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並木道

作者: 香織

「ここを歩くのも久しぶりだなあ」

 真っ赤な紅葉が頭上でそよそよと風に揺られる中、叔父がしみじみとそう言った。

「そう、なの?」

「そうだよ。俺がこっちに遊びに来たときは、いつもここを(あゆむ)と一緒に散歩したもんだ」

「そう、なんだ」

 その記憶は、私の中に存在しない。曖昧に返事をすると、先を歩いていた叔父がゆっくりと振り返り、悪びれる様子もなく謝ってきた。

「ごめんごめん、ついうっかり」

「まあ、べつにいいけど」

 ぐしゃり、と、足元で枯葉が砕ける。私は、なんの感情を起こすことも無く、ただ確認のために口を開いた。

「この先に、私の家があるんだね」

「そうだよ」

 そして叔父がまた、前を向いた。




 私が叔父に引き取られたのは、十歳になる少し前のことだった。

 私の最初の記憶は、真っ白な部屋――今思えば、病院の個室だったのだろう――で、満面の笑みを浮かべた叔父に抱きかかえられた場面だ。外ではイチョウが黄金色に輝いていて、何もわかっていない私の周りでは、顔の輪郭すらぼんやりとしか覚えていない何人かの看護師が、微笑みながらこちらを見ていたと思う。

 家族と記憶とを同時に失くした少女が、たらいまわしにされることなく親戚に暖かく迎え入れられる。なんと感動的な場面だろう。だから私は、私の生家を知らない。

 両親と叔父は、同じ県内とはいえど電車で乗り換えを三回はしなければならないくらい遠い場所に互いの居を構えていた、らしい。話に聞いただけで、住所も聞いたことがなければ行ったこともなかった。たった一枚、両親と幼い私が家の前で撮ったという写真を見せてもらった程度だ。その写真の中にいる私は、知らない女性に抱きかかえられて、笑っていた。きっとあれが、私の母なのだろう。そして隣で微笑む男性が、おそらく父だ。

「歩。脚、痛くないか?」

 叔父が義務的にそう問いかける。

「うん、大丈夫」

 答えながらスカートの右ポケットに突っ込んだ手が、四つ折りにした写真に触れた。

 ごく普通の、二階建ての一軒家。洗濯物を干すだけのスペースしかない庭と、青い軽自動車が収まったこぢんまりとしたガレージ。黒い屋根と、白い壁の四角い家。私の記憶にない、私の家。今、私は叔父と共に、そこへと向かっている。

「歩。もう少しで着くけど、本当に見たいんだな?」

 叔父が、私が初めてこのことを言いだしてから、もう何度目かもわからない問いかけを繰り返す。

「うん」

 今までと同じように頷き、ふとそのまま視線を落とした。茶色の枯葉と赤い紅葉が幾重にも重なって、地面に層が出来ている。風のせいか、一歩一歩と進むごとに足に葉がまとわりつき、まるで私の行く手を阻んでいるように思える。

 思い出すことの出来ない記憶。

 思い出してはならない、記憶。

 記憶を失う以前とその後でまったく違う環境に置かれたからか、今までそれを気にすることも、思い出す手がかりを得ることもなかった。――けれど。

「歩、今日出かけることは(ふみ)(たか)くんに言ってあるのか?」

「うん、それ昨日も訊いてなかったっけ」

「そうだっけか?」

 叔父が、軽く笑った。

 今年、私は結婚する。そして、そのあとすぐに母になる。

 私の両親は何故、幼い私を置いてどこかに行ってしまったのか。そもそも生きているのか死んでいるのかすら、定かではなかった。仏壇はあるし、墓参りにも行ったことはあるが、私はそこに至った原因を誰からも聞いたことがなかったからだ。もしかしたら本当は生きていて、でも何らかの事情で引き離されているのだとしたら。――マリッジブルーで、情緒不安定なのだろうか。最近、変な憶測を立ててばかりだ。もっとも、それらは本当に憶測どころか、妄想でしかないのだが。

 もしかしたらただ単に、現実を直視したくないだけなのかもしれない。

 私が黙ると、叔父も黙った。しん、と静寂。人通りが少ないのは、先ほど見かけた公園に人が集まるせいなのか、徒歩でしか使えないこの道を通るとどこにも行けない立地だからなのか、それとも他に理由があるのだろうか。

