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8.1945年/2015年5月

 ラーメンを特攻隊員に食べさせるというイベントは、仲間たちからの手荒い、心からの感謝と、イサムの心の至福ともいえる満足と、いさおの腕や腰にかなりのダメージを残して終わった。会場の片付けを終わらせ、手伝ってくれた主計兵や女将さんにお礼を言って(かおりさんは、峰少尉が連れ出していったきり会えず)、兵舎に戻ると肉体的にはもう何もする力が残っていなかった。それで寝床に横になったのだが、神経は逆に冴えてしまっている。今日の興奮のせいと思い、身体を休めようと目を閉じると、いさおの感情が勝手に動き始め、イサムの心はただ眺めていることにした。

 ゼロ戦に搭乗する自分がいる。スイッチをひねってエンジンを始動する。レバーを操作してエンジンの回転数を上げ、整備兵の合図でブレーキを外す。滑走する機体。フットペダルを軽く蹴って向きを直す。尾輪が浮き上がり機体は水平に。機速が充分に上がったら操縦桿を引く。主輪が滑走路を離れ、主翼が機体を浮かび上がらせる。主脚を収納し、さらに機体を上昇させる。巡航高度に達したらエンジンの回転を絞り、自機の位置と方位を確認する。後は敵艦隊の推定海域までひたすら飛行。敵艦隊の手前で一旦高度を海面近くまで下げる。水平線上に敵艦隊が見えてくる。防御の弾幕をかわしながら輪形陣の外周の艦を飛び越え、主目標の空母に狙いを定める。そして突入。

 明日の特攻のシミュレーションだと途中から気づいて、イサムの心は空恐ろしくなった。いさおは、記憶の中のいさおは、優しく繊細な子どもだったのに。どちらかと言うと気弱で泣き虫、いつも兄の背中に守られていた。それが今、機械のように無感情で己の死の行程を予行演習している。自らなのか、外からの強要なのか、自身を戦争の機械と見なそうとしている。機械としての使命を、全うしようとしている。なんという悲しい勘違い。人は機械にはなれない。もしかしたら、戦争なら人を殺しても良いという兵士にだって、人は元々はなれなかったのかもしれない。それをなれると言い、実際になってしまう。何かの勘違い。

 ただ、それを個人のせいにしては酷だろう。社会全体や時代そのものが勘違いしていたのなら、その中で育ち生きるしかない個人も勘違いに染まってしまう。社会や時代はもっと別の言葉で表現し、勘違いなんて決して認めないだろうが。特攻にしても、一人一艦を葬るという非現実性、必勝の信念や大和魂があれば負けることはないという非現実性、それを勘違いと呼ぶことに何の違いがあるだろう。

 イサムの心は、いさおの時代の過酷さを思った。と、同時に自分の時代、70年後の時代のことを思った。あの時代にも、きっと他の時代から見たら「何で」となるような勘違いがたくさんあるんだろうな。そう思った時突然イサムは、自分がとんでもない勘違いをしていることに気づいた。70年後の自分が、1945年のいさおとして行動することの矛盾と言ってもいい。イサムが、特攻でいさおを殺してしまっても良いのか? あるいは、自分の心を消してしまって、70年後のイサムはどう生きていくというのか? 

 イサムの心が、突然の考えに慌てふためいていると、誰かが寝床に近づいて、そっと声をかけてきた。峰少尉だった。穏やかな声で、頼みがあると言ってイサムが起き上がるのをじっと待っていた。

 峰少尉の頼みとは、かおりさんの似顔絵だった。そう言えば、以前食堂でかおりさんの似顔絵を描いていた時、峰少尉が横から覗き見していたことがあった。彼女に気持ちを伝えたが、答は聞かなかった、断られてもなんだし、逆も未練になるし、ただ答を聞かなかった分余計に気になってしょうがない、彼女の似顔絵を答として良い方に思いながら、明日は行きたい、と峰少尉は静かに語った。イサムとしては、考えの途中を邪魔されたという思いもあったが、峰少尉のちょっと寂しげな顔を見ると断れなかった。

