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千年巫女の代理人  作者: 夕暮パセリ
第二十章 マツユキソウの溢れる小径
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流れ行く千切れ雲9  オエルタ川の堰 -モスネク上人の伝説-

 パーヴォットは頭陀袋からライ麦パンとチーズを取り出して食べかけている農夫のデンチルに言った。


「運んでいるチャルキと麻糸はマルタンに持って行く方が楽で売れるのでは?」


 パーヴォットが言うように出発地点のネルカネ村からは農夫チルデンが向かうセマウミ村に行くよりやや短い距離にマルタンがある。

 ただしカルイク峠とデデワチ川を渡河しなければならないが、マルタンの市場規模を考えればセマウミ村とは比較にならない。


「マルタンは麻糸ではいい品物が集まります。いいハムやソーセージのあるマルタンではチャルキも人気がありません。マルタンで売れるチャルキは貴方方が貰ったような一級品です」 


 チルデンはそう言うと荷馬車の覆いを少しばかり開けた。


 そこからは木箱に詰められてチャルキが見えた。ただ祐司とパーヴォットが貰ったチャルキは赤っぽい色合いだったが、木箱のチャルキは真っ黒である。


「これは固くて数年は持ちますが、調理に手間がかかって味ももう一つの二級品です。マルタンで売れるのは一級品だけです。

 一級品は脂のったところを腐らせないように工夫して乾燥させますが、二級品は赤身ばかりで作るんです。わたしは赤身もそれなりに美味しいとは思うんですが、街の衆の口には合わないようです」


 チルデンは少し口惜しそうに言う。


「麻糸もマルタンにはいい品物が集まります。上納品として各地の神殿から一級品が持ち込まれます。

 それがお下がりで街中に出回るんです。お下がりは相場より低い価格で神殿から特許商人に卸されます。


 わたしらが作るような麻糸はどうしても余り物のように扱われます。ですから私ら同様という客がいるセマウミ村の市で売るんです」


 祐司はデンチルの話を聞いて中々世は上手くいかないと思った。


 マルタンのマルヌ神殿が上納品を卸していることを祐司は知っていたが、その値は安価でマルタンの物価安定に役立っており貧者は恩恵を受けている。

 また上納品を売った代金は貧窮者や孤児の為に使われているので、マルタンという単位でみればよい仕組みであるが周辺の生産者には不利となる。


 しかしチルデンは数年して麻糸の生産をやめて直接麻を出荷して、そして豚を飼育して冬季にそれを工夫して比較的柔らかいチャルキにすると春に肉の供給が低下するマルタンに売りに行くようになった。


 チルデンが近い将来に麻糸の生産を止めるのは祐司に原因がある。


 祐司は王都を去る前に世話になったバーリフェルト男爵家への置き土産に、ガラ紡の製造方法を教えた。

(第十一章 冬神スカジナの黄昏 春の女神セルピナ22 リファニア絵馬とプチ産業革命 参照-祐司が何故ガラ紡の製造方法を知っていたかはここに記述があります)



挿絵(By みてみん)




 ガラ紡は臥雲辰致がうんたっちにより1876年に考案された紡績機である。当時の日本の技術でも製造できた紡績機で、リファニアの技術水準でも製造は可能だった。

近代的な紡績機に比べれば糸に太さやむらがあり紡績速度も遅いが、手紡ぎに近い機構であるため紡がれる糸も手紡ぎに近い。


 そして近代的な機械紡績では利用することが難しい繊維長の短い綿も有効利用できる点が利点であり、中世世界リファニアに適した紡績機でそれまでの十倍ほどの効率で紡績が出来るようになった。


 このためにガラ紡が普及した王都をはじめリファニアの畿内ホルメニアの紡績は、専門の職人が紡ぐ細く均一な高級糸を除いてリファニア全土を席巻したうえに海外にまで販路を広げた。

 


