マルタンの春5 満願成就 五
屋敷に戻った祐司とパーヴォットはすぐに普段着に着替えたが、まだ使用人であるカリネル、その娘ナデラとファンニはエジェネルに付き従って出て行ったまま戻ってきていなかった。
代わりに「留守番を頼まれています」と言った大家タイストの屋敷の女中が祐司とパーヴォットの着替えを手伝った。
「カリネルさん達はあのままエジェネルさんに仕えるために戻ってこないのでしょうか」
パーヴォットが少し寂しそうな口調で祐司に聞いた。
「いいや。カリネルさんならそのことを言って後の手配をするだろう」
祐司は意識的に頓着しないような感じで返した。祐司の心の中にこのままカリネルらがいなくなるかも知れないという予感があったのだ。
ところが祐司とパーヴォットの心配は四半刻(三十分)もしないうちに杞憂となった。
留守番だったという女中が帰ってしまうと、祐司とパーヴォットは昼食は外食するか仕出しでも頼むしかないかと食堂で話していると、カリネルが着飾ったまま飛び込んできて「遅くなりました、すぐに昼食を作ります」と祐司とパーヴォットが声を掛ける間もなく台所に向かった。
そしてすぐに「さあその格好でいいからナデラもファンニも手伝っておくれ」とカリネルの怒号に近い声が台所から聞こえてきた。
祐司が「着替えてからでいいですよ。なんなら出来合い仕出しを頼んでもいい。いや出来合い仕出しにしましょう」と台所に声をかけた。
祐司の言う出来合い仕出しとは、テイクアウトのことである。定食などに自分で食器も用意してその店にお料理を取りにいくのである。
「助かります。職務が出来なかったので代金は私が出します」
料理を始めていたのだろうカリネルが台所から手を布で拭きながら食堂に戻ってきた。
「やめて下さい。使用人に食事代を出さないなんていうのはいくら何でも体裁が悪い」
祐司は泡てて財布から銀貨を取り出すと無理にカリネルに持たせた。
こうしてこの日は少し遅い時間になったが、いつもより多少豪華な感じの昼食を祐司とパーヴォットは食べることになった。
昼食が終わると祐司はカリネル一家を食堂に招いて、今後の予定を聞いた。
「カリネルさん達は何時までいてくれるのですか」
祐司に先んじてパーヴォットが聞いた。
「お約束のようにジャギール・ユウジ様がここに居るまでです。ただ……」
「ただ?」
言い淀んだカリネルに祐司は出来るだけ優しげな口調で聞いた。
「順を追って説明します」
カリネルの話は次のようなものだった。
エジェネリーナとそのお母であるマルハレタを匿くまった時に、エジェネリーナが世に出ることがあれば主人のドヒュト・ベルトホルドは家臣、カリネルと娘のナデラとファンニは達は侍女として仕えるという約束になっていた。
ベルトホルドの実家は王家に仕える郷士であるが、マルタンでの”草”としての任務が終わればかなりの報償金が出るのでそれを元手に王都で念願の料理屋をするつもりだった。
ところがベルトホルドが急死したことで事情が変わった。カリネル一人では料理屋を切り盛りできないのでエジェネリーナが再興するクレニシル・ノルド伯爵家の家臣にしてもらえないかとエジェネリーナの母マルハレタに頼んだのだ。
リファニアでは女性でも女官と侍女は家臣で平民出身者でも郷士身分扱いとなる。
そして再興したクレニシル・ノルド伯爵家では最初の家臣ということになる。このよな初代から仕える家臣とその子孫は”連綿の臣”であり家臣の中では格が高い。
元々ナデラとファンニは王家に仕えた郷士身分の娘ということで、貴族家の侍女となれば正式に郷士身分に復帰して郷士身分の男性と結婚することになる。
むしろナデラとファンニと結婚すれば自分も口利きでほぼ確実にクレニシル・ノルド伯爵家の”連綿の臣”となるので王家直参の郷士家出身でも次男以下なら縁談は断り切れないほどくるだろう。
クレニシル・ノルド伯爵家自体も先行きは明るかった。モンデラーネ公という存在がなくなればクレニシル・ノルド伯爵家は中央盆地北部のクレニシル・ノルド地域全体の太守である。
そして将来王家がモンデラーネ公を打倒すれば小規模とはいえモンデラーネ公に奪われたローゼン州の所領を回復することが出来る。
それは現在の情勢ではまだ絵に描いた餅であるが、それでもクレニシル・ノルド地域の貴族領主は王家と接触する時はクレニシル・ノルド伯爵家の取り次ぎが必要になる。 またクレニシル・ノルド地域の領主の統括役となるのでクレニシル・ノルド地域の太守代という立場である。
この業務があるのでクレニシル・ノルド伯爵家は所領がなくとも王家から役禄が出る王都貴族として存続していける。
「そのような次第でエジェネリーナ様は勅使勅使ルクヴィスト子爵デンゼバ・ハルヴィルド様の一行と王都に向かわれる時に私達も同行いたします。
