光の歩み6 未亡人メガラ・グラフィラヴァの来訪 上
徐々に明るい時間が増えてきた一月もどん詰まりの三十日に、奇妙なそして迷惑な訪問者が祐司を訪れた。
*リファニア歴では全ての月は三十日からなる。
その訪問は突然の訪問ではなく三日前に大家のタイストを通じて、祐司に会って親交を結びたい人物がいるが訪問を了解していいかという問い合わせがあった。
中世身分社会のリファニアでは誰かと親交を結びたい場合や要望を聞いてもらいたい場合は共通の知人を通じて紹介してもらうという作法がある。
そしてその共通の知人の身分や属性が高いほど断りにくいということになる。
タイストは平民ながらマルタンでも有数の神殿為替取扱商人で、親はシスネロスの大手商人であるから、リファニアの常識ではタイストは貧窮な郷士にもそれなりの敬意をはらうだろうが社会的にはそれなりといった郷士よりも上位に位置する人物である。
タイストは「少々無下に出来ないお人なのですが、ジャギール・ユウジ殿が鬱陶しいと思えば断ります。貴方が断ったとしてもわたしは仲介の労を取ったことになりますので義理は立ちますから遠慮せずに断って下さい」と前置きをした。
そうタイストに言われても、タイストを通じて断りを入れるとなると彼を煩わすだけだと思い、その人物の訪問を受けて話を聞いてから無理筋な話なら付き合いを断ることにした。
この日に訪ねて来たのは一見年齢が分かりにくい感じではあるが二十代中ごろといった女性と三十代前半ほどの感じの男性だった。
女性はメガラ・グラフィラヴァといい郷士階級である。メガラ・グラフィラヴァはリヴォン・ノセ州ゲルベルト伯爵家家中の高位家臣を親に持ち貴族家の血筋を引くということだった
そして男性はデルゼ・トムニデルというグラフィラヴァのお付きという触れ込みであった。
ゲルベルト伯爵家はモンデラーネ公の麾下にあるので、祐司は万が一を警戒して訳ありの女中エジェネルをタイストの住む母屋に避難させて存在を気が付かれないようにした。
祐司がグラフィラヴァらの到着時に二階の窓から覗き見をしたところグラフィラヴァらはリファニアのハイヤーである貸し切りの馬橇でやって来たのと服装からして手元はそれなりに豊かそうだった。
祐司はメガラ・グラフィラヴァらが客室に入ったと女中ナデラから報告を受けると、やや重たい気持ちを奮い立たせて自室から客室に向かった。
祐司が気が重たいのは仲介したタイストを通じてグラフィラヴァの願いがすでにわかっているからである。
グラフィラヴァは自ら乗り込んで押しかけ見合いを企んでいるのだ。
自ら見合いを申し込んでくるような女性は現代日本でも常識外れであるが、中世世界リファニアでは異常だといっていい。
祐司は無論女性の願いを断るつもりであるが、異常な思考をする女性であれば素直に引き下がらないだろうと思い憂鬱だった。
「申し訳御座いません。お待たせいたしました。ジャギール・ユウジ・ハル・マコト・トオミ・ディ・ワです」
祐司はそう言うと最敬礼に近いほどに頭を下げた。
祐司はグラフィラヴァという女性を一目見ただけで関わり合いたくない種類の人間であると感じた。
グラフィラヴァは体つきでは五ピス半(約百六十五センチ)とリファニア女性の中では背が高いことを除けば平均的なリファニア女性の範疇であり、両肩にかかった毛髪も淡いブルネットでリファニアでは多く見られる毛髪である。
ただ毛先が何故か整えられておらずに乱れて散漫な感じになっている。
祐司がグラフィラヴァに良い感じを持たなかったのは広い額の下にある大きな目が一番の要因だった。
虹彩は毛髪と同様に淡い茶色であるが、どこか微妙に焦点が定まっていない感じでいわゆる目が座ったという状態である。
祐司は直感でグラフィラヴァという女性は偏執狂的な性質を持った女性であり、彼女に認識された人間は付きまとわれる恐れがあると思った。