 チルデンの家が行っていた素朴ともいえる手作業の製糸もホルメニアからもたらされる低価格の糸に対抗出来なかった。

そのためにチルデンは繊維のまま麻を販売したが、特産品に特化したことで実は麻の製糸を行っている時より収入は増大するようになる。


 チルデンは自分の収入源を奪ったガラ紡は考案者のジャギール・ユウジ・ハル・マコト・トオミの家名をとってトオミ紡と言われていることを知ると、何時の日かセマウミ村まで送ったことのあるジャギール・ユウジを恨んだ。


 しかしジャギール・ユウジが「質のいいチャルキを作ることに手間と時間をかければ肉類が不足する春のマルタンでも売れますよ。色を気にした方がいいです。赤身がある方が美味しそうに見える」と言っていたことを思い出した。


 新しい紡績機を生み出すほどの賢い人間の言うことなら間違いないだろうとチルデンは思い至ってそれを実践したのだ。

 結果としてチルデンは以前より多くの収入をあげるとともに、チルデンに見習ったネルカネ村の者達も豊かになった。



 イノベーションによりそれまでの仕事が駆逐されることはあるが、一般にイノベーションは人手を省力化するのでその利益が新しい仕事を受け持つ人々を豊かにする。

 余剰になった労働力は、以前従事していた仕事に捕らわれずに頭を切り替えれば豊かになった社会が要求する新しい産業に移って更に社会を豊かにしていく。


 さらにバーリフェルト男爵家のお抱え織工マレルテ親子の発明による”飛び杼”により織布の効率が数倍になった。

 この飛び杼の発明は祐司のネル製のシャツを補修する作業の中でどうすれば細い均一の太さの糸を緻密に織り上げていくかを考えているうちに織工が思いついたものである。


飛び杼は十八世紀前半にイギリスの織工ジョン=ケイが発明した道具で、それまでと比べて布を織る速度が三倍から四倍になったという。


 またそれまでは助手が杼を縦糸の間を通す作業をしていたのが一人で織れるようになった上に必ずしも、熟練工を必要としなくなった。


 産業革命による機械の発達を俯瞰する時に、飛び杼は最初に出てくる発明品である。それを中世段階のリファニアの織工が創意工夫して発明してしまったのだ。

 現代の技術で作られた祐司の服の技術を再現しようとして、時代を遙かに飛び越えてしまったということになる。


 この収穫は大きな利益となった。リファニアの紡績と織布は他地域と比べて数倍から十倍もの効率で行われるようなった。

 そしてこうした機械を大量に揃えることが出来る大商人が、多数の職人を配下に置く工場を造り、ソフトの面で「分業」を徹底したことで効率的な生産を行った。


 すると製造費が劇的に低下して、リファニア産の製糸と織布は大西洋沿岸地域一帯で広く販売されるようになり、他地域の職人を廃業に追い込んだ。


 すると益々リファニア産の製品は需要が高まっていく。


 当初はリファニア内でも、未亡人などが手紡ぎで細々と内職のように行っていた製糸を駆逐したことからガラ紡は「後家殺し」などと言われていた。

 そのような手紡ぎをしていた者は生産力が上がったために値が下がり、多くの需用が生まれた衣服の生産のための縫製に活を求めてより大きな利を得るようになった。


 また人口希薄で広大な土地が余っていたリファニア、特に南部とキレナイト(北アメリカ)の王領ではリファニア亜麻と呼ばれる耐寒性のある質のよい亜麻が交易用の布地のために大規模に生産されて、農民に現金収入をもたらすようになる。


 またリファニア中部から北部南縁では羊毛生産のために、羊の頭数が急増することになる。


 そしてさらに飛び杼の発明に触発され順次改良された織機を用いたリファニアは、中世末期のイギリスのような大西洋地域第一の羊毛製品生産国になってリファニアの人々は数十年という単位で見れば明らかに多少でも豊かな生活が出来るようになっていく。


