マルタンの春22 霊峰巡り 十六 -⑧トッキナク山-
祐司とパーヴォットは”マルタン十霊山巡礼”の最終日となる朝、二刻半(午前七時)になる前には宿泊地を出立した。
さらにその前、祐司一行が朝食を終える頃に昨夜話込んだエルランド夫妻が朝の挨拶にやって来た。
「昨夜は有意義な話を聞かせてもらい礼を言う。今日も天候はよさそうだ。無事にマルタンに帰られんことを」
挨拶の最後にエルランドが祐司に少し頭を下げて言った。
「昨夜はエルランド様と何の話をしたのですか」
「マルタンに帰ってからだ」
パーヴォットの質問に先達のヴァルナドに嫌な想いを持たないように祐司は小声で答えた。
祐司の予定ではトッキナク山、スルナ山、セナ山と残った三山全てを踏破して暗くなる前にマルタンに帰る予定である。
三山のうちスルナ山とセナ山はそう大した山ではないが、トッキナク山は”マルタン十霊山”の最高峰と見られているのでそれなりに険しい山容である。
とはいってもトッキナク山のある辺りは標高があり、比高から考えれば東京付近なら高尾山に毛が生えた程度の山、関西なら生駒山程度と考えればいい。
ただし高尾山や生駒山のように整備された登山道があるわけではないので時間は多少かかるだろうというのが祐司の見立てで、先達のヴァルナドも健脚であっても一刻(二時間)弱は登攀にかかると言っていた。
宿泊した天幕のある開豁地から半リーグもしないうちに登山口に達するがそこにはトッキナク山神殿がある。
トッキナク山神殿は修道神殿である。
修道神殿は信仰を深めたい神官が集まった神殿で、祐司とパーヴォットが訪れた神殿では十二所参りのアワスシャル神殿やアヴァセデル女子神殿、フィシュ州北部の”薄暮回廊”を通過した時に立ち寄ってコルセニア神殿、或いはリファニア第一の古刹チュコト神殿の幾多の神殿のうちの本殿でもある山上神殿がこれに相当する。
ただこれらの神殿は多くの参拝客がやってくるので他の神殿とそう外見上は異なったところはなく、他の神殿と比べると神官の数が多いことと神域の一部が一般には立ち入り禁止になっているくらいである。
マルタンは宗教都市とはいえ数万の人口を有する都市で幾多の巡礼で賑わうので、その喧噪を逃れて信仰を深めたい者が自然に集まって創立されたのがトッキナク山神殿と言われている。
トッキナク山神殿は修道神殿の看板通りにトッキナク山へ続く登山道から少し離れた森林の中に隠れるように立地していた。
”マルタン十霊山巡礼”の途上にあり、霊峰トッキナク山に登攀するために参拝することが習いになっているので、祐司とパーヴォットはトッキナク山神殿を訪れたがマルタンから四リーグ半(約8キロ)の距離にあって途中にはめぼしい神殿がないトッキナク山神殿を訪れる者は少ない。
そしてまだ朝早いということもあり、参拝者は祐司一行だけだった。
このトッキナク山神殿はトッキナク山を御神体としており、拝殿は屋根のない円形状の石造りの建物でそこからトッキナク山を参拝する。
そしてトッキナク山に祭られるのはオマンナク神である。
オマンナク神という名で類推できるように、先住民イス人系の神である。オマンナク神はマルタン周辺と中心にクアリ州南部に住んでいたクアリマト族の氏神であった。
マルタンの開祖ビヨルンス上人がマルタンに来た時にはすでにトッキナク山を御神体にして現在のトッキナク山神殿の場所に祭場があったことが知られている。
ビヨルンス上人はマルタンにマルヌ神殿を建立するとともに、クアリマト族との平和的な関係を築くためにオマンナク神を祭る神殿を建立した。
これがトッキナク山神殿の縁起である。
そしてオマンナク神はクアリ州の守護神として祭られている。オマンナク神は、”クアリ十霊山”で祭られている神々の中では唯一の地方神である。
