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千年巫女の代理人  作者: 夕暮パセリ
第十九章 マルタンの東雲
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閑話40 より詳しい初期リファニアの歴史 一 -先住民イス人-

 数話が章末にある閑話になります。祐司とパーヴォットの話をテンポ良く読みたい方はしならくお待ち下さい。

 リファニアでは七百年前の第二十六代リファニア王であるバシバルニア女王が古今の書籍文書それに著名人の書簡類までを収め保管する王立図書館を建設してくれたおかげで膨大な公式文書が残っています。


 またリファニア全土に及ぶような外敵の侵入がなかったことから、各地の神殿にも多くの書籍や神殿の創建当時からの信者名簿といったモノが残っています。


 これを日本に例えれば日本書紀や古事記以外にそれらの元資料となった散逸してしまった「帝紀」(天皇家の系譜)や「旧辞」(古い時代の伝承)はおろか奈良時代以前の豪族が記載した文章、下書きまで含めた完全な「風土記」、「万葉集」の草稿と選ばれなかった万余の歌、現在の韓国では存在も知られていない百済、新羅などの文献、飛鳥奈良時代以降の公式発給文書、奈良時代以降も延々と戸籍が作られてそれが完全に残っているような状態です。


 これらの文献調査だけでも我々が江戸時代のことを知るほどの精度で千年前の時代が理解出来ます。


 こうした歴史資料をもとにリファニアの歴史学は発達しました。


リファニアの歴史学者はリファニア史を四つの時代に区分しています。


 一つ目は太古という区分でリファニアに先住民であるイス人だけが暮らしていた時代です。

 イス人は一部の部族が絵文字という文字の前段階のようなモノを使用していましたが、本来の意味での文字を持っていませんでしたので、文献的な記録は千七八百年ほど前にヘロタイニア(ヨーロッパ)から渡って来た移住者の残したものからになります。


 ただ初期のヘロタイニアからの移住者の動向も曖昧模糊としています。この時代以前のリファニアの歴史は歴史学の中に考古学が育ってこないと今以上にわかることはないでしょう。


 すなわち現在のリファニアの歴史区分では太古とは詳らかなことがわからない時代といういう認識です。


 リファニアに初めて移り住んだのは遙か東方からやって来たアジア系のイス人です。このイス人の言語を祐司の世界の言語学者が調査すれば、今は数百人しか話者がいないアリューシャン列島のアレウト族が使用するアレウト語に似ていることにすぐに気が付くでしょう。


 アレウト族は今は消滅の危機にある民族集団ですがリファニア世界では今でも百万人以上の人口を誇るイス人として繁栄しています。



挿絵(By みてみん)




 考古学的な調査が始まらないといつイス人がリファニアに渡来したかは不明ですが、リファニアの歴史学者は三千数百年前ではないかと考えています。


 イス人は元々狩猟採集民族ですが、リファニアではトナカイとアカシカの遊牧を始めました。

 そして持ち込んだアメリカ栗やブルーベリー、グランベリーなどの半栽培を始めて限定的な農耕を行いました。


 さらにカシなどの堅果類の実をあく抜きして食用にすることも行われました。こうした食用の為の堅果類は植林されてそう手間をかけずとも大きな食料生産量を生み出していました。


 現在のイス人は穀物類が主食ですが、イス人文化が色濃く残っている地域では堅果類から作られたパンが伝統的な食品として食べられています。

 ただ現在のイス人が好むのはヘーゼルナッツですが、これはヨーロッパハシバミの実で後のヘロタイニアからの移住者が持ち込んだモノです。

 

 イス人の伝統的な生活は春から夏にかけては草原地帯で放牧を行い、秋から冬は定住地とする山間部に接した地域で堅果類の採取と加工を行うことでした。

 クルミのように煎ればすぐに食べられるキレナイト(北アメリカ)からの移入種であるリファニアクルミもありましたが、堅果類の多くはアク抜きが必要で大量の流水が必要でした。


 こうした山間部に接した地域は地域は小川が多く、そのような用途に適した流水を容易に得られました。

 堅果類を半栽培するイス人にとって農耕地とは平野部ではなく暖斜面の山地だったのです。



挿絵(By みてみん)