それが四月二十五日の予定です。ですからジャギール・ユウジ様がその時を超えてマルタンに滞在となると約束が果たせません」
説明が終わったカリネルは少し心配気に言った。
「心配しなくていいですよ。出発する日は決めていません。カリネルさん達も色々用意がありましょうからギリギリまでいてもらわなくていいですよ。それに確実に働いて貰うのは三月一杯というのが約束でしたからね」
「そう言って貰えますと正直助かります」
祐司の言った内容にカリネルは心底安心したように返した。
「出立の準備にどのくらいかかりますか」
「私達だけでしたら前の日の準備で十分ですが、エジェネリーナ様にお仕えしながらとなると荷もそれだけ必要になります。エジェネリーナ様と摺り合わせをしたりナデラとファンニが侍女の訓練をする手間暇もいります」
祐司からの質問にカリネルは頭を精一杯働かせて答えた。
「何日前ですか?」
「五日ほどいただけましたら」
「では四月二十日までお願いします。それまでにナデラさんとファンニさんが侍女の訓練に行く日は仕事をしなくていいですよ」
祐司の寛大な提案にカリネルはすっかり恐縮したような口調で答えた。
「何から何まで助かります」
「ただし四月分の給金は三分の二ですよ」
祐司は少し悪戯っぽい感じで言った。
「あ、もちろんです」
カリネルは益々恐縮した。
カリネル達との話し合いが終わると、カリネルは夕食の為の下準備、ナデラとファンニは午前中にやり残した掃除と風呂の準備を始めたので祐司とパーヴォットだけが再び食堂に残った。
「ユウジ様、エジェネリーナ様は王都でどのような立場でお暮らしになるのでしょう」
パーヴォットはチカイ(茶)を飲みながら訊いた。
「まず正式にクレニシル・ノルド女伯爵に叙任される。無論、封土はないから王領の一部を形だけ封土として貸与されて王家から何らかの口実で役禄を得て王都貴族として名を連ねるだろう。
またたった一人で貴族家を立ち上げて運営して行くことは出来ないから、オラヴィ王陛下は適切な王都貴族に庇護を任せると思う。ひょっとしたら縁談がコミになるような貴族家がからむと思うな」
この祐司の予想は大体当たっていた。
オラヴィ王からクレニシル・ノルド女伯爵ウイジア・エジェネリーネの面倒を仰せつかったのは、王妃を出せる準王室という立場にある四大公爵家の一つスコプス公爵家だった。
四大公爵の中でスコプス公爵キオヴォ・カルハナ・クレストハルトは最もオラヴィ王に近く側近といってよかった。
このこともあって王太子ディファスの妃はリファニアの高位貴族では珍しく姉さん女房になるがスコプス公爵の長女グテナン・シャンタルネルネに決まっていた。
(第十三章 喉赤き燕の鳴く季節 ヴァンナータ島周遊記13 カヴァス岬の異邦人 一 ヘルネルネ 参照)
そしてクレニシル・ノルド女伯爵に叙任されたウイジア・エジェネリーネは、スコプス公爵キオヴォ・カルハナ・クレストハルトの世子デゼバ・スコピデと結婚した。
夫婦で爵位を有するのは本文ではノヴェレサルナ連合侯爵家のロクシュナル・サルナ侯爵ヴェルゼデ・マセリュト・ヴェニアミノとイティレック・サルナ女侯爵デデゼル・リューチル・ミラングラス例があるが、リファニアではかなり珍しい事である。
(第十三章 喉赤き燕の鳴く季節 イティレック大峡谷を越えて2 アゲルデル城の吊り天井と刺客兄弟 参照)
そしてウイジア・エジェネリーネの長子ハヤル・セルデントは父親からスコプス公爵、次子カマル・カインテルは母親からクレニシル・ノルド伯爵を継いだ。
爵位を授与し出した第十二代リファニア王スバックハウとその子第十三代リファニア王レキガセントの時代には兄弟が爵位を有している事例はあったが、現在のリファニアではこれもかなり珍しい事例となった。
クレニシル・ノルド伯爵はクレニシル・ノルド地域の統治を行う役職だ。クレニシル・ノルド地域はモンデラーネ公の支配地と重なる。
クレニシル・ノルド伯爵はモンデラーネ公から独立した命をクレニシル・ノルド地域の領主に出すことが出来る。
クレニシル・ノルド女伯爵となったウイジア・エジェネリーネは王家の意向を受けてクレニシル・ノルド地域の領主に次々と命を発した。
その内容はモンデラーネ公家が勢力を拡大する以前の旧に復するようにという事であり、さらにモンデラーネ公にも同様の勧告を出した。
是の行為には正当性があった。
五百年前に初代モンデラーネ公メルツデを補佐するためにバレナセドラ子爵ガバヴォ・カルサン・マメンデルドをクレニシル・ノルド伯爵を任じた時に、ホトス王はクレニシル・ノルド地域の王領以外の地域はクレニシル・ノルド伯爵が差配するという勅命を出した。
