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千年巫女の代理人  作者: 夕暮パセリ
第二十章 マツユキソウの溢れる小径
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マルタンの春1  満願成就 一

 この章の名になっているマツユキソウ(待雪草)とはリファニアではアネモネの一種ことです。

 このアネモネはキンポウゲ科アネモネ属のAnemone quinquefoliaという種で北アメリカ北東部が原産です。


 このアネモネはリファニアには人為的に持ち込まれました。リファニアの風土に合ったのかリファニア西部地域では広範囲で野生化して西部リファニアの春を告げる花の一つになっています。


 なおこのアネモネはリファニアの”言葉”を直訳すると”スノウドロップ(マツユキソウ)”になります。


 ですからリファニアの人間は”スノウドロップ(マツユキソウ)”という語感をAnemone quinquefoliaの姿に持っていますが、祐司の世界の”スノウドロップ(マツユキソウ)”はヒガンバナ科ガランサス属の植物で全く別種の植物です。



挿絵(By みてみん)

 ”マルタン奉行所襲撃未遂事件”の顛末がマルタン住民に布告されたのは、事件の三日後のことでマルタン奉行所の正門脇以下、マルタンの主だった番所に同様の布告文が掲示された。


 その布告文は以下のようなものだった。


一、さる三月六日、かねてより内偵中の不法にマルタンに武器を持ち込みマルタン奉行所襲撃を企てし者を事前に察知してこれを捕縛せんとマルタン奉行所は行動せり。


二、襲撃を企てボナン・エッカルトの所有せしビール製造所に蝟集せし不逞の輩は男十四人なり。内十一人は現場にて抵抗せしため討ち取ったり。


三、別所にて手引きを行いたるマルタン住民は首魁代書屋テシュート・コルネド、皮革取り扱い商ディルク、スレート職人セレニド、行商人ベリザリ、(以下七名の名と職業がある)なり。連座の罪により親、兄弟、独身の姉妹、妻ないし夫、子まで拘束中なり。未拘束の者は以下のビール製造所所有者ボナン・エッカルト、ベリザリの妻エスネル、(以下三人の名と職業がある)、居場所知りたる者、見かけたる者は奉行所に届け出るべし。捕縛に至れば相応の報奨金あり。


四、別所にて首魁代書屋テシュート・コルネドを手助けせんがため潜みし巫術師デゼ・ヨルンダを捕縛せり。なお同行せし巫術師ヘッゼル・マシャーナは自らに火をつけ自害せしものなり。かの者らテシュート・コルネドとはからい恐れ多くも勅使ルクヴィスト子爵デンゼバ・ハルヴィルド様謀殺の企ての疑いありして、マルタン奉行所と気脈を通じて勅使ルクヴィスト子爵デンゼバ・ハルヴィルド様護衛が捕縛せり。


五、以上の者のさらなる首魁は現在取り調べ中なり。


六、以上の件につき心当たりありし者、事情をいささかでも知りたる者は三日以内に奉行所に出頭すべし。直接企てを知らず手助けした者については酌量いたすなり、また事情によりては報奨金を与えるなり。ただし期限を過ぎたることが判明したる者は相応の処罰を科すなり。


七、奉行所の布告がありしこと以外に自身の邪論にて流言飛語を語りし者は処罰されるなり。



挿絵(By みてみん)




 マルタンの一般住民にすれば三日前に奉行所の近くで捕り物があり、ビール製造所が付近の住民まで動員されて破壊したという話で持ちきりになっていた。

 その為にまったく寝耳に水の話ではないが、まさかと思っていたマルタン奉行所襲撃や勅使ルクヴィスト子爵デンゼバ・ハルヴィルド暗殺を企図した者への捕り物だったと布告されて街中は騒然とした雰囲気になった。


 宗教都市マルタンでは重大な犯罪は滅多に起こらない。


 それが年末に複数の殺人が絡んだ”マグラの偽巫女事件”や落ち武者バンガ・セレドニオルとその一党による行商人襲撃で死傷者が出た挙げ句に、神学校へバンガ・セレドニオルが侵入したなどというあってはならない事件が立て続けに起こっていた為に住民が流石に不安を覚えて動揺したのだ。


