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3.1945年4月 鹿児島県鹿屋

 練度低下が著しい帝国海軍航空隊において、その零戦の搭乗員はまあまあ合格点を付けられる腕前と言ってよかった。滑走路に進入する空中姿勢は安定しており、着地も主輪と尾輪が同時に接地する3点着陸で決めることができた。もし時間の許しがあり、実戦経験を積んで生き残ることができれば、優秀な戦闘機乗りになることだろう。駐機位置で停止した零戦の主翼に整備兵が駆け上がり、搭乗員がベルトを外し機外へ出る手助けをした。まだ若く、けれど二飛曹の階級章を付けていることから、予科練出であることが知れた。搭乗員は地上に立つと、一瞬呆けたように周りを見回し、直ぐに気を取り直したかのように駆け出した。

 小川功二飛曹の身体の中で、イサムの心は極力何も考えず何も感じないように努め、ただ身体が勝手に飛行機を操縦するのを見守っていた。土浦の飛行場を出発する時、初めて零戦の操縦室に身体を納めた一瞬は心が騒ぎ、「本当に飛行機の操縦ができるのだろうか」と怯えたが、いざ操作を始めると記憶が手順を伝え、手足は自然に必要な動作を行ってくれた。飛行中や中継地へ降りる際もずっとそんな感じで、イサムとしては単なる乗客として空中遊覧を楽しんでいる気分だった。「さすが、いさお君」と心の中で呟きながら。

 あの日、土浦基地の桜並木の外れで一人の男と目を合わせた刹那に、全てが変わってしまった。なぜか自分のことを小川功と呼ぶ男が近寄って来た。なぜかその男の名前が飯田という予科練の同期であることを知っていた。後になって思い返すと、自分が小川功という名前で予科練から特攻隊に志願した海軍の飛行兵であることを知っていたが、とっさに自分がイサムという平成7年生まれの大学2年生であることをしゃべっていた。最初は取り合ってくれなかったが、イサムが繰り返し自分はイサムであっていさおではないと言っていると、最後はほほに平手打ちが飛んできた。そして飯田は辺りを憚るように告げた。

 「あまり変なことを言っていると、気が狂った真似をして逃げ出そうとしていると思われるぞ。」

 それ以来、いさおの身体の中にイサムという平成生まれの心があることは誰にも言えなかった。いさおの記憶でも、言ったとしても誰にも信じてもらえず、下手すると平手打ちだけでは済まないことになりかねなかった。イサムの心のまま、小川功二飛曹を演じるしかなかった。そこでいさおの記憶を掘り返し、しゃべり方や言動のパターンを真似しようと努めた。幸いいさおは無口でおとなしい人物だったようで、空き時間には一人で絵を描いていることが多かった。そのうちイサムは、頭の中にいさおの人物像を想像して、頭の中のいさおに話しかけ相談しながら行動することを覚えた。そうすると記憶がスムーズにいさおらしさを思い出し、無理に意識しなくともいさおらしく行動することができた。

 いさおとしての日常を過ごしながら、一方でイサムは自分のことも思い返した。ただ思い出せることはあまりなく、名前と生年月日、生まれ育った街の名前、東京の大学へ出て来たこと、それとラーメンのこと。自分がラーメンについて書いていたブログのこと。そういえば、現代にいるイサムとその中にいるいさお君の心は、ブログを更新してくれているだろうか。最近では読者もつき、この前もアメリカ人(名前は思い出せなかった)のラーメンフリークがぼくのブログのお薦め店に行って感動したってコメントと写真を送ってくれたっけ。寂しさと同時に、自分にはラーメン位しか思い出せることがないのか、と若干自嘲しながら、現代にいるはずのいさおの心についても思った。

 あの日桜並木の外れで一人の男と目を合わせた時のこと、風が吹き抜け桜の花びらが視界を覆ったと思うと、何かが自分の身体なのか心なのかに飛び込んで来た。その何かに押し出されるように自分の視界は回転し、いさおという人物の身体を通して自分の姿を見た。その何かとは、恐らくいさおという人物の心なのだろう。あるいは魂かもしれない。何れにしても、平成27年のイサムの身体の中にいさおの心がいて、昭和20年のいさおの身体の中に自分の心がある、そのことは間違いないような気がしていた。

