾ったおかげで最初の頃よりはましになった。
「お兄ちゃん」
「ん」
「皆どうしてるかな」
「知らね」
ヤクの素っ気無い返事にヤオは黙り込む。雨の音がやたらに騒々しい。
「お兄ちゃん」
「ん」
「皆この中にいるんじゃないかな」
ヤオが二人の背後に佇むお堂を振り返る。ヤクも同じようにお堂を睨めつける。
「かもな」
「だったら」
「探しにいくか?この中に入るってことだぞ」
ヤオは黙り込んでしまう。しばらく俯いて、小声で呟いた。
「……こわい」
「だったら余計なことは考えるな」
ヤオは口を噤む。ヤクは視線を森の先に戻す。しばらく雨の音しか聞こえない。
ガタッ、という音が縁側の上を走る。二人は即座に音のした先を見る。ヤオはヤクの裾にしがみつく。二人が座る縁側の先の壁にぽっかりと穴が開いている。お堂の扉が開いたのだ。その闇の中から黒い影がぬっと突き出てくる。ヤオはしっかりとヤクにしがみついて、ヤクは扉の開いた先を凝視したまま動かない。
外の空気に曝されて人影がヤクの目に映る。ヤクは緊張を解いて人影に声をかける。
「クルっ」
クルは一瞬ビクついてから二人のほうに顔を向ける。クルは二人の姿を確認できて安心したのか、緩慢な足取りで二人に歩み寄る。
「ヤクくん。ヤオちゃんも」
「お前一人か」
ヤクの簡潔な問いに、クルの顔がすぐに引き締まる。
「う、ううん。……ヤンムくんと、キヨくんと一緒だった」
「だろうな。とうとう見捨てられたか」
「ううん。俺が、…………見捨てた」
「……どういうことだ」
ヤクは訝しんでクルを見る。クルの顔は酷く蒼かった。クルがゆっくりと話し出す。
「俺が、見捨てたんだ。俺、怖くて、一人で隠れていて。そしたら、二人を、追っていったんだ。で、で、……でっかい、鬼が…………」
「鬼?」
ヤクは訊き返す。ヤオは無意識のうちにヤクにしがみついていた。クルは話を続ける。
「そう、……鬼。二人を、追っていった。俺、怖くて、出ていけなくて。二人を、見殺しにしちゃった。どうしよう、……どうしよう、……。ほ、本当は、俺たち、ここへ来ちゃいけなかったんだ。裏山には、近づいちゃいけないって。どうしよう、俺たち、皆、殺されちゃう」
クルは怯えていた。目から泪を流して、話の後半から泪声になっていた。
「お兄ちゃん」
ヤオがヤクの顔を見上げた。ヤクの顔は仏頂面のままだ。ヤオはじっと兄の顔を見つめる。
「怖いか?」
ヤクはヤオに訊ねた。ヤオは答えに困った。
「こ、こわい。こわい、……けど」
ヤオはヤクの裾を握る手に力を込める。
「皆のこと、心配」
「そっか」
ヤクは抑揚の無い言葉で返した。そして、ヤクはさっと立ち上がった。
「お兄ちゃん?」
「ヤク、くん?」
二人は不思議そうにヤクの顔を覗き込む。
「絶対俺の傍離れるな」
ヤクの言葉にヤオはきょとんとして目を見張った。ヤクの目は前を向いたままで、その横顔は他を寄せ付けない鋭さを帯びていた。ヤオはぱっと笑顔になった。
「うん」
ヤクは正面の扉に向かって歩き出す。ヤオもヤクの着物を掴んで一緒に歩く。クルはただ二人を眺めている。ヤクは扉を開けてお堂の中へ入っていく。ヤオは表情を硬くしていたものの、迷わず兄の後をつき従う。クルだけが一人お堂の外に取り残された。
「待ってよー」
二人の後をクルも駆け足で追いかける。
扉を閉めたランパは振り返ってその場に集まった子どもたちに向かって云った。
「早く出口を探しましょう。このままじゃいつあの怪物たちに捕まってもおかしくない」
「そ、そうだね」
ロロが頷く。ランパが提案を述べる。
「道が分かれているから二手に分かれましょう。私とロロとマーフはこっちの道。男子はあっちの道に行って出口を探して。外に出られたら、急いで村に向かって大人を呼んでくる」
「ちょっと待てっ」
大声を上げたのはヤンムだった。
「勝手に仕切るな」
「親分の云う通りだ。偉そうに」
ランパとロロは二人の男子を睨みつける。マーフは状況が飲み込めず、不思議そうな顔をしている。ヤンムが垂れた袖を捲り上げる。
「さっきは不覚にもお前らと同じ道を進んだが、ここからは俺様の指示に従ってもらう」