 そしてマルタン奉行所が流言庇護を流す者を取り締まると布告しても様々な噂話が街中に飛び交った。


 その中で「とある家中の者達が騒動を起こしたそうだが」「あれしか考えられないだろう。マルタン奉行所にはモンデラーネ公の甥御であるバンガ・セレドニオルと、モンデラーネ公重臣の妹のオパデバ・ビオンネリーナがいるんだぞ」「勅使ルクヴィスト子爵デンゼバ・ハルヴィルド様を襲撃しようと企てるのはモンデラーネ公が本気で王家に楯を突くつもりだな」という会話がいたるところで囁かれていた。


マルタンには人口の二十数パーセントに達する聖職者とその関係者がいる。リファニアの”宗教組織”は巨大な情報収集組織でもある。

 聖職者は自分が知ったことを無分別に漏らすことはないが、箝口令が出されている訳でもないので”宗教組織”からの情報も雫が落ちてくるようにマルタンの一般住民にも届いて表面的ではあるが真相の一端が聞こえてくる。


 ただ祐司とパーヴォットの屋敷内部の人間はほぼ真相を知っているので、反対に世間一般ではどういった捉え方をされているのだろうという意味合いの会話がなされていた。



 三月十日は神学校が休業日のためにパーヴォットは朝食が終わってから祐司とゆっくりと食後のチカイ(茶)を飲んでいた。


「ユウジ様、セウルスボヘル伯爵キネゼ・ジョルム・オスカリッド様はマルタン守護としてモンデラーネ公に今回の不始末の件を問いただすのでしょうか」


 パーヴォットが少し声を潜めて祐司に訊いた。


「どうかな。ただ巫術師ヨルンダの名を出しているからな。ヨルンダがモンデラーネ公に仕える巫術師だというのは広く知られたことだ。

 モンデラーネ公がこの厄介事を抱えたくないと思ったらヨルンダが勝手にしたことだと言い張るしかない」


「それでも自分の家臣の不始末は主君に責任があるのでは?」


 パーヴォットはチカイを一口飲み込んでから訊いた。


 祐司は使用者責任みたいな考え方だなと思いながら聞いていた。そして反社会的な組織の上層部が犯罪行為の責任を課されるということを連想した。

*注:第715条(使用者等の責任)は主に企業を想定した法で反社会組織に適応されるのは応用という感じである。


 祐司はパーヴォットによって「モンデラーネ公は反社会組織の巨魁」にされていると思ったが、さらに考えて見るとモンデラーネ公は武威をちらつかせながら「強気におもね、弱気を挫く」という態度で相手を屈服させてとことん利を搾り取る行為をしているのであながち間違いではないと苦笑した。



「実は密かに暇を出していたので自分が関知する者ではないと言うかもしれない。それか独断でしたことで関係ないと突っ張るかもしれない」


 祐司は少々気のない口調で返した。


「そんなことでは他の家臣がついてこなくなるのでは?」


 祐司の答えにパーヴォットはさらに追撃してきた。


「違うと思う。他の家臣にすればわたしが潜んでいた屋敷やビール製造所で殺されたり捕縛された者は仕事をしくじったんだ。

 だからその程度の仕打ちを受けても仕方ないし、せめて自分で罪を引き受けてモンデラーネ公に難儀をかけないようにするのが当たり前と思うんじゃないかな」


 祐司は自分で説明しながら、自分が言っていることが正しければ、モンデラーネ公家で仕えることは社員が滅私奉公という洗脳を受けているブラック企業と同じだと思った。 


「じゃあ、そんなモンデラーネ公を相手にしなければならないマルタン守護のセウルスボヘル伯爵キネゼ・ジョルム・オスカリッド様の方が難儀だってことですか」


 パーヴォットは少々憤慨したように言った。


「いや、恐らくセウルスボヘル伯爵は全て王家に丸投げするんじゃないか。主立った者を王家に引き渡すだろう。

 オラヴィ王陛下や優れた家臣の方々が、モンデラーネ公の側近といっていい巫術師ヨルンダのような良い材料が手に入ったとばかりに上手く料理されるだろう」


 祐司はパーヴォットの憤懣を和らげるつもりだった。


 先の話になるが巫術師ヨルンダは王都に送られて、しばしば尋問を受けるが牢ではなく、そこそこ快適に暮らせる複数の部屋からなる区画に監禁された。

 そして多少は将来のことが見通せるヨルンダは後に自分の意志で王家側に寝返り種々の情報や助言で王家の対モンデラーネ公戦に寄与した。


 そして他のモンデラーネ公の高官や巫術師が辿った過酷な運命にあうことなく、自分の妻そして孫や子と再会できて王都でリファニアでは高齢となる八十七歳という年齢で亡くなった。