 集合した搭乗員の列にイサムも加わった。彼らがいるのは、鹿屋飛行場。沖縄にアメリカ軍が上陸してからは、海軍特攻隊の主要出撃基地となっていた。作戦名は「菊水」。攻撃目標は沖縄近海に遊弋するアメリカ艦隊。その中の航空母艦、および輸送船舶。今も沖縄で死闘を繰り広げている地上部隊の負担を減らすため、かつアメリカに耐え切れぬほどの損失を与えて戦争終結の道を拓くため、全軍一丸で特攻にあたる。陸軍航空隊も知覧飛行場から、全力で特攻隊を送り出していた。すでに3度の総攻撃で敵に多大な出血を強いている。あと一太刀だ。諸氏の敢闘に期待する。

 基地指令官の訓示を聴きながらも、イサムの心は上の空でこんな時は決まってラーメンのことを考えていた。好きな店の名前やそこのラーメンの味を思い出そうとしていた。ブログで取り上げた店のことや、いつか行こと決めていた店のことも考えた。記憶は全て曖昧だったが、だからこそ自分がラーメンを愛して止まなかったことだけを頼りに必死で考えた。そうでないと、自分がいさおの記憶に取り込まれてしまう。

 訓示は終わり、解散、各自割り当てられた宿舎へ向かうことになった。歩いていると、予科練同期の飯田二飛曹が肩を寄せて笑いかけてきた。

 「いよいよだな。」

 イサムも、いさおなら見せるだろう笑顔を作って「おうっ。」と応えた。あの後、飯田との間でイサムの心が話題になることはなかった。それにしても、どうして特攻隊員っていうのは、こんなにも屈託のない笑顔を見せることができるのだろうか? これから死にに行くというのに。いさおの記憶をたどると、葛藤がなかったわけではない。直前まで真剣に悩んでいた。飯田にしても、夜中に叫び声を上げたことがあった。それでも覚悟を決めたとなると、心の中は別として、怖れることなく、怯えることなく、淡々として闘志を隠さず、愉しげな風まで見せて戦地へ向かっていく。

 理由は、何度も考えた。いさおはなぜ、特攻隊員になることを選んだのだろうか? 記憶を探ると理由めいたものはいくつかあった。いさおの場合、予科練に入る時点でかなり覚悟を決めていたようだ。恋人との訣別もその時済ませていた。予科練に入った理由には、兄の存在があった。兄も、予科練から海軍航空隊へ進み攻撃機の操縦士になった。1942年の南太平洋海戦で戦死。後で戦死の状況を聞くと、敵空母目掛けて雷撃しようとしたところを、敵戦闘機に銃撃され機体は炎上、それでも兄は諦めず機体ごと空母に突入しようとして、直前で力尽き海面に激突し自爆、とのことだった。それ以来、予科練に入るという意志と、残される両親との狭間で悩み抜いた上での決断だった。何があっても、後戻りするつもりはない。

 それでもイサムは、死ぬのが本当に怖くないのか、心底不思議だった。自分なら、とてもそんな風に達観できないだろう。いさおの身体が特攻に行くということは、このままだとイサムの心も特攻に行くということなのだが、そのことは深く考えないことにした。特攻しても死ぬことになるのは小川功という人間だし、その時自分の心は消えるのか、元の身体に戻るのか、魂だけ抜け出して漂うことになるのか、全くわからなかった。

 宿舎に行くと、今度は部隊毎に集められた。隊長は明石中尉といった。飯田も一緒だった。もう一名は、予備学生出身の峰少尉の4名だった。

 明石中尉は、ごく簡単にあいさつを終わらせると、

 「本隊は、明後日4月20日出撃となる。それまでに各自身辺整理を済ませるように。」と言った。

 イサムは、いさおの感情が大きく反応する前を捉えて、痛烈に思った。「ラーメン喰いてえ」




 出撃の前日は、割と淡々と過ぎていった。気持ちを高ぶらせるのでもなく、死への恐れで怯えるでもなく、各自が静かに身辺整理と称されるものに没頭した。

 飯田二飛曹は、幼い妹たちへの手紙を書くのに長い時間をかけていた。両親を亡くし、今は親戚の家に預けられているという。机の上には、妹たち手作りの人形が置いてあった。

 峰少尉は、もう遺書は書き終わっているといって、終日読書をしていた。何の本かと聞くと、哲学書という。帝大文学部の学生から、学徒出陣で軍人になることを強制され、海軍の予備学生制度で操縦士になったという。