 この社会現象を後世のリファニア世界の歴史家は外燃機関などの動力が導入されないという定義で”前期産業革命”と名付けることになる。


 ただ現在はそのような将来を神々ではない、祐司とパーヴォット、そしてもちろんチルデンも知るよしもない。



「ねえ、ユウジ様、川の中を横切っている石積みの構築物は何の為にあるんですか。川の流れを止めているようにしか見えませんけど」


 パーヴォットはライ麦パン、チーズ、そして朝方貰った炙ったチュルキという昼食を食べている最中に川の方を指差して祐司に訊いた。


「あれはせきだよ」


「ああ、王都のケネル川にあるっていうやつですね。川の流れを堰き止めて変えるんだ」


 パーヴォットは王都に水を導く為に作られたケネル川の堰を持ち出してきた。



挿絵(By みてみん)




 ケネル川の堰は三百年ほど前に第五十五代リファニア王ダレンが築かせたものである。


 当時は王都の人口が増えて小川や井戸だけでは深刻な水不足をもたらして、飲料水までも十数リーグも離れたケネル川から馬車や駄馬で水を運んでこなければならない事態になっていた。


 これを解決するために、ダレン王がその長い治世の後半にリファニアでは屈指の大土木工事として行ったのがケネル川の付け替えとキリナ水道の掘削である。


ダレン王は水問題を討議する会議の最後に、水の輸送を円滑にする方策ばかりを論じる家臣団に対して「川の水を我々が運ぶのではなく、川の水は川に運ばせる」と言ったという逸話がある。


 まず、ダレン王は王都が面するイギナ湾の北にあるワッツ湾に流れ込んでいたケネル川の付け替えを行った。

 ケネル川の河口付近を半ば閉じて、イギナ湾に流れていた小規模な川の流路を利用しながらケネル川の水の大半を王都付近でイギナ湾から海に出るようにしたのである。


 そして、新ケネル川ともいえるケネル川から人工的な水路であるキリナ水道を掘削してケネル川の水を王都に導水した。

 これにより一気に王都の水問題は解決した。”王都の風呂好き”という言葉もこのキリナ水道の完成後に出来た言葉である。


新しいケネル川であるキリナ水道へ水を導くケネル川の固定堰は三百年にわたり改修と増築が繰り返された。

 その石を巧みに組み合わせてある固定堰は幅が百メートル以上にもなっている。しかし火薬のないリファニアでも堰を破壊することは、難工事になるとしても考えられる事態である。


 ただキリナ水道は王都の命綱であるので、固定堰の近くには千という単位の軍勢を収容できる強固な城塞も建設されている。

そのうえ王都には地下貯水池が十箇所ほど造られており、万が一にもキリナ水道が敵勢に落ちても飲料水に限れば数ヶ月は凌げる。


 ちなみにキリナ水道のキリナとはダレン王が初めて得た子の名である。キリナ水道はその幼くして病死した長女の名にちなんでいる。


 ダレン王は自分の名が語られることがなくなる日は来るが、キリナの名は毎日誰かの言葉になって発せられるだろうと言ったとされている。



挿絵(By みてみん)



挿絵(By みてみん)




「いや、ケネル川の堰は特殊な堰でダムに近い。普通の堰は水の流れを堰き止めないで上流部の水位を上げて取水し易くする為のものだ。

 このあたりはやや斜面があるからオエルタ川に堰を作って所々に水を溜めているんじゃないかな」


 祐司は簡単に堰の説明をした。


「そうなんですか。北クルトには堰はありませんでした」 


 パーヴォットはそう言うがそんなこともなかろうと祐司は思った。


 パーヴォットは神学校で”地理”を学習したとはいえ、辺境の北クルトであっても都市であるヘルトナの出身で基本的に”街の子”である。

 そのために存外に農村の事や農村部に見られる構築物については祐司がびっくりするほど知らないことが多い。



「モスネク上人様の堰の話かい」


 祐司とパーヴォットに先に昼食を食べ終えたチルデンが話しかけてきた。


「あれはモスネク上人様の堰っていうんですか。モスネク上人様が造られたのですか」


「そうです。今から七百年も前にこの辺りに来たモスネク上人様がオエルタ川の水量が安定しなかったり時に鉄砲水のように増水して、住民が難儀しているの見て堰の造り方を皆に教えて堰を完成させて下さったそうです。


