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1.1945年 東京 原風景

1.1945年8月 東京 原風景

 

 ほんの70年前、東京は風ばかりが得意気な街だった。8月は南からの季節風、東京湾から上がり、品川、新橋、虎ノ門、大手町と吹きすぎる間、遮るものは何もなかった。気紛れに土ぼこりや紙くずを舞い上がらせては、勢いが衰えるまで瓦礫と焼け残りの街を吹き続けることができた。

 風を避けるようにうつむき加減で、焼け残った人々が歩いていく。終戦を伝える玉音放送からまだ幾日しか経っていない中、誰もが心に傷を抱えたままそれでも生きることを選ばされ、生活を取り戻そうとする人々。戦争が残したものは、見事に廃墟と化した街と絶命寸前のライフライン、海外に取り残された数百万人の同朋、そしてやはり数百万人の死者の記憶。1937年からこの国は戦争を続け、多くの街を破壊し多くの命を奪い、空襲によって主要都市の多くを破壊され、戦場かそうでないかに関わらず多くの命が奪われた。希望に満ちた未来を描くことなど、その瞬間の人々の精神にとって、最も遠いものだった。

 それでも毎日を繰り返し、少しずつ街が再建されていった。復員兵や疎開先からの帰郷により集う人も増えていった。記憶も1日ずつ、古いものへと書き変わっていった。希望とまでは呼べないにしろ、うつむいてただ風をさけるのでなく、顔を上げて真正面から風を受け止める力が徐々に戻ってきた、そんな1945年の終わりから1946年の初めころ、復興と傷跡の入り混じる街頭で子どもたちの歓声に溢れる時間があった。自転車の荷台に大きな木箱を載せた紙芝居屋が、合図の拍子木をたたき出すと、四方から子どもたちが集まって来た。小遣いを握りしめた子も、そうでない子も、観客席に差は付いたとしても、しばらくの間は物語りの世界に浸り興奮する時間を過ごした。食糧事情は厳しく、戦災がなお生活を圧迫していた現実の中で、小さな紙に手書きで画かれた冒険活劇やチャンバラものの世界は、子どもたちにとっての最高の娯楽となっていった。

 それにしても。GHQ(連合国軍総司令部)が日本独特のマスメディアとして紙芝居に注目し、占領政策の一貫として紙芝居(KAMISHIBAIとローマ字で表記)の規制の必要性をレポートしたのは1945年11月のこと。日本占領が本格的にスタートしてからわずか2月後のことだった。現地視察に向かったGHQの担当官は、焼け残った都市のあちこちで異様な光景を目の当たりにした。周囲は瓦礫が手付かずで残る街跡。空を遮るものは、崩れかけのビルと傾いた電信柱。まだ掘り起こされていない死体があるかもしれない。鼻奥には常に付きまとう焦げたような異臭。文明が活動する証の騒音は絶え、風か鳥のさえずりばかりが耳につく。止まったかのような時間。精気を失ったかのような人々。だが、その場所だけは違った。1台の汚れた自転車。傍らに立つ、やはり汚れ切った服装の男。自転車の荷台に括りつけられた木箱、そこには手書きの絵。男の声、絵の裏に書かれたセリフを精一杯の抑揚で読み上げる。引き抜かれる絵、絵は変わり物語も次の展開へ。固唾を飲む音、それも何十人もの子どもたちの。自転車の前に群がり、眼は絵から離れず、耳は語りを逃さず、短い演目の間一瞬も途切れない熱気。現実ではない物語で心を満たすことへの渇望。紙芝居が終われば否応なく生活に戻されるとしても、その一瞬は空想の王国であり、自分自身が主人公となれる時間。生を失った街で、その限られた時間、限られた場所だけに訪れる生命のオーラ。そしてそれは、東京だけでなく日本中の都市(の跡地)で繰り広げられた。

 敗戦の精神的なショックも、基幹産業や日本全体の経済復興も、生活を維持するための社会基盤整備も、何もかも回復しない間に、零細ながらもれっきとした娯楽産業が先に回復したという事実。GHQ担当官の困惑した表情が目に浮ぼうというもの。KAMISHIBAIに類する街頭娯楽が自国の文化にはなかったということも、困惑に拍車をかけたのだろう。GHQは直ちにKAMISHIBAIの歴史と産業としての仕組みを調査するとともに、子供たちへの影響の強さを正当に評価し、他のマスメディアや演劇等と同様な検閲制度の対象とした。(GHQの占領政策の根幹の一つに日本の非軍国主義化・民主化があり、検閲では軍国主義や封建主義を称えるような内容は徹底的に排除された。それなのに子どもが日常的に目にするメディアで、軍国主義や封建主義を賛美する内容が流布されたならば、占領政策の根幹が根底から崩れていくことになる、そしてそれだけのメディアとしての力がKAMISHIBAIにはあるとGHQは判断した)