「いいえ、こちらが勝手に来ましたの。どうぞお掛けになって」
女性が明らかな目上口調で言った。
リファニアは身分社会であり、祐司は平民で女性は郷士身分であるから目上口調の方が当たり前である。
そして祐司もすっかりリファニア社会に馴染んでおり身分の差があれば相手が目上として振るまうことを当たり前のように受け入れている。
しかし女性の口調や態度には何故か祐司は”険”を感じた。そして人の屋敷で家主にいう言い方ではないだろうと少しばかり腹が立った。
「お嬢様の言う通りに」
お付きの男がこれも目上口調で祐司を促した。
「お聞きと思いますが、わたしはメガラ・グラフィラヴァ・ハレ・カンデラリオ・ケルシル・ディ・リヴォン・ノセと申します。
父デゼバ・カンデラリオはリヴォン・ノセ州ゲルベルト伯爵家中で具足奉行を仰せつかっております。
また伯父オジル・ディリクルドは次席家老で御座いますが、当主ゲルベルト伯爵ペファザ・フルリル・コルネリドと首席家老キューバン・エトムンド士爵が、”バナジューニの野の戦い”で武運つたなく討ち死にしましたので、今は新当主ゲルベルト伯爵デンゼ・ハルラ・ロクナデルドのもとで領内を切り盛りいたしております」
このメガラ・グラフィラヴァの説明にはかなりの補足がいる。
グラフィラヴァという女性は具足奉行の娘と言ったが、具足奉行は江戸時代の役職としては御留守居の配下で幕府が所有して戦時には足軽などのお貸し具足となる甲冑の保管をつかさどった。
すなわち甲冑の倉庫番責任者という程度の役職であるが、リファニアの領主配下の具足奉行とはかなり広い権限を有した役職で兵士のための武具全般を揃えて整備保管する役職である。
自衛隊でいえば補給処の長といった役職で後方組織としては重要な役割があるので、上層に属する家臣でないと任命されない。
リファニアは長年騒乱の絶えない時代を送っているので、武具の調達や保管、修理といった役どころには有能な人物が必要であると認識されている。
またグラフィラヴァの伯父が次席家老であったということは一族がゲルベルト伯爵家を支える高位家臣で中核の家であると言っていることになる。
日本の江戸時代でいえば五万国程度の大名の家老の姪となるので、気安く単独で平民の祐司の元を訪れるなどということはないが、リファニアでは日本より支配者と被支配者の距離が近いのでお忍びという風であればない話でもない。
さてグラフィラヴァの出身州であるリヴォン・ノセ州はドノバ候ボォーリー・ファイレル・ジャバンにより一元支配が完成したドノバ州の北に位置する。
三年前に全州がモンデラーネ公の支配下になったが、リヴォン・ノセ州の束ねとしては爵位と封土の大きさからゲルベルト伯爵ファザ・フルリル・コルネリドがモンデラーネ公より任じられていた。
リヴォン・ノセ州の領主たちは二年前にモンデラーネ公軍に与力してドノバ州へ侵攻した。
モンデラーネ公にとってこの侵攻は武威を示してドノバ州に敵対的な行動を取らせないことが一番の目的だった。
モンデラーネ公の目標は王領に圧力をかけてリファニア王国宰相に任じられることである。
そこでドノバ州が中立を保ち消極的でも協力をさせたかったのだ。
さらにドノバ州を経済的に支配するシスネロス市から資金や物資を引き出してあわよくばドノバ州から定期的に収奪する手筈をつけるのが目的だった。
そもそもモンデラーネ公勢力圏から見てドノバ州は南東方向にあり、モンデラーネ公の目的である王領への圧力がかけられる南西方面とは方向が異なる。
それでもドノバ州方面に直卒の軍勢を動員したのはモンデラーネ公としては、王権派と目されるドノバ候が自分の目的を邪魔しないように圧力をかけておくという目的があったからだ。
モンデラーネ公は武力を持ってドノバ州を平定する自信はあったが、それが達成されるには早くとも数年かかる。