 イス人は部族社会で当初はそう大きな集団はなかったようですが、二千数百年程前には千人を超えるほどの集団となり巨石建造物が造られます。


 リファニアで巨石建造物が盛んに造られた時代は二度あります。イス人だけがリファニアに住んできた時代の巨石建造物造営時代を前期巨石文化時代、後のヘロタイニアからの移住者集団が来た時代の巨石建造物造営時代を後期巨石文化時代とします。


 前期巨石文化時代にバルナイト(南アメリカ)で見いだされた青銅器とその製作技術がキレナイト(北アメリカ)を通じてリファニアにもたらされます。


 祐司の世界のメソアメリカや南アメリカの文明でも青銅は見いだされていました。しかし利器にする事は少なく庶民の生活は新石器時代のような状態でしたが、リファニア世界では青銅器はアンデス山脈から豊富に産出する銅を用いて広く使用されていました。


 イス人は移動生活の中でも壊れにくい金属器を気に入って武器はおろか各種の生活用具も銅器や青銅器を使用しました。

 多数の青銅器を作製すれば自然と技術も進歩します。このためイス人の青銅器技術は各地の青銅器時代と比べると高度な段階になっていました。



挿絵(By みてみん)




 イス人は青銅器の技術をリファニア以外から導入したことからもわかるように北辺の地で孤立した生活を送っていた人々ではありません。

 イス人はキレナイト(北アメリカ)のネイティブアメリカンとは交流がありました。海の向こうには別の人間が住んでいるという彼等の認識は、後にヘロタイニアからの移住者が渡来した時に訝しむでもなくすぐに受け入れたことに繋がっています。


 さてイス人が残した巨石記念物はエジプトのオベリスクのような石柱碑が主流でした。この石柱碑でリファニアでも大きな部類のものが王都のすぐ傍にあります。

 これは祐司とパーヴォットが王都滞在時に”寒参り”で訪れた”パフェルトの石柱”で、高さが十尋(約十八メートル)ほどあります。

(第十一章 冬神スカジナの黄昏 王都の陽光9 寒参り 一 -王都~イギナ湾湾口への街道- 参照)


 オベリスクで最も有名なモノはローマのカトリックの総本山サンピエトロ大聖堂の前にあるオベリスクで高さが約24.5メートルですから”パフェルトの石柱”は一回り小型ですがそれでも数百トンの重さがあります。

(第十一章 冬神スカジナの黄昏 王都の陽光9 寒参り 一 -王都~イギナ湾湾口への街道- 参照)


また祐司が参拝した筑波山ほどの山容であるセウルスボヘル山にも山頂付近に石柱碑がりました。

 これは高さが約七尋半(約十三.五メートル)、重さが推定で千エリ(約三百トン)と言われています。石柱は大理石ですがセウルスボヘル山とその周辺ではまったく見られません。

(第十八章 移ろいゆく神々が座す聖都 地平線下の太陽3  霊峰セウルスボヘル山 三 -ロストテクノロジー 参照)


 セウルスボヘル山から最も近い大理石の産地でもセウルスボヘル山からら二百リーグ(約三百六十キロ)は離れています。

どうしてこういった石柱碑を運んで垂直に立てたのかは、現在のリファニアではロストテクノロジーになっています。


 こうした石柱碑には様々な文様のようなモノが刻み込まれています。これは文字の前段階の絵文字だと思われますが解読はまったく進んでいません。

 こうした石柱碑は一番上に種々の動物が刻まれているのでそれぞれの部族が自分達の先祖とする動物を崇拝するためのトーテムだと思われます。


 石柱碑以外にはその場所にあった巨石を利用して動物の姿にしたものがあります。


 そしてイス人は断崖に神像を刻み込んだ磨崖碑も多く残しています。その中で祐司とパーヴォットが見た最大のモノがイス人文化が今も色濃く残るナデルフェト州にある”イェウイトの磨崖神像”です。

 ”イェウイトの磨崖神像”はやや傾いた花崗岩の崖に刻み込まれており、頭から足元までが二十五間(約四十五メートル)あります。


 神像のとその周囲をあわせて硬い花崗岩を一間(一.八メートル)弱ほど彫り込んでいるので膨大な労力をようしたことがわかります。

(第十四章 ミツガシワの雫を払い行く旅路 祐司とパーヴォットの三叉路1  コキテキの野、パーヴォット危機一髪 参照)