 「未練がましいですが。」と自嘲気味に口元をゆがめながらも、目は真剣に活字を追っていた。

 イサムはと言えば、いさおとして両親宛ての遺書を書こうとして、途方に暮れていた。もちろん、遺書を残した方が良いのはわかっていたし、便箋を前にペンを持って最初の一文字を書こうとしていた。ただ、上手くことばが出てこない。頭の中のいさお君に尋ねても返事がなく、思いつくのは月並みなことばばかり。(「先立つ不幸をお許しください」とか)結局、自分がいさおの両親に遺書を書いても、いさおの想いは伝えきれないことにして、諦めることにした。それでぼんやりとラーメンのことを思い出していると、ペンを持った右手が動き出し便箋の上に線を描いた。イサムが何を描くのかとペン先を見つめると、記憶の中で女性の顔が浮かび上がってきた。やさしく微笑んでいさおを見つめている。そのイメージをなぞるようにペンは走り、便箋の上に彼女の顔が浮かび上がる。そういえば桜の木の下で出会った時も、彼女の絵を描いていた。恵子さんといって、予科練に入る際に別れた恋人。最後に会った時、彼女は自分の肖像を描くように願った。横にいさおの姿を並べて。いさおは彼女一人を描いて終わらせた。そんな記憶が次々に現れてイサムは切なくなった。それにしても絵が上手だと思い、もし自分もこれくらい絵が上手かったらマンガ家を目指していたのにと思い、そう言えばいさおは戦争がなければ絵描きになりたかったんだと思い出して、また切なくなった。女性の肖像が完成した。一瞬その横に自分の姿を描こうかと思い、ためらったままペンを置いた。

 その絵を見て、飯田が自分の似顔絵を描いて欲しいと言ってきた。妹たちへの手紙と一緒に送るという。描いていると、他の隊の隊員たちも集まって来て、次々に似顔絵を所望され、イサムはいさおが気持ちよさそうにペンを走らせるのを見つめていた。

 消灯の時間となり、明日の出撃に備えて皆は寝床についた。さすがに眠れない。他の隊員たちも、寝床の中で動かないまま、でも寝た気配はなかった。それで明日の出撃はどうなるだろうか、イサムは頭の中のいさおに尋ねた。回答は、自分たちが乗る零戦が敵空母に突入し、何千人もの米兵が死ぬというイメージだった。

 真摯に国難を憂い、純粋に国を故郷を家族を守りたいと願う。強敵に怯むこと許さず、闘志を萎えさせることなく、私利私欲を捨て一途に己が使命を果たさんことのみを願う。その熱く純真な感情に、イサムはまぶしいものを感じ、一方で70年後の自分はどうだったかを思った。こんなにも真剣に、何かのために行動しようとしたことはあっただろうか。もっとルーズで惰性的に生きていたように思う。中途半端な青春を過ごした自分にとって、いさおやこの時代の若者の熱い想いはうらやましささえ感じさせた。

 寝床の中で、イサムは息をひそめるように朝を待った。いさおほど覚悟ができていないイサムとしては、いさおの気持ちは良くわかったがそれでも何とか逃げ出したい、という気分が強くなった。戦場に身を置くことの恐怖も良くわかっておらず、そのことがいっそう不安をかき立てた。イサムは、いさおの意志に反して土壇場で逃げ出してしまう自分を恐れた。そうして、朝目を開けた時、元の平成時代の自分に戻っていることを強く祈った。

 朝となり、目を開けてイサムは、やはりいさおの中にいた。落胆していると、「本日の出撃は、ちゅうしぃっ。」という叫び声が聞こえた。今日の特攻が中止になったって。イサムの心は、飛び上がらんばかりに喜んだ。それから喜びが顔に出ていないか心配になって、慌てていさおの感情を覗いた。一瞬間があって、いさおの感情は残念という思いで一杯になった。

それでもイサムは気づいた。その一瞬に、感情の奥底で隠されていた痛烈な願いが露わになったことに。いさおもまた、特攻の中止を飛び上がらんばかりに喜んでいた。そして改めて気づいた、あの桜の木の下の出来事、イサムの心を身体から押し出していったものとは、いさおの生への執着だったのだと。

 イサムは思わず、70年後のいさおに語りかけていた。

 「君もやっぱり、生きていたかったんだね。」

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