モンデラーネ公も人間であるので寿命という目的達成の為の時間制限があり、彼の頭の青写真ではそのような時間をかける余裕はなかった。
モンデラーネ公はオラヴィ王八年にモンデラーネ公軍を実戦で使用するつもりはなく、シスネロス市を威嚇することと軍勢に演習をさせる程度のつもりだった。
そして戦争などまったく望んでいないドノバ州側もその中核であるシスネロス市が商人と職人の街であるので”金で解決できることは金で解決する”という心情から、モンデラーネ公側との裏交渉で妥結一歩手前までいっていた。
(第四章 リヴォン川の渦巻く流れに 逆巻く渦に抗して4 独立不羈の旗印 二 参照)
リヴォン・ノセ州の領主達が動員されたのは服従した領主は次の合戦では忠誠心を見せるために先鋒となるという古今東西どこでも見られる乱世の習いである。
リヴォン・ノセ州の領主達は従軍を求められた上にリヴォン・ノセ州を通過するモンデラーネ公軍に兵糧馬糧その他の物資供給を押し付けらて迷惑以外の何物でもなかったが、一旦外部勢力に媚びを売ると決めた以上は従うしかなかった。
そしてリヴォン・ノセ州の領主達は種々の出費は痛いが近接したドノバ州に一か月ほど出向くだけの苦労と割り切っていた。
ところがシスネロスの市参事ランブルが”独立不羈”を必要以上に唱えたために、暴発した一部のシスネロス市民が、交渉をしていたモンデラーネ公の使者とこともあろうに対外交渉を行うビルケンシュト市参事を殺害したことで、モンデラーネ公、シスネロス市とも一戦を選択するしかなくなった。
モンデラーネ公が歴史上の存在にならなければ公になることはないが、モンデラーネ公側とビルケンシュト市参事との間で以下のような内容でほぼ交渉はまとまりかけていた。
交渉事とは古今東西最初はかなり風呂敷を広げた案を相手に提示する。モンデラーネ公側がシスネロス市に要求したのは以下のようなものだった。
一、シスネロス内での自治は認めるが外交権はモンデラーネ公が有すること。
二、モンデラーネ公が庇護してきた旧ドノバ侯爵の子であるドノバ候爵パウティスをドノバ州太守へ復帰させること
三、年に金八千枚の上納金をモンデラーネ公家に納めること。それとは別にモンデラーネ公名による中央盆地での軍事行動を起こしたときは費用の三分の一を負担すること。なお、王名による軍事行動はリファニアのいかなる場所であっても相応の負担を負うこと
四、モンデラーネ公の守備隊千名を駐留させて、その費用はシスネロス市が負担すること。モンデラーネ公の兵には郷士格の敬意と特権を認めること。シスネロス市の傭兵軍は解雇すること
一の”シスネロス内での自治は認めるが外交権はモンデラーネ公が有すること”という要求についてはシスネロス側は楽観視していた。外交権とは一国が他国と交渉を行う権利である。
しかし衰えたといえどもリファニア王国の外交は現在も王家が独占的に行っている。恐らくモンデラーネ公はリファニア内の他勢力とシスネロス市が直接交渉を行うことを制限するするつもりであろうが、リファニア王国という建前がある限りはリファニア内での交渉は外交ではない。
シスネロス市側は強大とはいえ海外のことなど頭にない内陸の領主にしか過ぎないので、一切の交渉事を外交と認識しているふしがあった。
そして有能であるが故に周囲の家臣団が畏敬の念を越えて崇拝するほどになっていたために一旦モンデラーネ公が決済したことに少々瑕疵があると感じても口をはさむことは控えていた。
シスネロス側はモンデラーネ公が王家や他の領主、自治都市との直接交渉をシスネロス市に禁じるという認識でいることは理解した上でこれを呑んで、今まで通りに他地域との交渉を行うつもりだった。
モンデラーネ公がそれを咎めれば外交とは国外との交渉だと突っぱねて、それでは再び交渉だと言うつもりだった。