「えぇ~。なんでぇ~」
「そんなのおかしいわっ。何であんたの云うことを聞かなきゃいけないのよ」
「うるさい!」
ヤンムに威嚇されてロロとマーフは悔しそうに口を閉じる。
「で、あんたの意見は?」
ランパはヤンムの目を真っ直ぐ見つめる。ヤンムは口元を緩める。
「お前たちが進むと云った道、そこをここにいる全員で向かう。もちろん俺様を先頭にしてな」
「それじゃ危険すぎる」
ランパは断言した。
「大勢で固まったら外にいる怪物たちに見つかりやすくなる。大勢で動いたって、あんな怪物をどうにかできるわけじゃない」
「そ、そんなの……」
「『俺様が何とかする』?真っ先に逃げ出した奴の云う台詞じゃないわね」
「…………」
「そんなこと云って、あっちの道から行ってお前たちだけ助かろうと」
「あっちに出口があるなんて保障があるのっ?」
ランパが叫んだ。その声に射竦められてキヨは黙った。
「どこに出口があるかわからないから手分けして探そうって云ってるのに、なんで誰が命令するかで揉めなきゃならないの?ここから出たくないの?なんで命よりも、つまらない意地なんかを大切にするの?」
ランパの詰問に答えるものはいなかった。ランパの頬は僅かに上気して赤らんでいる。
「ねぇ」
緊迫した空気の中でマーフの間の抜けた声が上がった。
「いつも一緒にいるクルくんは?一緒じゃないの?」
ランパとロロはハッとなって男子を見た。ここにはヤンムとキヨしかいない。マーフの純粋な問いにヤンムの表情は暗くなる。女子たちの視線を受けてキヨが口を開く。
「い、いつも一緒ってわけじゃねー。クルが勝手について来るだけで、俺たちがクルのことなんか知るわけないだろっ」
「あんたたちねー」
ロロがキヨを睨みながら前に進み出る。ロロが数歩歩いたとき轟音が鳴り響く。呼応するように鉄の扉が僅かに軋む。ランパが口を開く。
「もう時間が無い。ロロ、マーフ。行くよっ」
「でも」
「いいから!」
ロロの言葉を制してランパはヤンムとキヨの背後にある道へと向かった。さっきランパが男子に進むよう指示した道だ。ロロはマーフの手を引いて、男子の脇を通る際ヤンムの顔を一瞥してランパの後を追った。部屋の中にはヤンムとキヨだけになった。
「親分。俺たちも行かないとまずいですぜ」
キヨのほう見ないでヤンムは正面の道に向かって歩き出した。
「親分?」
そっちは最初女子たちが向かうはずだった道だ。
「行くぞ」
「でも、そっちは」
「うるさい。いいから来い」
そう残してヤンムは道の陰に消える。キヨは反対側の道に舌打ちしてからヤンムを追った。
ヒサカは奥行きのある部屋の中にいた。部屋の脇には提灯が下がり炎の色に光る。ヒサカは辺りを見回しながら奥へ進んでいく。部屋は襖で囲われ、襖には何頭もの狗が走る様子が描かれている。互いに追いかけ合い、じゃれ合う襖もある。襖の狗たちは楽しそうに遊んでいる。
「あの子はどっちに行ったんだろう」
部屋の奥で左右に道が分かれいて、ヒサカはどちらに進もうか思案する。ヒサカの背後で音がした。ヒサカが振り返ると部屋の脇の襖が開いて人影が飛び込んできてきた。
「あれ、ランパ」
人影は慌ててヒサカのほうを見た。部屋に入ってきたのは赤い着物を着たランパだった。
「ヒサカ?」
「あ、ヒサカだっ」
「ヒサカく~ん!」
ロロとマーフも現れる。ヒサカは三人のところへ歩み寄る。ヒサカは提灯の下にいる女子たちを不思議そうに見つめる。三人とも酷く息が上がっている。
「どうしたの。ランパ、泣いてるの?」
ヒサカの言葉にハッとなって、ランパは自分の頬に手を当てた。
「な、なんでもない」
ランパは慌てて泪を拭う。ヒサカは首を傾げる。
「ロロもマーフもどうしたの?そんなに慌てて」
「怪物が出たの!」
ロロが真剣な顔で答える。ヒサカは緊張感の無い言葉で訊き返す。
「怪物?」
「そうなの。早く逃げないと」
「あぁ~!」
ロロの話の途中でマーフが声を上げる。マーフは部屋の外の真っ暗な廊下を見ていた。
「どうしたの、マーフ」
「何か見えたの?」