 イサムがかおりさんの顔を思い出し、いさおの手でかおりさんの似顔絵を描いていく。その間、峰少尉はずっと黙ったまま、優しい眼をしたままどこか遠くを見つめていた。それでさっきの続きを考えようとした。これまでは、いさおが特攻隊員として行くことを望んでいるから、イサムとしてもそれを全うさせてやりたいと考えていた。けれどイサムの判断次第で、いさおが生きていられるとしたら。いさおの望みとは真逆だが、死ぬことと比べれば生きていられることの方がはるかにましなはずだ。いさおの時代にはそぐわない考えだが、イサムが心にいる以上21世紀的な判断をしてもいいんじゃないか? 同時に70年後を生きるイサムの身体のことも心配になってきた。いさおの心がいるとしても、現代に合わせて上手くやってくれるだろうか? 両親の前ではちゃんとイサムを演じてくれるだろうか? ラーメンのブログも更新してくれるだろうか? これまであまり考えないようにしていたツケが、一気に廻ってきた。

 と、心の中はパニック寸前なのだが、いさおの手は順調にかおりさんの似顔絵を描き続けていた。ただし、顔は輪郭と鼻が描かれたままで、目と口はまだ。おやっと思い、笑顔がいいね、とイサムの心が告げると、いさおの感情も喜びを返し、突然恵子さんの笑顔が一面に広がって、それをなぞるかのようにかおりさんの優しい微笑を線に映していく。かおりさんを描くのと、恵子さんを想い懐かしむのとで、いさおの気持ちは一杯になり、イサムが思考を巡らせる余地はなくなった。しかたなく、イサムはいさおの気分に任せることにした。峰少尉は相変わらず、優しい表情のまま絵の完成を待っている。いさおも恵子さんの思い出に満たされながら優しい表情になっていく。線を引く音の他は、静かにゆっくりと時は流れていく。特攻隊員が二人、黙ったまま、それぞれの愛しい人を想いながら、そして今の一秒一秒を噛み締めながら、一枚の絵の完成を待っている。永遠に完成しなければ良いのに。けれど最後の線は引かれ、かおりさんが静かにたたずむ肖像画は完成した。

 峰少尉は絵を前に、呼吸も止めてじっと見つめ、深く息を吐いた。ため息とも、吐息とも、彼女への百万語のことばの替わりにと、一つ深く息を吐いた。そして絵をみつめながら、ありがとうとつぶやいた。自分に対してのことばなのか、いつまでも絵を見つめ身じろぎもしない峰少尉に、黙礼してイサムは立ち上がった。その気配に峰少尉は顔を上げて、一瞬驚いたような表情を見せ、直ぐに真顔に戻って、疲れているところ申し訳なかったと伝えると、深く頭を下げて、

 「ありがとう。感謝します。」と、言った。

 部屋に戻り寝床に寝転んで、イサムは峰少尉のことを思った。命を失うという前日に、想い人に告白することを選択した心。平静な世であれば、単なるスタートに過ぎないエピソードが、ただそれだけでエンドロールを迎えてしまう。余りにも短く儚い、残された時間。告白は、自分が生きた痕跡を残しておきたいというものなのか? それとも思い出に欠けたピースを埋めようとする行為? 明日死ぬという運命に対する、どちらにせよ、ささやかな抵抗。そんな運命なら、逃げ出してしまえば良いのに。峰少尉の顔を思い浮かべ、「逃げろ!」と叫んであげたかった。

 峰少尉が逃げないことは、わかっていた。いさおも逃げないということはわかった。冷酷な運命であっても、社会や時代が必然として己に課し、己もそれに従うことが義務と信じている。逃げるという選択肢を認めないからには、運命に真正面から向かっていく生き方を、選び取るしかない。イサムは、いさおの今を思い、70年後の自分を感じた。自分はいつも逃げてばかりだった。やる前からできない理由を探し、できなかったら言い訳を並べ、次があるさと決心を先送りにしていた。イサムの心は強く考えようとした、70年後の自分は次がないとなった時、ちゃんと逃げることなく、正しい決心をすることができるだろうか?

 70年後のことは、いさおが教えてくれた。いさおの感情が本能的に知っていて、さっきかおりさんの絵を描いている間に伝えてきた。いさおの身体が死ぬ時、いさおの心も消えてしまう。肉体が滅べば、心も無となる。いさおの心がいなくなった身体には、記憶と感情から改めて心が生じるだろう。イサムの身体の中にある心だから、当然それはイサムの心ということになる。そして当然、いさおの身体とともに特攻隊員として過ごした1ヶ月間の記憶は、全て抜け落ちるだろう。いさおの心が身体の中にいて過ごした一月も、覚えているかどうか。目覚めると、1ヶ月の間何か夢を見ていた、しかも夢を見たという感覚だけで夢の中身は忘れてしまった、ということか。イサムにとっては、完全な夢オチで終わる話。では、いさおにとっては? 短い間だったが、もっと生きていたいという欲求は少しは満たされただろうか。欠けていた思い出のピースのいくつかは、見つけることができただろうか?