モンデラーネ公の押しつける条件を呑むのはモンデラーネ公軍が接近しているという状況下であるからだ。
再び違約を理由にモンデラーネ公軍がドノバ州に侵攻するのはかなり先になり、それまでには本格的な軍備の増強を行い迎撃態勢を整えることが出来るという目算がシスネロス側にはあった。
そして一の条件はモンデラーネ公の最優先事項であると考えられるので、これを呑むことで他の条件に注文をつけやすくなるという利点が見込まれた。
事実、この要求はモンデラーネ公としては最重要な必須要求項目であった。
モンデラーネ公はドノバ州へ侵攻したが、前述したようにその進出方向は王領のある南西であって南東方向のドノバ州ではない。
モンデラーネ公は自分の目的が達成されるまでドノバ州に協力までは求めないが中立を維持することを期待していた。
そのためにドノバ州に外部と共同歩調を取ることを禁じたかった。
二の”旧ドノバ侯爵の子であるドノバ候爵パウティスをドノバ州太守へ復帰させる”という要求はシスネロス市以外のドノバ州全土も全く呑む事が出来ない。
五十年前の”ドノバ内戦”で当時のドノバ候バナンガ・バカナン・パットウィンをシスネロス市とそれに加勢する領主で敗死させた。
そして本家ドノバ候ホノビマ家は断絶して分家のノルトホノビマ家当主パルデ・キルグル・ルードビッテがドノバ候となり、現在のドノバ候ボォーリー・ファイレル・ジャバンはその孫である。
最後までドノバ候バナンガ・バカナン・パットウィンに忠誠を尽くした領主はこの時に一掃された。ビルケンシュト市参事もこの時に爵位を失った領主の孫にあたる。
また本文で一度爵位を失ったホシルタル子爵家を再興したオラヴィ王の秘書官レタゼ・マフェルタワリーとその妹バーリフェルト男爵妃サンドリネルも旧ドノバ州領主家の末裔である。
(第十一章 冬神スカジナの黄昏 春の女神セルピナ27 春分祭そして北へ 中 参照)
内戦終結直後ならまだしもすでに半世紀が経過してドノバ州の住民は現ドノバ候を太守として奉り、実務的な統治は有能なシスネロス市庁舎が行っている。
シスネロス市主導の統治はそれなりに不満を持つ地域や階層はいるが、住民全員が不満を持たないなどというのはその不満を押し殺してしまう圧政下でしかあり得ない。
そして上手く立ち回って生き残ったドノバ州の各領主はシスネロス市の経済的恩恵に浴して他領のお家滅亡を防ぐ為に戦々恐々として軍備に多大な費用を掛ける領主と異なり、シスネロス市郊外に瀟洒な屋敷を競うように建設して優雅な社交に明け暮れており現状を変更することに利などない。
それなりに統治が上手くいき経済的な恩恵をほとんどの住民が感じている現在のドノバ州の統治機構を覆して旧本家の復帰など許せばドノバ州はそれこそ内乱になる。
無論シスネロス市およびドノバ州の全ての勢力はそのような事態を断固拒否する。見方を変えればモンデラーネ公はシスネロス市及びドノバ州が絶対に呑めない要求をすることで他の要求をごり押しするのが狙いである。
ただ水面下の交渉ではモンデラーネ公自身が驚いたことに、ビルケンシュト市参事は「ドノバ候の爵位を譲渡することは出来ませんが僭称ドノバ候カマル・ガキラック・パウティス殿は期限を明確にしてドノバ州へ迎え入れます。そして王家に要請して新たな爵位を賜り本家としてその体面を取り持てる処遇を行います」と返答していた。
これはモンデラーネ公として望外の成果である。そして費用をかけて万を越える軍勢をドノバ州に向けたことに満足した。
自分の思い通りなる僭称ドノバ候カマル・ガキラック・パウティスがドノバ州で地歩を得れば自分の家臣をその元に送り込めてドノバ州内にそれなりの権威を持ったモンデラーネ公の武装勢力を置くことが出来るからだ。