ランパとロロがともに真剣な表情でマーフを見つめる。マーフはじっと闇の先を見つめている。闇の奥で二つの光が浮かび上がった。
「鬼さん来たぁー」
ランパとロロの顔が一気に蒼くなる。
「まずい。ヒサカっ。あんたも」
ヒサカはランパの話を聞いていない。ヒサカは何かの気配を察知して部屋の奥を見ていた。奥の道の陰に隠れてよく見えなかったが、提灯の灯かりに照らせれて黒い影が奥へ消える。
「あの子だ」
そう残してヒサカは奥の角を曲がって姿を消した。ランパは呆然としてヒサカの消えた後を見つめていたが、マーフの声で現実に戻される。
「こっちに来るよ」
「急いで逃げよう!」
「ヒサカは?」
ロロに訊かれてランパは迷う。しかし迷っている時間も無い。ランパはすぐに決断を下す。
「私たちは私たちで出口を探す」
ロロは頷いてマーフの手を握る。三人はヒサカとは反対の道を選んだ。ランパは木造の扉を勢い良く押し開ける。そこは今までの部屋とは大分雰囲気が違っていた。
「なにここ」
ロロが思わず呟いた。灯かりの乏しい陰鬱な部屋とは違い、まるで陽の下にいるように明るい。床から天井に至るまで黄金に輝いていて、部屋の広さも五十メートルくらいだろうか。
「すごい」
ランパが感嘆する。しかし三人に豪奢な部屋に見とれている時間は無い。背後から鬼の咆哮が聞こえて、三人は我に返る。
「急ごうっ」
ランパの掛け声で三人は部屋の向こう側にある扉に向かって駆け出す。十メートルほど進んだところで後ろの扉が豪快な音を立てて崩れ去った。粉塵の中から巨大な鬼が姿を現した。
「走るよ!」
三人は全速力で駆け出した。その後を鬼が追いかける。鬼の一歩は緩慢だったが、歩幅が違いすぎる。一番早いランパは逃げ切れそうだが、足の遅いマーフはみるみる距離が縮んでいく。
「きゃっ!」
マーフが躓いた。ランパとロロが振り向く。マーフのすぐ後ろには鬼が迫っている。
「マーフ!」
ロロは叫んだ。マーフは起き上がろうとしたが、足を挫いてしまってうまく立ち上がれない。
「いたい」
その言葉をかき消すようにマーフの背後で床が大きく揺れる。マーフは自分を覆う影に気付いて振り返る。厳つい形相の鬼が牙を剥いてマーフを見下ろしている。マーフは言葉を失った。
「マーフ!」
「ロロっ」
ロロは躊躇うことなくマーフに向かって駆け出した。ランパが止めようとするがロロの耳には入らない。ロロはマーフだけを見つめて必死にマーフが倒れているところまで駆けて行く。
「マーフ!」
「ロロちゃん!」
あと少し、のところで鬼の顔が二人の間を塞いだ。顔だけで子どもたちの背丈を優に越している、憤怒の鬼。マーフは足を止めてた。鬼の鋭い目がロロを睨みつける。
「ロロちゃん!ロロちゃん!」
マーフの叫び声が鬼の顔の後ろから聞こえる。ロロは唇を強く噛んで鬼の顔を睨めつける。
「なによ」
ロロは小さな声で云った。ロロの肩は微かに震え、顔色も色が失せて血色が悪い。それでもロロは恐ろしい顔をした鬼から目を逸らさない。鬼が唸り声を上げる。ロロが叫ぶ。
「なによっ!」
直後、鬼はロロから一メートルもない位置で咆哮する。鋭利な牙が並ぶ口が大きく開く。
「あんたなんか怖くないあんたなんか怖くないあんたなんか怖くないあんたなんか怖くないあんたなんか怖くない…………」
独り言のようにぶつぶつと呟くロロ。
「ロロ!」
ランパはロロのいるところまで駆け寄ってロロの腕を掴んで駆け出した。間一髪のところで鬼は先程までロロのいた場所の空気を噛む。
「何するのよ、マーフが!」
「今は逃げるよ」
ロロは掴まれた腕を払おうと暴れ回る。ランパは離さないように必死にロロの腕を押さえようとするがこのままでは走ることができない。
「いや、いや。マーフが、マーフが……!」
パンッ、という鋭い音がロロの言葉を封じた。ロロは数秒の間全てを忘れた。
ロロの泪を溜めた瞼の下の白い頬が熱を帯びて朱色に染まる。ランパは振り払った手を仕舞うことも忘れて、鋭い目でロロを睨む。その瞳が潤んでいることに気付いてロロはたじろぐ。
「死にたいのっ!」
ランパが叫んだ。その勢いで瞳を覆う泪が舞って雫に変わる。ロロは黙り込んだままだった。