 さっきから盛んに、いさおの感情が眠ろう、眠ろうと言ってきている。夢で恵子さんに会いたがっているのが分かる。それを、もうちょっとだからとなだめて、イサムは心でいさおのことを思った。

 「会ってみたかったな。」

 始まりの一瞬に感じたいさおの心と、話がしたいと思った。どういう思いで予科練の日々を過ごし、どういう決意で特攻隊員という運命を受け止めたのか。少なくとも、彼は自分自身に誇りを持って死ぬことができる。彼には、彼らには、確かにその権利がある。

 イサムは、いさおの感情に従って、いさおのまぶたを閉じた。夢の中で、かっての恋人との再会という今叶う最高の贅沢をいさおに与えるために。恵子さんはいさおのことを呼んでくれるだろうか?

 「小川二飛曹」

 恵子さんが呼んでくれたと、いさおの感情は小躍りした。

 「小川二飛曹」

 イサムはいさおの身体を叩き起こした。明石中尉だった。入口に立ち、

 「寝たところ済まんが、部屋まで来てくれ。」と言って廊下に消えていった。

 手早く身繕いすると、明石中尉の居室に向かった。明石中尉は机の前に座って待っていた。机の上には、酒のビンと湯飲み、写真が2枚。

 「夜分に申し訳ない。」と言うと、写真の一枚をイサムに見せた。赤ちゃんの写真だった。

 「娘だ。かわいいだろう。父親似だから、大きくなったらきっと美人になるぞ。」

 父親似かは判らなかったが、大きな瞳と愛くるしい口元が将来楽しみなことを感じさせた。

 明石中尉は、写真を愛おし気に見つめた。そこには父親の顔があった。

 「娘には、父親がいないと寂しい思いをさせる。だがやむを得ん。娘も、いつかはわかってくれるだろう。」

 そう、特攻の前夜にこんなにも愛しく寂しげに己の写真を見つめていた父親がいたことは、何としてもわかって欲しい。

 「しかし、返す返すも残念だ。せっかく美しく育つとわかっている我が娘の晴れ姿を、自分はもう見ることができない。」

 明石中尉にとって、想い以外直ぐに手が届かなくなってしまう我が子。本来なら、これから十年、二十年と楽しみと喜びを積み重ねる日々が待っているはずだったのに。残念の一言で済むはずもない。イサムは自分が呼ばれた意味を感じた。

 「馬鹿げた他愛のない話で悪いのだが、この子が大人になった姿を絵にしてくれんか?」そしてイサムを真剣な眼差しで見つめてから「頼む」と頭を下げた。

 道具を取って戻る途中、イサムは洗面所に寄って顔を洗った。これから描く女性の肖像画は、少なくとも愛情のこもった両親のもと幸せに成長した娘の姿を写さなければならない。自分が泣いてはダメだ、そう心に言い聞かせながら、明石中尉の部屋に戻った。

 イサムは、最初に写真を見せてもらうことにした。可愛らしいですね、と言ってから、「笑ったら、もっと可愛いんでしょうね。」と付け加えた。

 「もちろん。あやすとキャッキャ言って口一杯広げて笑う、その顔の可愛いこと、可愛いこと。人の親になって良かったと、心底思うぞ。」

 写真を紙の上に置いて、イサムはいさおの手をゆっくり動かす。最初の線を引きながら顔を上げずに、もうすぐ歩き始めるでしょうね、と言った。

 「おう。」という返事から少し間があった。

 「最初は、危なっかしいんだろうな。手をついて脚を踏ん張って、よろよろと立ち上がって、一歩一歩やっとっていう感じで歩くんだろうな。」

 でも直ぐに走ったりするようになるんでしょうかね、とイサムが応えた。

 明石中尉はちょっと考え、明るさを増した声で話し始めた。

 「そうだな。自分が仕事から帰ったら、走って迎えに来てくれる。それを抱き上げて、ただいまっていうんだ。」

 少し間があってから。

 「散歩に行っても、何か見つけて走り出したと思ったら、転んでしまう。うぇんうぇん泣くのを、抱っこしてあやして」中尉の両腕が動いていた。

 もう少しすると、話し始めるんじゃないですか?