 それにしても。

「叔父さん。紅葉、綺麗だね」

「ちょうど見頃だな」

 ふたりで立ち止まり、見上げる。上も下も、本当に真っ赤な道だ。おそらく紅葉しか植えられていないのだろう。もし夕方にここを通ったら、空まで赤く染まって、恐ろしいくらい美しいに違いない。夜は夜で、等間隔に設置された外灯に照らされた紅葉が煌々と輝き、夜空とのコントラストを魅せてくれるのではないだろうか。明かりが多すぎると眩しくて見上げられないし、逆にまったく無いと通る気にもならない。そんな並木道にはちょうどいいぐらいの外灯の量なのだが、一部――いや、ほとんどが後付けで埋められたのか、適当な工事の跡が見えた。そしてまばらな間隔にある古びた外灯は、電気がつくかどうかも怪しい。それらが風景の邪魔をしているようにも思える。

 ただし今は秋晴れで、真っ青な空だ。

 それにしても、疲れた。やはり電車とバスがきつかったのだろうか。あんなに長く乗ったのは高校の修学旅行以来だ。そして、この並木道。

「……結構この道、長いんだね。ちょっと疲れちゃった」

「ゆっくり歩いてるから、尚更な。歩が子供の頃は途中で抱っこしてあげてたけど、今はさすがに無理だからなあ」

 笑い声をあげる叔父に、苦笑いを返す。最初見えなかった道の終わりは見えているのだが、いかんせん辿りつかない。完全に体力不足だ。もう少しくらい、運動しないと。

 遠くから、子供の笑い声がかすかに聞こえてきた。

 叔父は何も言わない。ただ無言で、木を見上げている。その表情は見えない。

「……叔父さん」

 私は、意を決して話しかけた。

「叔父さんに聞きたいことがあるの」

「どうした歩、改まって」

 少し視線を落とすも、叔父は私に背を向けたままだ。

 続きを言うべきか、言わないべきか。心臓が早鐘を打つように身体の中で暴れている。言え、私。さあ。口を開いて。息を吸って。あのさ、叔父さん。声が掠れた。唾液を飲み込み、今度こそはっきりと、言葉にする。

「私の両親は殺されたって、本当?」

 ――少し、間が生まれた。風が枝をざわめかせ、それが唯一の音となり、響く。

「……どこで聞いた?」

 返ってきた叔父の声は、今まで聞いたどんなときの声よりも低かった。

「内緒」

 少しおどけて答えてみせる。わかりきった両親の行方を妄想しはじめたのは、その事実を初めて聞かされてからだ。

「ねえ叔父さん、本当なんだね」

「……」叔父が振り返る。

「どうして黙ってたの?」

「それは、」

 叔父がやっと、私の顔を見た。

「それは、歩を傷つけたくなかったからだ」

 ただ、目をまっすぐ見てはくれなかった。その表情は、真面目な顔をした仮面をかぶっているかのように、なんの感情もこもってはいない。焦点の定まっていない瞳は、一体どこを見つめているのだろう。

「……どこで聞いた?」

同じ問いかけ。今度は語調が強かった。仕方なく答えを言う。

「文貴が、調べてくれた」

「そうか」

 叔父は頷いて、「……そうか」また相槌を打った。

「文貴くんが調べたなら、仕方ないな。そうかあ……」

「隠してたなら、ごめんなさい」

「……」

 沈黙。風が紅葉を揺らす音以外、何も聞こえない。

 私も叔父も、しばらく動けなかった。




「歩、これ、おまえの両親のことじゃないかと思うんだけど」

 文貴が見せてくれた新聞記事の日付は十五年前の十月、ちょうど私の記憶が途切れた時期のものだった。

「……てかあなた、何調べてるの」

「え? 十五年前の新聞」

「それはわかるけど、なんでよ」

 その日は、図書館デートをしていたはずだった。重度の文章中毒の彼は、週末に図書館や本屋さんに行って、目についたものを読みまくる。私は今日もそれに付き合っていたのだ。