だが二人に留まっている時間は無い。鬼が咆哮しながら頭を持ち上げる。ランパは力任せにロロの腕を引っ張る。その勢いにつられてロロの足は自然と駆け足になる。
ランパとロロは向かいの扉に辿り着いた。ランパが扉を開けてロロをその奥へ無理矢理押し込む。ランパは振り向いた。マーフの真上には鬼が直立している。
「ロロちゃん!ロロちゃん!」
マーフはずっとロロの名前を叫んでいる。ランパは唇を噛む。
「マーフ!絶対助けに行くからっ」
ランパの目に鬼が大剣を持った右腕を持ち上げているのが見えた。
「絶対、絶対助けに行くからっ」
ランパは扉を閉めた。鬼は右腕を振り下ろして大剣を投げた。剣は扉に向かっていき壁と同じ色をした金色の扉に突き刺さった。その衝撃で粉塵が上がり二人の安否はわからない。
「ロロちゃん!」
鬼の両目がぐるりと動いて足元に倒れるマーフを睨む。鬼の唸り声を聞いてマーフは頭上を見上げる。鬼の鋭い目と自分の目が合った。
「いや」
マーフは何とか逃げ出そうとするが足が動かない。
「いや、こわい、たすけて」
消えてしまいそうな脆弱な声。マーフは手を動かすだけで少しも進めない。鬼はマーフに向かって右手を伸ばす。マーフは体を丸めて両目を硬く閉じる。
「たすけてっ」
チリン、という鈴の音が黄金の間に響き渡る。鬼は右手を止めた。あと少しでマーフに届くというのに鬼はそれ以上手を伸ばそうとしない。
再び鈴の音が響く。鬼は元来た道へ戻っていく。しばらくしてマーフは目を開ける。
「……行っちゃった」
呆然と鬼の消えた先を見つめていると鈴の音がマーフの耳に届いた。
「鈴の音?」
マーフは辺りを見渡した。大きな部屋の中間に位置する壁の前に小さな御殿が置かれている。中に三体の仏像が並び、二体の同じ形の仏像の間に一回り大きな黄金の仏像が置かれている。中央の仏像の背中からは何本もの手が生えている。
「カンノンサマ?」
金色の間に鈴の音が木霊する。
ヤンムとキヨは暗黒の廊下を一心に駆けていた。廊下はただ真っ直ぐ伸びていてる。走っていくと襖が現れた。ヤンムは躊躇わず襖を開ける。今まで二人が通った部屋と比べると狭いが、八畳くらい大きさはある。やけに高い天井に大きなランプが吊るされている。灯かりは点いていたが派手な色ではなく、仄明るく部屋を照らしているだけで部屋の中の様子は良く見えない。
何も無い部屋を突っ切ってヤンムは次の襖を開けた。人影を目にしてヤンムは驚いて後退る。
「うわっ!」
向こうの影も驚いたように動かない。暗くて何人いるか定かではないが、複数いることは間違いなかった。先頭に立っている影は長い棒状のものを所持している。
「親分っ」
影の中から声が上がった。クルだ。ヤンムは驚いて目を見張る。
「クル?」
「やっぱり親分だ。キヨもいる」
クルが飛び出してきた。棒を持った影が構えを解いて中に入ってくる。棒を持っているのはヤクで、ヤクの後ろにくっついているのはヤオだ。クルは二人に会えて大はしゃぎだ。
「よかった。二人とも生きてて」
「お前は今までどこ行ってたんだよ。どうしてこいつらと一緒にいるんだ」
キヨに詰問されてクルは表情を暗くする。
「お、俺、……怖くて隠れてたんだ。それで」
「そんで逃げ出したってのかよ。臆病者っ!」
キヨに叱責されてクルは頭を抱える。キヨの叱責はまだ続く。
「いつも途中で逃げ出しやがって。そんなんだからお前は」
「そんなことより」
ヤンムがキヨの話の途中に割り込んだ。ヤンムはヤクのほうを見て云った。
「今はここを出るほうが先だ。お前たちが入ってきたところまで案内しろ」
「鬼はどうした?」
ヤクの言葉にヤンムは言葉を切った。
「この後ろだ。ぐずぐずしてると追いつかれる」
「つまり逃げ出してきたわけだ」
ヤクに云われてヤンムは口籠る。ヤオが後ろで「お兄ちゃん」とヤクの着物を引っ張った。ヤクは「黙ってろ」とヤオを睨みつけてからヤンムのほうに視線を戻す。
「結局、お前らだって逃げ出してきたんじゃねーか。人を散々コケにしておいて、情けねー」
「お兄ちゃん」