 それでモスネク上人様が去った後も堰の造り方を憶えた住民が営々とオエルタ川に堰を造ったんです。

 この辺りは春の雨の時期が終わると年によっては秋まで極端に雨が降らないことがよくあります。


 でも堰があるおかげでこの辺りの農地や放牧地が水不足になることはありません。


 堰は全部で二十あります。オエルタ川の二十堰と呼ばれています。堰は半リーグほどごとにあるんですが、一番下流の堰がわたしのネルカネ村にある”止めの堰”です。


 ”止めの堰”は最後の堰なので本当に雨が降らなくなると上流から水が流れてきませんので溜池がわりに使います」



 チルデンの言うモスネク上人とは、リファニアの行基のような存在である。

*話末注あり


 モスネク上人は今から八百年ほど前の人物で前期リファニア王国の黄金期を開いた第二十二代リファニア王ガファスダ王の時代に活躍した。


 モスネク上人はホルメニア南部のユーゴレノク州の豪族の出で聖職者でありながら、自らの意思で神殿に属さずにリファニア各地を巡り布教活動を行うとともに、自分の知識を元に各種の土木作業を行ったとされる。


 リファニア各地にはモスネク上人が造ったとされる橋や水路、街道が百数十ほどあるが、これは弘法大師の伝説と同じで実際にモスネク上人がかかわったことが確かなのはそのうちの十分の一ほどである。


 モスネク上人の知名度が高いので、来歴が不確かな建造物はモスネク上人に結びつけられたようだ。



挿絵(By みてみん)




注:行基

 行基(668~749年)は奈良時代の僧です。父の高志才智こしのさいちは応神天皇の時に百済から日本に渡来したして千字文と論語を伝えたと古事記に記述される王仁わにを祖とするする百済系渡来氏族に属します。


 行基は十五歳で出家して道昭どうしょう(629~700年)の教えを受けます。道昭は入唐してインドから経典を持ち帰ったことで有名な玄奘三蔵に師事して、晩年は国を遊行して各地で土木事業を行いましたが、この師の行動が後の行基の行動に影響を与えたと思われます。


 行基が名の知られる活動を開始したのは四十代なってからで近畿地方を中心にして架橋や灌漑整備などを行います。

 

 行基が指導して造られた溜池では現兵庫県伊丹市の昆陽池、大阪府狭山市の狭山池などがあり、架橋では大阪市の難波橋などがあり、現在の神戸港の原型である大輪田泊おおわだのとまりをはじめとする摂播五泊と呼ばれる兵庫県内に五つの港を整備します。


 また五十近い寺院の建立を行基は行っています。

 

 もちろん行基一人ではこうした活動は行えませんので、行基は知識結と呼ばれる僧侶と俗人が混合した宗教集団を率いていました。

行基の活動は根底に宗教的な動機があったとしてもボランティア活動の先駆けとされています。


 ただ数千人から一万人を集めて説教する行基の行動は時の朝廷から危険視され、寺院外での宗教活動を禁じた僧尼令に違反するとされ弾圧を受けます。


 しかし行基の活動が活発で新田開発が進むと朝廷は行基の活動を容認するようになります。


 これは配分する田地の不足、手続きの煩雑さ、偽籍の増加、逃亡農民の増大などの多層的な原因で班田収授の制度が崩壊していく過程で、開墾による私有地を認める三世一身法が施行されて灌漑事業などを行う行基の行動が税収を確保したい権力側にとっても好ましいものになっていたからです。


 聖武天皇は行基に東大寺盧舎那仏像(大仏)建立に協力するよう要請して、東大寺の大仏像造営の勧進に起用されます。


 行基による勧進により大仏建立が進んだことで朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られました。


行基は死後に朝廷より菩薩の諡号を授けられて、文殊菩薩の化身とも言われるよになります。


 行基は主な活動範囲であった畿内各地で現代でも顕彰されています。

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