 このような巨石記念物からイス人はヘロタイニアからの移住者が来る以前から相当な文明程度になっていたことがわかります。

 ただこの前期巨石文化時代の巨石記念物の建設はヘロタイニアからの移住者が到着しだした時には終焉していました。


 巨大記念物とは神や先祖を讃えたり死者に捧げるという感覚がありますが、実は墓も含めて生者のためのモノです。


 日本で巨大な建造物がそれこそ争うように造営されたのは三世紀中頃から七世紀頃に至る古墳時代です。

 古墳時代はヤマト王権が日本の統一政権として確立していく時代です。そのためには権力権威を目に見える形で示す必要がありました。


 巨大な古墳を見れば他から来た者はその政権の強大さを目で見ることになります。別の視点から言えば武器に寄らない威圧です。


 そしてヤマト王権に従った地方政権は同様の古墳を造営する許しを得てその地で権力と背後にヤマト王権があることを住民に知らしめる事が出来ます。

 そのために古墳時代の古墳とは現在を生きている権力者のための造営物であったと言えるでしょう。


 ただヤマト王権による統一が完成してくると、その強大さを知らしめる必要がなくなってきます。


 リファニアでイス人が巨石委記念物を造営していた時代はイス人部族間に緊張感があった時代と言えます。

 イス人は統一国家はつくりませんでしたが、部族間の関係が安定してきて或る程度の規模を持った勢力に弱諸勢力が取り込まれて勢力範囲が明確化してくると自己の力を誇示する必要がなくなってきます。


 そうであれば巨石記念物を造る労働力を他に振り向けた方が合理的です。



挿絵(By みてみん)




 さてストーンヘンジを建設した人々の末裔であるヘロタイニアからの移住者も巨石文化を持っていました。

 彼等も定住したリファニアにドルメンのような巨石記念物を残しています。そして日本の石舞台のような墳墓を造営しました。


 盗掘の結果によるかどうかは不明ですかが、祐司とパーヴォットはこのような石造りの墳墓の空っぽになった内部で一度野宿をしています。

(第七章 ベムリーナ山地、残照の中の道行き ベムリーナ山地の秋霖9 森の中のドルメン 参照)


 ヘロタイニアからの移住者が到達してから百数十年ほどは、巨石建造時代が再び来たかのように一旦衰えていたイス人の巨石記念物が再び活発に作られるようになります。


 そして移住者達も自分達の巨石記念物を何かに憑かれたかのように建設しています。これは二つの勢力が自分達の力を誇示するためだったと、現代リファニアの学者や歴史を研究する神官は考えています。


 そしてこの二つの勢力関係が安定化してくると、急激にリファニアにおける後期巨石文化時代は終わります。



挿絵(By みてみん)




 さて千数百年以前のリファニアの歴史は詳しくはわからなくともイス人に続いてリファニアに渡来した人々がヘロタイニアの何処から来たのかはわかっています。

 彼等の故郷はイングランド南部でストーンヘンジを建設した今仮にブリトン人と呼称するイングランド先住民の末裔を主体とした人々と大陸から来たケルト系の混合集団です。


 ケルト系移住者は気候悪化で東方から移動してきたゲルマン系およびスラブ系の集団に押されて徐々にイングランドに渡ってきました。


 このイングランド先住民ブリトン人と大陸から来たケルト系移住者の関係は、日本列島における縄文人と弥生人の関係に似ています。

 大陸からの稲作を行う弥生系の移住者は長い年月を経て徐々に渡来したようで、あまり争いにならずに次第に縄文人と混住して融合したようです。


 リファニア世界においてもケルト系移住者は小集団で移住してきて、イングランドに羊や山羊といったその気候風土にあう家畜を持ち込みました。

 数百年の時を経て自分達のことをリファニ(人という意味)と呼ぶ民族集団が形成されます。


 彼等は部族社会であり全体を統合する組織は持っていませんでしたが、聖職者集団は緩やかですが全土を統合した組織になっていました。


 このリファニ人の表記だと現代のリファニア人と紛らわしいので、住んでいた土地から仮にイングランド人という表記にします。もちろん現在の英国人の主体であるイングランド人とは何の関係もありません。