 結果論だがヨルンダはマルタンで任務に失敗したことにより多分二十年ほどの生活に困らない人生を余計に生きることが出来た。



「そうですね。王家にはデジナン・サネルマ様やバーリフェルト男爵家妃サンドリネル様という腹黒い知恵袋もいますよね」


 パーヴォットが可愛い顔に似合わない悪気を含んだような声で言った。


 バーリフェルト男爵家の次女で恐ろしく頭が切れる上に、策略を考えるとなると天才的な才を持ったデジナン・サネルマは二回り近くも年齢が離れた王立軍の知将レフトサリドリ子爵ヘヴァデ・ダルメ・フェルメドルに嫁いだ。

 

 この結びつきはこの夫にしてこの妻ありといえるほどの神々の配剤であった。デジナン・サネルマ様の才を瞬く間に認めたレフトサリドリ子爵ヘヴァデ・ダルメ・フェルメドルはどんなことでも妻デジナン・サネルマに相談している。


 このことは薄々王家も了解している。


 祐司の屋敷にエジェネルの様子を確かめる為に三四日に一度は来る勅使ルクヴィスト子爵デンゼバ・ハルヴィルドの随員である通達官カレルヴォが何回か「ジャギール・ユウジ殿はデジナン・サネルマ様と結びつきがあったので教えるが」という前置きで何回かデジナン・サネルマが夫レフトサリドリ子爵ヘヴァデ・ダルメ・フェルメドルを通じて腹黒い計略を王家に提案しているとういう噂を教えてくれた。


 カレルヴォも全てを知っているワケではないので細かなことは教えて貰えなかったが、昨年の王家が北西軍に加勢した”北西戦役”に関しても幾つかデジナン・サネルマの策が実行されたらしい。

 祐司は恐らく王都貴族で編成した”王都貴族軍”がデジナン・サネルマの策ではなかったかと思っている。

 

 デジナン・サネルマは最小の支出で最大の利益を上げようとする傾向があることを祐司は理解していた。

 王都貴族に密かに”北西軍”を支援する為の義勇軍を各家五十人出すようにとオラヴィ王は「任意であるが」と言い添えて布告した。


 王都貴族の中の最も愚かな王都貴族であっても、オラヴィ王が実質的にリファニアの畿内ホルメニア全土を一元支配することになった”オラヴィ王八年の政変”を経た今となっては、オラヴィ王がリファニア王の威名が全土に轟く統一リファニア王国の再建を目標にしていることを理解している。


 統一リファニア王国の再建にはそれなりの血が流れる。その血が流れる闘争にどれほど自家が貢献するかで百年単位での自家の盛衰に影響する。

 実戦経験が圧倒的に不足する王都貴族は、地方貴族から「王都の案山子兵」と呼ばれる。その王都貴族が戦訓を得る為に義勇軍を派遣する意味合いもあった。


 そして小規模貴族家でも五十人という数なら何とかなる数だった。


 この義勇軍という建前の王都貴族軍が編成されたことで王家は銅貨一枚も出すことなく、王家の手前と他家に遅れを取ることはできないという気持ちから戦意旺盛な千数百の軍勢を得たのだ。

 この小分けされた王都貴族軍はイルマ峠城塞攻防戦では、ゲリラ部隊となってモンデラーネ公軍が休まることのないハラスメント攻撃を続け補給線を脅かし続けた。


 モンデラーネ公軍がイルマ峠城塞から撤退したさいに、参加兵力の数分の一しか生還できなかったのは王都貴族軍の働きが大きい。

(第十六章 北西軍の蹉跌と僥倖 下 北西軍の僥倖22 追撃戦 参照)