概ねよく治まっておりリファニアの他の地域でしばしば見られる飢餓とは無縁のドノバ州ではあるがそれでも不満分子がおり、彼等は大義名分として僭称ドノバ候カマル・ガキラック・パウティスを押し立てていた。
「誰もが不満を持たずに暮らす我が国はこの世の天国」などという国があれば、実態は「我が国はこの世の地獄」であろうが、これはドノバ州そしてドノバ候の弱点であった。
この二つ目の要求は完全にドノバ州を屈服させない限りはドノバ州側は呑めない要求なのでモンデラーネ公としても他の条件を通すための譲歩の条件として使うと思われたがドノバ州内に揉め事を喚起させる厄介な条件であった。
しかしビルケンシュト市参事にはドノバ候から機密情報が与えられていた。
実はモンデラーネ公に半ば軟禁されているといっていい僭称ドノバ候カマル・ガキラック・パウティスとその一人娘リューディナの奪取あるいは拉致が実行寸前になっていたのだ。
(第五章 ドノバの太陽、中央盆地の暮れない夏 ドノバ連合候国の曙31 舞台裏-リューディナ- 参照)
僭称ドノバ候カマル・ガキラック・パウティスとその娘リューディナをドノバ州に連れてきて、リューディナをドノバ候の長子エーリーと婚姻させた上で僭称ドノバ候カマル・ガキラック・パウティスについては王家に要望して一代爵位を与える計画だった。
このモンデラーネ公がドノバ州へ介入するための手駒を奪ってしまおうという大胆な計画は僭称ドノバ候カマル・ガキラック・パウティスがモンデラーネ公を頼った七年前から身辺に忍び込んでいたドノバ候の複数の間諜がもたらしている情報から企てられていた。
僭称ドノバ候カマル・ガキラック・パウティスは父親バナンガ・バカナン・パットウィンが失ったドノバ候への叙任を望んでいるが、それは半ば難しいことと諦めているが貴族に叙任される事を切望していること、娘リューディナは見目麗しく頭脳怜悧で現実主義的な女性であることから又従兄弟にあたるドノバ候との結婚は二つ返事で了解するだろうという読みがあった。
この拉致計画は僭称ドノバ候カマル・ガキラック・パウティスがモンデラーネ公に従ってドノバ州へ向かう軍勢に僅かだが手勢を引き連れて従軍したために拉致することが事実上不可能になった。
しかしモンデラーネ公の本拠地カルヤニーネで軟禁されているリューディナ周辺からはほぼ彼女を見張る人間がいなくなったために易々とドノバ候の間者達が彼女を連れ出した。
この時点で更に僭称ドノバ候カマル・ガキラック・パウティスに新たな子が出来ても現在の嫡子で長子のリューディナを押さえる事の方が値打ちがあった。
女性であってもその嫡子がドノバ候の長子と婚姻関係になり子が出来るとなると彼等の大義名分は半減以下の値打ちになる。
このことを踏まえたビルケンシュト市参事は僭称ドノバ候カマル・ガキラック・パウティスはそれなりの礼を持って迎えて、娘のリューディナが自ら望むならドノバ候ボォーリー・ファイレル・ジャバンの長子エーリーと婚姻させて長子を得た段階でその子にエーリーの後継者とするという提案をモンデラーネ公に呈示した。
この条件であるならモンデラーネ公としては僭称ドノバ候カマル・ガキラック・パウティスとリューディナに自らの手の者をつけてドノバ州内に送り込みドノバ州内に政治的橋頭堡を築くことになるので、呑める条件になる。
三つ目の”年に金八千枚の上納金をモンデラーネ公家に納め、更にモンデラーネ公名による中央盆地での軍事行動を起こしたときは費用の三分の一を負担する”という要求は、金がからむ話であって商人の理論で動くシスネロス側にとっては最も得意とする項目である。
ドノバ州への侵攻や圧力を加えることがないかわりに金貨八千枚をやらずぶったくりでモンデラーネ公に出す選択肢はない。
ドノバ州側は本質的に知らず知らずのうちにドノバ候を含めて、連日主義的なシスネロス商人の思考に添って行動する。