 それにしても。どのような熱情が、紙芝居を戦後の日本でかくも急速に普及させたのだろうか? 戦争前の昭和初期から、庶民の子どもたちにとって紙芝居は重要な娯楽メディアとして普及していた。ビジネスとして、紙芝居の貸元-各地の支部-末端の紙芝居屋(イコール飴の売人)という業界システムが確立していた。敗戦によって多くの失業者(戦地からの復員兵を含む)が生じ、紙芝居屋は簡単に始められる商売ということで余剰労働力の受け皿となった。等、理由はいくつか考えられる、外的要因としては。ただあの時代、紙芝居人気のピークは1948年から1949年にかけてと言われるが、まだ敗戦の後遺症が色濃く残っていた時代、鉱工業生産高がようやく戦前の60%まで回復した時代、バラック建ての闇市が軒を連ねていた時代、日本の戦争犯罪を裁くための極東軍事裁判(東京裁判)が結審し7名の死刑判決を言い渡した時代、飢えと貧困が克服すべき優先課題となっていた時代に、子ども向けのチープな娯楽が産業として成立していたということは、一種の驚きを感じさせる。(優先順位が違うだろうが。)それでも紙芝居の送り手側が、子どもたちへ紙芝居を上演し続けることにこだわったものとは。それでも社会が、世情が、子どもたちが紙芝居に夢中になることを許容しつづけた理由とは。

 当時の子どもたちにとって、心に空いた穴を一瞬でも満たしてくれるもの、それが紙芝居だった。紙芝居屋が演じる活劇や物語は、現実世界に打たれ疲弊した子どもたちの心に、現実とは異なる仮想の世界であっても満足と平安を与えることができた。敗戦は子どもたちから多くのものを奪い、当時もまだ奪い続けていた。心に空いた穴の大きさはその子の体験によって異なるとしても、心に穴が空いているということは誰も同じで、その穴は何かによって満たされなければならない、子どもたちが受け入れ夢中になれる何かで。例え絵空事でも、子どもたちの心の穴は埋めなければならないという想いが、紙芝居の送り手側とそれを見守る社会側(大人側の倫理)との共通認識の根っこの部分で成立していたように思う。

 誰がなんと言おうと、子どもたちは敗戦の一番の犠牲者だった。成長期に必要な栄養も満足に与えられず、教育は後回し、それまで大人たちから真実と教え込まれていた精神的柱(神国日本、神州不滅、滅私報国、鬼畜米英、、、)の多くが、一夜にして嘘だったということになったのだから。大人としては、罪滅ぼしというまでの強い意識はなかっただろうが、辛い日常の中でつかの間訪れる癒しと満足の時間を子どもたちから奪うことなど、心情として出来なかったのだろう。

 一方の紙芝居の送り手側、貸元の下で紙芝居の絵を描く絵描きや、子どもたちの前で紙芝居を演じた大人たちの想いは。戦争前から紙芝居に従事した者もいたが、敗戦後に新たに加わった者も多い。彼らもまた戦争の体験者であり、戦地からの復員兵も多かった。その戦争体験も様々で、南方戦線で九死に一生を得て生還した者もいれば、中国戦線の後方部隊でまともに戦闘もしないで終わった者もいれば、特攻隊員として明日は出撃かという極限の心理状態を味わった者もいた。紙芝居屋は彼らにとって生活の糧ではあったが、同時に精神的に餓えた子どもたちの心を物語で満たす仕事であった。心を物語で満たすといっても、道具立ては貧相なものしかない。画用紙よりも小さい紙に手書きの絵、絵を説明しドラマを展開させるストーリー、絵とストーリーを結び付ける紙芝居屋(素人が多い)の精一杯の演技。ただそんな貧相な道具立てでも子どもたちは熱中し、その熱中が紙芝居の送り手たちに熱情を引き起こしたとしたら。子どもたちの心の穴を満たそうとする中で、彼らは一つの武器を手に入れた。絵と物語の組み合わせで、人の心を感動させたり興奮させたり満足させることができるということを。

 産業としての紙芝居は、1950年代の後半まで娯楽メディアとして盛隆を続け、テレビ放送の普及とともに衰退し、1960年代には街頭から消えていった。ただ紙芝居が証明した、絵と物語の組み合わせで人の心を満たすことができる、そのことは2つの潮流に乗ってその後の日本で進化を続けることになる。一つは貸本漫画というジャンルで、もう一つはテレビ放送と密接に結びつくアニメーションというジャンルで。