オマンナク神はリファニアの神話体系の中では異色の神であるので、その拝殿も奇抜な構造である。
元はクアリマト族の祭場であるのでので、拝殿はその祭場が再現されたモノだと伝承されている。
クアリマト族の祭場では祭礼のたびに丸太を環状になるように立てて、その丸太の柱の先端を縄で繋いでいたという。
それを石造りにして恒久的な施設にしたのが、現在のトッキナク山神殿の拝殿であると言われている。
そして開山したトッキナク山神殿の初代神官長は名目的ではあったらしいがクアリマト族のシャーマンだった。
このあたりが人々の融和が進むのなら何でもありという”宗教”の面目躍如といったところである。
祐司達はこの拝殿でトッキナク山に向かって礼拝を行った。
そして祐司は社務所でお布施を出して、樹皮紙の入山許可書を貰った。トッキナク山全域が神域なのでトッキナク山神殿で許可を貰わなければ登攀できないのだ。
そしてこの許可証は山頂にある奥の院に提出するのである。
トッキナク山神殿の参拝を終えていよいよ祐司一行はトッキナク山山頂への登山道を登りだした。
トッキナク山は全域が神域であるので七合目あたりまでは深い原生林である。リファニアでは人の営みの入った森林は適度な伐採が行われるので日当たりの良い場所を好む広葉樹が見られるがトッキナク山の原生林は針葉樹である。
「見通しの悪い道ですね」
登山道を登りながらパーヴォットが言った。
登山道は原生林の中を通じてただでさえ前方が見にくいのに細かいターンを繰り返す九十九折りと、大木があればそれを避けるように道が曲がっており一ピスほど先も何があるかわからないような道だった。
「この登山道は人の人生を現しているとされます。神々の加護を求めていけば先を見ることが出来ます」
ヴァルナドが説明してくれた。
「ということは意図的に見通しが悪いように作られているのですか」
「いいえ。ここは神域ですから一木一草を損なわないように道をつくったからです。人の歩みもそうあれという教えです」
さらなるパーヴォットの質問にヴァルナドが答える。
登っても登ってもそう風景がかわらない登山道を祐司一行は黙々と歩き続けた。半刻ほども歩くと森林限界に至り、ようやく原生林が終わり山頂まで見通すことができる視界のよい場所に出た。
森林限界の上は草原で時にツツジ類の灌木が見られる。そしてその草原地帯の上には残雪地帯がある。
特に今から登って行く北側斜面は八合目から上は全体が雪で覆われているといっていい。
これはトッキナク山がマルタン周辺で一番標高が高く、おそらく六百尋(約1100メートル)を越えるからである。
「この雪は六月にならないと無くなりません。ガンジキがあれば残雪を踏み分けて進めますが、ガンジキはないのでここから分岐道に入ります」
ヴァルナドは登山道は左右に分かれている場所まで来て言った。
本来の登山道は残雪地帯の中に続いており、ヴァルナドが分岐道といった登山道は残雪地帯を避けるように一旦西から南に回り込んでいた。
分岐道の山頂付近までに残雪があるのは日当たりが悪い岩陰だけで、分岐道を含めてほぼ残雪がなかった。
「トッキナク山は神域ですから怪異な話はないですよね」
パーヴォットがヴァルナドに訊いた。
「怪異な事はおこりませんが、トッキナク山に鎮座されるオマンナク神の眷属は鳥の精霊です。今までの登山道でほとんど鳥の声が聞こえなかったことに気が付いていましたか」
「いいえ、そう言われると」
パーヴォットが少し考えてから答えた。
「この山では人間には見えませんが鳥の精霊が飛び回っています。鳥にはその姿が見えるので遠慮してトッキナク山に入ってこないと言われています」
ヴァルナドはそう言ってから急に思い出したように話始めた。ヴァルナドが話したのは以下のようなことだった。
・・・・・・・・・・・・・
