マルタンの春16 霊峰巡り 十 -⑥ノリナ山-
祐司がハルデ山南麓のヘリキデ集落に宿泊することにしたのは三泊四日という日程から或る程度どうにもならないという理由が大きかったが、もう一つ先の集落に行く時間もあった。
それを祐司がヘリキデ集落で宿泊した理由をパーヴォットは到着して荷を宿舎に置いたすぐ後で知ることになった。
「パーヴォット、風呂に行こう。集落の共同浴場に入れるんだ。この集落では農繁期は毎日風呂をたいているそうだ」
祐司は手ぶらになって嬉しそうにパーヴォットに声をかけてきた。
「風呂好きですね。昨日も入りましたよ」
そういったパーヴォットも祐司に感化され風呂に毎日入ることに抵抗はないどころか、風呂に入れる機会があれば利用したいと思っている。
祐司とパーヴォットは前日宿泊したセウルスボヘル山神殿の巡礼者宿舎でも風呂を利用している。
セウルスボヘル山神殿の風呂は薬膳風呂として有名だった。リファニアの風呂は蒸し風呂なので呼吸器や皮膚に薬効がある薬草を燻らせてその煙に当たるという燻製式で少々煙たいが薬草の香りがよいので気持ちまで癒やされるように祐司は感じた。
この名物の薬膳風呂も前回来た時には入り損ねているので祐司としては絶対に利用したかった。
そして翌日は山行で疲れた体を癒やすために風呂の利用が出来るヘリキデ集落で宿泊することを祐司は選択していた。
風呂で一汗かいてからかけ湯をしてさっぱりした祐司とパーヴォットは、ヘリキデ集落の共同食堂の前に設置されたテーブルについて夕食を始めた。
ハルデ山南麓のヘリキデ集落で一泊することになった祐司は覚悟したように夕食時に武勇伝を披露することになった。
モンデラーネ公勢力圏に接するどころか州南東部を侵食されているクアリ州の住民であるヘリキデ集落の人々が一番聞きたがったのはもちろん自分達の間近な地域で起こった”北西戦役”の話である。
祐司はイルマ峠城塞攻防戦で、モンデラーネ公軍の人間破城槌ともいえる有名な”弓手のダッサレー”を一騎討ちで討ち取った。
(第十六章 北西軍の蹉跌と僥倖 下 イルマ峠の紅アザミ31 城壁の戦い 八 -ダッサレー- 下 参照)
祐司はこの時の様子をかなり控えめな表現で話した。特にイルマ峠城塞の城壁上でダッサレーの左手を一刀で肘から切断した話は「流石のダッサレーも城壁の上に辿りついた時はかなり息が上がって動きが鈍くなっていました。そこでわたしは甲冑の肘の隙間から肘が見えている部分を狙いました」と話した。
真実はダッサレーは息は上がっていなかったし、祐司と一騎討ちを始めた時点では動きが鈍くなっていることもなかった。
また祐司は確かに甲冑の肘の部分を狙ったが隙間から肘は見えておらず、肘を切断できたのは恐るべき強度がある”女神イトリトボックルの剣”を使用したことと祐司が時に発揮する通常の数倍の速さで動ける能力が発動したからである。
さらにダッサレーは自らを人間タンクにする重量百数十キロほどの甲冑を装備していたが、それは本人も自覚がない”強化術”ともいうべき巫術を発動させていたからだ。
祐司は巫術のエネルギーを吸い取ってしまう技能があるので、”強化術”を使えなくなったダッサレーは甲冑の重さに耐えかねてよろめくようにしか動けなくなった。
(第十六章 北西軍の蹉跌と僥倖 下 イルマ峠の紅アザミ31 城壁の戦い 八 -ダッサレー- 下 参照)
もちろんこれらのことを祐司は公表する気など寸後もないので、結果としてかなり自分の活躍を謙虚にした物語を語った。
「ジャギール・ユウジ殿は一昨年の”バナジューニの野の戦い”で、”カタビ風のマリッサ”を討ち取っておる。
ジャギール・ユウジ殿は一人でモンデラーネ公の牙をへし折り、爪を剥がしたということだ。
しかしここで皆の衆に願いがある。ジャギール・ユウジ殿は話をするために飲食が出来ておらぬ。しばらくジャギール・ユウジ殿には飲み食いをしてもらおうではないか」
隠居したロカンチコド子爵の元家臣エルランドが祐司の武勇伝が一段落すると立ち上がって言った。
郷士身分の言葉に集落の集落長が「ジャギール・ユウジ殿を歓待するつもりが、自分達の身勝手を通してしまいました」と言いに祐司の前にやって来た。
エルランドのおかげで祐司とパーヴォットは、隅の方で飲食をしていた先達ヴァルナドも呼び寄せてしばらく料理を食べたりビールを飲むことに専念できた。
祐司とパーヴォットはヴァルナドと明日の行程についての打ち合わせも行った。隣の席ではエルランド夫妻が自分達の先達と同じように打ち合わせをしていた。
「エルランド様は私達よりここにかなり早くお着きのようでしたが、何処から出発されてのですか」