 「そう。母親に似て、おしゃべりだぞ。上手く舌も回らないうちから、一生懸命しゃべりかけてくる。とーさん、とーさん、今日どこへ行ったよ、何をしたよ、何を見たよ、ってな。」

 「それと、質問が多くて困る。これは何? この花の名前は? この虫の名前は? どうして空は青いの? どうして夕日は赤いの? どうして、」

 一瞬、明石中尉の表情が歪む、そしてまた話しを続ける。

 「ちゃんと答えないと、いつまでも、どうしてが止まないからなあ、子どもは。答える方も大変だよ。」

 大きくなったら、着物なんかも似合うでしょうね。

 「そうだな。きっと贅沢はできないが、晴れ着くらいはちゃんとしたのを着せてやりたいな。」

 そう言うと、潤んだ眼差しで写真を見つめた。

 イサムは、明石中尉が見つめている、明るい色の着物を着た女の子の姿を思い浮かべて、いさおの描く絵の中に写しこむよう願った。

 「浴衣姿も可愛いぞ。夏祭りに行って、走って行きたそうなのを引っ張って手を繋ぐ。縁日、屋台、踊って食べて笑って、歩き疲れたといって肩車、そのうちおんぶしたまま、眠ってしまう。」

 ことばも途切れる。ことばにするのももどかしいほど、成長する我が娘の姿を追いかけるのに忙しくなっていく。春と夏と秋と冬と、季節の毎に子どもは大きく育ち、それを見守る父親に驚きと喜びを与えてくれる。そして、学校へ行くようになる。

 入学の日の姿はもう、ことばにならなかった。ひとしきりその姿を思い浮かべた後で、明石中尉はつぶやいた。

 「優しい子になって欲しいなあ。勉強なんかできんでもいい。母親を助けて、周りの人にも親切で、いつも笑顔で誰からも好かれる、優しい子に。」

 細めた眼に、涙が溜まる。それを見守るはずの父親だった。娘の喜び、哀しみ、怒り、楽しみを受け止め、時に励まし、時に叱り、一緒に笑い、一緒に泣いて、娘の成長を生きがいに、その幸せを日々見守りたかった父親。

 ゆっくりといさおの手は動き、娘の肖像画もゆっくりと完成に向かった。イサムは手の動きが、父親の中で少女から女性へと成長していくスピードと合っているように願った。生み出される線の一本一本が、娘の成長への祈りとなることを願った。会話が途切れたまま、鉛筆のたてる乾いた音だけがしていた。明石中尉もただ写真の中の我が子を見つめていた。後少しで完成という時に、イサムが口を開いた。

 「成長して、家に恋人を連れてきたらどうしますか?」

 明石中尉は、その問いには快活に笑いとばして言った。

 「生半可な男だったら、承知せんよ。なんといっても、大切な娘をやるんだからな。真面目で働きもの、嘘をつかないこと。そして娘を幸せにし」

 ことばが消えた。花嫁姿の娘が、見えているのだろう。決して届かない未来。けれど何よりも届けたい想い。ひとしきり写真を眺め見つめたあと、明石中尉は眼を閉じてつぶやいた。

 「幸せに、なってくれよ。」

 出来上がった絵は、まだ幼い娘が成長した姿となって、父親に微笑みかけていた。明石中尉は嬉しそうに笑い返すと、イサムに礼をして言った。

 「済まなかった。ありがとう。冥土への良い土産となった。」

 こうして、一枚の女性の肖像画と、その子の誕生を誰よりも喜び、その子の成長を誰よりも願い、その子の幸せを誰よりも見守りたかった、父親の愛情の物語が完成した。

 

 夜明けを迎えようとしていた。かっての海軍鹿屋飛行場は、海上自衛隊の基地になっていた。その飛行場を、フェンスの外から見ることができる場所で、いさおの心は何かを待っていた。何が起こるかもわからないまま、70年前のこの日、この時間に特攻へ飛び立った自分を探した。始まりの一瞬のように、いさおとイサムが出会い、それぞれの心が元に戻ることを期待していたのだが。いつまで待っても、自分に出会うことはできなかった。一瞬だけ、特攻隊員の列が見えた、と思った。中の一人が彼に向かって敬礼した、と思う間もなく人影は消え去っていた。

 そのまま時が過ぎ、太陽も昇ってきた。すでに70年前の出撃の時間は終わっているだろう。付き合って鹿屋まで来てくれたサクラさんも、どうしよう、という顔を向けてくる。いさおとしても、どうしたら良いかわからなかった。ただ、自分が死んだという時間までは、ここで待ちたいと感じていた。