「おい。それ以上親分を侮辱すると」
「二人とも止めなよ」
ヤンムは何も云わずヤク睨みつける。ヤクは手にした棒を肩に当てて振り向いた。
「まーいい。ここから出たいんだろ?お前ら探しに来て大分入り組んだ道を通っちまったが、心配ねー。案内してやるよ」
「お前な」
キヨが云い掛けたときだった。部屋に入るときにキヨが閉めた奥の襖が派手な音を立てて吹き飛んだ。子どもたちの視線が一斉にそこへ集まる。暗がりの中から現れたのは巨大な大蛇だった。キヨとクルが悲鳴を上げる。
「出たーっ!」
「なんで蛇!」
ヤオはヤクにしがみつく。
「お兄ちゃんっ」
「早く逃げるぞ」
ヤンムが命じてキヨとクルは迷わず部屋を出た。ヤクとヤオ、ヤンムも部屋を出る。その後ろで蛇が体を持ち上げる。ヤクが足を止めた。
「お兄ちゃん?」
ヤオが不安げにヤクの顔を見上げる。それに気付いてヤンムも足を止める。蛇が低い姿勢で子どもたちに向かって猛進する。ヤクはヤオの手を払って手にした棒で大蛇の頭を強打する。
「お兄ちゃん!」
ヤオの声でクルは振り向いた。大蛇と向き合うヤクの姿がある。ヤオがヤクに向かって駆け寄ろうとする。
「止めろっ」
ヤンムがヤオを捕まえる。後ろからクルもやって来てヤオを抱きとめる。
「いや、いや。お兄ちゃん!」
「ヤクくん!」
二人が呼びかけてもヤクは戻ってこない。大蛇を睨みつけたまま手にした棒を構えている。
「クルっ」
ヤクが振り向かずに叫んだ。クルは暴れるヤオを両手で押さえながらヤクの後姿を見た。
「ヤオを頼んだ」
それ以上何も云わなかった。身動き一つ見せず、ヤクは大蛇の前に対峙している。
クルは黙って頷いて、ヤオを抱えたまま大蛇から離れるように駆けていく。クルの腕の中でヤオが頻りに抵抗している。しかしクルの腕が外れることは無い。
「やだぁ、やだぁ。お兄ちゃん!」
遠ざかる妹の声に、しかしヤクは顔色一つ変えずに大蛇を睨めつける。隣に人が立つ気配を感じてヤクは口を開く。
「どうした。早く逃げろよ、腰抜け」
「勝手に俺様を腰抜けにすんじゃねーよ」
ヤンムは近くに落ちている襖の破片を手にした。先端が尖っていて武器にはなりそうだ。
目の前の大蛇が鎌首を持ち上げる。
ヒサカは離れに向かう渡り廊下の前にいた。廊下の上には離れまで屋根がついていて、廊下の両脇は屋根が無く、外の景色が見える。雨は止むどころか一層激しく降っている。渡り廊下を黒い着物を着た子どもが歩いていく。離れに入ると離れの襖はひとりでに閉じてしまった。
「待って」
ヒサカがその子の後を追って渡り廊下を渡ろうとすると酷い地響きがした。ヒサカは廊下の手前で足を止めた。地響きは次第に大きくなっていく。何かの足音のよぅにも聞こえる。
ヒサカは慌てて建物の陰に隠れた。しばらくすると巨大な生き物が姿を現した。離れの周りを囲む廊下からそれぞれ一匹ずつ、二匹の巨大な狗が渡り廊下に向かってやって来る。ヒサカは息を殺してじっとする。二匹の狗は緩慢な足取りで廊下を渡りお堂に入る。
狗の大きさは五メートルほどあり、顔つきは獅子舞の形相に似ている。口からは鋭い牙が剥き出しになって、首元や足周りには古い絵画の獅子のように厚い毛が覆っている。巨大な狗はヒサカの脇を素通りしてお堂の奥に消える。二匹がいなくなって足音が遠ざかってからヒサカは建物の陰から出てきた。
「あれ、襖に描いてあった狗と同じかな?」
ヒサカにははっきりと断言できなかった。襖のあった部屋はそれほど明るいわけではなかったし、ヒサカ自身も襖に描かれていた狗の特徴をしっかりと記憶しているわけではない。
「そうだ。あの子を探さなきゃ」
ヒサカは廊下に向かって駆け出した。渡り廊下を渡って離れの扉を開ける。中は真っ暗で何も見えない。ヒサカは迷うことなく離れの中に入っていく。ヒサカが中に入ると時を同じにして襖はひとりでに閉まる。直後に、離れの中の灯かりが一斉に灯った。
「マーフ」
ロロが消え入りそうな声で呟いた。ランパは少しはなれたところで座っている。