五十年ほど前、オマンナク神の眷属であるレンデルネキトという精霊に見初められて夫になったフォルロという男がいた。
どうしてフォルロが見初められたのかはわからないが、精霊と人間ではモノの感じ方が違うだろうし、ましてやレンデルネキトは鳥の精霊なので人間が理由など類推はできない。
フォルトは祐司達が昨日世話になったイェルキ集落の農夫だった。フォルトは子供の時から夢見がちで誰も居ないにもかかわらずさも誰かがいるように話し込むことがあった。
そんな様子なので所帯を持とうという女がいなかった。
三十歳の頃に薪を集めにいくと言って急に居なくなったので、集落の者で三日ほど行きそうな場所を探し回った。
するとフォルトは四日目に集落に戻ってきて、嫁を得たので紹介する為に戻ってきたと言った。
「嫁とやらは何処にいる」と両親がたずねると、フォルトは「すぐ横にいる。精霊のレンデルネキトだよ」と言うのだがフォルトの他には誰も姿がなかった。
フォルトは集落の家を一軒一軒訪ね歩いて、「これが嫁のレンデルネキトです」といって自分の横にさも誰かがいるかのように紹介した。
フォルトの両親と兄はフォルトが失踪している間に頭がおかしくなったと思い、「今日は家で二人でゆっくりしなさい」と言って家に押し込むと外から閂をかけた。そして旦那神殿であるトッキナク山神殿の神官をフォルトの兄が呼びにいった。
フォルトの兄が神官を連れて帰ってきたので、両親が閂を開けて家の中に入ったが中はもぬけのからだった。
窓も表からつっかえ棒をしていて中から開けられないようにしていた上に、両親がフォルトが出てこないようにずっと見張っていたにも関わらずだった。
そしてまたフォルトは失踪してしまった。ただフォルトの家の台所にあった籠の中には溢れんばかりにブルーベリーが入っていた。このブルーベリーはそれはそれは美味な味だったという。
フォルトが次に見つかったのは三ヶ月ほどした晩秋の頃だった。
トッキナク山神殿では明らかに様子がおかしい檀家の者が行方不明になったということで、巡礼を案内する先達達にフォルトの似顔絵を渡してもし見かけたら一報してくれるように依頼していた。
その先達の一人がトッキナク山の森林地帯で背負子を背負って薪を集めている男を見かけた。
トッキナク山は神域なので原則立ち入り禁止で、付近の住民は期間を定めて薪や柴、あるいはキノコを集めることが出来るがその期間外だったので男に声をかけたのだ。
先達は男の顔を見て似顔絵に描かれていたフォルトだと判断した。
先達が「貴方はフォルトさんかい」と声をかけると、男は「そうです。今、妻はキノコ狩り、わたしは薪集めをしてます」と答えた。
さらに先達が「ご両親が心配しています。一度家に帰られたら」というと、男は「先程家を出てきたばかりです。すぐに帰ります」と言って、さらに呼び止める間もなく森の中に入って行ってしまった。
先達は慌てて追いかけたが人がまともに歩けるような足場では無く、フォルトの姿はすぐに見えなくなった。
これ以降も年に一二度はフォルトの姿がトッキナク山で目撃されまた短い会話をすることもあったが、いつもフォルトは深い森の中に姿を消した。
ただフォルトの姿が目撃されたのは失踪して二十年ほどの間で、今ではフォルトを見かけることはなくなった。
ただ何年経ってもフォルトの容姿は失踪した時とほぼかわらない様子だったという。
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祐司はこの話を聞いて怪異な部分もあるが、その部分は尾鰭がついた可能性がある確証のある話かもしれないとして、フォルトは精神疾患を発症していたのではないかと思えた。