そしてモンデラーネ公メルツデもこれをクレニシル・ノルド地域にモンデラーネ公の権限で重ねて布告していた。
(第二十章 マツユキソウの溢れる小径 マルタンの春3 満願成就 三 -モンデラーネ公家史 中 - 参照)
初代モンデラーネ公メルツデがクレニシル・ノルド地域の有力者バレナセドラ子爵ガバヴォ・カルサン・マメンデルドを取り込んで支配を進めようとした策が、五百年後のモンデラーネ公バッカウ・ガバセナ・アウトドルを束縛しだしたのだ。
もちろん武威の背景がない状態でこれが実行されることはないが、政治的意味合いがあった。
王家の命は実行が伴わないと王家の権威を毀損するので、リファニア各地で王家の意向に反した行動を領主がとっても、最大限で「互いに和して旧に復することに務めよ」といった程度の命しか出せなかった。
しかしクレニシル・ノルド地域に関してクレニシル・ノルド女伯爵ウイジア・エジェネリーネが出す命は実行されなくとも王家の威信が低下することはない。
しかし実行されなくともクレニシル・ノルド女伯爵ウイジア・エジェネリーネの命は正当なモノであるので、モンデラーネ公家に不満を持つ勢力には大義名分となる。
さらにクレニシル・ノルド女伯爵ウイジア・エジェネリーネはモンデラーネ公自身に頻繁に「モンデラーネ公爵の統治はクレニシル・ノルド地域に限るので他地域から撤退せよ」という命を出し続けるとともに、クレニシル・ノルド地域以外のモンデラーネ公の勢力圏であるマレトラ州やロクシュナル州などの領主に「モンデラーネ公の命に応じることなきように」という要請を出した。
五百年前の勅命ではクレニシル・ノルド地域の王領はモンデラーネ公が差配することになっているが、現モンデラーネ公が自分の支配地域を王領とすることは出来ない。
王領となればモンデラーネ公は王家から任命された太守であるので、王家が呼び出せば是に応じなければならない。
現在の情勢でモンデラーネ公が王都に出向けば、王家は理屈をつけてモンデラーネ公は王都で拘束するだろう。
ただクレニシル・ノルド女伯爵ウイジア・エジェネリーネが出すこうした命はモンデラーネ公の武威がしっかりしていれば実効性はないが、多少でもモンデラーネ公の力が落ちてくると現在は唯々諾々とモンデラーネ公に従っている領主がモンデラーネ公から離脱する大義名分として力を持ってくる。
事実、迫りつつある王家とドノバ候やナデルフェト公爵などの王権派大領主による”モンデラーネ公戦役”では、このクレニシル・ノルド女伯爵ウイジア・エジェネリーネの命はボディーブローのようにモンデラーネ公バッカウ・ガバセナ・アウトドルを苦しめることになる。
さてクレニシル・ノルド女伯爵に叙任されたウイジア・エジェネリーネは少し先の話になるが、クレニシル・ノルドで取り返した封土の中から一村を領主は祐司とすることで報いている。
そしてこの封土は祐司の子である女性神官グネルの子オーイナル・ヒカリが祐司に代わって初代領主となった。
注:レス
レスとは一般的には風積土のことです。風積土とは風で運ばれた細土が滞積したのもです。
有名なモノでは中国の黄土高原に堆積した黄土があります。黄土は北方のゴビ砂漠か運ばれたモノで分厚い場所では数百メートルも堆積しています。
現在でもゴビ砂漠からは細土が運ばれており、これが黄砂現象を引き起こします。
この砂漠から来た細土は降水によって元は風化前の岩石に含まれていた無機塩類が溶かされておらず肥沃な土壌になります。
半乾燥地帯に堆積したレスの上には草原が広がって、草が腐敗することでさらに土壌は肥沃になっていきます。
黄河文明を支えたのはこうした肥沃な土壌です。
ヨーロッパや北アメリカでもレスが見られますが、これは黄土とは成因が異なります。ヨーロッパや北アメリカのレスは分厚い氷河が岩盤を粉砕したモノです。
ヨーロッパや北アメリカのレスは氷河が融解した後にこうした細土が風に運ばれて堆積したモノや或いはレスが形成された地域でそのまま土壌となったモノです。
ウクライナから南部ロシア、カザフスタンにかけて堆積したレスは気候の特性から草原地帯であるので、前述したように肥沃なチェルノーゼムと呼ばれる土壌になっています。
同様に北アメリカのレスはプレーリー土と呼ばれる肥沃な土壌になっておりアメリカ合衆国の穀物生産を支えています。
かつてほとんどの地域が氷河に覆われていたリファニア(グリーンランド)の土壌もレスです。
リファニアのレスは風積土という定義からは外れますが、”空の割れた日”の影響で氷河が一気に融解したために低地に水で運ばれたものが多くあります。
特に山地に囲まれた盆地にはレスが分厚く堆積しており、レスの分布が薄い河川沿いの平野よりも農業適地となっています。