ランパとロロは畳張りの部屋に来ていた。先程の黄金の部屋と比べれば小さいが、今までの部屋と比べればあまり変わらない、広めの部屋だ。二人が座る奥の場所は段差があり、背後には屏風が飾られている。二人の隣に灯かりが灯っていて、それがこの部屋の灯かりの全てだ。
「マーフ。なんでこんなことに」
ロロは自分の両膝を抱えたまま、先程から同じ言葉を繰り返している。そんなロロに、ランパはかける言葉が思いつかない。ロロが更に小さな声で呟く。
「私のせいだ」
「そんなことないよ」
ロロは首を振る。
「ううん。私のせいだ。そもそも私が裏山の話なんかしなければ」
「他にも知っていた奴はいたんだから、ロロだけのせいってわけじゃないよ。それに、ここに来たのは皆納得した上で」
「クルくんも?」
ランパは次の言葉を失った。
「ヤオちゃんは?二人は本当に納得してたの?マーフだって、私が行くって云ったから行くって云った」
ランパは何も云わない。ロロの言葉は間違っていない。ロロは頭を抱えて激しく頭を揺する。
「私が行くなんて云ったから、マーフがあんな目に合って、マーフが、マーフが……!」
「……ロロのせいじゃない。私のせいだよ」
ロロは頭を止めた。両手はまだ頭に押し付けたまま、しかしランパの詞に耳を傾ける。
「私がマーフを見捨てたんだ」
「違うよっ!」
ロロは自分の体をランパに向ける。ランパは首を横に振る。
「私のせいだよ。私が見捨てたんだ。私、自分の命惜しさに、マーフを見捨てたんだ」
「違うっ」
「私は最低だ。人を見捨てて、自分が助かろうとしてる。キヨの云う通りだ」
「あんな奴の云うことなんか気にしちゃダメっ」
「私、知ってたのかもしれない。向こうの道は安全だって。きっとこれは私に――」
「止めてっ!」
ロロがランパを抱きしめる。ランパは驚いて次の詞を失った。
「…………ロロ」
「ゴメンね。ゴメンね。ゴメンね。ゴメンね…………」
ロロは謝り続ける。ランパの耳元にロロの啜り泣きが聞こえる。
「……何でロロが謝るの?」
「私が、勝手なことばかり云って。ランパが、私を助けてくれたのに。でも、私、……ランパのこと、分かってあげられなくて…………」
それ以上はうまく言葉にならなかった。ロロはただ力一杯ランパにしがみつく。ランパの顔がふっと緩む。ランパは右手でロロの頭を撫でてやる。ロロの泣き声が次第に収まってくる。
「ねえ。ロロ」
「なに?」
ロロの声は濁声になって聞き取りにくい。ランパはロロにそっと耳打ちする。
「泣いていい?」
ロロは顔を上げてランパの横顔を見た。ランパの表情はとても静かで落ち着いている。ランパの目は綺麗で泪の跡も見られない。
「うん。いいよ」
ロロが頷くと、ランパの瞼にみるみると泪が溢れ、雫となって頬を伝う。ランパはしっかりとロロを抱きしめて声を抑えようとするが嗚咽が漏れる。ロロもランパを抱きしめて泪を流す。
どれくらいの間二人は抱き合っていただろう。しかし二人の悲しんでいる時間に終止符が打たれる。闇の向こうに覆われていた襖がすーっと開く。その気配を感じてランパは泪を拭う。
「ロロ」
ロロも襖のほうへと振り向いた。暗がりの部屋の先で開け放たれた襖が漆黒の闇を曝す。ロロはランパの着物を掴んで傍から離れない。ランパは闇の先に鋭い視線を向ける。
「誰?」
返事は無い。床が軋む音だけが二人のもとまで聞こえる。次第に音は近づいて足元が覗く。襖まで距離があり周囲が暗いためにしばらく誰なのか二人には分からなかった。一人の人間が部屋の中に入ってくる。自分たちと同じくらいの子どものようだ。子どもはゆっくりとした足取りで二人に向かって歩いてくる。部屋の中央まで子どもが進んだところで二人は目を見開く。
「マーフ!」
堪らずロロが飛び出した。マーフは足を止めて駆け寄ってくるロロのほうに顔を向ける。
「マーフ!」
ロロはマーフに抱きついた。マーフの顔に自分の頬を摺り寄せて、何度もマーフの名を呼ぶ。
「ロロちゃん」
「もう、心配したじゃない!この子はっ」
ランパもマーフの元に駆け寄る。ロロに抱きしめられているのは、紛れもなくマーフだった。
「マーフ、無事だったの?」