 王都貴族軍は中世世界の兵士とは思えない迷彩服で偽装して、二十世紀以降の軍隊が導入した一列や傘型の行軍隊形になって四方を警戒しながら森林地帯をパートロールした。

(第十六章 北西軍の蹉跌と僥倖 下 北西軍の僥倖11 森林戦 下 参照)


 そして王都貴族軍はイルマ峠城塞付近の森林地帯で行われた戦史には残らない無数の小戦闘で無敵モンデラーネ公軍を圧倒した。


 こういった工夫が実はデジナン・サネルマが祐司から聞き出した僅かな軍事知識から工夫したものであることは聞き出しをされた祐司も完全には気が付いていない。


 オラヴィ王九年の段階でリファニア王家には、森林に覆われた低山や丘陵が多いリファニアでは有効な働きをする”山岳猟兵”や”森林猟兵”と呼ばれる偵察や奇襲攻撃、後方部隊の攪乱を行う兵種が誕生している。


 この”猟兵”という単語はライトなミリタリーマニアである祐司がふと口にした言葉であり、デジナン・サネルマがそれを聞き逃さなかった為にリファニアに定着した軍事用語である。

*話末注あり


 そしてデジナン・サネルマのことを話したときは最後に「ジャギール・ユウジ殿は重々承知していることだが、このことは秘密だ。何しろデジナン・サネルマ様は王家の秘密兵器の一つだからな」とこれも今のパーヴォットと同様の悪い雰囲気の顔立ちと声で言った。



挿絵(By みてみん)




「おいおいパーヴォット、自分の絵の師匠であるサンドリネル様を腹黒いって言っていいのか」


 バーリフェルト男爵妃サンドリネルは王都でのパーヴォットの絵画の師匠である。


「サンドリネル様はデジナン・サネルマ様のお母様ですよ。ユウジ様はデジナン・サネルマ様に使い倒されましたが、ユウジ様を使い倒すことにかけてはサンドリネル様だって大概でしたよ」


 パーヴォットが言うように確かにサンドリネルは祐司に種々の依頼をして祐司を使い倒したが、それなりの見返りを祐司に与えた。


 そして祐司がサンドリネルに惹かれたのは、腹黒い策略を練ることが出来ても本質は三十代の後半という年齢ながら子供っぽい感情を失わずにいることだ。

(第十一章 冬神スカジナの黄昏 Jack the Ripper in Tachi12 サンドリネル妃の意趣返し 参照)


「あ、わたしデジナン・サネルマ様やサンドリネル様のことを褒めてるつもりです。ユウジ様は腹黒い女が好きでしょう」


 祐司が何も言わないのでパーヴォットは祐司の機嫌を損ねたかと思ったのか、言い訳じみたことをあわてて口にした。


「なあ、パーヴォット」


 祐司は急いで自分の考えを整理すると、少しあらたまった口調でパーヴォットの目を見て言った。


「何でしょう」


「わたしが腹黒い女に惹かれることは否定しない。でもな腹黒い女は世の中の主人公にはなれないんだ。


 反対に言えばなってはいけないんだ。


 だからサンドリネル様はバーリフェルト男爵妃として夫のバーリフェルト男爵パンニヴォーナ・ワイゼス・ルマンニ様を、そしてデジナン・サネルマ様は夫のレフトサリドリ子爵ヘヴァデ・ダルメ・フェルメドル様を支えるような形で陰の存在だ」


「女だから表に出られないのですか」


 一年ほど前のパーヴォットであればこのようなことは口にしなかっただろうが、女性の目から見て不十分かもしれないが常識ある現代日本人男性の祐司は露骨に女性を卑しめる言動はしないので、常に祐司の傍にいるパーヴォットも自然に男女は平等という意識が知らず知らずに育ってきている。