 リファニア世界のブリテン人の言葉はバスク語に似た先ヨーロッパ・インド語派の先住民の言語とインド・ヨーロッパ語派に属するケルト語のクレオール言語でした。


 この言語が現在のリファニアの言語の一つの要素となります。



挿絵(By みてみん)



挿絵(By みてみん)




 この二つの集団が比較的平和裏に融合できたのは、どちらも自然崇拝の元にした宗教観があったためで、森や山、川には精霊が宿っていると考えどちらも同じように精霊の宿る地を聖地として尊重しました。


 また精霊は争いを好まないという考えから争いよりは常に話し合いが行われて、宥和の印に頻繁に婚姻が行われました。

 さらに後の貴族階級となる双方の指導層が積極的に婚姻関係で結びついたので、民族の違いよりも社会階層の相違の方が重視されました。


 イングランド人は精霊の加護で人が生かされると信じる信仰心に篤い平和的な集団でした。

 同じように精霊を信仰していても当然二つの集団では精霊の種類や名称が異なりますが、宗教者達は異なった精霊を互いに同定して実は名称が異なっても同じ精霊であるとします。


 これが垂迹説を根本教理とするリファニアの”宗教”の祖型となりました。


 ところが大陸の気候が益々悪化して現在のヘロタイニア人の先祖となるゲルマン系の集団がしばしば来襲して略奪を行いました。

 更に一過性の来襲だけでなくイングラン人を駆逐してイングランド南部に定住するヘロタイニア人集団も増加します。


 この時代の遠い記憶については本文で「第十四章 ミツガシワの雫を払い行く旅路 道標は北の高き北極星16 殷賑のイカルイトと雲上都市デルミック」に書かれています。


 以下にヘロタイニア人に滅ぼされる直前に神々により、ヘロタイニア人の手が届かない場所に移されたデルミックという名の都市の話を一部改変して再掲します。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 イングランド人は”空の割れた日”以降も平和を享受して、ブリテン島で幾つかの部族をもとにした小国に分かれて暮らしていました。

その小国には幾つかの都市ができました。その中で最も繁栄していたのがデルミックという名の都市です。


 デルミックないしそれに比定される都市があったことは、リファニアの”宗教”や学者の中では肯定されています。



 しかしデルミックがどこにあったかは詳らかではありませんが、現在のイギリスでいえばウェールズからコーンワール半島の沿岸のどこかという説が有力です。



挿絵(By みてみん)




 デルミックは数万の人口を持った海辺の都市で周囲から集まってくる物産に溢れており、さらにそれらの物産から優れた金属製品や衣服、木工製品、陶器を生み出していました。


 デルミックの街を統治するのは神意で選ばれた統領と呼ばれる終身の指導者でした。歴代の英明で公正な統領の元でデルミックは繁栄を続けていました。


 リファニアの”言葉”に”デルミックリャ”という形容詞がありますが、これは”デルミックのような”という意味が転じて”繁栄した”という意味合いで使われています。


 ところが長く繁栄を続けてきたデルミックですが、イングランド人の住むブリテンの地にヘロタイニア本土(ヨーロッパ大陸部)からヘロタイニア人が毎年のように略奪を行うために侵攻してくるようになりました。


 彼等は最初は略奪に満足すると大陸の居住地に帰って行きましたが、やがてヘロタイニア人はイングランド人を追い払った地に住みつくようになります。


 現在のリファニアの多数集団であるノード人の祖先であるイングランド人は彼らに殺されたり奴隷にされたくなければ、生まれ故郷を追われるように逃げ出すしかありませんでした。


 彼等は今とは比べものにならない原始的な構造のボートのような小舟で荒れる北大西洋を命懸けで乗り切って、当時は未開の荒野ばかりが広がるリファニアの地へ逃れて行ったのです。


 櫛の歯が抜けるように周辺のノード人の祖先達がいなくなるのにもかかわらず、デルミックはその優れた城壁の防御力を頼みにしながら多額の金品をヘロタイニア人に渡すことで踏みとどまっていました。


 ところがヘロタイニア人は富の源泉であるデルミックの街そのものを優れた技術を持った職人と見目麗しい若い女性、そして一切の財産を残した状態で引き渡すように要求してきました。