 遠くに見えた人影へ、イサムの心は迷わず、いさおに敬礼させた。多分あれは自分だ、だとしたら迎えに来てくれたのか。消えた人影を背中に思いながら、搭乗する零戦に急いだ。今朝から、いさおの感情は冷静で、冴えに冴えていた。仲間たちも同じで、真摯に今日の攻撃を成功させることだけを考えていた。迷いも恐れも興奮もなく、闘志も感激も感傷も無理に掻き立てる必要がない。感情の冷気にあてられ、イサムはなんの感慨を感じることもなく、夢を見ているような虚ろな心持ちで肉体が動いていくのを眺めていた。

 いざ、自分の零戦に乗ろうとした時、飯田二飛曹に呼び止められ、乗機を交換してくれと頼まれた。エンジンの調子が悪く自分では上手く扱えないからという理由だが、答えを聞く前にいさおの乗機に乗り込み、眼を真っ直ぐ見つめたまま敬礼をくれた。そのとたん、いさおの感情に怒りが噴出した。イサムの心が驚くと、怒声なのか悲鳴なのか、あの野郎、未来の人間まで死ぬ必要はないとでも思ってやがる、本当に生き残るべきは幼い姉妹を残したお前の方なのに、といういさおのうめき声が聞こえてきた。そして、眼は睨みつけたまま、飯田二飛曹へ完璧な敬礼を返した。本来は飯田二飛曹に割り当てられた機体に乗り込むと、イサムの心が関わってどうこうという話ではなくなってしまい、ただただ静かに黙ったまま結末となる時を待つだけとなった。

 そして彼らは、次々に飛び立っていった。


 いつの間にか、いさおは、あるいはイサムの身体は、飛行場が見える丘の地面に座り込んだまま、眠ってしまっていた。そうと気づいてサクラさんは、起こそうとして、ためらって、そのまま寝かしておくことにした。出撃の時間から、1時間以上が経ち、本来ならそろそろ結末が見えているはずだった。おそらく特攻隊員としてのいさおは、歴史の一部となっていることだろう。しかもそれは、70年も昔の出来事だった。人の記憶も風化するほどの年月。けれど、とサクラさんは思った、おばあちゃんが生まれ育った時代と考えると、たった二世代前の話。自分も含めると三世代しか経っていない。そういえば、おばあちゃんから戦争と戦後の話、ちゃんと聞いたことがなかったな、今度ゆっくり聞いてみよう、そう思いながら、サクラさんはイサムの寝顔を覗き込んだ。静かに眠っている。目が覚めた時、そこにいさおの心はいるのか、それともイサムがここはどこという風に起き出すのか。サクラさんは、南西の空を見つめながら待つことにした。


 いさおの特攻死から3ヶ月と12日後に戦争は終わった。

 今、どこでも良い、1945年8月の廃墟となった都市の風景写真と、2015年現在の同じ街の姿とを見比べて欲しい。その焼け野原となった風景を出発点に、70年の月日を経て現代の街が成立している。焼け野原となった風景を構成するピースには、ただ目に見えるものだけでなく、目に見えないもの、例えば焼け野原を招いた原因に当たるものや、都市が焼け野原となる過程で抗い死んでいった者たち、そして過程を生き残り都市の再興に努めた者たちも、一つ一つの要素として存在している。歴史となった特攻隊員たちもまた、そのピースの一つとして、戦後の出発点に確かに存在するのだということ。


 あの日、目を覚ましたイサムは、しかし全てを忘れていたわけではなかった。いさおの心が身体の中にいた1ヶ月のことは、記憶をたどって追体験することができた。自分の心が特攻隊員として過ごしたかどうかは全く自信がなかったが、恋人宛ての手紙のことと、それに対するいさおの心の反応についての記憶が、恐らく自分は70年前のいさおの中にいたんだろうなと思わせた。

 最後の時、イサムはいさおの心と会うことができた。いさおの身体の中で、いさおの心を確かに感じた。攻撃目標の艦隊が間近に迫り、いさおの手足は回避運動で忙しくしていた、その最中に。特に会話することはなかった。いさおはイサムに、ありがとう、と言った。イサムはいさおに、気をつけて、と言った。ただ別れの際に、いさおはイサムに何かを伝えようとしてきた。それが何だったのか?