その思考によれば強要によって押しつけられた約束をすると、相手は自分を見下してさらに過大な要求をしてくるので、高圧的な態度を取る相手には退かずに自分の利を確保せよというものである。
そしてドノバ州へ武力侵攻をする勢力があればモンデラーネ公軍がそれをい阻止するという条件をつけた上で金貨八千枚は半額の四千枚に引き下げられた。
この条件が守られるのかどうかはモンデラーネ公の考えによるが、何も対価なしに金貨を与えるのではなくそれ相応の働きを相手に貸すことでモンデラーネ公とドノバ州側の取引という形にしたのだ。
また条件をつけたことでモンデラーネ公がその条件を守らなければ約束全部を反故にする理由になる。
そしてモンデラーネ公勢力圏のリファニア第一の大河リヴォン川を通じた交易権を冥加金を別途払うことでモンデラーネ公に承認させた。
当時のモンデラーネ公にしてみれば支配地域内で収奪した物資を自分の資金を使わずに搬出できる上に、外部から必要物資を得られるとほくそ笑んだ。
しかし中世領主的な発想から農地拡大にはそれなりに配慮するモンデラーネ公だったが、それよりは収奪を強化する為という発想であり、交易権をシスネロス商人に一旦渡してしまえばいつの間にか彼等に経済的に依存するようになるという認識はなかった。
シスネロス市庁舎の見込みではモンデラーネ公勢力圏のリヴォン川水系の交易権を得ると四年以内に地元商人を圧倒してほぼ独占的に交易を行える用になり、モンデラーネ公に金貨三千枚ほどの冥加金を差し出しても一年で金貨一万三千枚ほどの純利益が見込めた。
四つ目の”モンデラーネ公の守備隊千名をシスネロス市の負担で駐留させて、モンデラーネ公の兵には郷士格の敬意と特権を認めた上でシスネロス市の傭兵軍は解雇”という要求は牙と爪を抜いた上で敵対勢力を首都郊外に駐留させよという内容である。
外国軍が国内に駐留する理由は二つの場合がある。一つは駐留する国に常に圧力をかけ争乱時には在留自国民を即座に保護したり保障占領を容易にするためである。
この例としては日本が絡んだ事例では義和団事件以降に清と結んだ北京議定書によるものがある。
日本を含む列強は排外主義的な義和団のような争乱防止の為に、ペキンの外国公使舘周辺に駐兵することを認めさせると供に海岸からペキンまでとペキン近郊の十二ヵ所を占領することを認めさせた。
日中戦争発端となった 1937年(昭和12年)の盧溝橋事件はこの協定に基づいて進駐していた日本の支那駐屯軍と中華民国軍の衝突である。
第二は二カ国が同盟関係にあってより上位の立場にある国の軍隊が同盟国防衛を掲げて駐留する場合である。
これも日本の例であげると、日米安全保障条約による在日米軍である。アメリカ合衆国にとっては確実に日本を同盟関係に置いておけ、海外戦略の基地を日本側の負担金(思いやり予算)も利用して維持できる。
日本側は単独で日本防衛を行うよりは経済的な負担が少ない軽武装で済ませることが出来て日本を攻撃する場合は在日米軍という要素があるので、第三国による日本攻撃の抑止力となる。
モンデラーネ公が要求する駐留は前者の要素が強い。
しかしモンデラーネ公が内心は難しいだろうと思って他の条件をつり上がる材料にしようといたこの要求をドノバ州側は呑むつもりだった。
これにはモンデラーネ公も引っ込みがつかなくなった。ドノバ州側の人間はドノバ種太守のドノバ候を含めて貴族であってもいつの間にか合理的な思考をするシスネロス商人の交渉基準が身についている。
商人間の交渉なら要求は全て変数であるので、一度ご破算にして一から互いの納得のいくゴールを構築するのに躊躇いはない。
ところがモンデラーネ公は中世世界の封建領主であり、相手との交渉では面子というモノを大事にする。