ランパの問いかけに、しかしマーフの反応は無い。ランパは不思議に思う。
「マーフ。どうしたの。大丈夫?」
ランパは違和感を覚えてマーフの顔を覗き込む。どこか癒されるようないつもの表情はなく、微妙に緊張感があるというか、仏頂面のようにも見える。
「ロロちゃん。いたい」
「あ、ゴメンゴメン。ちょっと力入れすぎちゃ」
ロロの詞はそこで途切れた。ロロを抱え込むマーフの腕が、更にロロの体に食い込んだ。ロロの体はマーフと密着して離れない。
「マーフ?」
直後、さらに二人の体は密着して、ポキポキッ、という骨の折れる音がランパの耳に届いた。
「ロロ!」
ランパは二人に駆け寄ろうとして、足を止めた。空中にある不可解なものに気付いたのだ。
「なにこれ」
マーフの背中から何本もの腕が生えていて、普通の人間の長さではない。それがランパに襲い掛かる。マーフに抱きしめられていたロロがマーフの体を押し倒し、反動でランパに向かっていた手が引っ込む。マーフが床に倒れるとその腕は今の長さ以上に伸びることは無い。
「ロロ!」
「ラ、ンパ……」
ランパはそれ以上近づけなかった。腕が伸びてこなくても近づいたら捕まってしまう。
「ロロちゃん」
ロロに抑えられているマーフの顔は、顔こそマーフのそれだが表情がまるで別人だった。マーフの口から出る詞も抑揚が無い。
「いや、こわい、たすけて」
「だ、……いじょう、ぶ…………」
押しつぶされたような声を出しながら、ロロはマーフに笑いかける。
「も、う。はな、さな、い、……から…………」
「ロロ!」
「ラ、ンパ……」
ロロは身動きが取れないようだ。後ろにいるランパにロロは掠れた声で云った。
「でぐ、ち、……さがし、て…………」
ランパは言葉を失った。数秒置いて、硬く拳を握ると振り返って、奥の屏風を通り越して部屋を出た。後ろ手で硬く襖を閉めると、ランパはその場に座り込んだ。
「私は、何もできない」
嗚咽交じりの声が漏れる。
「何も、できない」
ランパが泣き崩れると目の前の炎が揺らぐ。ランパは床から伝わる震動を感じた。ランパは顔を開ける。ここは次の部屋に向かうための短い通路らしく、通路全体はフックのように曲がっていて先の様子が見えない。ランパの前には燭台が置かれ、向こうにも灯かりがあるようだ。向こうの通路の先に暗い影が浮き上がる。
「早く出口に案内しろっ」
キヨがクルに向かって怒鳴りつける。クルは座って、泣きじゃくるヤオの頭を撫でている。
「ちょっと待ってよ、キヨくん」
「待てるか!」
キヨは怒鳴り散らす。
「お前は莫迦かっ?あんなデッケー蛇を見てゆっくりしてられるか!二人を喰っちまった後で俺たちを喰いに」
「お兄ちゃんは負けないもん!」
ヤオがさっと顔を上げてキヨを睨む。キヨはヤオから顔を逸らして舌打ちする。
「ヤンムもヤンムだ。変なところで意地張ってよ。ヤンムまでやられちまったら、俺はどうやって帰ればいいんだ」
キヨは先程から同じ場所をひたすらぐるぐる回っている。
「とにかく」
キヨは立ち止まってクルを睨みつける。
「お前らしか出口がわかんねーんだから、さっさと先行けよな!」
「でも」
云いながらクルはヤオのほうを見る。クルにしがみついてヤオはまだ泣いている。
「でもじゃねーっ」
焦れたようにキヨが叫ぶ。
「早く行け」
次の道を指してキヨは二人に命じる。クルは小声で「歩ける?」とヤオに訊いて、ヤオが頷くのを見て立ち上がる。目を擦って泪を拭くヤオの手を握って、クルは前方の道に向かって歩き始める。キヨは二人の後を追わない。そんなキヨの様子に気付いてクルは振り向いた。
「キヨくん。来ないの?」
「安全だったら行く。お前も勝手に先へ行かないで、何もいなかったら俺まで報告しろっ」
「…………わかったよ」
クルとヤオは手を繋いで奥の通路へ向かっていく。
「大丈夫。ヤクくんも無事だよ」
クルの言葉はそれ以降聞こえない。キヨは座っていたが、次第に手が動いて、足が動いて、体を揺さぶり始めて、一分もしないうちに闇の先に消えた二人に向かって声を上げる。
「おいっ。大丈夫そうか?」
返事は無い。苛立ったキヨはもう一度声を掛ける。