「気になったから、なんとなくね」

 あっけらかんと答える文貴。彼がこういうところに来て新聞を読むのは確かに珍しいことで、理由が気になってはいたのだが、まさか十五年も前のものを読んでそんな発言をするとは思わなかった。

私はため息をついて、差し出された新聞記事に目を通した。今更知りたいとは思わなかったが、せっかく調べてくれたのだから、見るくらいはしてあげようと思ったのだ。

「……『死亡していたのは高城道彦さん(三十六)、その妻帆香さん(三十二)』……?」

「高城って、歩の苗字じゃん?」

「たしかにそうだけど、今と昔のものが同じとは限らないんじゃ……」

「それに『娘(十)は無事』って書いてあるよ、ほらここ」

 文貴が指さした部分には確かにそう記述されていた。私は今二十五歳、年齢は一致している。被害者の名前を口の中で繰り返すと、私の疑念を一蹴するかのように頭の奥の方が痛んだ。私の記憶ではなく、記録の中にある両親の名前と一致する。叔父に教えてもらった両親の名前。だが、滅多な事で思い出すことはない。自分のことが書かれた記事だと理解し納得できた今も、実感が沸いていない。そうか、両親は本当に死んでいたのか。そのくらいだ。

「これ、殺人事件の記事みたいだよ」

「え?」

 文貴に言われ、さらりと読み流した記事を、もう一度よく目で追う。確かに事故などではなかった。それに現場は屋外の、しかも写真を見ると普通の並木道のようで、物取りでもないため強盗というわけでもなかった。本当に純粋な殺人事件だ。

「……初めて知った」

「俺も」

「叔父さん、なにも言ってくれてない」

「隠してたのかもしれないね」

 どうして? そう訊こうと思ったが、文貴に言っても仕方がないので、私は別の問いかけをした。

「気になったから調べたって言ってたけど、急にどうしたの?」

「だって俺たち結婚するから。記憶のことも両親のことも気にしないって今までずっと言ってたけど、でも出来るだけ知っておいたほうがいいと思ったんだよ。お互いのために」

「そっか」

 見せられた新聞を返し、考える。

 この機会に、記憶を取り戻そうとしてもいいかもしれない、と。




「歩ちゃん、久しぶりだねえ。元気だった?」

「ご無沙汰しております」

 叔父と二人で生活を始めてから十五年間。親戚なんてひとりもいないものだと思っていたのだが、これが案外そうでもなかった。今まで会わせてもらえなかっただけなのだと、今更知った。

「最初はうちで引き取るって話だったのに、あの人がいつのまにか後見人になってたのよねえ。それからもともと付き合いがなかったとはいえ、急に音信不通になるし……。大丈夫? 見たところ、ちゃんと食べてはいるみたいだけど」

「はい。来年結婚することになりまして、この機会に挨拶をと思い伺いました」

 そう言うと、母の姉夫妻だというそのふたりは、突然訪れた私を無下にするどころか、喜んで寿司までとってくれた。叔父の外出中に家中ひっくり返し、やっと見つけた住所録のおかげで成し得た十五年ぶりの再会――私にとっては初対面――は、私に様々なことを教えてくれた。そもそも、叔父が父の弟だということすら、なんとなく察していたとはいえ、この耳できちんと聞いたのは初めてのことだった。今までただ「おじさん」と呼んでいたのは、間違いではなかったらしい。私と叔父が二人暮らしであること、どういう血の繋がりかたった今初めて聞いたことを言うと、伯母は軽蔑の念を露わにし、そして「有り得ないわ」と毒づいた。

「あの人、歩ちゃんになんにも教えていないのね」

 伯母は吐き捨てるようにそう言った。

「なんにも、どころの話じゃないだろう……。歩ちゃん、なにか訊きたいこと、あるかい?」

 伯父は呆れ顔で、それでも私に優しかった。二人からは叔父への嫌悪を感じ、それは隠そうとしても隠せるものではないと、私でも容易に察することができた。叔父はいったい、どんな人となりで親類と付き合っていたのだろう。黙って私の後見人になった程度でここまで嫌われるものだろうか。疑問だ。私は私に優しくそして時に厳しい、そんな叔父の姿しか知らない。

 伯母は不満が噴出したのか、伯父の問いの隣で、ぶつぶつと独りごちた。

「だいたい、証拠不十分で釈放でしょう? そんな人に歩ちゃんを預けるだなんて」

「おい!」

「えっ?」叔父が?