パーヴォットが聞くとエルランドは孫に話すように丁寧に答えてくれた。
「オウキク山の麓のエネサ集落からだ。その前はセウルスボヘル山神殿に宿泊した。出立はその前の日にマルタンからだ。
だから今日は三泊目と言うことになる。このような年寄りなので無理はせいぜい一日二山ということだ」
祐司とパーヴォットは今日早朝にセウルスボヘル山神殿の巡礼宿舎を出発して、四山を走破してきた。それをエルランド達は二日をかけたということである。
「明日はノリナ山とセイネル山だ。そう足を取られる山でないと聞いておるので、ゆっくり出発する。ただセイネル山の次のトッキナク山からは一日一山となるかな」
エルランドの言った予定では彼等は全体で五泊六日ないし六泊七日の予定で”マルタン十霊山巡礼”を考えているようだ。
特に”マルタン十霊山”の最高峰であり最難関のトッキナク山には万全の条件で臨みたいようであるので、トッキナク山登攀前には無理はしないつもりらしい。
この後、祐司は「もう一つだけ」とせがまれて”西の海でのヘロタイニア人海賊討伐”の話をした。
この話は祐司にとって心理的な負担が少ない武勇伝である。
相手はリファニア人達が”マレ・オスム(我等の海)”あるいは”リファニア王の湯殿”と呼ぶリファニア西側海域の”西の海(現バフィン湾)”に不法に侵入して、バーリフェルト男爵家が管理するマルトニア(現バフィン島)のタシラク村を襲ったヘロタイニア人海賊である。
(第十一章 冬神スカジナの黄昏 春の女神セルピナ7 マルトニアへの航海 七 -海賊船 下- 参照)
これを相手にするのは犯罪者を捕縛するのと同じであり、祐司には正義がある。また異邦人であるのでリファニア人相手に話をするのに忖度する要素がない。
内陸部のヘリキデ集落の人々にとっては海戦の話は興味津々であるが、知識が足りないので種々の質問が飛んだ。
そんな理由で少しばかりいつもより時間を取ったが、祐司は無事に武勇伝を騙り終えることが出来た。
翌日は祐司一行は少しばかり距離が離れている二山の走破を目指しているので、三刻(午前八時)には出立した。
それに対してエルランド夫妻は一山だけなので、半刻ほど後に出立するということだった。
祐司は一緒に途中まで同行しようと誘ったが、エルランドは自分達は足が遅いのでそれこそ足手まといになるといって固辞した。
こうして祐司一行はエルランド夫妻と仕事に出かけようとする数人の集落民の見送りを受けて出発した。
ヘリキデ集落からこう耕作地と点在する森林を抜けて半リーグ(約0.9キロ)ばかりすると最初の山であるノリナ山の登山口に到着した。
ノリナ山は”マルタン十霊山”の中では容易な山である。山腹は七合目ほどまで放牧地と森林が錯綜しながらあり、そこから上は草原になっていた。
先達のヴァルナドの話ではハルデ山の失敗に鑑みて山頂付近の草原は神域として放牧は夏季の二ヶ月ほどを除いて禁止されているということだった。
その為に四月という現在は人も家畜の姿も見えなかった。そして気持ちが良いと言える山道を四十分ほども登ると山頂に達した。
ノリナ山は残雪もなく山頂付近の草原は花が多く見られた。
「綺麗な所ですね。ヘルデ山は別格ですが今までの山と比べてそう低いわけでもないのに何故でしょう」
パーヴォットの言うヘルデ山は昨日登った最初の”クアリ十霊山”の最初の山で霊峰とは名ばかりな大きな丘陵、もしくは里山という風情の山だった。
「ノリナ山はお椀型で山頂付近は太陽の影になる部分がなくまんべんなく暖められるのと、土が分厚く積もっている上に肥沃で草が早春から茂るからでしょう」
ヴァルナドがすぐに説明してくれた。
雪が残っていても植物が生育してくると急激に雪は融ける。そして祐司は夏季の間に制限された放牧が行われることで、植生が保護される上に家畜の糞で土壌が肥えるのだろうと思った。
祐司はこの推測をパーヴォットに語ってから「人間が自然を自制心を持って利用した時には恵みがあるのだろう」と付け加えた。
「そうで御座いますね。ここは誰の土地だとか言い合いますが、全ての土地は神々が創造された地で誰のモノでもない筈ですね」
パーヴォットが珍しく質問することなく感想めいたことを言った。
気持ちの良い風景が広がるノリナ山山頂の祠に祭られているのは、月の女神メオである。
女神メオは比較的祭神とされることのない神である。高緯度のリファニアでは白夜ないし薄明の時間の長い夏季はほとんど月は注目されない。そして極夜の季節にはほとんど月も地平線の下である。