相手が自分の出した要求を呑むといっているのに、それは引っ込めるからこちらに色をつけて欲しいなどとは言えないのだ。
一見シスネロスに匕首を突きつけるようなこの条件にドノバ州側は目算があった。三の要求に関連して四の要求にはシスネロス市が編成する傭兵団の解体があるが、シスネロス市はこれも呑むつもりだった。
そして解体した傭兵団の傭兵にシスネロス市民権を与えた専属の市民軍とするつもりだったのだ。
モンデラーネ公は内心戦力としては小馬鹿にしている市民軍まで組織するなとは条件をつけていないことをついた奇策である。
シスネロス市傭兵団は総数二千五百であるが、一流の傭兵団に比肩出来る精鋭部隊である。
シスネロス市の城壁外に千のモンデラーネ公軍が駐屯しても、客観的には少数の兵力で敵中に孤立したような状態である。
四の要求には駐留するモンデラーネ公軍の駐留費を出せともあったが、この費用は兵士個人にシスネロス市が市庁舎で毎月金貨三枚を支払うという条件を出した。平均的な職人の収入が月に金貨一枚であるからかなりの金額である。
これはモンデラーネ公側の下交渉役を任されていた使者が即座に断った。
人間はいつしか自分に金を出してくれる人間に恩義のようなモノを持ち、下手に出るようになる。
モンデラーネ公軍としては駐留費は兵士個人の手当てだけでなく種々の費用が必要であるからモンデラーネ公軍兵士がシスネロス市庁舎で受け取った金の半分以上は召し上げなければならない。
自分が貰った金を召し上がる側に対しては兵士は漠然と不満を持つようになるだろう。そういった理由でドノバ側の提案を断ったのだ。
これはドノバ州側の交渉手段で、それでは纏めて駐留モンデラーネ公軍に纏めて月に金貨千五百枚を出しましょうと丸め込んでしまった。
シスネロス商人は”相手を儲けさせ自分も儲ける”を金科玉条にして、一切の詐欺的な商行為を排斥することで信用という無形の財産を築き上げて王都商人に並ぶ地位を得てきた。
そのために何が詐欺的なやり方かを吟味して、それぞれの商人にシスネロス市なら市庁舎、出先ならシスネロス商館からそういった行為をしないように通達している。
反対に自分がしないと誓っているシスネロス商人は詐欺的或いはあくどいやり方を知っている。
こういった詐欺的商行為を進駐してくる田舎者のモンデラーネ公軍兵士に行い、駐留費の大半を回収する計画だった。
上は駐留軍の幹部をドノバ貴族で固めた社交界に毎回招待する。そこに出かけるにはかなり上等な服装が必要で誰彼の冠婚葬祭にはかなりの費用が発生する。
駐留軍幹部はモンデラーネ公の手前嘲りをうけることは出来ないからかなりの出費になる。
それにつけ込んで「お手元が不自由のようですからなにがしらを融通いたしましょう」と金で絡め取っていく算段である。
下級指揮官や兵にも酒や女で骨抜きにして金を巻き上がる。ヤクザ者がイカサマ賭博で巻き上げる。
古典的な美人局を含むハニートラップを仕掛けて金や強請ったり情報を漏洩させるといった手段を行使するつもりだった。
シスネロス商人が信義を尽くすのは合法的に商売をする相手である。武威を背景にして無理難題を言う相手に信義を得る必要は無いので手段を選ばずに搾り取るという裏の商道徳がある。
シスネロス市とドノバ候の間で話し合いが合意寸前にあったので、ドノバ州とモンデラーネ公の間で合戦は起こるとは双方の指導者は考えていなかった。
ところが”独立不羈”を声高に唱え市参事になったランブルの過激なシンパがモンデラーネ公の使者と事もあろうに、平和裏に事を解決することに尽力したビルケンシュト市参事を襲撃して殺害してしまったことからモンデラーネ公、ドノバ州側も引っ込みがつかなくなった。
その結果モンデラーネ公軍とドノバ州勢の決戦というようなリファニア史上有数の大戦となった。