「あら」

 どうやら悪気はないようで、――心の底から叔父を嫌っているようだ――伯父が制止しているにも関わらず、伯母はこれを機にとばかりに意気揚揚と口を開いた。

「この際だから言っちゃうけど、歩ちゃんが最初に発見されたとき、」

「おまえなあ!」

「なによ。歩ちゃんだって、知りたいわよねえ」

「……ぜひ」

 覚悟は、した。私の知らないことを教えてもらう、覚悟。私の知らない叔父を知る、覚悟。そして、何かの拍子に記憶を取り戻してしまう覚悟も。

 私の表情を見て何かを察したのか、伯父は嘆息して、ただ黙り込んだ。

「そうねえ、じゃあなにから話そうかしら」

 伯母は陰口を好く女特有の醜悪な笑みを浮かべて、胸を高鳴らせているようだった。

「歩ちゃん、記憶がないんだったわよね」

「はい」

「どこから思い出せないのかしら?」

「両親の記憶は、まったくありません」

「じゃあ、帆香と道彦さんが亡くなったときの様子も知らないのね」

「それは」文貴に新聞を見せてもらったけれど、「そうですね、わかりません」

「殺されたの。殺人だったのよ」

「そうなんですか」

 私の反応の薄さにも気づかず、伯母は早口で、何故か楽しそうに喋りだした。

「ええ、しかも何も盗られていなかったから物取りなんかでもなくって。歩ちゃんは血まみれでナイフを持って、呆然として座り込んでいたんですって」

「……!」

 その事実は、初めて知った。頭が痛い。考えるのを拒絶するかのように脳が疼く。頭が痛い。私は今、どんな表情をしているのだろう。頭が痛い。伯母は何を思ったのか慌てたようにフォローを入れた。

「ああ、でも安心して歩ちゃん。歩ちゃんが何かしたわけじゃないのよ! 歩ちゃんのものでも、もちろん道彦さんのでも帆香のものでもない服の繊維が歩ちゃんに付着していたそうよ。だからきっと凶器を握らせたのは犯人なんでしょうね。酷いヤツだわ。歩ちゃん、ショックだったわよね、目の前で両親を」

「すみません、記憶がないもので」

「えぇ、えぇ、よっぽどショックだったのよね」

 言葉として聞きたくないがためだけに謝った私にうんうんと頷き、「可哀想にねぇ」「今までつらかったわねえ」と涙ぐむ伯母。私はこんなときどんな顔をすればいいのかわからず、曖昧に眉を寄せた。深く考えることをやめたためか、あれだけ激しかった頭痛が治まる。訊きたいことは山ほどあったはずなのに、それらの質問はどこかに飛んでいき、ひとつしか残っていない。

「それで、歩ちゃんの手についてた繊維のことなんだけどねえ、」

「あの、伯母さん」

 伯母は話を遮られたのが不満なのか、ふてくされたような顔をした。それでも私はかまわず続ける。

「叔父が証拠不十分で、っていうのは……?」

「ああ、それねえ」

 内容がお気に召したのか、また笑顔に戻る。今まで会ったことのなかったこの親戚は、お喋りくらいしか楽しみの無い人なのだろう。そういう女は、醜い。私は表情を取り繕い、困ったような笑みを浮かべてみせた。

「どういうことなんでしょうか……?」

「あの人、アリバイがないし、充分な動機があったから一度は捕まったのよ。でもあの道、人通りが少ないでしょう? 時間的にもね、平日の夜だったでしょう。あんな外灯の少ないところ、誰も通らないわよ。だから目撃証言も得られないし、落ち葉で足跡もとれないしで、釈放されちゃったのよねえ」

 あの道、というのは、現場のことなのだろうか。あの、新聞記事に載っていた紅葉の並木道。この人は、私がすべてを知っている前提で話しているような、そんな気がする。伯母は「まさか逮捕されないなんてね」と話を続けた。