リファニアでは精神疾患は病気という認識はない。他害や自害の危険性のある場合は悪霊に取り憑かれて状態であり、言動が通常ではないが危険性の低いモノは精霊や妖精が辛いことから逃れさせるために魂に目隠ししたり幻想を見せていると考えている。
そのことから精神疾患は医者の仕事では無く、神官や或いは祈祷師、悪霊払いの仕事となる。
「フォルトという人はどうなったのでしょうか」
パーヴォットの質問にヴァルナドは少しあらたまった口調でしゃべり出した。
「神々や精霊と人間の時間は異なるそうです。ですからわたしはフォルトという男はまだ若い姿のままトッキナク山の何処かでレンデルネキトと暮らしていると思います。
だからもしフォルトに出会ってもそのままにしておくのがいいと思います。今更、レンデルネキトと引き離せばあっという間に本来の年齢になってしまうでしょう。生き残っても故郷にはもう誰も身寄りがいません。
精霊は自分のしたことには最後まで責任を持つといいます。何百年かしてフォルトが本当に死ぬまではレンデルネキトは添い遂げるでしょう。
フォルトという男はレンデルネキトに見初められて、この世の辛さから逃れて毎日楽しく生きていると思いますので何百万に一人の幸せ者だと思います」
このような話をしているうちに山頂が間近くなってきた。
ただかなり迂回して山頂に至ったので登り始めてから一刻半(3時間)弱ほどの道程となっていた。
山頂付近はほぼ岩場で今まで登攀してきた山の中では風が強いこともあって祐司は一番寒いと感じた。
「山頂に行く前にその手前にある庵に登山許可書を提出します」
ヴァルナドがいう庵は山頂の東の崖に覆い被さるような石造りの頑丈な建物だった。庵の石材は山頂付近から得たようで、庵は周囲の風景に溶け込んでいるような感じだった。
「先達のヴァルナドです。フズサ・カシュパルド神官、登山許可書の確認をお願いいたします」
ヴァルナドは庵の分厚い木製扉を力任せに叩いてから大声を上げた。
するとゆっくと扉が開いて、かなり老年の粗衣といった服装の男性神官が出てきた。
「まだ耳は遠くなっておらんから扉は普通に叩いて構わんよ」
出てきた神官はぶっきらぼうに言う。
祐司は老神官が発する巫術のエネルギーによる光が明らかに苛立ちの感情であることを見て取っていた。
「申し訳ございません。こちらが許可書です」
ヴァルナドはどうもカシュパルド神官という気難しそうな老人の扱いに慣れているようで事務的な口調で言った。
「うむ、間違いない。印を押すので少し待っていてくれ」
老神官は許可書を受け取ると一目見ただけで許可書を持って庵の中に入った。ただ今回は愛想がよかった。
「フズサ・カシュパルド神官はあの庵に一年のうち冬季を中心に半年は籠もるんです。神像の前で瞑想をしているそうです。
多分最初機嫌が悪そうに見えたのは瞑想の最中だったからでしょう。気安い感じの方が本当のフズサ・カシュパルド神官です」
ヴァルナドが小声で祐司とパーヴォットに説明しているとカシュパルド神官が許可書のうち下半分を切って持って来た。
「割り印も押してある。よい巡礼を」
カシュパルド神官は半分になった許可書をヴァルナドに渡しながら祐司とパーヴォットの方を見て言った。
半券のようになった許可書を押し頂くように受け取ったヴァルナドにカシュパルド神官が訊いた。
「最初、わしはぶっきらぼうだったか」
「少しそのように感じました」
「まだ修行が足りんな。許可書を確認するのはわたしの仕事だ。瞑想は私事だ。私事が仕事で中断されたとして心が乱れては何の為の瞑想かわからん」
ヴァルナドの返事にカシュパルド神官は嘆息すると祐司とパーヴォットに「不快な思いをしたのなら申し訳なかった」と言いつつ庵に入っていった。
「さあ、この許可書の下半分をどうぞ。割り印が押してありますのでトッキナク山に来たという印になります」
ヴァルナドは許可書を祐司に渡した。