 貸本漫画は、1950年代前半から貸本屋という流通チャネル向けに出版された漫画本で、戦後の経済回復は進んでいたとはいえ、まだ本が高い時代に貸本という形態で子どもや若者へ漫画を広める原動力となった。貸本漫画を描く作家には、紙芝居の絵描きから転身した者もいれば、復員兵として戦地を経験し帰還した者、戦争体験は銃後だが敗戦後好きな道として漫画家を志した者など様々な若者が集まってきた。彼らは、先駆者の影響を咀嚼しながら独自の才能を開花させ、子ども向けだった漫画に死や生命、哲学といったテーマ性を盛り込み、紙芝居を卒業した青年たちの心を満たすメディアとして成長していった。

 アニメーションでは、初期のアニメーターには紙芝居の絵描きから転身したものも多く、当時製作コストの問題で動画と言いながら存分に絵を動かせなかったアニメに、静止画でも展開と見せ方で動いているかのようにストーリーを進行させる紙芝居の技法が役立ったという。テレビで毎日のように放送されるアニメに子どもたちは熱中し日々の生活で話題の中心に位置付けられた。子ども向けの商品を販売する企業にとっては、宣伝メディアとしてのアニメの価値は高まり、男の子向け、女の子向け、低年齢向け、青年向けと様々なバリエーションで新たなアニメがこの国のブラウン管の中に生み出されていくことになった。

 それから数十年を経て、漫画は流通形態の変化(貸本から少年誌~青年誌)はあるが、この国の娯楽メディアとして、あるいは文化の一つとして確固たる地位を確立した。幾多のスター作家を生み出し、熱狂的な支持を受ける人気作品を毎年のように産出し続けている。そしていつしか、そんな漫画が海を越え海外の人々にも親しまれるようになった。最初はアニメーションだった。日本の子ども向けアニメは、割と早期から海外のテレビ局で放映されていた。恐らく日本ではテレビ放送の初期から重視され蓄積されていた子ども向けコンテンツとしてのアニメが、質量ともに外国のテレビ放送網のそれを凌駕していたからだろう。外国の子どもたちにも、日本のアニメは面白いものと受け入れられ、それとともにアニメの原作となった漫画も海外へ輸出されることとなる。マンガMANGAという日本語もまた、世界語として通用する時代となった。(マンガを表現する適切な言葉が、自国のそれにはなかったということ。それはマンガがもたらした価値そのものが新しかったということ。)日本が世界に対して発信したもの、それはマンガMANGAというそれまでの世界になかった文化的な価値そのものであり、世界の文化に新しい価値を創造したという点で、漫画~マンガMANGAの誕生は人類の文明史上の特筆すべき事件と言えるだろう。絵と物語の組み合わせで幾万通りもの創作物が生まれ、その創作物は人の心を満たすことができるということを世界は知った。そしてその始まりには、70年前敗戦後の焼け野原で子どもたちの歓声を集めた紙芝居の存在があった。

 一方で、今まさに世界語にならんとする日本語がある。ラーメンRAMEN。ジャパニーズ・ヌードル・スープという表現もあるが、やはりラーメンは世界の食文化の上でもRAMENとしか表現できないユニークな存在なのだろう。ニューヨークでも多くのラーメン店(日本から出店した有名店も多いが、現地の料理人が独自に開いた店も)がしのぎを削り、ラーメンマップも出版され人気店には長蛇の列が並ぶという点で、ラーメンの普及と愛され様は日本と同じ位に感じられる。この国民食とも称されるラーメンだが、日本における歴史はそれほど古いものではない。今のようにラーメン専門店が乱立し、それぞれがラーメンの味に特徴を持たせ他との差別化を図り、人気店では1~2時間待ちの行列が絶えないようになったのは1990年代後半、今から20年前位からであった。(最もここ数年は、インターネットの普及とそれに伴うラーメン店に関する情報発信の大量化・多様化・個人化によって、ラーメンブームが単に食文化のブームに留まらずメディア的なブームにまで盛り上がっているが)ただしそれ以前からも、この国ではラーメンの人気は強く広く根付いていた。

 それにしても。日本はどうしてこんなにもラーメンが好きなのだろうか? どんな町にもラーメンを供する飲食店があり、地名を冠したご当地ラーメンは各地に林立し、専門店は数知れず、出版業界ではラーメン本が定番化し、メディアでもラーメンは外せない必須アイテムとなっている。麺とスープと具材という単純な構成ながら、バリエーションは豊富でさらに地域ごと、店ごとに明確な味の違いを作り出すことができる。インスタントも含めれば、それこそ何万種類もの味のラーメンがこの国には存在していることになる。その味を生み出していくために払われた熱情の量は、いったいどれほどまでになるのだろうか? ラーメンそのものに、人々の熱情を受け入れるだけの土壌の深さがあるのだろう。味の違いはもっぱら、スープによって決まってくる。スープは鶏ガラや豚骨、魚介系では煮干し、鰹節等、それと野菜を丹念に煮込むことでベースが作られるが、その配分や煮込み方によって様々な味が生み出されてきた。料理人が創意工夫と手間を掛けることによって、新しい美味しさをラーメンに吹き込むことができる。ラーメンという食のジャンルが日本において卓越した地位を築けた背景には、新しい美味しさを生み出すために手間暇を惜しまなかった人々の存在がある。