月の明かりを人々が頼りにするのは春秋の一時期でしかない。そのことから低緯度や中緯度ほど月がありがたい存在だと思われていないために月の女神の人気が無いのでは無いかと祐司は思っている。
「ユウジ様、月は太陽よりずっと近くにあると習いました。月まではおよそ20万リーグ(36万キロ)だそうですが、太陽までは8億リーグ(14.4億キロ)もあるそうです。そんなに離れていてサウ神と女神メオは寂しくないのでしょうか」
*話末注あり
パーヴォットは素朴な疑問を口にした。太陽神サウと月の女神メオは夫婦である。
「おいおい神々だぞ。距離は関係ないし、太陽神サウは太陽を司り、女神メオは月を司るが太陽や月に住んでいるとは限らないじゃないか」
「そうですよね。神々は太陽よりまだ遙か彼方の天上界にいらっしゃるんですよね。天上界は月や太陽よりまだ遠くの世界ですよね」
祐司の言葉にパーヴォットは宇宙の大きさを思い、その広大な宇宙を造った神々から見れば人間がいかに微細な存在かを知るのだった。
パーヴォットのように神学校に通うような教養のあるリファニアの人間は太陽系について朧気ながらも理解している。
注:リファニア世界の人々は太陽と月の距離をどう測ったか。
リファニア世界、すくなくともリファニア、ネファリア(北アフリカ)、そこから知識が伝わったキレナイ(北アメリカ)では地球が直径が役7077リーグ(約12740キロ)の球形であり、太陽と月のおおよその大きさと地球からの距離が知られています。
これらを測定したのはネファリアのアサルデ人の学者達です。
アサルデ人にとっては地球が球形であるということは周知の事実でした。これは地中海を航行する場合や、草原となったサハラ砂漠を通行したときは自分を水平線や地平線が取り巻きます。
そしてそれは何処にいっても変わることはありません。これは自分が球形上を移動していなければ見られない現象ですから、アサルデ人は地球は球形だと知っていました。
さて地球の大きさについては千二百年前にペルデルキという学者が図1の方法を用いて測定します。
彼は現在も有力なアサデル人国家であるブラブス王国の古都コムト(現マラケシュ)の住民でした。このコムトの真南には北回帰線上にあるテウミネという街がありました。
ある時に北回帰線上に位置するテウミネに旅をした時に夏至の日に街の広場にある大井戸の底に太陽の光が差し込むという話を聞いて見学に行きました。
ペルデルキは本当に大井戸の十尋(約十八メートル)ほども深さがある底に太陽の光が差し込むのを見てこれで地球の大きさを測れるのではと思いついたのです。
翌年、図のようにベルデルキはコムトに高さ五尋(約九メートル)という長い垂直の棒を立てて夏至の日に太陽が南中した時に棒が作る影の長さを測定して、影がつくる角度を計算しました。
この角度は8.2度でした。夏至の日にテウミネに同じような棒を立てれば太陽は真上から差しますので影は無くなります。
これを図1で示すところの8.2度はコムトとテウミネの間の緯度の差になります。コムトとテウミネの間は500リーグ(約900キロ)とされていました。
ペルデルキは以下の数式から
360:8.2=X:500(リーグ)
X=21951リーグ(約39512キロ)
すなわち地球の周囲を39512キロと産出しました。実際は極を跨いだ外周は40007.88キロですので、実際の大きさより1.3パーセントほど小さく見積もっています。
これはコムトとテウミネの間の距離を正確に量ることが難しかったことが原因です。実際のコムトとテウミネの間は485リーグであり、またコムトから見てテウミネ(正確にはベルデルキの棒とテウミネの井戸)は10リーグ程西にあることから誤差が生じたのです。
リファニア世界で現在知られている極方向での地球周囲の最も正確な大きさは22225.695リーグ(40006.251キロ)です。実に0.001%以下の誤差になります。
この偉業を成し遂げたのはリファニア人聖職者でありかつ天文学者であったヒルデルドとその協力者達です。七百年前リファニア文化の黄金期を出現させたバシパルニア女王はベルデルキの業績を聞いて正確にリファニアの大きさを測ることをヒルデルドに命じました。
ヒルデルドはリファニアの北端から南端に向かって鎖や棒を使って距離を正確に測るとともに十ペス(約180メートル)ごとに棒を立てて正確に南北が一直線になる線をも造り上げました。
そしてリファニアの南北の角度の差と距離から今でも最も正確とされる地球の外周の距離を算出したのです。
さて月までの距離ですが、月は見えていましたその大きさがわからなければ距離も測定出来ません。
月の大きさを測定したのは九百年前のアサルデ人数学者のキルニセです。