「あの人どうせしばらく帰ってこないんだしと思っていろいろな書類をゆっくりそろえてるうちに、歩ちゃんは病院からいなくなってるし」

「すみません」

「あら、歩ちゃんのせいじゃないわよお」

 からからと笑うこの人は、刑事ドラマの見すぎなのか、それとも叔父を殺人犯だと確信しているのだろうか。責めるような口調を自覚しているのかいないのか、目が笑っていない。

「でもまさかあんな人に引き取られてるなんてねえ。二人暮らしってことは、結婚もしてないんでしょ? あんな人にお嫁さんが見つかるわけないと思ってはいたけど、まさか本当にねえ。大丈夫? 今まで変な事されたことない? 伯母さん、なんでも聞くからね」

 心配そうな表情の裏に好奇心を溢れさせて、伯母が問うた。

「……大丈夫です、特になにも」

「あらそぅお?」

 ――正直、不愉快だ。さっきからずっと黙ってお茶を啜っている伯父を含めて。この夫婦に引き取られなくてよかったと心底思う。こんな人に叔父の知らないところで根掘り葉掘り聞くのは気がひける。だが、私が行ける範囲に住んでいて、なおかつ連絡がとれた親戚はこの家しかない。

 昔のことが「なんとなく気になる」ではなく「知りたい」という意識に変わった私は、先ほどの伯母の話を抽出して、深く問うことに決めた。

「伯母さん、あの、動機っていうのは――?」




 日がとっぷり暮れてもまだ話し足りないのか、伯母は宿泊を勧めてきたが、謹んで辞退した。私の知りたいことはすべて伯母が教えてくれた。伯父はその間中、ずっとお茶汲み係に従事していた。

 そして最後に玄関で見送られたとき。

「十五年間も育ててくれた人に悪いことは言いたくないけど……」

 今まで散々悪口を言っていた伯母は言い淀み、けれどはっきりと、私に叔父と距離を置くように忠告してくれた。

 私は礼を言い、その家を後にした。もう二度とここを訪れることはないだろう。そういった確信を持ちながら。




 葉の間から太陽の光がちらつき、私は眩しくて目を細めた。叔父は動かない。

 私は、記憶がまっさらな状態で初めて叔父の家に来たときのことを思い出した。

「お父さん、と呼んでもいいからね」

 そう言って優しく微笑んだ叔父を、しかし私は父などと呼んだことはなかった。

 この人は父ではない、父と呼んではならない。そんなふうに呼ぶほどに、心を許してはならない。何故か、その思いが心から剥がれなかった。それは今も変わらない。笑顔に恐怖を感じた時もあった。理由はわからないが、頭が警鐘を鳴らしていた。私は叔父にきちんと感謝しているし、親愛の情も抱いている。きっと何があっても私は叔父の味方になれると言い切れるくらいだ。だというのに、これには逆らえなかった。

 あの日、文貴に見せられた新聞に載っていた現場検証の写真と、私が今立っている並木道は、十五年の時が経っているとはいえ、同じ風景のように見える。いや、外灯が増えたとはいえ、これらは同じものだ。そう確信した瞬間、頭の芯のほうが深く痛んだ。

「叔父さん」

 叔父は「ん?」と小さく応えた。この人に訊きたいことは、たくさんある。

私を引き取る前、事業で失敗したって本当? 両親にお金の無心をしていったっていうのは? 両親の保険金で借金を返したというのは本当? 家に来る度乱暴に追い返していたのはセールスマンじゃなくて親戚のことだったの? 私の生家に移り住むことだってできたのに、わざわざ自宅に引き取ったのは、記憶を取り戻させないため――?

 ひときわ強い風が吹き、幾枚もの紅葉が散った。真っ赤なそれが、まるで血のように叔父の身体に貼りつく。

「どうした? 歩」

 不気味なまでに、貼りついたような笑みを浮かべる叔父。何かを包み込もうとするように、両腕を広げている。まるで、慈愛の神のように。

「……歩?」

 叔父さんは、何も持っていないはずだ。それなのに私には、その右手が鈍色に瞬いているように見える。

「歩?」

 大好きな叔父が、怖い。頭がずくずくと脈打つ。響く心臓の音は私のものか、叔父のものなのか、果たして。

「歩」

 叔父が私の名前を呼ぶ。


 私はこの風景を知っている。知っている。知っている。

 知っているような、気がする。


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