 ここに至り時のデルミックの統領レルドルドは住民の総意を取り付けると、初めて武力でヘロタイニア人の理不尽な要求に抗することにしました。


 数年に及ぶ苦しい包囲戦はいつ果てることなく続きました。いつしか城壁はいつ崩れてもおかしくないほどに打撃を受けて防御能力を喪失しかけました。

 そして何よりも流石のデルミックも物資が欠乏してきたのです。武器の多くは破損しており、矢種が尽きかけていました。


 食糧も配給制になり、戦士を戦わすために非戦闘員の女性子供老人はごく僅かしか食糧を与えられなかったのでやせ細り、幽鬼のごとき風貌になって多数が病で死んでいきました。


 それでも女性達が惜しげもなく切り落とした髪の毛で弩や弓の弦を作り、自分たちの住んでいる家屋や使っている家具を壊しては槍の柄と矢を作り或いは薪炭にしました。また金属製品を溶かしては剣や矢尻そして鎧に作り替えることもしました。


 牛馬はおろか犬猫まで食べ尽くすと皮革製品を集めて煮て食べたり、木の皮を削ぎ雑草まで引き抜いて食べるような状態に追い込まれますがデルミックの人々の心は折れてはいませんでした。


 しかしヘロタイニア人の明日の攻撃をかわしきれないだろうという日がついにやってきました。

 そしてこの日籠城が始まってから、初めて街の神殿に生き残っている者全員が集まりました。


 今まで人間同士の戦いに神々の加護を願うのは不遜だという考えがあったために戦勝を神々に願うことは避けられていましたが、とうとう人々は神々にデルミックの街を救って欲しいと願ったのです。


 その夜大嵐が来ました。


 デルミックの周囲を十重二十重に囲んで明日の戦勝の前祝いだとばかりに宴会をしていたヘロタイニア人の幕舎が、それこそ一つ残らず吹き飛ぶような嵐でした。


 そして吹きすさぶ風の音が最高潮になった真夜中に、海の彼方から恐ろしげな轟音が轟いてきました。そして山のような高さの海嘯かいしょうがやってきたのです。


 この海嘯によって多くのヘロタイニア人も海に流されました。



挿絵(By みてみん)




 翌日嵐がおさまり明るくなってくると、生き残ったヘロタイニア人達は唖然とした光景を見ました。


 昨日までデルミックがあった場所は入り江になっており、街の姿はどこにも無かったのです。

 さては昨日の海嘯で街ごと海に沈んだかと判断して、ヘロタイニア人達はせめて残っている値打ちのある品物でも回収しようとしたが、銅貨一枚小皿一枚発見も発見することはできませんでした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 この話のもとになった史実はあったでしょうが、ノード人の祖先達がリファニアに渡ってきた時代はまだ部族国家段階の社会でした。


 これは十八世紀に北アメリカ東部にあったネィテブアメリカンの部族長と部族長を選ぶ部族会議によって率いられた共通の祖先を持ったとされる部族集団国家と同様のものであり前国家段階の共同体です。


 このような社会段階において数万の人口を擁するような部族社会とは異なった背景を持った商業都市があったとは考えられません。

 歴史的に見てもリファニアで活発な商業活動のための貨幣が使用され始めたのは、貨幣がネファリア(北アフリカ)からもたらされた五代目リファニア王リブラレルの頃です。


 またヘロタイニア人の当時の様子からしても、トロイヤの包囲のように何年も大軍で都市を包囲できたとは思えません。

 どうもデルミックとはヘロタイニア人に最後まで抵抗した集落の名称であると考えられています。


 さて伝承にもどるとデルミックは、哀れみとその勇敢さ、そして神々への信仰をよしとされて神々が二度と敵に包囲されて苦しむことのないように天上に移したとも海の中に移したともされています。


 そしてこれを裏付ける光景が不思議なことに現在でも目撃されています。


 十年に一度ほどの頻度で、イングランド人を駆逐したヘロタイニア人がバルチェニア(現グレートブリテン島)と名付けたイングランド南西部沿岸で雲上に浮かぶ都市が現れて数分後には雲の中に消えていく姿が目撃されます。


 この光景はヘロタイニア人だけでなく、バルチェニアに種々の用で渡ったリファニア人による目撃談も複数残されています。


 祐司はこの話を聞いて実際のものより浮き上がって見える上方蜃気楼という現象かと思いますが、蜃気楼が雲の上に見えるとは考えにくいことです。



挿絵(By みてみん)

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