「違う。むしろサンドリネル様もデジナン・サネルマ様も夫の陰に隠れているからこそ自由に動けて自分の思いのままのことを口にすることが出来るんだ。

 まあ夫のバーリフェルト男爵とレフトサリドリ子爵がそれを許して妻の能力を尊重する度量があることもあるがな。


 バーリフェルト男爵家の跡継ぎブアッバ・エレ・ネルグレット様は、悪く言えば単純で策略など練ることはない。

 でもブアッバ・エレ・ネルグレットデ様は立派な跡継ぎとしてバーリフェルト男爵家の顔になるだろう。


 そのブアッバ・エレ・ネルグレット様を支えるのは夫のニメナレ・ウオレヴィデ様だ。あの方は権謀術数を操れる方だ。


 わたしはパーヴォットにブアッバ・エレ・ネルグレット様のような女性になって欲しい。言い足せば賢いブアッバ・エレ・ネルグレット様のような女性だ」


 祐司はそう言ってから微笑んだ。


 ブアッバ・エレ・ネルグレットはデジナン・サネルマの双子の姉でバーリフェルト男爵家の次期女性当主である。


 祐司とブアッバ・エレ・ネルグレットの出会いは最悪だった。


 祐司は盗賊団に捕らわれたブアッバ・エレ・ネルグレットを単身で救ったのにも関わらず、平民を見下す態度を取るブアッバ・エレ・ネルグレットはパーヴォットの仕草が気に入らなかったのかパーヴォットの首を切るなどと脅かした。

(第七章 ベムリーナ山地、残照の中の道行き 虹の里、領主領バーリフェルト4  令嬢ネルグレット 参照)


 そして祐司に領内の監査の仕事を無理矢理にさせた。

(第七章 ベムリーナ山地、残照の中の道行き 虹の里、領主領バーリフェルト7  祐司、虎の尾となる 上 参照)


 ただ数日ブアッバ・エレ・ネルグレットと過ごした祐司は、ブアッバ・エレ・ネルグレットが必要以上に祐司やパーヴォットに居丈高に接するのは当時まだ満十八才のブアッバ・エレ・ネルグレットが大家バーリフェルト男爵家を背負っていかなければならないという重圧に押しつぶされそうになった反動だと見抜いていた。


 そして祐司はブアッバ・エレ・ネルグレットが自分に対してほのかな恋心を持ったことも理解していた。

(第七章 ベムリーナ山地、残照の中の道行き 虹の里、領主領バーリフェルト16 バーリフェルトの虹 参照)


 しかしブアッバ・エレ・ネルグレットは従兄弟である聡明なニメナレ・ウオレヴィデという婚約者が出来てから、領民のことを保護して慈しむ優しさに溢れた未来の統治者という姿を見せるようになった。


 その姿がブアッバ・エレ・ネルグレット本来の姿だと祐司はわかっていた。


 何しろ幼い頃に自分のお付きの女中が理不尽な折檻で鞭打たれようとしたのを庇って自分が鞭を受けたという武勇伝を持った令嬢である。

(第八章 花咲き、花散る王都タチ 王都の熱い秋9 祐司の「後の先」 下 参照)


 ただ妹のデジナン・サネルマがあまりに賢いので、どうしても身近な者にはブアッバ・エレ・ネルグレットが少々愚かな女性に見えてしまう。


 しかし人をして畏敬させそれ以上に愛されることが必要だということをブアッバ・エレ・ネルグレットが貴族家の跡継ぎとして心がけていることを祐司は見抜いた。


 ブアッバ・エレ・ネルグレットは本来は正義感に溢れ人に優しい女性である。しかし貴族として人を畏敬させるために自分には似合わない居丈高な言動を滑稽なほどにしなければならなかったことも祐司は理解していた。


 そして領民の幸せを図ることで窮地になった時こそ「おらが殿様の為に」と領民の支持を得られることが、自家の存続を図ることが出来る基盤だと、ブアッバ・エレ・ネルグレットが理解していることをも祐司は知っていた。


 だからこそ祐司はパーヴォットに「賢いブアッバ・エレ・ネルグレット様のような女性に成って欲しい」と言ったのだ。


 

 なんと返事していいのかわからないのか少々キョトンとした顔付きでパーヴォットが祐司を見ていると食堂の扉をノックする音がして、扉の外から「お邪魔して良いでしょうか」という訳ありの女中エジェネルの声がした。