 イサムは、いさおの故郷に来ていた。いさおの墓参りをするために。いさおの親戚が墓を守っていた。連絡を取ると、墓に案内してくれるという。それで親戚の家を訪ねたが、案内してくれるはずのご主人は不在で、場所だけを教えてもらい一人で訪ねて来た。

 小高い丘を登ったところに小川家の墓はあった。丘からはミカン畑が良く見えた。風が吹き抜け、木立を揺らしていた。

 墓に水を掛けて洗い、用意した花を供える。それと仲間が彼に託したメッセージの書かれた紙も。

 アキラは「ありがとう、感謝です。」と書いていた。今大好きなアニメが見られるのも、もしかしたらいさおたちのおかげかもしれない、と言って。

 タカユキは「皆さんは良く闘いました。礼」と書いていた。完全にパクリだけど、武人に対しては最高の褒め言葉だと思う、と言って。

 サクラさんは「私は貴方たちがいたことを誇りに思います。」と書いていた。

 ミクちゃんは「かわいそうです。」と一言。

 そしてイサムは、ここに来るまで何と伝えようかとずっと考えていた。もっと生きていたかったという想いと、己の義務を果たすという想いと、国を家族を守りたいという想いとの中で、自らの命と引き換えに歴史となった若者たち。歴史とは、過去の事実のことをいうのではない、過去の事実に対して現代がどう認識しているかだ。特攻隊員という歴史に対して、例え個人的でも正当な評価を与えてあげたかった。その言葉が、いさおに対する最大限の敬意と供養となるように。

 墓の前で手を合わせ、いさおの心を感じられないかと期待し、そして目を閉じて心の中で告げた。

 「みなさんの後の世代で、この国には戦争で死んだ若者は一人もいません。」

 その時、風が吹き抜け木立のざわめく音が大きくなった。

 「イサム」と呼ぶ声が聞こえ、肩を叩かれた。

 驚いて振り向くと、男性が立っていた。墓に案内してくれると言っていた、いさおの親戚だった。「すいませんね、仕事が延びちゃって」と謝りながら、さっさとお墓に手を合わせ、供えてあった紙に気付いた。

 「仲間からのメッセージです。」とイサムが答えると、男性は感心したように頷き、

 「なんならお墓に入れてあげようか? ちょうど入れるものもあるし。」といって封筒を取り出した。

 「功さんの恋人だった人、そのお孫さんから頼まれたんだけど。その人のおばあちゃんが、去年亡くなったそうなんだけど、生きている間ずっと大切にしていた絵があって、その絵を今年になったら功さんのお墓に納めて欲しい、って言い遺していたんだって。」

 イサムの心臓は高まり、一気に熱を帯びた。

 「昔添えなかった恋人と、死んでから墓の中で一緒になるって、なんか感動的な話だよね」といいながら、男性は墓を開けた。

 「ちょっと見せてもらっていいですか?」と頼み、絵を見せてもらう。そこには、若い男女が並んでいた。ちょっと強張った顔のいさおの横で、やさしく微笑んでいる恵子さんの姿。

 「大切に持っていてくれたんだ。」イサムは深く息を吐いた。

 恋人を失った後、戦火の中を生き、また戦後の大変な時代を生き抜いた。誰かと結婚し、子どもも生まれ、苦労もあっただろうが、それに見合う幸せもあったことだろう。そんな日々を過ごしながら、かっての恋人との思い出を密かに守ってくれていた恵子さんの想い。

 絵は封筒に入れられ、仲間たちのメッセージと一緒にいさおの墓に納められた。

 手を合わせながら、イサムは70年近くを生きた一人の女性の戦後史を思った。

 辛く苦しい時、あの絵は恵子さんを励ますことができただろうか? 寂しい時、心細い時、あの絵は慰めや力を与えることができただろうか? 少なくとも分かっていることは、恵子さんが見上げる戦後の空には、いつもいさおが風となって吹いていたということ。約束通り、いさおは風となって恵子さんと、その子、その孫を70年間見守っていたのだ。

 もう一度墓に手を合わせ、親戚の男性にお礼を言ってから、イサムは空を見上げた。南からの風が気持ちよさそうに雲を押しのけて吹いている。いさおの風を探し、いやいやもう恵子さんと一緒にいるのだと気づき、このうれしさを直ぐに仲間たちにも伝えたい思いながら丘を下った。速足で下りるイサムの背中を、五月の暖かい風が吹き抜けていった。


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