「おいっ。何とか云えよ!」
返事は無い。痺れを切らしてキヨが立ち上がる。
「勝手に行くなって云っただろ!」
キヨは二人の後を走って追った。通路の先に灯かりは無く暗くて良く見えない。しばらく行った先にクルとヤオの姿があった。
「おいっ。返事ぐらいしろよ!」
云った直後、地鳴りのように低い唸り声が天井から降ってきた。キヨは立ち止まった。灯かりが無い部屋のわりには中の様子が良く見える。目の前にいる二人を良く目を凝らして見ると、僅かに床から浮いている。キヨは天井を見た。天井の近くに二つの灯かりが見える。
「あ」
キヨの前に鬼が立っていた。右手の大剣は無く両手にクルとヤオを掴んでいる。鬼の二つの目がキヨを睨んだ。キヨは周囲を見渡す。横手に扉がある。キヨは迷わず扉の中に隠れた。
キヨが微かな安堵を感じた直後、足音がした。キヨはハッとして正面を見た。風がヒューヒューと吹きつけてくる。燭台に照らされて、目の前にいるものをキヨは見た。鬼のような牙と厳つい顔が目の前を覆っている。四歩足で立っているそれは巨大な狗だった。狗との距離は十センチメートルも無い。キヨは声も出せず、その場にへたり込んだ。
ヒサカは離れの奥に黒い着物を着た子どもを見つけた。
「君っ」
ヒサカはその子に駆け寄った。子どもはじっとヒサカのほうを見ている。
「やっと追いついた」
ヒサカは子どもの前で足を止めた。子どもに笑いかけるが、子どもの表情は変わらない。
「びっくりしたよ。急にどこかへ行ってしまうから」
子どもは何も云わない。ヒサカは辺りを見回す。
「ここはどこ?」
子どもは答えない。
「君の部屋?」
子どもは答えない。
「君の名前は?」
子どもは答えない。ヒサカは首を傾げる。
「名前、無いの?」
子どもは首を横に振る。ヒサカはパッと顔を明るくする。
「じゃあ、教えて」
子どもは答えない。子どもは振り向いてヒサカに背中を向ける。ヒサカは不思議に思う。
「どうしたの?」
「終わった」
子どもが初めて口を利いた。
「皆見つけた。これで遊びはお仕舞い」
「え?」
子どもは振り返った。長い髪のせいで子どもの顔は見えない。
「御蔭様は子どもが大好き。お堂に子どもを招いて一緒に遊ぶ。皆と一緒に楽しい時間を過ごす。――でも」
黒い着物の子どもは一歩踏み出した。
「もうお仕舞い。皆見つけた。皆捕まえた。だからお仕舞い。次に子どもが来るまでお休み」
子どもはもう一歩踏み出す。ヒサカとの距離が徐々に縮まる。ヒサカは慌てて一歩下がった。
「だから」
子どもがもう一歩踏み出す。ヒサカも同じ距離だけ下がる。
「今度は」
子どもがもう一歩踏み出す。ヒサカも下がろうとして足が何かにぶつかった。入り口の障子だ。部屋の一番奥にいたはずなのにいつの間にかヒサカは離れの入り口にいた。
子どもが自分の長い髪を払った。その下から子どもの髑髏が覗いていた。
「君の体を貸して」
夕方ごろから雨が降った。広葉の上で雨水が跳ねてグロテスクな大樹の幹を沢山の水滴が流れる。絶え間ない雨音に降水の激しさが分かる。辺りには雨の音以外聞こえるものが無い。
山道の中を小さな影が駆けて行く。子どものようだ。夕焼け色の着物を纏い、腹部を覆う帯は十五夜の満月の色をしている。木々の間に子どもは一軒の建物を見つけた。子どもはそこへ向かって駆けて行く。古いお堂のようだ。子どもは階段を上りお堂の入り口に手をかける。長く使われていないせいで立て付けが悪く、酷い音を立てながら少しずつしか開かない。
自分が入れる幅が開いて子どもは中の様子を窺った。灯かりの無いお堂の中は暗くて良く見えない。子どもは中へ入る。歩くたびに床が軋む音が聞こえる。子どもはお堂の中を見渡した。長く使われておらず、所々に蜘蛛の巣や埃が見える。子どもは次の部屋に続く扉の前に立った。子どもが力一杯引くと、今度は簡単に開いた。勢いで扉は柱にぶつかって音を鳴らす。
部屋には灯かりがあった。囲炉裏に赤々と炎が揺れていた。炎に照らされて人影が揺れている。火の傍には乳白色の着物を着て、紫色の帯を締めた同じくらいの年の子が座っていた。