 祐司が「いいですよ」と声を掛けると食堂に入ってきたエジェネルは丁寧にお辞儀をした。そのエジェネルの姿に祐司とパーヴォットは見とれてしまった。


 エジェネルはいつものお仕着せの女中の服装ではなく、貴族の令嬢が着るようなゆったりしたやや紫がかった緋色に近い色合いのドレスを身に纏い、仕事をするために三つ編みにしていた髪の毛は解き放って、宝石で装飾された髪留めで一ヵ所だけ束ねて背中の半ばまで垂らしていた。



挿絵(By みてみん)




 リファニアでは身分のある女性ほど髪の毛を長く伸ばす傾向があり、そしてそれを髪留めで止める程度でなるべく自然な状態にしている。


 エジェネルの姿立ち振る舞いは深窓の令嬢である。


「素敵なドレスですね。髪留めもとても高価なモノだと田舎者のわたしにもわかります」


 パーヴォットもお年頃なのでエジェネルのドレスの値打ちがわかるようになっていた。


「母が残してくれたドレスと髪留めです。今日のために大事に仕舞っておりました」


 エジェネルはドレスの端を左右の手で持ち挙げて軽く会釈してから答えた。


「ジャギール・ユウジ様、パーヴォット様、今お時間は御座いますか」


 エジェネルは十日ほど前に三月十日の午後は頼みたいことがあるので、時間を開けていて欲しいと祐司とパーヴォットに頼んでいた。

 ただどのような内容で付き合いをするのかは祐司とパーヴォットは聞かされていなかった。


「約束通りに時間はありますが、何ですか」


 エジェネルのいつにも増して真摯な顔付きと声に多少の違和感を持った祐司が訊いた。


「今からヴスラスラ神殿に同行していただけますか。今日で満願成就となります。その確認をしていただきたいのです。満願成就になったことを六人の方に確認してもらい著名をいただきたいのです」


 エジェネルの言ったことを文章にすれば丁寧な頼み事だが、実際にエジェネルの口から発せられると拒否することなどおこがましく感じられる命令に近いものに聞こえた。


 エジェネルが何らかの願掛けで祐司が借りている屋敷の裏手にあるヴスラスラ神殿に毎日通っていることは祐司とパーヴォットは知っているが、エジェネルがどのような願掛けをしているのかこの時点では祐司とパーヴォットには不明であった。


 ただエジェネルの口調からやんごとなき生まれの女性だということだけはわかる。



注:猟兵

 猟兵とはドイツ語でJäger、フランス語でchasseursと称される兵種です。Jägerやchasseursが元が猟師のことであるので日本では猟兵という訳語があてられています。

 猟兵は軽歩兵の一種で戦列歩兵としては利用されることなく散兵や狙撃兵として使用されます。


 発祥はスウェーデンで十七世紀初頭に銃の扱いに慣れた森林労働者や猟場監視人を集めて編成されました。


 猟兵は射撃精度のいいライフル銃を装備していましたが、ライフル銃は装填に時間がかかるので戦列歩兵が装備するマスケット銃のような一斉射撃には向きませんでした。

 そこで散兵となって個々の判断で敵の士官や砲兵を狙撃して戦列歩兵の突撃を支援するのが任務でした。


十九世紀になって銃器が発達すると戦列歩兵は消滅して猟兵の任務である散兵が主になってくるので猟兵は兵種としては消滅します。

 ただ軽歩兵の中の精鋭部隊の称号としては残っており、例えばドイツ連邦軍では空挺部隊を降下猟兵(Fallschirmjäger)、山岳部隊を山岳猟兵(Gebirgsjäger)と呼びます。


リファニアに誕生した猟兵も戦列を組むことはなく、主に弩や弓で武装したベテランの兵士で構成された偵察や後方攪乱のための兵種です。

 リファニアの猟兵は大きな裁量を持った指揮官に率いられた少数の兵士が、一撃離脱や待ち伏せ攻撃を行います。


 こうした厄介な存在である猟兵を押さえ込むには多くの警戒部隊を編成するか同種の兵種を当てる必要があります。


 しかし指揮官の不足する中世世界リファニアでは士官教育が朧気ながら始まっている王立軍やドノバ候麾下のドノバ防衛隊以外ではすぐに役に立つ猟兵を得るのは難しいことです。



挿絵(By みてみん)

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