 一方、食べる側(消費者側)から見ても、ラーメンは一種独特な食べ物であるように感じられる。一つの丼で、食欲を満たし、また味覚的な満足を与えてくれる、それも決して高くない値段で。安くて美味しいこと、空腹を満たしてくれること、栄養価が高いこと、人々が料理に期待する根源的な要求をラーメンは(完全ではないにしろ)満足させてくれる。現代日本のように豊かな社会で、美味しい料理はそれこそ星の数ほどあり、生活のそれぞれの場面で食するに相応しい料理も決まってくる。常にラーメンという訳ではない、それでもお腹が空いている時や温まりたい時、選択肢にラーメンがあることはうれしい。

 それにしても。日本にこれほどまでラーメンを広めた熱情とは、どのようなものだったのだろうか? その歴史を遡っていくと、先駆者の作り上げた味を咀嚼しながら独自の美味しさを創作した料理人たちの存在があり、また家庭への普及という点ではインスタントラーメンの開発者たちがいた。店で提供されるラーメンも、家庭で作るインスタントラーメンも、中身は決して同じではないにしろ、ラーメンという食文化を日本の津々浦々に広めていった。そしてさらに遡りたどり着いた原風景は、敗戦後の焼け野原となった街跡、バラックが軒を連ねた闇市の風景となる。

 戦後の食糧不足の折、中国大陸からの復員兵や引き揚げ者が、中国で馴染ん麺料理を屋台で提供し、瞬く間に人気を博し各地の闇市へ広まっていった。物がなく誰もが空腹だった時代に、安くて空腹を満たしてくれる麺料理(当時は支那そば、その後中華そばと呼ばれた)はごちそうだった。材料は安く手に入る鶏ガラや野菜くずでも手間さえ掛ければ美味しくなれるラーメンは、敗戦後の人々の胃袋を満足させるとともに、美味しさに餓えた心をも満足させることができた。そんなささやかな満足を出発点に、ラーメンは日本中に広まり、さらに海を越えて世界中に、新しい食の文化を広めようとしている。

 1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾、連合国へ無条件降伏した。その結果、ほとんどの日本国民は戦争から解放されたが、同時に敗戦国というレッテルがつきまとうことになる。独立国としての日本は消滅し、「占領下の日本」と呼ばれることになった。明治維新以来、欧米列強諸国と対等の一等国になることを悲願としていた日本が、二等国でも三等国でもない地位(独立国ではないのだから)におとしめられたということだった。明確かつ一分の弁明の余地なく日本の負けであり、日本国民全て、生き残った者も戦争で命を散らした者も等しく敗北者であった。その敗北者の立場から、戦後の日本経済は奇跡的な復興を果たした。敗戦国というレッテルがステップボードとなったかのように、日本の産業界は積極的に海外へ市場を求め、品質改善・技術革新を繰り返しながら急速に成長していった。「戦争には負けたが経済で勝った」という表現は、戦後日本で産業界の先頭に立って世界市場への道を切り開いたビジネスマンたちの気概を表しているのだろう。

 経済だけではない。文化的な側面でも、日本は世界の中で重要な地位を占めることになった。優秀な人材を各分野へ送り出したということもある。またそれまで世界になかった価値を、日本から世界に発信し広めたということでもある。そのひとつとして、マンガMANGAがあり、今また食文化の面でラーメンRAMENが広まろうとしている。それは地理的に世界の中心から離れた僻地から、文化の新しい価値が生まれその流れが世界中へ広まり定着したという点で画期的なものだった。そして思い出して欲しい、マンガMANGAにしろ、ラーメンRAMENにしろ、現在の興隆を生み出した出発点には敗戦後の原風景、焼け野原となった国土、バラックの街があった。敗戦を契機に、マンガMANGAもラーメンRAMENも日本において継続的かつ質的な進化を遂げ、日本から世界へ広まり文化的に独自の価値を認められた。だとすれば、マンガMANGAもラーメンRAMENも、太平洋戦争の敗北によって芽生え、戦争の敗者たちが復興の中で必死に育て、世代交代を重ねながら進化し、数十年を経て世界中で咲き誇こることになった花、と言えるだろう。戦争の敗北から文化史的な勝利を得た(あるいは世界の文明史に残るという意味では文明史上の勝利とまで言えるかもしれない)、という表現は決して間違いではない。そしてその表現が正しいのであれば、次のようにも言えるだろう。あの戦争の敗北者は、生者も死者も等しく数十年の時を経て、文明史上の勝利者となった、のだと。

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