キルニセが利用したのは月が地球の影に隠れてしまう現象「月食」でした。
太陽の光はどんなに離れた場所から測っても当時(現在のリファニア世界の段階)の測定機器では並行に差し込んでいましたので、かなり遠方にあることは理解されていました。
そのため図2のように月にかかる地球の影は地球とほぼ同じ大きさだと推測することができます。
月食の時に月が地球の影の真ん中を通っていると仮定すると月の端が地球の影にかかり始めてから、完全に隠れて消えるまでの時間は月の直径の目安になります。
キルニセが測定したところ50分かかりました。
そして月が地球の影に入ってから、端が影の外に出てくるまでにかかる時間は地球の直径の目安になりますが、これは200分かかりました。
月が完全に隠れるまでに50分、そして地球の影から抜け出すまでに200分かかったということは、月の大きさは地球の約四分の一だと推測することができるのです。
このことから月は地球の四分の一の大きさあことがわかったのです。すなわち月の直径はリファニアの成果を利用すると直径は1768.643リーグ(3183.56キロ)となります。
実際の月の直径は3474.8キロですから誤差は9パーセントほどもあります。これは後に時間計測が正確さをましたことで現在は月の直径は1876.21リーグ(3377.18キロ)となって誤差は3パーセントほどになっています。
さて一応月の大きさが判明したところで距離はキルニセによって図3のように測られました。
月は楕円軌道で地球の周囲を公転しており、地球との距離は36万キロから40万キロと変化して、平均距離は38.4万キロです。
リファニア世界では実際の月より大きさを小さく見誤っていますので、月との平均距離は20.1万リーグ(36.2万キロ)と測定されています。
ただ中世世界リファニアの人間にはとてつもなく遠い場所に月があるのだという感覚になります。
月までの距離がわかるといよいよ太陽までの距離の測定が視野に入ってきます。
太陽までの距離を最初に測定したのは、キルニセより一世代後のブラブス王国の数学者テルモナです。
テルモナは図4のように月が半月の状態である位置で地球の中心から見た太陽の角度を測定しました。
その結果88度という数値を得ました。これによってテルモナは太陽は月までの距離の57倍だと算出しました。
リファニア世界では月までは36万キロとされていますので、1140リーグ(2052万キロ)となります。
現在は天体の位置および相互の角度の測定ではリファニアが優れており、キルニセが求めた89度ではなく89.5度と算出されており、さらに三角比を用いた計算から太陽までの距離は月の115倍で、太陽までは2300万リーグ(約4138万キロ)とされています。
ただこの太陽と月、地球の測定は難しく実際は89.85度です。
この数値を用いると太陽は月までより400倍遠くにあり、リファニアでの月までの距離を元にすると1億4400万キロです。
実際は1億4960万キロですが、リファニア世界では月までの距離を実際より5
パーセントほど短く見積もっているので太陽までの距離も短く算出されます。
さらに太陽までも距離がわかったのでリファニア世界では太陽の大きさも知られています。
これは太陽までの距離がわかったことで図3の方法を応用できます。図5のように日食では見かけ上の太陽と月の大きさがほぼ同一であることとがわかります。そのこととから太陽は月の400倍の大きさだとわかります。
すなわち太陽の直径は、リファニアでは
1768.643リーグ(月の直径)×40=707,457リーグ
=127万3422キロ
と見なされています。
実際の太陽の直径は147万1000キロです。
このように地球の大きさは比較的正確に把握されていますが、月と太陽に関する数値は数パーセントほど誤差があります。
これは肉眼観測の限界といえるものが原因です。ただ本文でも出てくるようにリファニアでは初歩的なメガネや望遠鏡の使用が始まっています。
(第十五章 北西軍の蹉跌と僥倖 上 北西軍の蹉跌15 籠城戦12 低伸直射攻撃 参照)
これは現実世界でも1608年オランダのリッペルスハイが望遠鏡を発明したとされます。
しかしこれは特許を申請したのであってメガネや望遠鏡の発明者がはっきりしないのと同様に、レンズを得た複数の人々が自然発生的に使用しだしたためと思われます。
技術的な進歩の具合によりますが、リファニア世界でも百年ほどすれば、月や太陽に関する数値も一桁ないし二桁は正確に把握されるようになるでしょう。




